第95話 名無しの観測者
地下演習室に戻ると、誰もすぐには座らなかった。
座ったら終わる気がした。
いや、実際は終わっていない。
栞の子は、まだ第二幕通路の奥にいる。
第二栞は、まだ使っていない。
帰還記述保管者の本名は、まだ開いていない。
そして黒鐘廊は、その本名へ手を伸ばしてきた。
休憩。
その二文字が、最近いちばん遠い。
「全員、立ったままでいい」
フィン先生が言った。
「座ると動きが鈍る」
「先生、それ休ませる気あります?」
「ない」
正直だった。
黒茶のように黒い正直さだ。
いや、黒茶に失礼かもしれない。
カサンドラ副院長が、封印した上級校閲官の残骸を机に置いた。
黒い紙片。
その中央に、薄い文字が残っている。
【名無しの観測者】
【本名照合条件再評価】
【栞化個体の分類失敗】
【次候補:保管者記録】
嫌な文字だった。
嫌な文字は、だいたい妙に整っている。
性格が悪い文章ほど、見た目だけは丁寧だ。
「黒鐘廊は、こちらに本名を開かせようとしています」
副院長が言った。
「理由は?」
レオンが問う。
「空席です」
ヴァイスが反転板を広げる。
そこに黒鐘廊の構造図が、雑に浮かぶ。
雑というか、見ているだけで頭が痛い。
「黒鐘廊管理者権限の一部は凍結されている。だが、本名照合が完了した帰還記述保管者を、黒鐘廊側は【名無しの観測者】として再分類しようとしている」
「再分類されると?」
「空席に座らされる」
ヴァイスの声が低くなる。
「本人の意思ではなく、記録上の整合性でな」
ミラが顔をしかめた。
「最悪。名前を呼んだら椅子に縛り付けられるってこと?」
「近い」
「椅子って怖いねえ」
「怖いのは椅子ではない。権限だ」
「分かってるよ、魔導師」
分かっている。
たぶん、全員が。
本名。
それは、ただの呼び名じゃない。
この世界では、名前が記述に繋がる。
役割に繋がる。
権限に繋がる。
前世名でさえ、敵に使われる危険がある。
だから、軽々しく開けない。
呼べば届く。
届けば縛られる。
名前は、時々、剣より鋭い。
「でもさ」
セリアが腕を組んだ。
「こっちが呼ばなくても、向こうが勝手に照合してくるんでしょ?」
「そうです」
副院長が頷く。
「だから止める必要があります」
「本名を見ずに?」
俺が聞くと、副院長は当然のように頷いた。
「本名を見ずに、照合処理だけを止めます」
「難易度おかしくないですか」
「いつものことです」
いつものことにしないでほしい。
異世界の運営、難易度設定が雑すぎる。
チュートリアルが九十二話で終わったばかりなのに、もう本名照合阻止とか来ている。
ゲームならレビューで叩かれる。
いや、これはゲームじゃない。
だからもっとタチが悪い。
「アキト」
リュミエルが俺を見る。
「何を見るべきですか」
「本名じゃない」
俺は答えた。
「見るのは、照合条件。呼称経路。依頼者。権限の接続先」
「はい」
「本名そのものは見ない」
「はい」
リュミエルは頷いた。
確認。
監査。
ブレーキ。
彼女がいるだけで、俺の思考は少し真っ直ぐになる。
ありがたい。
同時に、ちょっと怖い。
「では、作戦を整理する」
フィン先生が言った。
「目的は三つ。一つ、本名を開かない。二つ、帰還記述保管者を黒鐘廊管理者権限に接続させない。三つ、栞の子やナツキ・シノハラの記録を餌にされても走らない」
最後の一つだけ、明らかに俺向けだった。
「見ないでください」
「見ていない」
「全員の視線が痛いんですけど」
「自覚があるならいい」
よくない。
でも反論できない。
俺は走りたくなる。
誰かが危ないと分かれば、すぐに。
だから、今日の敵はかなり厄介だ。
本名。
ナツキ。
帰還未完了。
栞の子。
そういう単語を並べられたら、俺は足を出したくなる。
黒鐘廊はそれを知っている。
たぶん、俺より俺の弱点を知っている。
嫌すぎる。
「接続が来ます」
ヴァイスが言った。
反転板が震えている。
床に封印した黒い紙片が、一斉に光った。
文字が浮かぶ。
【本名索引、起動】
【照合対象:名無しの観測者】
【候補分類:帰還記述保管者】
【接続先:黒鐘廊管理者空席】
空気が、冷たくなった。
地下演習室の壁に、黒い線が走る。
線は文字になり、文字は扉の形を作る。
扉。
いや。
索引だ。
巨大な黒い目録。
そこから、紙片でできた腕が伸びてきた。
一冊の本が、人の形を取る。
黒い長衣。
顔の代わりに、無数の名札。
胸には、白い文字。
【本名索引官】
うわ。
また官が来た。
この世界、嫌な役職が多すぎる。
本名索引官が、片手に細長い札束を持っている。
札には名前のようなものが書かれている。
読んではいけない。
絶対に。
俺は視線を外側へずらす。
文字そのものではなく、札の縁。
命令の枠。
処理の流れ。
「全員、名前の札を見るな!」
ヴァイスが叫ぶ。
「見た瞬間、照合候補になる!」
「最悪!」
セリアが炎を出す。
だが、火は札の手前で弱まった。
【本名保護領域】
【外部攻撃不可】
「燃えない!」
「攻撃対象にするな!」
ヴァイスが怒鳴る。
「名前は燃やせない! 燃やしたら照合が跳ねる!」
「じゃあどうすんのよ!」
本名索引官が札束をめくった。
ぺらり。
音がした。
その瞬間、レオンの体が硬直した。
「レオン!」
トーヤが盾を構える。
本名索引官の前に、白い文字が浮かぶ。
【照合試行】
【勇者候補:レオン】
【役割名から本名への索引開始】
レオンの顔が歪む。
剣を握る手が震える。
「名を……引かれている」
本名を引く。
役割から、名前へ。
勇者候補という役割を手がかりに、レオンという個人を捕まえる。
「アキト!」
リュミエルの声。
俺は注釈枠を展開する。
見るな。
札を見るな。
照合処理だけを見る。
【役割名から本名への索引開始】
そこに赤を入れる。
「照合条件に注釈」
白い枠が本名索引官の手元を囲む。
「役割名は本人全体を示さない」
文字が揺れる。
「勇者候補は、レオン本人の一部状態であり、本名照合の根拠として不十分」
レオンが息を吐く。
だが索引官は次の札をめくる。
【追補】
【本人は勇者候補として登録済み】
【登録情報優先】
登録。
またそれか。
世界はすぐ登録したがる。
人間を、欄に入れたがる。
「レオン!」
俺は叫ぶ。
「今の自分を言え!」
レオンは顔を上げた。
苦しそうに。
けれど、声は出た。
「俺は……勇者候補であることを保留している」
白い光が走る。
「俺は、役割だけで人を見ないために剣を持つ」
俺はその言葉を拾う。
【現在記述:勇者候補であることは保留】
【登録情報は現在意思に優越しない】
札が燃えるように白く崩れた。
レオンの硬直が解ける。
「助かった」
「まだ来る!」
本名索引官が、今度はトーヤへ札を向けた。
【盾役:トーヤ】
【守護役割から本名照合】
トーヤの足元に黒い円が広がる。
盾が床に縫い付けられる。
「トーヤ!」
「問題ない」
いや、ある。
絶対にある。
でも、トーヤは短く続けた。
「盾は、俺の全部じゃない」
それで十分だった。
俺は注釈を入れる。
【盾役は本人全体を示さない】
【守る相手を選べる盾】
【退く道も守る】
黒い円が割れる。
トーヤが盾を持ち上げ、本名索引官の前に立った。
「名で縛るな」
短い。
重い。
盾の言葉だった。
索引官の名札が、ざわめく。
本名索引官は、次々と札をめくった。
ミラ。
【影の獣】
ミラが笑う。
「獣じゃないし、影だけでもないよ」
俺が注釈を入れる。
【第一帰還者】
【ただし鍵ではない】
【逃げ道を選ぶ者】
セリア。
【炎使い】
セリアが炎を灯す。
「燃やすだけじゃないって何回言わせんのよ」
俺が入れる。
【火は照らす】
【火は温める】
【火は合図にもなる】
ノルン。
【沈黙した治癒師】
ノルンは震えた。
でも、前より早く声が出た。
「私は、今、声を出しています」
俺が入れる。
【現時点の本人意思:声を出す】
【治癒は義務ではなく選択を含む】
ヴァイス。
【制御魔導師】
ヴァイスが鼻で笑った。
「制御は縛りではない。精度だ」
俺より先に、自分で反転板へ書き込む。
【事実を曲げる記録を許さない】
リュミエル。
【神の器】
空気が張る。
リュミエルは静かに言った。
「私は器ではありません」
俺は注釈を添える。
【問い直す者】
【問い直すかどうかも本人が選ぶ】
札が一枚ずつ砕ける。
攻撃は止まる。
だが。
本名索引官の目的は、俺たちではない。
俺たちは、ただの前菜だ。
そう思った瞬間、索引官の顔の名札が一斉にこちらを向いた。
俺ではない。
机の上。
帰還空欄。
第二栞。
そして、その下に保護された黒い記録片。
帰還記述保管者の痕跡。
【本命照合】
【名無しの観測者】
【帰還記述保管者】
【本名候補群、展開】
「見るな!」
ヴァイスが叫ぶ。
遅い。
いや、俺は見ていない。
でも、文字の気配が流れ込んでくる。
名前。
名前。
名前。
知らないはずの音。
見ていないのに、耳の奥で鳴る。
呼べ。
呼べ。
呼べば分かる。
呼べば開く。
呼べば助けられる。
帰還記述保管者の本名。
ナツキ・シノハラを守った記録官。
未完了記録を舞台袖へ逃がした人物。
その人を、名無しのままにしていいのか。
名前を呼んでやるべきではないのか。
心が揺れる。
くそ。
これは強い。
善意の形をしている。
名無しはかわいそう。
名前を返してあげたい。
その感情を利用してくる。
「アキト」
リュミエルの声が、すぐ横から刺さった。
「今の感情は、あなたのものですか」
俺は息を止めた。
「……半分は」
「残りは?」
「流し込まれてる」
「では、置き直して」
置き直せ。
そうだ。
俺は帰還記述保管者の名前を呼びたいのか。
違う。
今は違う。
名前を知りたい。
それはある。
でも、今呼べば危険だと分かっている。
本名を呼ぶことは、その人を救うことではない。
名を返すことと、名で縛ることは紙一重だ。
「本名は開かない」
俺は言った。
声が震える。
でも、出た。
「今は、開かない」
本名索引官が札束をめくる。
【異議】
【名を持たぬ記録は不完全】
【不完全記録は黒鐘廊管理下へ移管】
なるほど。
そう来るか。
名前がないなら不完全。
不完全なら管理する。
管理するなら空席に接続。
きれいに最悪だ。
「副院長!」
カサンドラ副院長が、すでに保護規定を展開していた。
「学園外側記録保護規定。本人または保護記録者の同意なき本名照合を拒絶します」
【異議】
【本人不在】
【保護記録者不明】
副院長の眉がわずかに動く。
本名索引官は、その穴を突いている。
本人がいない。
保護者の本名も不明。
だから管理下に入れる。
理屈としては通っている。
通っているから腹が立つ。
「アキト」
ヴァイスが低く言った。
「本名ではなく、機能名を固定しろ」
「機能名?」
「名無しの観測者という黒鐘廊側名称を拒否し、こちらの保護分類で上書きする。ただし本名ではない」
なるほど。
仮称。
分類。
呼び方。
名前ではない。
でも、黒鐘廊の呼び方を使わせない。
俺は注釈枠を展開する。
対象は、本名索引官ではない。
その奥にある分類線。
【名無しの観測者】
そこに赤を入れる。
「分類名を差し戻す」
黒い文字が震える。
「名無しの観測者は、黒鐘廊側の管理名であり、本人の本名ではない」
さらに。
「当該記録者の機能分類は、帰還記述保管者」
白い文字が浮かぶ。
【仮称:帰還記述保管者】
「本名開示ではなく、保護分類として扱う」
索引官の札束が一瞬止まった。
効いている。
だが、相手もすぐに返してくる。
【異議】
【保管者は管理者候補】
【記録保持は観測権限に該当】
「違う」
俺は言った。
「保管と観測は違う」
声が強くなる。
「見張るために記録したんじゃない。守るために保管した」
本名索引官の名札がざわめく。
俺は続ける。
「帰還記述保管者は、黒鐘廊管理者候補ではない」
白い枠が広がる。
「ナツキ・シノハラの未完了記録を、管理ではなく退避保護した記録官である」
その瞬間。
帰還空欄が淡く光った。
机の上に置かれていた白い空欄。
誰の名前も書かれていない空欄。
そこに文字ではなく、余白が浮かぶ。
不思議な感覚だった。
何も書かれていないことが、言葉になる。
帰還空欄が、本名索引官の札束に白い余白を差し込んだ。
【本名欄】
その欄に、何も書かれない。
空白。
しかし、その空白が、黒い札を止めた。
「そうか」
俺は呟いた。
「帰還空欄は、名前を書くためだけの欄じゃない」
誰か一人を帰す道具ではない。
帰りたいと言えた者の選択を保持するための空欄。
なら、本名を今は書かないことも、保護になる。
「追記」
俺は帰還空欄の光に合わせて言った。
「本名欄は、本人または正当な保護条件が揃うまで空欄を保持する」
本名索引官が大きく歪んだ。
【空欄保持】
【照合不能】
【管理者接続失敗】
よし。
止まる。
そう思った瞬間だった。
本名索引官の顔の名札が、一枚だけ剥がれた。
それが空中で回転する。
札には、名前ではなく、別の文字が浮かんでいた。
【篠原夏希】
心臓が、跳ねた。
ナツキ。
見てしまった。
いや、これは知っている名前だ。
でも、それでも危険だ。
本名索引官が、初めて声を出した。
紙を擦るような声。
『未完了者の記録を開示する』
黒い札が広がる。
そこに、断片的な映像が映る。
見そうになる。
リュミエルが俺の前に手を出した。
「見ない」
「でも、ナツキの」
「見ない」
強い声だった。
俺は歯を食いしばる。
見たい。
知りたい。
ナツキ・シノハラ。
未承認職【脚本家】。
神の台本から外れた少女。
第三幕を作った人物。
この物語の核心。
でも、今ここで敵が見せるものは、餌だ。
情報の形をした釣り針。
食えば、引かれる。
「見ない」
俺は自分に言った。
「今は、見ない」
本名索引官がさらに札を広げる。
『未完了者は呼称を望む』
『記録者は本名開示を望む』
『呼べ』
『呼べ』
『呼べ』
うるさい。
黒鐘廊の声は、だんだん人間の願いに似てくる。
だから危険だ。
「ノルン!」
俺は叫んだ。
「声の網!」
「はい!」
ノルンが発話保護を広げる。
仲間たちの声が繋がる。
ミラが言う。
「呼ばない」
トーヤが言う。
「守る」
セリアが言う。
「今じゃない」
レオンが言う。
「役割で決めない」
ヴァイスが言う。
「情報源が敵性だ。信用不可」
リュミエルが言う。
「見たいことと、見るべきことは違います」
その声が、俺を引き戻す。
一人だったら、たぶん危なかった。
俺は息を吸う。
「差し戻し」
注釈枠が開く。
「未完了者の記録開示要求を差し戻す」
本名索引官の札が震える。
「理由。一つ。開示経路が黒鐘廊管理下にあり、独立性が確保されていない」
黒い札が割れる。
「二つ。開示目的が本名照合誘導を含む」
さらに割れる。
「三つ。未完了者本人の現在意思確認がない」
ナツキの札が揺らぐ。
「四つ。帰還記述保管者の本名開示と、ナツキ・シノハラの未完了記録の確認は別件である」
これは大事だ。
混ぜるな。
敵は混ぜてくる。
助けたい気持ち。
知りたい気持ち。
名前を返したい気持ち。
全部を混ぜて、一気に飲ませようとする。
だから、分ける。
編集の基本だ。
「五つ」
俺は、本名索引官を見た。
「名前を呼ぶことは、本人を尊重する方法の一つであって、本人を縛るための条件ではない」
白い文字が、地下演習室に広がる。
「本名照合を保留する」
本名索引官が大きく揺れた。
だが、まだ消えない。
札束から黒い鎖が伸びる。
対象は、帰還空欄。
【空欄強制記入】
【候補名自動挿入】
「まずい!」
ヴァイスが叫ぶ。
「空欄に勝手に名前を書き込む気だ!」
最悪。
本当に最悪。
本人が選ぶための空欄に、敵が名前を突っ込む。
帰還空欄の意味を壊しに来た。
「させない!」
セリアが光を放つ。
鎖の輪郭が浮かぶ。
レオンが剣で切ろうとする。
だが、鎖は名前の線だ。
物理では切れない。
トーヤが盾で帰還空欄を守る。
それでも鎖は盾を回り込む。
ミラが影から鎖の根元を狙う。
弾かれる。
ノルンが声の網を強める。
リュミエルが俺を見る。
「アキト」
「分かってる」
これは俺の仕事だ。
でも、一人ではない。
「ヴァイス、鎖の命令を固定!」
「やっている!」
「副院長、空欄の保護規定!」
「展開済みです」
「ノルン、声を通して!」
「はい!」
「セリア、照らして!」
「任せな!」
「レオン、トーヤ、ミラ、時間を!」
三人が同時に動く。
レオンが鞘で鎖を押し返す。
トーヤが盾で帰還空欄の前に壁を作る。
ミラが鎖の影を切る。
物理的には切れない。
でも、時間が稼げる。
俺は注釈枠を帰還空欄に重ねた。
【空欄強制記入】
この文字が、一番許せなかった。
空欄は、空いているから意味がある。
誰かが勝手に埋めていい場所じゃない。
「差し戻し!」
声が出た。
強く。
「空欄は未記入ではない」
黒い鎖が止まる。
「空欄は、本人選択まで保持される有効な状態である」
帰還空欄が白く光る。
「自動挿入、代理記入、候補名の強制提示を拒否」
鎖がひび割れる。
「追記」
俺は指先を伸ばす。
「帰還空欄は、今、誰の名前も受け取らない」
リュミエルがすぐに言う。
「永続ではなく、現時点」
そうだ。
危ない。
誰の名前も受け取らない、だけだと永遠の拒否になる。
それも違う。
俺は言い直す。
「修正。現時点では、本人意思確認なき名前を受け取らない」
白い光が強まる。
黒い鎖が砕けた。
本名索引官が後退する。
【空欄保持】
【本名照合失敗】
【管理者接続失敗】
【名無しの観測者分類、維持不能】
よし。
あと少し。
だが、本名索引官は最後の札をめくった。
そこには、名前ではなく、文章が書かれていた。
【記録者は、名を失ったまま消える】
胸が痛んだ。
これは。
ずるい。
「アキト」
リュミエルがすぐに言う。
「感情を利用されています」
「分かってる」
でも、痛い。
名前を呼ばれないまま消える。
それは悲しい。
誰にも覚えられない。
誰にも呼ばれない。
その恐怖は、分かる。
でも。
だからこそ、敵に利用させるわけにはいかない。
「名前を呼ばないことと、存在を消すことは違う」
俺は言った。
声が、少し震えた。
でも届いた。
「俺たちは、帰還記述保管者を名無しのまま消すんじゃない」
白い枠が広がる。
「今は、本名を黒鐘廊に渡さない」
本名索引官の名札が震える。
「記録する。保護する。保留する」
帰還空欄が輝く。
「呼ぶ日は、本人の意思と保護条件が揃ってからでいい」
その瞬間。
どこかから、声が聞こえた。
男とも女とも分からない。
遠い。
紙の向こうから届く声。
『……保留を、記録します』
全員が動きを止めた。
本名索引官も止まった。
声は続く。
『本名開示を、現時点で望みません』
帰還記述保管者。
たぶん。
いや、断定はしない。
でも、その声は、黒鐘廊のものではなかった。
静かで、疲れていて。
それでも、芯があった。
『名無しの観測者では、ありません』
俺は息を止める。
声が、薄くなる。
『帰還記述を、保管した者です』
それだけだった。
名前は言わない。
言わなくていい。
今は、それでいい。
俺は注釈枠を開いた。
最後の一文を入れる。
【本人相当記録より、本名開示保留の意思を確認】
【黒鐘廊管理名:名無しの観測者を拒否】
【保護分類:帰還記述保管者】
【管理者空席への接続を凍結継続】
本名索引官の体が、崩れた。
名札が一枚ずつ白くなり、文字を失っていく。
札束が床に落ちる前に、すべて空白になった。
そして、黒い索引の扉が閉じる。
地下演習室に、静けさが戻った。
今度は、誰もすぐに喋らなかった。
俺は膝に力が入らなくなり、その場に座り込んだ。
リュミエルが隣にしゃがむ。
「見ませんでしたね」
「見たかったけどな」
「はい」
「めちゃくちゃ見たかった」
「それでも、見ませんでした」
その言葉が、少しだけ胸に染みた。
褒められると変な感じがする。
でも、今日は素直に受け取ってもいいかもしれない。
ノルンが小さく息を吐いた。
「声、聞こえましたね」
「ああ」
レオンが剣を鞘に戻す。
「敵ではなかった」
「たぶんね」
ミラが肩をすくめる。
「少なくとも、黒鐘廊の椅子に座りたい人ではなさそう」
トーヤが短く言う。
「守る対象だ」
セリアが頷いた。
「名前を呼ばないで守るって、変な感じだけどね」
「変じゃない」
ヴァイスが反転板を閉じた。
「本名は、情報であると同時に権限だ。開示しない保護は成立する」
「言い方は難しいけど、まあ分かった」
セリアが頷く。
フィン先生が俺を見下ろした。
「アキト」
「はい」
「今日はここまでだ」
「俺が言う前に言われた」
「お前に言わせると、まだ何か考える顔をしていた」
「顔、本当に余計な仕事しすぎでは」
ミラが笑う。
「顔面過労だね」
うるさい。
でも、少しだけ空気が軽くなった。
カサンドラ副院長は、帰還空欄を丁寧に保護布で包んだ。
「本名照合は保留。帰還記述保管者の分類は保護側へ移行。黒鐘廊管理者空席への接続は凍結継続」
彼女はそこで、少しだけ声を落とした。
「ですが、次に進む道も開きました」
「次?」
俺が聞くと、副院長は、白くなった名札の一枚を見せた。
そこには、黒鐘廊の文字ではなく、薄い余白が残っていた。
その余白の奥に、ほんの少しだけ文字が浮かぶ。
【篠原夏希】
【未完了記録】
【第三幕起点】
胸の奥が、鳴った。
ナツキ・シノハラ。
ついに、そこへ行く。
でも、今じゃない。
今は見ない。
今は開かない。
「明日だな」
フィン先生が言った。
「はい」
俺は頷いた。
「明日、条件を整えてから確認します」
リュミエルが少しだけ目を細めた。
「今、ちゃんと明日と言いましたね」
「成長期なので」
「調子に乗らない」
「はい」
即答。
最弱編集者は、調子に乗ると死ぬ。
今日、また一つ学んだ。
俺は机の上の帰還空欄を見る。
そこには、何も書かれていない。
でも、空っぽではなかった。
名前を書かないこと。
呼ばないこと。
開かないこと。
それが、誰かを消すことにはならない。
むしろ、守ることになる日もある。
本名は、まだ余白の中にある。
それでいい。
人は、呼ばれるためだけに存在しているわけじゃない。
名を明かさなくても、そこにいたことは守れる。
帰還記述保管者。
名無しの観測者ではない者。
ナツキ・シノハラの未完了記録を、黒鐘廊から隠した者。
その人は、まだ名前を伏せた。
自分の意思で。
だったら、俺たちはそれを守る。
たとえ物語が終わりに近づいていても。
最後のページを急いでめくる必要はない。
ページには、読む順番がある。
そして。
読まないことで守れるページもある。
俺は白い注釈枠を閉じた。
次は、篠原夏希。
未完了の脚本家。
神の台本から外れた少女。
第三幕の起点。
そこへ向かう。
でも今日は。
ここで止める。
その選択を、俺はようやく怖がらずに置けるようになっていた。




