第93話 最弱編集者の戦い方
戦闘の後片付けほど、地味なものはない。
床は抉れている。
壁には黒い槍の跡。
扉は半分吹き飛んだまま。
そして部屋の中央には、待機状態になった処刑記述兵が膝をついている。
黒い甲冑。
顔のない兜。
胸の文字は沈黙している。
動かない。
でも、壊れてはいない。
それが一番気味悪い。
「こいつ、置物にしては圧が強いな」
ミラが少し離れた場所から言った。
「触るな」
トーヤが即座に言う。
「触ってないってば。見てるだけ」
「見すぎるな」
「過保護な盾だねえ」
「盾だ」
便利だな、その返し。
俺も使いたい。
いや、俺が言ったらたぶん滑る。
フィン先生は床に落ちた黒い本文片を、保護布越しに見下ろしていた。
カサンドラ副院長が封印用の紙束を広げる。
ヴァイスは反転板を三枚並べ、待機状態の処刑記述兵を解析している。
顔が怖い。
楽しそうとも言える。
魔導師というより、危ない研究者の顔だ。
「ヴァイス」
「話しかけるな。今、命令核の表層を追っている」
「じゃあ後で」
「いや、質問なら早くしろ。思考の邪魔だ」
どっちだよ。
「次に似た敵が来た時、俺は何を見ればいい?」
ヴァイスの手が止まった。
そして、こちらを見ずに答える。
「攻撃ではない」
「攻撃じゃない?」
「剣筋を見るな。魔力を見るな。お前が見るべきは、発動条件、対象指定、停止条件だ」
反転板に文字が浮かぶ。
【斬撃:対象を両断する】
【対象:敵性存在】
【停止条件:対象の無力化】
ヴァイスは指でその三つを叩いた。
「敵が何をしているかではなく、なぜそれが成立しているかを見ろ」
「なるほど」
「戦闘職は攻撃を止める。お前は攻撃が成立する理由を止める」
言い方は理屈っぽい。
でも分かりやすい。
つまり俺の戦い方は、剣を受けることではない。
剣が俺を斬っていい理由を壊すことだ。
「性格悪いな」
「最高の褒め言葉だ」
ヴァイスが鼻を鳴らした。
褒めてない。
いや、褒めたのか。
俺もよく分からない。
「アキト」
リュミエルが隣に来た。
「戦えると分かって、少し浮いています」
「浮いてない」
「浮いています」
「そんなに顔に出る?」
「はい」
即答。
俺の顔、そろそろ独立国家を名乗れるくらい主張が強い。
「危ないです」
リュミエルは静かに言った。
「自分にも戦えると分かった時が、一番危ない」
その言葉は刺さった。
たしかに。
さっき俺は、少しだけ高揚していた。
剣で来た相手を、言葉で止めた。
命令文を差し戻した。
最弱職でも戦える。
それが分かった。
だからこそ、危ない。
次はもっとできる。
次は前に出てもいい。
次は自分で止められる。
そう思った瞬間、死ぬ。
たぶん、かなりあっさり。
「分かってる」
俺は言った。
「俺は前衛じゃない」
「はい」
「剣も持たない」
「はい」
「でも、戦わないわけじゃない」
リュミエルは少しだけ目を細めた。
「その言い方なら、いいです」
合格らしい。
最近、俺の発言には毎回審査が入る。
厳しい。
だが必要。
フィン先生がこちらを振り向いた。
「全員、聞け」
その声で、部屋の空気が締まる。
「黒鐘廊は方針を変えた。これからは、記録干渉だけでは済まない。剣と魔法で排除しに来る」
セリアが拳を握る。
「上等じゃん」
「上等ではない」
フィン先生が即座に切った。
「これは向こうが分かりやすくなった、というだけだ。楽になったわけではない」
「分かってるって」
「分かってない顔だ」
顔判定がここにもいる。
怖い。
フィン先生は続けた。
「今後の基本布陣を決める」
基本布陣。
その言葉だけで、少し戦闘ものっぽい。
いや、浮くな。
リュミエルに見られている。
俺は顔面に自粛を命じた。
「前衛はレオン、トーヤ。遊撃はミラ。中距離制圧と照明はセリア。発話保護と負傷対応はノルン。解析はヴァイス。アキトは後方で注釈、差し戻し、条件確認。リュミエルはアキトの判断監査」
「判断監査」
俺は思わず復唱した。
「かっこいいけど、地味に怖い役職だな」
リュミエルは真顔で頷く。
「必要です」
「否定できない」
レオンが一歩前に出た。
「俺は、アキトの視界を作る」
「視界?」
「敵の攻撃を止めるだけでは足りない。お前が見る時間を作る」
トーヤも頷いた。
「俺は道を守る」
ミラが片手を上げる。
「私は背中の本文っぽいやつを切る係ね。硬いけど」
セリアが笑う。
「私は燃やす……じゃなくて、まず照らす。で、燃やせるなら燃やす」
「順番を守れ」
ヴァイスが言う。
「分かってるわよ、うるさい魔導師」
ノルンは静かに手を胸に当てた。
「私は、声を通します。アキトさんの声も、みんなの声も。止めるためではなく、選べるように」
その布陣を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
一人じゃない。
俺は、ひとりで戦うわけじゃない。
雨の日の体育館。
湿った木の床。
跳ねる球の音。
パスを出す。
受ける。
声をかける。
動く。
繋がる。
戦場でも、たぶん同じだ。
「よし」
フィン先生が頷いた。
「では、今から実地確認を――」
その瞬間。
処刑記述兵の胸が、白く光った。
全員が一斉に構える。
「再起動か!?」
レオンが剣を抜く。
ヴァイスが叫ぶ。
「違う! 外部命令の受信だ!」
処刑記述兵の胸に、文字が浮かぶ。
【待機状態確認】
【第一処刑命令:差し戻し】
【対策更新】
【対象拡張】
嫌な文字だった。
すごく嫌な文字だった。
対象拡張。
それはつまり、俺だけでは済まないということ。
次の文字が浮かぶ。
【対象:編集者アキト・アオキ】
【対象:栞化個体】
【対象:発話保護者】
ノルンの顔が強張る。
リュミエルが低く言った。
「ノルンも対象に入りました」
「声を守る者を潰しに来たか」
フィン先生の声が冷える。
カサンドラ副院長が保護規定の紙束を展開した。
「地下聖堂側の発話経路を閉鎖します」
だが、遅かった。
床に落ちていた黒い本文片が、ぴくりと動いた。
一枚。
二枚。
三枚。
黒い紙片が宙に浮かぶ。
それらは細く裂け、針のように形を変えた。
黒い文字が空中に走る。
【校閲針】
【対象発話経路を断線】
「ノルン!」
俺が叫ぶより早く、トーヤが盾を構えた。
黒い針が雨のように飛ぶ。
速い。
細い。
目で追えない。
トーヤの盾が前に出る。
だが、針のいくつかは盾を回り込む。
発話経路を狙っている。
物理攻撃じゃない。
声の道を切る攻撃。
「燃やす!」
セリアが炎を出す。
だが、校閲針の表面に文字が浮かぶ。
【炎熱干渉を回避】
針が炎を避けて曲がる。
「こいつら、ずる賢い!」
「文句は後だ!」
ヴァイスが反転板を投げた。
板が空中で広がり、針の軌道を映す。
「アキト! 対象指定を見ろ!」
「見てる!」
見えている。
だが多い。
針が多すぎる。
一本一本に注釈なんて入れられない。
無理だ。
無理。
そう思った瞬間、リュミエルの声が横から入った。
「一本ずつ止めようとしないで」
俺は息を止めた。
そうだ。
一本ずつじゃない。
攻撃群の条件を見る。
校閲針。
対象発話経路を断線。
なら、発話経路とは何か。
ノルンの声だけか?
違う。
今ここで守るべき声は、ノルンだけじゃない。
俺たち全員が互いに呼び合うための声。
発話経路。
それを、単一対象に分類されている。
なら、そこを崩す。
「ノルン!」
「はい!」
「声の道を、一本にしないで!」
ノルンは一瞬だけ目を見開いた。
それから、強く頷く。
「分かりました」
彼女の両手から、淡い光が広がる。
一本の糸ではない。
網。
細い光が、レオンへ、トーヤへ、セリアへ、ミラへ、ヴァイスへ、リュミエルへ、俺へと繋がる。
声の道が、複数になる。
校閲針の文字が乱れた。
【対象発話経路】
【照合不能】
【単一路不在】
今だ。
俺は注釈枠を展開する。
「対象定義に注釈」
白い枠が、黒い針の群れを囲む。
「発話経路は、特定個人の所有物ではない」
指先が震える。
でも、止めない。
「相互接続された声の道は、単独断線対象として扱えない」
黒い針の動きが鈍る。
「追加」
俺は息を吸った。
「ただし、発話保護者本人の同意なく、声の道を切断してはならない」
針が砕けた。
全部ではない。
だが、半分以上が空中で黒い粉になって消える。
残った針は、レオンが剣で弾き、セリアが光で軌道を浮かび上がらせ、ミラが短剣で叩き落とした。
トーヤの盾に、最後の一本が刺さる。
浅い。
止まった。
ノルンが膝をつきかける。
俺は駆け寄ろうとして、止まった。
前に出るな。
違う。
今は、距離を詰める前に確認しろ。
「ノルン、大丈夫か」
「はい」
ノルンは震えた声で答えた。
でも、声は出ている。
「声は、あります」
その言葉に、俺は息を吐いた。
よかった。
本当に。
だが、安心する暇はなかった。
待機状態だった処刑記述兵の背中から、黒い本文片がさらに剥がれ落ちる。
それらが床に広がり、人型を作り始めた。
一体。
二体。
三体。
黒い薄紙でできた兵。
甲冑ではない。
もっと軽い。
けれど、手には短剣と杖。
文字が浮かぶ。
【校閲兵】
【役割:誤記訂正】
【訂正対象:選択余白】
セリアが嫌そうな顔をする。
「選択余白を誤記扱い?」
ミラが短剣を構えた。
「性格悪すぎ」
ヴァイスが低く言った。
「来るぞ」
三体の校閲兵が同時に動いた。
一体はレオンへ。
一体はトーヤへ。
一体はノルンへ。
狙いが露骨だ。
前衛を止める。
盾を崩す。
声を切る。
俺を直接狙うより、周りを壊すつもりだ。
黒鐘廊は学習している。
嫌になるくらい。
レオンへ向かった校閲兵が短剣を振る。
普通の斬撃ではない。
刃に文字が絡む。
【訂正:勇者候補は前進する】
レオンの足が、一瞬勝手に前へ出た。
「ぐっ……!」
勇者候補。
前へ出る者。
敵はそこを突いてきた。
レオンを突撃役に固定し、陣形から引き離すつもりだ。
「レオン!」
俺は叫ぶ。
レオンは歯を食いしばりながら、剣を床に突き立てた。
「俺は……前に出るだけの剣じゃない」
その言葉に、文字が揺らぐ。
今なら入る。
俺は注釈枠を飛ばした。
【勇者候補は前進する】
そこに一文。
【ただし、前進とは距離を詰めることに限らない】
さらに。
【仲間を守るために踏みとどまることも、前進である】
レオンの足が止まる。
彼はその場で剣を振り、校閲兵の短剣を弾き飛ばした。
「助かった」
「自分で止まったんだろ」
「お前が言葉をくれた」
「お前の言葉だ」
これは大事だ。
俺が答えを与えたんじゃない。
レオンが言った。
俺は、その言葉が通るようにしただけ。
次。
トーヤへ向かった校閲兵が杖を振る。
黒い鎖が盾に絡む。
【訂正:盾は攻撃を受け続ける】
トーヤの腕が重く沈む。
盾を下ろせない。
動けない。
受け続ける盾。
最悪の固定だ。
「トーヤ!」
「問題ない」
いや、問題ある。
顔色が悪い。
腕に負荷がかかっている。
それでもトーヤは短く言う。
「俺は、受けるだけじゃない」
そうだ。
その言葉を待っていた。
俺は注釈を入れる。
【盾は攻撃を受け続ける】
違う。
【盾は、守る道を選ぶ】
白い文字が黒い鎖に食い込む。
【防御には、遮断、逸らし、退避、押し返しを含む】
「押し返せ!」
トーヤが盾を前に突き出した。
黒い鎖が弾ける。
校閲兵の体が紙のように歪んだ。
そこへ、セリアの炎が走る。
「今度は燃えなさいよ!」
炎が校閲兵を包む。
だが、敵は火を避けようとする。
セリアが笑った。
「これは攻撃じゃない」
炎の色が変わる。
明るい。
熱より光が強い。
「照明よ。あんたの逃げ道を照らしてるだけ」
校閲兵の影が床に伸びる。
ミラがその影を踏んだ。
「そこ」
短剣が黒い本文の背を切る。
校閲兵が崩れる。
残る一体。
ノルンを狙う校閲兵。
そいつの杖には、嫌な文字が浮かんでいた。
【訂正:治癒師は沈黙する】
俺の腹の奥が冷えた。
それは、駄目だ。
絶対に。
ノルンの過去を、役割に戻す記述。
沈黙した治癒師。
声を奪われていた彼女を、そこへ押し戻す言葉。
ノルンの唇が震える。
声が出ない。
校閲兵が杖を振り下ろす。
「ノルン!」
俺が注釈枠を展開しようとする。
でも、リュミエルの手が俺の腕に触れた。
「待って」
「でも!」
「彼女の言葉を待って」
きつい。
死ぬほどきつい。
助けたい。
今すぐ書き換えたい。
沈黙なんて消してやりたい。
でも、それを俺が勝手にやれば。
ノルンの声を、俺が奪う。
守る名目で。
最悪だ。
俺は歯を食いしばった。
待つ。
待て。
ノルンは震えている。
杖が迫る。
トーヤは間に合わない。
レオンも遠い。
セリアの炎も届かない。
ミラが走るが、敵の紙片が壁になって阻む。
それでも。
ノルンの喉が動いた。
小さく。
本当に小さく。
「……私は」
声が、出た。
「私は、沈黙しません」
校閲兵の杖が止まる。
ノルンは顔を上げた。
目に涙が浮かんでいる。
でも、声は折れていない。
「怖くても、震えても、声を出します」
その瞬間。
俺は注釈枠を叩き込んだ。
【治癒師は沈黙する】
赤い線で消す。
そして書く。
【治癒師は、沈黙を選ぶことも、声を出すこともできる】
リュミエルが即座に言う。
「選ぶことも、では弱い。今の本人意思を明示して」
「修正」
俺は続けた。
【現時点の本人意思:声を出す】
【外部訂正による沈黙化を拒否】
白い文字がノルンの周囲に広がる。
校閲兵の杖が砕けた。
ノルンが両手を前に出す。
「発話保護、展開します」
淡い光が、一気に広がった。
声の網が、部屋全体を包む。
レオンの剣に。
トーヤの盾に。
セリアの炎に。
ミラの短剣に。
ヴァイスの反転板に。
リュミエルの問いに。
俺の注釈枠に。
全部が繋がる。
すごい。
さっきより、ずっと安定している。
ノルンが、自分の声で立っている。
「アキトさん」
「はい」
「今なら、全員の言葉が通ります」
なら。
やることは一つだ。
俺は部屋の中央に立つ三体の校閲兵を見た。
二体は崩れかけ。
一体は杖を失っている。
だが、まだ動く。
文字が浮かぶ。
【訂正続行】
【余白削除】
【役割復元】
しつこい。
本当にしつこい。
でも、分かってきた。
こいつらは強い。
剣もある。
魔法もある。
役割固定もある。
でも、弱点もある。
命令が硬すぎる。
書かれたこと以外ができない。
だから、そこに余白を差し込めば壊れる。
俺は右手を上げた。
「全員、そのまま」
声の網が、俺の言葉を運ぶ。
「レオン。前に出なくていい。踏みとどまれ」
「了解」
「トーヤ。受けるな。道を作れ」
「了解」
「セリア。燃やす前に照らせ」
「もうやってる」
「ミラ。影じゃなくて、本文の薄いところを狙え」
「はいはい」
「ヴァイス。三体の共通命令を出せるか」
「出している」
反転板に文字が浮かんだ。
【校閲兵共通命令】
【誤記訂正】
【選択余白削除】
【役割復元】
よし。
俺は注釈枠を三体まとめて囲む。
頭が痛い。
さっきより重い。
複数対象。
消耗が大きい。
でも、今は一人じゃない。
ノルンの声が通っている。
セリアの光が文字を照らしている。
ヴァイスの反転板が共通命令を固定している。
俺だけの力じゃない。
「差し戻し理由」
俺は声を出す。
「一つ。選択余白を誤記とする根拠がない」
黒い文字が揺れる。
「二つ。役割復元は、本人の現在記述を無視している」
レオン、トーヤ、ノルンの周囲に白い光が走る。
「三つ。訂正対象に、本人意思確認が含まれていない」
校閲兵の体が薄くなる。
「四つ。誤記訂正の名を借りた強制改稿である」
カサンドラ副院長が、横から静かに言う。
「学園保護規定により、本人同意なき強制改稿を拒絶します」
強い。
やっぱり契約で殴っている。
俺は最後の一文を入れる。
【選択余白は誤記ではない】
さらに。
【本人の未確定状態は、訂正対象ではなく保護対象である】
三体の校閲兵が、同時に崩れた。
黒い紙片が床に落ちる。
今度は動かない。
セリアが炎を消した。
ミラが短剣を肩に乗せる。
レオンが剣を下ろす。
トーヤが盾を床に立てる。
ノルンは大きく息を吐き、その場に座り込んだ。
俺も膝が抜けそうになった。
が、なんとか耐える。
ここで倒れると、またフィン先生に怒られる。
いや、倒れなくても怒られそうだ。
「アキト」
ほら来た。
フィン先生が近づいてくる。
「はい」
「今のは悪くない」
「え」
思わず変な声が出た。
褒められた。
今日二回目では?
世界の終わりか?
「ただし」
やっぱり来た。
「複数対象への注釈は消耗が大きい。連発するな」
「はい」
「リュミエル」
「はい」
「次から、アキトの注釈範囲を制限しろ。最大三対象までだ」
「分かりました」
俺の戦闘スキルに使用制限が追加された。
まあ、妥当だ。
チートはある。
でも無限じゃない。
そこが大事だ。
無限なら、物語が死ぬ。
いや、急に作者目線になるな。
ヴァイスが黒い紙片を封印しながら言った。
「今の戦闘で、戦術は見えた」
「どんな?」
「前衛が時間を作り、照明で記述を露出し、発話保護で本人意思を通し、反転板で共通命令を固定する。その上で、お前が条件を差し戻す」
「チームプレーだな」
「そうだ」
ヴァイスは少しだけ口元を歪めた。
「お前一人では何もできない」
「言い方」
「だが、お前がいなければ止めきれない」
俺は黙った。
それは、かなり嬉しい言葉だった。
素直に言えばいいのに、こいつはどうしてこう、角がある包装紙で渡してくるのか。
手を切るわ。
レオンがノルンに手を差し出した。
「立てるか」
「はい。ありがとうございます」
ノルンはその手を取って立ち上がる。
まだ少し震えている。
でも、沈黙していない。
セリアが笑った。
「ノルン、かっこよかったじゃん」
ノルンは驚いたように目を丸くした。
「私が、ですか?」
「うん。普通に」
ミラも頷く。
「声、強かったよ」
トーヤが短く言う。
「守られた」
ノルンの目に、また涙が浮かんだ。
でも今度は、さっきとは違う。
「……ありがとうございます」
その声は、小さい。
けれど、確かだった。
俺は思う。
こういうのだ。
たぶん、この小説に足りなかったものは。
いや、俺の人生に足りなかったものかもしれない。
理屈だけじゃない。
言葉だけじゃない。
ちゃんと剣が迫る。
魔法が飛ぶ。
誰かが傷つきそうになる。
その中で、それでも本人の言葉を守る。
それが、戦いになる。
黒鐘廊が剣を抜いたなら。
こっちは、剣を持たない戦い方を覚えればいい。
その時、床に封じられた黒い紙片の一枚が、最後に薄く光った。
カサンドラ副院長が眉を寄せる。
「まだ残っています」
ヴァイスが反転板を向ける。
文字が浮かんだ。
【次段階】
【栞化個体への直接校閲準備】
【第二幕通路、接続開始】
空気が凍った。
栞の子。
やはり、次はそこだ。
俺は無意識に一歩出そうになった。
リュミエルの手が、すぐに俺の袖を掴む。
「走らない」
「……分かってる」
「今のは分かっていない一歩でした」
「すみません」
彼女は手を離さない。
でも、責める声ではなかった。
「準備してから行きます」
「ああ」
今度はちゃんと言えた。
「準備してから行く」
フィン先生が頷く。
「次の目的は明確だ。第二幕通路への接続を止める。ただし、栞の子本人に何かを強制しない」
「はい」
カサンドラ副院長が続ける。
「彼女は今日、報告を聞かないことを選びました。その選択は維持されます。敵が攻撃してきたからといって、こちらが勝手に情報を流し込む理由にはなりません」
「分かっています」
俺は答えた。
黒鐘廊は、こちらを急がせようとしている。
栞の子を狙えば、俺たちは走る。
俺たちが走れば、本人の選択を飛ばす。
そして黒鐘廊は言う。
ほら、あなたたちも同じだ。
本人のためと言いながら、本人を置いて決めている。
そんな筋書きだ。
乗るか。
絶対に乗らない。
レオンが剣を握り直した。
「行くなら、俺が前に立つ」
トーヤが盾を持ち上げる。
「道を守る」
セリアが炎を灯す。
「照らす。必要なら燃やす」
ミラが影に足を入れる。
「裏道、探してくる」
ノルンが胸に手を当てる。
「声を、守ります」
ヴァイスが反転板を回収する。
「今度は、接続条件を先に見る。後手には回らない」
リュミエルが俺を見る。
「アキト」
「うん」
「あなたの役目は?」
俺は白い注釈枠を見つめた。
剣はない。
魔法も弱い。
体力も、たぶん平均以下。
でも、できることはある。
剣で来る相手の、斬る理由を崩す。
魔法で来る相手の、焼く条件をずらす。
役割で縛る相手の、固定文に赤を入れる。
「敵の勝利条件を、差し戻す」
リュミエルは頷いた。
「はい」
その一言で、足場ができた。
最弱編集者の戦い方。
少しだけ、形になってきた。
強くなったわけじゃない。
俺は相変わらず弱い。
剣を受ければ死ぬ。
槍が刺されば終わる。
魔法を浴びれば、たぶん普通に倒れる。
でも。
仲間が前に立つなら。
声が繋がるなら。
光が文字を照らすなら。
俺は、敵の本文に手を伸ばせる。
そして、そこに一文を差し込める。
ただし。
その結末は、まだ確定しない。
俺たちは、第二幕通路へ向かった。
今度は走らない。
隊列を組む。
前にレオンとトーヤ。
左右にセリアとミラ。
中央にノルンとリュミエル。
後ろにヴァイスと俺。
フィン先生とカサンドラ副院長が、全体を見ている。
それはもう、逃げる集団ではなかった。
追放された者たちでもなかった。
役割から降りることを覚えた者たちが、自分で選んだ配置に立っている。
その一歩は静かだった。
けれど、確かに戦いの足音だった。




