第92話 処刑兵は本文を振るう
休憩は、終わらなかった。
いや。
終わらせてもらえなかった。
地下演習室に戻って、温かい飲み物を用意しようとした、その時だった。
壁が鳴った。
鐘の音ではない。
もっと鈍い。
石の内側から、誰かが拳で叩いたような音。
一度。
二度。
三度。
ヴァイスが顔を上げる。
「地下通路側の結界反応だ」
フィン先生が黒茶のカップを置いた。
珍しく、音がしなかった。
「全員、構えろ」
その一言で、空気が変わった。
レオンが剣の柄に手を置く。
トーヤが盾を前に出す。
セリアの掌に、小さな火が灯る。
ミラはもう壁際から消えていた。
速い。
本当に影みたいだ。
ノルンは俺のすぐ後ろに立ち、リュミエルは俺の横に来た。
「アキト」
「分かってる」
「本当に?」
「今のはギリギリ許される本当にだと思う」
「なら、もう一つ」
リュミエルの瞳が鋭くなる。
「前に出ないで」
「……はい」
即答した。
ここで反論するほど、俺は成長していないわけじゃない。
たぶん。
たぶんな。
地下演習室の扉の向こう。
石の床に、金属が擦れる音が響いた。
ガリ。
ガリ。
ガリ。
何かが近づいてくる。
人間の足音じゃない。
重い。
規則正しい。
まるで、歩くことまで命令文で決められているみたいな音。
ヴァイスが反転板を展開する。
薄い魔力の板に、歪んだ文字が浮かび上がった。
「黒鐘廊系の外部記述体だ」
「外部記述体?」
俺が聞くと、ヴァイスは早口で答えた。
「簡単に言えば、役割だけで構成された兵だ。人間ではない。意思もない。命令文に従って動く」
「つまり?」
「斬ってくる」
分かりやすい説明だった。
ありがたい。
ありがたくない。
扉が、内側へ歪んだ。
次の瞬間。
黒い剣が突き破ってきた。
「下がれ!」
トーヤが叫ぶ。
盾が前に出た。
重い衝撃。
扉ごと吹き飛んだ黒い刃を、トーヤの盾が受け止める。
金属音が地下に弾けた。
俺の足が一歩下がる。
情けない。
けれど、今は正しい。
前に出たら死ぬ。
主人公補正で剣は止まらない。
現実は硬い。
そして剣はもっと硬い。
扉の向こうから、それが現れた。
黒い甲冑。
顔はない。
兜の奥には、人間の目ではなく、白い文字列が浮いている。
右手に剣。
左手に細い槍。
背中には、紙片のような黒い羽。
いや、羽じゃない。
破れた本文だ。
そいつの胸に、文字が走った。
【処刑記述兵】
うわ。
名前からして物騒。
もう少し観光案内人とかにしてくれ。
続いて、反転板に別の文字が映る。
【命令:未承認接触者を排除せよ】
【対象:編集者アキト・アオキ】
「俺、名指し?」
「人気者だな」
ミラの声がどこかからした。
「嬉しくない人気だ」
処刑記述兵が、剣を持ち上げる。
その動きに迷いはない。
ためらいもない。
怒りもない。
だから怖い。
人間なら、迷う。
怒る。
焦る。
そこに隙ができる。
でも、こいつは違う。
書かれた通りに動く。
役割そのもの。
黒鐘廊らしい敵だ。
「来る!」
レオンが前へ出た。
処刑記述兵の剣が振り下ろされる。
速い。
重い。
レオンの剣がそれを受ける。
火花が散った。
次の瞬間、槍が横から伸びる。
トーヤの盾が割り込む。
「重い」
トーヤが低く言った。
短い。
だが、かなりまずい意味の短さだ。
セリアが掌を振った。
炎が走る。
「燃えろ!」
火線が処刑記述兵の脚を絡め取る。
しかし、黒い甲冑の表面に文字が浮かんだ。
【状態異常:燃焼を無効化】
炎が弾かれる。
「はあ!? ずるくない!?」
セリアが叫ぶ。
ヴァイスが舌打ちした。
「無効化記述持ちだ」
「先に言えよ!」
「今見えた!」
処刑記述兵が、剣を横薙ぎに振る。
レオンが受ける。
だが、その軌道が途中で変わった。
剣が、レオンを避けるように曲がる。
俺に向かって。
「アキト!」
リュミエルの声。
トーヤが動く。
間に合わない。
俺は動けない。
いや、動いたところで遅い。
黒い刃が迫る。
その瞬間、視界の端に文字が走った。
【斬撃:対象を両断する】
対象。
俺。
理由。
未承認接触者。
なら。
俺は震える指を前に出した。
剣を止めるんじゃない。
そんな筋力はない。
魔法を撃つんじゃない。
そんな才能もない。
俺にできるのは、文字を見ること。
本文ではない。
攻撃記述の外側。
発動条件。
対象指定。
そこに、注釈を入れる。
「注釈枠、展開」
空気が裂けた。
白い枠が、黒い斬撃の周囲に浮かぶ。
時間が遅くなる。
いや、遅くなった気がしただけだ。
実際には一瞬。
でも、その一瞬で十分だった。
俺は、攻撃記述の末尾に一文を差し込む。
【ただし、対象が敵性存在として本人確認済みである場合に限る】
黒い刃が、俺の首の手前で止まった。
止まった。
いや。
正確には、迷った。
剣に迷いはない。
でも、記述が迷った。
俺が敵かどうか。
本人確認済みかどうか。
その条件が満たされなくなった。
黒い刃が空中で震える。
「今だ!」
レオンが踏み込んだ。
銀の剣が、処刑記述兵の腕を弾く。
トーヤの盾が胴を押し返す。
セリアの炎が床を走り、敵の足元を照らした。
ミラが背後に現れる。
短剣が、黒い羽みたいな本文を切り裂いた。
「うわ、硬っ」
「無理するな!」
「してないよ。ちょっとした文句」
処刑記述兵が後退する。
だが、倒れない。
胸の文字が書き換わる。
【条件再定義】
【対象:敵性存在】
【敵性判定:編集者職能保持者】
おい。
雑に来たな。
編集者だから敵。
職業差別がひどい。
「アキト、次が来る!」
リュミエルが言う。
分かっている。
処刑記述兵の槍が、黒く光った。
槍先に魔法陣。
いや、違う。
魔法陣に見えるだけの命令文。
【貫通槍:防御対象を貫く】
トーヤの盾を抜く気だ。
「トーヤ、受けるな!」
「無理だ」
短い。
でも正しい。
避ければ、後ろの俺たちに届く。
受ければ、盾ごと貫かれる。
最悪の二択。
黒鐘廊はこういうのがうまい。
誰かの役割を利用する。
盾なら受けるだろう。
勇者なら前に出るだろう。
治癒師なら治すだろう。
編集者なら読むだろう。
そうやって、人を役割に戻す。
「くそ」
俺は歯を噛む。
トーヤの盾に、文字が浮かんでいた。
【盾役:防御対象を守るため、攻撃を受ける】
違う。
トーヤはただの盾じゃない。
守る相手を選べる盾だ。
退く道も守る。
俺は注釈枠を展開する。
だが、槍が速い。
間に合うか。
「アキト、対象は槍ではなく盾だ!」
ヴァイスが叫んだ。
「攻撃を止めるな! 防御記述を変えろ!」
なるほど。
敵の槍をいじるより、トーヤの盾の受け方を変える。
俺は視線を盾に移す。
本文は読まない。
役割の外側だけを見る。
【受ける】
そこに注釈。
「トーヤ!」
「言え」
「受けるんじゃない。流せ!」
「了解」
即答だった。
俺は注釈を入れる。
【ただし、防御とは衝撃を真正面から受けることに限定されない】
さらに一文。
【退く道を守るため、攻撃方向の変更を含む】
槍が盾に当たった。
貫通する。
はずだった。
だが、トーヤの盾が斜めに動く。
黒い槍の軌道がずれた。
石床を抉り、壁に突き刺さる。
地下演習室が揺れた。
トーヤは無事。
盾も、割れていない。
「助かった」
「こっちこそ」
やばい。
今のは、かなり戦闘っぽかった。
いや、感動してる場合じゃない。
処刑記述兵の兜の奥で、白い文字が高速で流れる。
【編集干渉確認】
【対策:本文秘匿】
黒い甲冑の表面から、文字が消えた。
反転板にも映らない。
ヴァイスが顔をしかめる。
「隠したか」
「見えないと編集できないんだけど」
「なら、見えるようにしろ」
「簡単に言うな」
処刑記述兵が剣と槍を構える。
今度は記述が見えない。
ただの戦闘になる。
一番困るやつだ。
俺は剣士じゃない。
魔法使いでもない。
体力もない。
体育館でバスケしてた記憶はあるけど、異世界の黒い処刑兵と戦う練習はしていない。
部活のメニューにない。
「レオン!」
フィン先生の声が飛ぶ。
「正面を抑えろ。倒そうとするな。時間を稼げ」
「はい!」
レオンが前に出る。
処刑記述兵の剣とレオンの剣がぶつかる。
速い。
俺の目では追いきれない。
金属音が連続する。
トーヤが横から槍を受け流す。
セリアが床に炎を走らせ、敵の踏み込みを制限する。
ミラが影から影へ移り、背中の黒い本文を狙う。
でも、決定打がない。
敵は人間じゃない。
痛みで止まらない。
恐怖で退かない。
説得も効かない。
役割だけで動くなら、役割を崩すしかない。
でも文字が見えない。
どうする。
どうすればいい。
焦るな。
焦るな。
焦るな。
焦りは敵の素材。
俺は息を吸った。
文字が見えないなら、どこを見る?
攻撃の軌道。
対象。
反応。
命令文は隠れても、行動には出る。
文章は、癖を隠せない。
作者の癖がにじむように。
役割にも癖が出る。
処刑記述兵の剣は、何度も俺へ向かおうとする。
レオンが止める。
トーヤが遮る。
でも、必ず俺に向かう。
つまり命令の中心は俺。
【編集者アキト・アオキの排除】
そこは変わっていない。
槍は、守る者を貫こうとする。
剣は、対象を両断しようとする。
炎は無効化。
なら、セリアの火は攻撃として認識されている。
認識。
そこだ。
「セリア!」
「なに!」
「燃やすな! 照らせ!」
セリアの目が一瞬だけ丸くなる。
でも、すぐに笑った。
「そういうことね!」
彼女の炎が形を変えた。
赤い火線ではない。
柔らかい光。
地下演習室の床、壁、敵の甲冑を照らす。
攻撃ではない。
照明。
すると、処刑記述兵の表面に、薄く文字の影が浮かんだ。
無効化されない。
燃焼ではなく、照明だから。
「見えた!」
ヴァイスが反転板をかざす。
薄い文字列が映る。
【命令核:対象排除】
【対象:編集者アキト・アオキ】
【補助条件:防御者を障害物として処理】
【補助条件:炎熱攻撃を無効化】
【補助条件:説得不可】
説得不可。
本当に嫌な書き方をする。
でも、今はどうでもいい。
見えた。
なら、編集できる。
「アキト」
リュミエルが言った。
「倒すの?」
俺は止まった。
倒す。
それが一番早い。
黒鐘廊の兵だ。
人間ではない。
意思もない。
命令文で動くだけ。
なら、破壊していいのか。
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
敵を単純悪にするな。
それは、引き継ぎのルールとかそういう話じゃない。
俺自身が、ここまで見てきたものだ。
役割だけで動かされる存在。
それは、俺たちがずっと抵抗してきたものに似ている。
もちろん、放っておけば殺される。
綺麗事で首はつながらない。
だから、倒す必要はある。
でも。
倒すとは、殺すことだけじゃない。
「排除する役割から降ろす」
俺は呟いた。
リュミエルが頷く。
「なら、その言葉で」
処刑記述兵が突進してくる。
レオンが受ける。
トーヤが支える。
セリアが照らす。
ミラが背後の黒い羽を切り裂く。
ノルンが発話保護の光を広げる。
「アキトさん、今なら声が通ります!」
声。
そうか。
こいつに意思はない。
でも、命令はある。
命令があるなら、差し戻せる。
依頼者不在。
管理者権限凍結中。
正式な処刑命令として不備だらけ。
俺は注釈枠を最大まで広げた。
視界が白く染まる。
頭が痛い。
吐き気がする。
でも、本文は読まない。
読むな。
読む必要はない。
俺が見るのは、命令の外側。
処刑記述兵の胸に、白い枠が刺さる。
【命令:未承認接触者を排除せよ】
俺はそこに、赤い差し戻し印を叩きつけた。
「査読差し戻し」
声が響いた。
処刑記述兵の動きが一瞬止まる。
「差し戻し理由」
俺は息を吸う。
「一つ。対象者の敵性確認が本人同意なしに確定されている」
文字がひび割れる。
「二つ。管理者権限凍結中につき、処刑命令の正式依頼者が不在」
黒い甲冑が震える。
「三つ。防御者を障害物として処理する記述は、本人の現在記述を無視している」
トーヤの盾が光った。
「四つ。炎熱攻撃無効化は、照明行為まで攻撃と誤分類している」
セリアの炎が明るくなる。
「五つ」
俺は、処刑記述兵を見た。
顔のない兜。
白い文字だけの目。
「役割だけで構成された存在に、役割を完遂する以外の停止条件がない」
声が、少し震えた。
でも止めない。
「これは処刑ではない。使い捨てだ」
黒い剣が軋む。
槍が床に落ちた。
処刑記述兵の胸の文字が乱れる。
【命令続行】
【排除】
【排除】
【排除】
うるさい。
「追記」
俺は右手を伸ばした。
「ただし、当該記述兵は、命令完遂以外の停止を選択できる」
リュミエルが、そっと言う。
「選択できる、は強すぎる」
そうだ。
意思がない存在に、選択を押しつけるのも違う。
危ない。
本当に危ない。
正しそうな言葉ほど、危ない。
俺は歯を食いしばり、言い直す。
「修正」
白い枠が揺れる。
「ただし、当該記述兵は、命令完遂以外の停止条件を保持できる」
それならいい。
選ばせていない。
でも、止まる余地を作る。
「停止条件を追加」
俺は最後の一文を打ち込んだ。
【命令依頼者不在の場合、処刑記述兵は待機状態へ移行する】
一瞬。
地下演習室の音が消えた。
処刑記述兵の剣が、俺の目の前で止まる。
近い。
本当に近い。
あと一歩で死んでいた。
というか、たぶん半歩でも危なかった。
主人公、薄氷すぎる。
黒い甲冑の胸に、白い文字が浮かぶ。
【依頼者照合】
【管理者権限:空席】
【正式依頼者:不在】
【処刑命令:差し戻し】
【待機状態へ移行】
処刑記述兵の剣が下がった。
槍が消えた。
黒い羽のような本文が、ばらばらと床に落ちる。
甲冑は膝をつき、そのまま動かなくなった。
勝った。
たぶん。
いや、倒してはいない。
壊してもいない。
ただ、止めた。
処刑する役割から、待機へ移した。
それだけ。
でも、その場にいた全員が、しばらく動かなかった。
俺も動けなかった。
膝が笑っている。
いや、笑うな。
今笑うところじゃない。
「アキト」
リュミエルが支えてくれた。
「前に出ないでと言いました」
「出てない」
「最後、半歩出ました」
「誤差」
「誤差で死にます」
はい。
正論。
フィン先生が近づいてきた。
顔が怖い。
黒茶より黒い。
「アキト」
「はい」
「次に同じことをしたら、作戦後に説教だ」
「今じゃないんですか」
「今は情報を回収する」
優先順位が冷静。
怖いけど助かる。
ヴァイスが待機状態になった処刑記述兵を観察する。
「命令核は沈黙している。破壊されてはいない」
「再起動する?」
「依頼者が戻ればな」
「つまり黒鐘廊管理者権限の空席が動けば、また起きる」
「そういうことだ」
嫌な伏線が、また増えた。
やめてくれ。
伏線の在庫が倉庫みたいになってる。
ミラが床に落ちた黒い本文片をつまもうとして、トーヤに止められた。
「触るな」
「分かってるって。ちょっと見ただけ」
「見すぎるな」
「お母さん?」
「盾だ」
「盾って便利な言葉だねえ」
セリアが炎を消した。
「でもさ」
彼女は処刑記述兵を見下ろす。
「今の、ちょっとスカッとした」
「分かる」
俺は正直に言った。
剣で来る相手を、剣で倒したわけじゃない。
魔法で来る相手を、魔法で焼いたわけでもない。
でも、敵の命令文を崩した。
攻撃条件をずらした。
勝利条件を差し戻した。
これが、編集者の戦い方。
ようやく少し、見えた気がする。
レオンが剣を鞘に戻した。
「アキト」
「ん?」
「今の戦い方なら、お前は前線に立たなくても戦える」
「だな」
「だが、俺たちが前に立たなければ使えない」
「……ああ」
レオンは静かに頷いた。
「なら、それでいい」
短い言葉だった。
けれど、重かった。
一人で走るな。
仲間と繋がれ。
雨の日の体育館。
湿った木の床。
跳ねる球の音。
俺は、自分で動くことが楽しかった。
でもそれは、一人で勝つことじゃない。
パスがあった。
スクリーンがあった。
声があった。
ここでも同じだ。
レオンが止めた。
トーヤが守った。
セリアが照らした。
ミラが裂いた。
ノルンが声を通した。
ヴァイスが見える場所を示した。
リュミエルが問い直した。
俺は、その上に注釈を置いただけだ。
それでいい。
それがいい。
カサンドラ副院長が、待機状態の処刑記述兵を見つめた。
「この兵の出現により、黒鐘廊側が方針を変えたと考えるべきですね」
「どう変えたんですか」
ノルンが聞く。
副院長は静かに答えた。
「これまでは、記録、証言、始点記述への干渉が中心でした」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが今後は、物理的排除も選択肢に入れてきます」
空気が重くなる。
つまり。
戦い方が変わる。
いや。
向こうが、こちらの弱点を見た。
俺たちが栞の子に踏み込まなかったこと。
報告を保留したこと。
始点記述を守ったこと。
その静かな抵抗を、向こうは面倒だと判断した。
だから、処刑兵を出した。
「分かりやすくなったな」
フィン先生が言った。
「敵が剣を抜いた」
俺は待機状態の黒い甲冑を見る。
「なら、こっちも剣を?」
「違う」
フィン先生が即答した。
「お前は剣を持つな」
「ですよね」
「だが、戦い方は覚えろ」
その言葉に、俺は頷いた。
編集者は剣を持たない。
でも、剣で来た相手の文章は読める。
いや、読むな。
見るのは外側。
条件。
対象。
依頼者。
停止条件。
そこを崩す。
そこを差し戻す。
そこに余白を入れる。
「アキト」
リュミエルが言った。
「今、少し笑いましたね」
「え、そう?」
「はい」
「気のせいでは?」
「いいえ」
リュミエルの声は静かだった。
「でも、悪い顔ではありません」
なんだそれ。
ちょっと怖い。
ミラがにやりと笑う。
「最弱編集者、ようやく戦闘チュートリアル終了って感じ?」
「遅すぎない?」
「九十二話でチュートリアル終了は、なかなか大物だよ」
やめろ。
作者都合みたいなことを言うな。
俺はため息をつき、待機状態の処刑記述兵を見た。
黒い甲冑は動かない。
だが、完全に終わったわけじゃない。
命令依頼者が戻れば、また動く。
黒鐘廊管理者権限の空席。
名無しの観測者。
帰還記述保管者の本名。
そこに近づけば、もっと強い敵が来る。
たぶん。
いや、絶対に。
だったら、必要だ。
俺たちには、言葉だけじゃなく。
戦える形の言葉が。
「ヴァイス」
「なんだ」
「この処刑記述兵、解析できるか」
「できる。時間はかかるがな」
「停止条件の構造を知りたい。次に似た敵が来た時、もっと早く止める」
ヴァイスは少しだけ目を細めた。
「ようやくまともな戦術を考え始めたか」
「褒めてる?」
「かなり」
分かりにくい。
だが、褒めているらしい。
セリアが拳を鳴らした。
「次は照らすだけじゃなくて、燃やせる相手がいいわ」
「照らしたから勝てた」
トーヤが言う。
セリアは一瞬黙り、それから照れたように顔を逸らした。
「……まあね」
レオンが静かに笑う。
ノルンも少しだけ微笑んだ。
この空気。
悪くない。
戦闘の後なのに、少しだけ温かい。
でも、その温かさに浸る時間は長くない。
カサンドラ副院長が、床に落ちた黒い本文片の一つを、保護布越しに封じた。
そこには、薄い文字が残っていた。
【次命令準備】
【対象拡張】
【栞化個体】
胸が冷えた。
栞の子。
やっぱり、次はそこに来る。
処刑兵は、俺だけを狙っていたわけじゃない。
俺を排除してから、栞の子へ向かうつもりだった。
「……なるほど」
俺は呟いた。
「静かにしてたら、向こうが待ってくれるわけじゃないってことか」
リュミエルが俺を見る。
「だからといって、焦って進める理由にはなりません」
「分かってる」
今度は、ちゃんと言えた。
「焦って進めるんじゃない」
俺は待機した処刑記述兵を見る。
「戦える準備をしてから、選択肢を守りに行く」
剣を持たない。
でも、戦わないわけじゃない。
編集者は、剣を振らない。
けれど。
剣が振られる理由には、赤を入れられる。
俺は、白い注釈枠を閉じた。
指先が震えている。
怖かった。
死ぬほど怖かった。
でも、少しだけ分かった。
最弱職が戦場に立つ方法。
それは、自分が強くなることじゃない。
強い仲間の動きに、意味を通すこと。
敵の理不尽な条件を、崩すこと。
そして。
勝手に決められた結末へ、最後の一文を差し込むこと。
ただし。
本人が望まない役割は、確定しない。
まだ最終行には早い。
けれど、その言葉はもう、俺の中にあった。




