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第78話 人間ではない栞

翌日。


旧記録保管庫の空気は、昨日よりも冷たく感じた。


いや、実際には変わっていないのかもしれない。


古い紙。

封印された記録。

乾いた木棚。

長く開かれていない箱の匂い。


それらが混ざった、静かな場所。


ただ、こちらの心構えが変わっていた。


今日は、栞の子に近づくための準備をする。


直接、旧地下聖堂へ行くわけではない。


第二幕通路にも入らない。


栞の子の声を聞きに行くわけでもない。


まずは、代わりの栞を探す。


人間ではない栞を。


「人間ではない栞、ね」


ミラが小さく呟いた。


「言葉だけ聞くと、普通なんだけどさ」


「普通か?」


俺は聞き返す。


「いや、普通じゃないか。感覚バグってた」


「だいぶバグってるな」


ミラは今日は歩いている。


ただし、完全復帰ではない。


ノルンに治癒符を貼られ、セリアに横から睨まれ、トーヤが半歩後ろにいる。


いわば、移動式監視付きミラ。


本人は不満そうだが、顔色は昨日よりかなりいい。


「ミラが来るのは本当に大丈夫なのか?」


俺が聞くと、ノルンが答えた。


「短時間なら大丈夫です。ただし、走るのは禁止です」


「走らないよー」


「本当に?」


ノルンが言った。


ミラは俺を見た。


「感染してる」


「だろ?」


この問答、完全に特異職科の共通言語になりつつある。


リュミエルが静かに言う。


「油断防止には有効」


「便利な呪文みたいになってるな」


「あなたが広めた」


「俺なのか」


たぶん俺だ。


今日の参加者は、俺、リュミエル、ヴァイス、カサンドラ副院長、ノルン、ミラ。


護衛としてトーヤ。


セリアとレオンは地下演習室で待機。


フィン先生は全体指揮。


エリオットとルグランは医療棟で保護継続。


今回の目的は、旧記録保管庫の保管品。


記録栞。


台帳によれば、三本残っている。


ただし、封印劣化あり。


それを確認し、修復できるかを見る。


栞の子をページの隙間から解放するには、代わりに第二幕通路を止める道具が必要になる可能性が高い。


人間を栞にしないために。


道具の栞を作る。


当たり前のようで、かなり大事な話だった。


「保管室はこの先です」


カサンドラ副院長が言った。


旧記録保管庫の奥。


いつもの閲覧室ではなく、さらに外郭に近い場所。


古い保管棚が並ぶ区画の先に、低い扉がある。


扉には、封印札が三重に貼られていた。


文字は古い。


だが、読める。


【危険記録補助具保管】

【本文閲覧不可】

【管理者許可なく開封不可】


「物騒だな」


俺は言った。


「物騒だから保管されています」


副院長はさらっと言った。


その通りだ。


危なくないものは、こんな奥に封印されない。


ヴァイスが扉の魔導線を見た。


「封印は劣化しているが、破れてはいない」


「開けても大丈夫か?」


「大丈夫かどうかで言えば、大丈夫ではない」


「やっぱり?」


「だが、手順を踏めば開けられる」


最近、このタイプの答えにも慣れてきた。


大丈夫ではない。

でも、やる。


異世界の危険作業はだいたいこれだ。


カサンドラ副院長が羊皮紙を開く。


「開封前に規定を重ねます」


光の文字が扉の前に浮かんだ。


「記録栞確認作業。目的は、第二幕通路に残留する記録栞補助者の人間性保護および代替手段確保。保管品を、人間の代用品として扱うことを禁止。保管品に人間を接続することを禁止。本文閲覧を禁止」


相変わらず、規定が強い。


魔法陣より頼もしく見えてきた。


ヴァイスが反転板をかざす。


「私は封印の構造を見る。アキト、注釈枠を」


「了解」


俺は手をかざす。


触れない。


扉の外側だけ。


【注釈枠】


――これは記録栞の開封確認であり、本文閲覧ではない。

――記録栞を、人間の代替品、素材、鍵、犠牲として扱ってはならない。

――取得対象は、栞本体の状態、封印劣化、記録位置保持機能、汚染痕に限定する。

――本文、命令文、読者への呼びかけを遮断する。

――栞の子との接続を自動発生させてはならない。

――異常時は即時閉鎖。

――人間ではない栞を作るための確認である。


最後の一文を入れると、扉がわずかに震えた。


反応。


でも、黒くはない。


古い金属が息をしたような震え。


「通った」


ヴァイスが言う。


「開けるぞ」


扉がゆっくり開いた。


中は、小さな保管室だった。


暗い。


窓はない。


奥に、石の台が三つ並んでいる。


その上に、それぞれ細長い箱が置かれていた。


栞箱。


見た目は、前世でいう古い筆箱に近い。


ただし、表面には細かい封印文字がびっしり刻まれている。


「三本あるな」


トーヤが言う。


「台帳通りです」


副院長が頷く。


「第一栞、白紙記録用」

「第二栞、危険本文停止用」

「第三栞、帰還記述保持用」


「欲しいのは?」


俺が聞くと、ヴァイスが即答した。


「第二栞だ」


「危険本文停止用」


「そうだ。栞の子が止めているのは、おそらく第二幕本文の流出位置。なら、同系統の栞が必要になる」


「第三栞は?」


リュミエルが聞く。


「帰還記述保持用なら、必要になりそうだけど」


副院長が台帳を確認する。


「第三栞は、帰還空欄に近い性質を持つようです。ただし、劣化が最も激しい」


「触ると危ない?」


「かなり」


「じゃあ後回し」


俺は即答した。


ミラがにやっと笑う。


「アキトくん、成長してる」


「最近よく言われる」


「そのうち退化しないでね」


「怖いこと言うな」


俺たちは第二栞の箱に近づいた。


ヴァイスが反転板をかざす。


箱の上に文字が浮かぶ。


【第二記録栞】

【用途:危険本文停止】

【状態:封印劣化・中】

【汚染痕:旧神殿式・微弱】

【黒鐘廊式:なし】

【記録保持力:低下】


「黒鐘廊式なし」


リュミエルが言う。


「比較的ましね」


「比較的な」


ヴァイスは箱を睨む。


「記録保持力が低下している。このままでは第二幕通路を止めるには足りない」


「修復できる?」


ノルンが聞く。


「魔導的な補強はできる。ただし、記録保持力は単純な魔力で補えばいいものではない」


「じゃあ何が必要?」


ヴァイスは少し嫌そうに俺を見た。


またか。


「貴様の注釈だ」


「やっぱり」


「栞の機能を再定義する必要がある」


「再定義?」


「古い第二栞は、危険本文を止める道具だ。だが、栞の子の代替にするなら、それだけでは足りない」


「何が足りない?」


カサンドラ副院長が言った。


「本人の位置を奪わないことです」


なるほど。


ただ本文を止めるだけなら、栞の子を押しのける形になる可能性がある。


それは危ない。


栞の子の現在位置を無視して、道具を差し込めば、本人の記録を壊すかもしれない。


「つまり、代替ではなく、補助」


俺は言った。


「栞の子を置き換えるんじゃない。栞の子が降りるか保留するために、一時的に支える」


リュミエルが頷く。


「降りる権利のための栞」


いい言葉だ。


「それを入れる」


俺は第二栞の箱の前に立つ。


リュミエルが俺の横に来る。


「直接触らない」


「分かってる」


「栞の子に接続しない」


「分かってる」


「本人の意思を先取りしない」


「分かってる」


「本当に?」


「本当」


よし。


儀式完了。


俺は第二栞の箱へ、外側から注釈を入れる。


【追加注釈】


――この記録栞は、栞の子を置き換えるものではない。

――この記録栞は、栞の子を素材、鍵、通路、犠牲として扱わない。

――この記録栞は、危険本文を一時停止し、栞の子が自分の意思を確認するための時間を確保する補助具である。

――栞の子が残留、帰還、保留のいずれを選んでも、その選択を妨げてはならない。

――本人意思確認前に、栞化解除を実行してはならない。

――本文停止機能は、読まない自由を守る目的に限定する。

――人間ではない栞として機能する。


箱が淡く光った。


白ではない。

黒でもない。


薄い青。


旧記録保管庫の封印色だ。


「通ったか?」


俺が聞くと、ヴァイスが反転板を確認する。


「記録保持力が少し上がった。だが、まだ足りない」


「魔導補強で足りる?」


「半分は」


「残りは?」


ヴァイスは眉をひそめた。


「発話保護だ」


ノルンが驚く。


「私ですか?」


「栞の子の意思確認を前提にしたことで、この栞は声を待つ構造になった。声がなければ保持力が安定しない」


「声を待つ栞……」


ノルンが小さく呟く。


「できます」


彼女はすぐに言った。


震えているが、逃げない。


「発話保護を、栞に重ねます」


「無理はしないでください」


俺が言うと、ノルンは少しだけ笑った。


「アキトさんに言われると、不思議な気持ちです」


「それ、今日何回目だろうな」


「でも、ありがとうございます」


ノルンは第二栞の箱へ手を向ける。


淡い光が広がる。


「この栞は、声を奪うためのものではありません」


ノルンの声が、保管室に響く。


「声を待つためのものです」


箱の青い光が少し強くなる。


「栞の子が、帰りたい、残りたい、保留したい。そのどれを言っても、消さないように」


ノルンの発話保護が、栞に染み込む。


箱の封印文字が整っていく。


ヴァイスが目を細めた。


「記録保持力、上昇。必要値の七割程度」


「まだ足りない」


「精神保護も必要」


リュミエルが頷く。


「分かりました」


彼女が前に出る。


右手首の呪印が、一瞬だけ淡く光る。


器。


神が貼った役割。


だが、リュミエルはそれを見て、静かに言った。


「私は器ではない」


その声は、低く澄んでいた。


「私は、自分で選ぶ自由を望む者」


手を第二栞へ向ける。


「そして、選ばない自由も守る者」


精神保護の膜が、栞箱を包む。


「この栞は、栞の子に選択を強制してはならない」


光が重なる。


青と淡い白。


箱の震えが収まる。


ヴァイスが反転板を見る。


「九割」


「あと一割か」


ミラが保管室の入口から小さく手を上げた。


「私?」


全員が振り向く。


ミラは肩をすくめた。


「ほら、道とか帰還とかなら、私の経験が使えるかなって」


「使わない」


俺は即答した。


「早い」


「まだ回復中だし、残響を使うと舞台袖に繋がる危険がある」


「まあ、そうだよね」


ミラは少しだけ残念そうだった。


だが、引き下がった。


偉い。


「あと一割は、魔導補強で押し込む」


ヴァイスが言った。


「大丈夫なのか?」


「私を誰だと思っている」


「素直じゃない魔導師」


「殴るぞ」


「合ってるだろ」


「制御によって価値を示す魔導師だ」


その言葉で、彼自身の現在記述が立つ。


ヴァイスは反転板を置き、両手で魔導式を組んだ。


精密だった。


派手な火力ではない。

美しい制御。


細い魔力線が、第二栞の箱へ絡む。


封印文字の欠けた部分を補い、歪んだ部分を整える。


「これは本文を止めるための栞だ」


ヴァイスが言う。


「だが、人間を止めるためのものではない」


魔力線が青く光る。


「読ませないために使う。閉じ込めるためではない」


最後の一線が入った。


箱の光が安定する。


ヴァイスが息を吐いた。


「必要値、到達」


「成功?」


ノルンが聞く。


「仮修復だ。成功と言うには早い」


「つまり成功寄り?」


ミラが言う。


「余計な言い換えをするな」


「成功寄りだ」


俺が言うと、ヴァイスは俺を睨んだ。


「貴様もだ」


でも、口元は少しだけ緩んでいた。


カサンドラ副院長が箱に封印札を追加する。


「第二記録栞、仮修復。用途は、栞の子の意思確認に伴う危険本文一時停止。人間の代替利用を禁止」


封印札が淡く光る。


「これで、持ち出し可能です」


箱が静かに開いた。


中には、一本の栞があった。


薄い金属片。


長さは指ほど。


表面には、細かい文字が刻まれている。


先端には、小さな穴。


そこに、白い糸のようなものが通っていた。


本当に、栞に見える。


ただし、普通の本に挟むには重すぎる。


「触っていい?」


俺が聞くと、全員が一斉にこっちを見た。


「見るな」


「触るな」


「待て」


「本当に?」


「アキトくんさあ」


五方向から止められた。


はい。


俺が悪かった。


「冗談です」


「冗談に聞こえない」


リュミエルが言う。


「すみません」


第二栞は、カサンドラ副院長が専用の保護ケースに入れた。


俺は触らない。


触らない方が安全。


触りたい気持ちはある。


あるが、触らない。


成長。


「次は第三栞か?」


トーヤが聞く。


カサンドラ副院長は首を横に振る。


「今日は確認しません」


「なぜ」


「第二栞だけで十分危険でした。第三栞は帰還記述保持用。帰還空欄と反応する可能性があります」


「つまり、今見ると余計な扉が開く?」


俺が聞くと、副院長は頷いた。


「その可能性があります」


「じゃあ見ない」


俺は即答した。


ミラが感心したように言う。


「本当に成長してる」


「成長期なので」


「何歳設定だっけ?」


「十六」


「成長期だ」


くだらない会話。


だが、こういうくだらなさが現実の杭になる。


俺たちは保管室を出る。


第二栞は、副院長が管理。


厳重に封印された保護ケースに入れられた。


その小さな箱が、妙に重く見える。


中には、人間ではない栞がある。


栞の子を、栞にし続けないための栞。


ややこしい。


でも、大事だ。


旧記録保管庫の閲覧室へ戻る途中、ミラが俺の横に来た。


足取りはまだ少し遅い。


「アキトくん」


「何だ?」


「さっき、即答で使わないって言ったじゃん」


「ミラの残響のことか」


「うん」


「怒った?」


「ちょっと」


正直。


「でも、助かった」


これも正直だった。


ミラは前を見ながら言う。


「私、役に立ちたいって思った。栞の子が自分と似てる気がしたから、助けたいって思った。でも、それでまた道になったら、多分きつい」


「うん」


「だから止めてくれて、ちょっと腹立ったけど、助かった」


「複雑だな」


「人間だからね」


ミラは少し笑った。


「私、影の獣じゃなくて人間なので」


「そうだな」


「あと、甘いものを必要とする人間」


「それは現在記述に入れないぞ」


「なんで?」


「黒鐘廊に甘味で誘導されたら困る」


ミラは真顔になった。


「それは困る」


本気で困りそうだ。


少し笑った。


その時だった。


保管庫の奥から、かすかな音がした。


紙が、めくれる音。


全員が止まる。


ヴァイスが反転板を構える。


リュミエルが精神保護を広げる。


トーヤが盾を前に出す。


ノルンが発話保護を準備する。


カサンドラ副院長が保護ケースを抱え直す。


俺は、息を止めた。


紙の音。


もう一度。


ぱらり。


保管棚の奥。


誰もいないはずの場所。


そこに、一枚の古い紙片が落ちていた。


さっきまで、なかった。


「触るな」


リュミエルが言う。


「分かってる」


紙片には文字がある。


だが、直接読まない。


俺は注釈枠を薄く展開する。


【本文遮断】

【管理通知のみ】


反応。


本文ではない。


管理通知。


なら、外側だけ見られる。


紙片に浮かんでいたのは、短い言葉だった。


――第二栞、確認。


その下。


――栞の子、位置保持継続中。


さらに。


――本人意思確認、要求。


ノルンが息を呑む。


「栞の子が……?」


「要求している?」


俺は紙片を見る。


いや、見すぎるな。


外側だけ。


次の一文が浮かぶ。


――発話経路、一時開放可能。


地下演習室ではない。


ここで。


旧記録保管庫で、栞の子の声を聞ける可能性が出た。


リュミエルがすぐに言う。


「今すぐ返事しない」


「分かってる」


フィン先生の通信石が光る。


『状況は見えている。応答するな。まず条件を確認しろ』


「はい」


俺は紙片へ向かって言う。


「発話経路の条件を、本文なしで提示しろ」


紙片が淡く光る。


――条件一。

――第二栞の仮修復。


達成。


――条件二。

――発話保護。


ノルンが頷く。


可能。


――条件三。

――本名質問禁止。


当然。


――条件四。

――帰還意思誘導禁止。


当然。


――条件五。

――発話時間、三十秒。


短い。


でも、ある。


「三十秒だけ、声を聞ける」


俺は呟いた。


「罠の可能性は?」


リュミエルが聞く。


「ある」


ヴァイスが答える。


「だが、紙片は黒鐘廊式ではない。旧記録保管庫式だ。帰還記述保管者の保護痕に近い」


「つまり、ナツキ側か、帰還記述保管者側」


「可能性はある」


フィン先生の声。


『今日は確認だけの予定だった』


「はい」


『だが、本人意思確認は優先度が高い』


「やるんですか?」


『やるなら、三十秒だけだ。質問は一つに絞れ』


質問一つ。


何を聞く。


本名は聞かない。

帰りたいか、と直接聞くのも誘導になるかもしれない。


栞の子は、今どうしたいのか。


いや、これが一番か。


「あなたは、今、何を選びたい?」


俺は呟いた。


リュミエルが頷く。


「いい問い」


ノルンが前に出る。


「発話保護、準備します」


ミラは少し離れた場所で、毛布を握った。


「聞こえたら、私も聞いていい?」


「聞くだけなら」


ノルンが言う。


「でも、返事はしないでください」


「うん」


カサンドラ副院長が規定を重ねる。


「発話経路一時開放。目的は本人意思確認。名前、本名、役割鍵、帰還誘導、残留誘導の質問を禁止。発話者の声を、本人のものとして保護。ただし、黒鐘廊式混入時は即時遮断」


全員が頷く。


リュミエルが俺の腕を掴む。


「一問だけ」


「分かってる」


「聞き返さない」


「分かってる」


「助けると言わない」


「……分かってる」


また少し間が空いた。


でも、今度は正直に飲み込んだ。


助けると言いたくなる。


絶対になる。


だから言わない。


今は、問いだけ。


ノルンが発話保護を展開する。


紙片が淡く光る。


空気が震える。


遠く。


本当に遠くから。


声が聞こえた。


細い声。


台帳に残っていた「ここで止めます」と同じ声。


でも、今の声は少し掠れていた。


長い時間、紙の隙間で乾いていたような声。


「……聞こえますか」


ノルンが小さく息を呑む。


俺は答えそうになる。


リュミエルの手に力が入る。


そうだ。


こちらから会話を広げない。


問いは一つ。


俺はゆっくり言った。


「あなたは、今、何を選びたい?」


沈黙。


三十秒しかない。


でも、急かさない。


沈黙も、本人の時間だ。


十秒。


十五秒。


ミラが息を止めているのが分かる。


ノルンの手が震えている。


二十秒。


声が返ってきた。


「……まだ、止めたい」


胸が痛む。


残り時間が少ない。


でも、声は続いた。


「でも」


ノイズが混じる。


黒くはない。


ただ、遠い。


「止める以外を、選べるか知りたい」


そこで、発話経路が閉じた。


紙片の光が消える。


旧記録保管庫に、静寂が戻った。


誰もすぐには喋らなかった。


俺も、動けなかった。


まだ、止めたい。


でも、止める以外を選べるか知りたい。


それが。


栞の子の今の声。


帰りたい、ではない。

残りたい、でもない。

保留、でもない。


知りたい。


自分に選択肢があるのかを、知りたい。


リュミエルが静かに言った。


「十分」


「ああ」


俺は頷く。


「今は、それで十分だ」


紙片に最後の管理通知が浮かぶ。


――本人意思確認、一部成立。


――状態:選択肢確認希望。


選択肢確認希望。


また、保留に近い。


でも、少し違う。


その子はまだ止めたい。


けれど、止める以外を知りたい。


つまり、次にやるべきことは決まった。


帰還を迫ることではない。

残留を認めることでもない。


選択肢を見せること。


止め続ける。

一時的に代替栞へ預ける。

保留する。

帰る。

誰かと交代ではなく、道具に一部機能を移す。


その選択肢を、本人に提示できるようにする。


人間ではない栞を作った意味が、ようやく形になった。


「次は」


俺は言った。


「栞の子に、選択肢を届ける」


フィン先生の声が通信石から返る。


『その通りだ』


「でも、今日はここまで」


リュミエルが即座に言った。


「分かってる」


「本当に?」


「本当」


俺は紙片を見る。


もう光はない。


だが、声は残っている。


まだ、止めたい。


でも、止める以外を、選べるか知りたい。


その言葉を、俺は忘れない。


勝手に続きを書かない。


勝手に救わない。


勝手に帰さない。


まず、選択肢を用意する。


それが、編集者の仕事かどうかは分からない。


でも、今の俺がやりたいことではある。


そして。


降りる権利を持ったままでも。


もう少しだけ、この仕事を続けたいと思った。

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