第47話 名前で呼び返せ
翌朝。
特異職科の教室には、奇妙な緊張感が漂っていた。
黒板には七人分の現在記述が並んでいる。
【リュミエル・アークレイン】
私は器ではない。
私は、自分で選ぶ自由を望む者。
【アキト・アオキ/青木明登】
俺は異物ではなく、人間だ。
勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす編集者である。
【ミラ・クロウ】
私は影に隠れる獣ではない。
私は、仲間に逃げ道を残す斥候。
【トーヤ・ラインハルト】
俺はただの盾ではない。
守る相手が選べる盾だ。
【セリア・フレイムロード】
私は燃えるだけの魔術師ではない。
私は、自分の炎を自分の意思で制御する者。
【ノルン・エルシア】
私は沈黙したままの治癒師ではない。
震えても、命のために声を上げる治癒師になる。
【レオン・グランベル】
俺は神の剣ではない。
俺は、自分の剣と罪を問い直すレオン・グランベルだ。
そして、黒板の端にはもう一つ。
【ナツキ・シノハラ】
私は、まだ終わっていない。
それは現在記述ではない。
本人がここで書いた言葉ではないからだ。
けれど、彼女が記録の裏側に残した言葉だった。
消された脚本家が、まだ物語の続きを諦めていない証。
俺――アキト・アオキは、その一文を見るたびに胸の奥が熱くなった。
「では、始める」
フィン先生が教卓を叩いた。
今日の先生は、いつもの黒すぎる茶を持っていない。
つまり、わりと本気だ。
いや、持っていても本気の時はあるのだが、持っていないとさらに怖い。
「今日の訓練は、校閲防御の基礎だ」
「校閲防御……」
俺が呟くと、先生は頷いた。
「転生者狩りの術式は、対象を役割へ戻そうとする。器、勇者候補、沈黙した治癒師、燃える魔術師、盾、影の獣。そういう単純な記述で相手を固定する」
フィン先生は黒板の名前を一つずつ指す。
「なら、こちらは名前で呼び返す」
ミラが窓枠で足をぶらぶらさせながら言った。
「名前で呼ぶだけで防御になるの?」
「ただ呼ぶだけなら弱い」
先生は言った。
「だが、その相手が今どういう人間なのか、何を選んだのか、何に抗っているのかを理解して呼ぶなら、それは記述になる」
リュミエルが静かに補足する。
「相手を役割ではなく、現在の本人として認識し直す。校閲は“古い役割”に戻そうとする術式だから、周囲の認識も抵抗の補助になる」
「周囲の認識……」
ノルンが小さく呟いた。
「つまり、一人で自分を保つだけじゃなくて、周りもその人をその人として見ている必要があるんですね」
「そうだ」
フィン先生が頷いた。
「相手が自分を見失った時、周囲が名前を呼び、現在記述を返す。それが今回の訓練だ」
セリアが腕を組む。
「なんか、変な暗記テストみたいね」
「実際、暗記も必要だ」
「え、本当に?」
「お前ら全員、互いの現在記述を覚えろ」
教室に微妙な沈黙が落ちた。
ミラが口を尖らせる。
「えー、長いやつあるよ?」
視線が俺に集まった。
「俺か?」
「アキトのやつ、ちょっと長い」
「仕方ないだろ。俺の人生がややこしいんだ」
「自分で言う?」
「言う」
レオンが黒板を見ながら言った。
「たしかに長いが、意味は分かる」
「レオンにそう言われると複雑だな」
「どういう意味だ」
「いや、何でもない」
セリアがぼそりと言う。
「レオンのも地味に重いわよ」
レオンは視線を逸らした。
「事実だからな」
その言い方が、以前より少しだけ柔らかい。
レオンはまだ不器用だ。
でも、自分の罪を言葉にした。
そこから逃げていない。
フィン先生がチョークを置いた。
「最初は口頭確認だ。相手の名前と現在記述を言う。間違えたらやり直し」
「本当に暗記テストじゃないですか」
「命のかかった暗記テストだ」
「急に重い」
「最初から重い」
反論できなかった。
最初に指名されたのは、なぜか俺だった。
「アキト。リュミエルの現在記述」
「はい」
俺はリュミエルを見る。
彼女は無表情を装っているが、少しだけ耳の先が赤い。
俺は、ゆっくり言った。
「リュミエル・アークレイン。君は器ではない。自分で選ぶ自由を望む者だ」
リュミエルの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
俺は続ける。
「そして、俺を止めてくれる者でもある」
「それは現在記述に入っていないわ」
「俺の中では入ってる」
言った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。
ミラがにやにやする。
「おおー」
セリアも口元を押さえている。
ノルンはなぜか嬉しそうだ。
レオンは微妙に気まずそうな顔をしている。
リュミエルは、少しだけ視線を逸らした。
「……余計な追加だけれど、間違ってはいないわ」
「合格ですか」
フィン先生を見ると、先生は腕を組んだまま言った。
「言い方は甘いが、意味は通っている。合格」
「甘いって何ですか」
「自覚しろ」
したくない。
次はリュミエルだった。
「リュミエル。アキトの現在記述」
リュミエルは俺を見る。
正面から。
「アキト・アオキ。青木明登」
その二つ目の名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。
前世の名前。
隠していた名前。
神に暴かれた名前。
でも、リュミエルの声で呼ばれると、不思議と傷のようには感じなかった。
「あなたは異物ではなく、人間」
リュミエルは静かに続ける。
「勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす編集者」
そこで一度、彼女は言葉を止めた。
「そして、時々無茶をするので、止める必要がある人」
教室が少し笑った。
俺は額を押さえた。
「それ、現在記述に入ってない」
「私の中では入っているわ」
仕返しされた。
フィン先生が頷く。
「合格」
「そこも合格なんですか」
「事実だからな」
厳しい世界だ。
その後、順番に訓練が進んだ。
ミラはトーヤの現在記述を意外なほど真面目に言った。
「トーヤ・ラインハルト。君はただの盾じゃない。守る相手が選べる盾。あと、重いけど、ちゃんと優しい」
「重いのは盾か?」
トーヤが真面目に聞く。
「存在が」
「そうか」
納得するのか。
トーヤはミラの記述を読む時、少しだけ言葉に詰まりながらも、しっかり言った。
「ミラ・クロウ。君は影に隠れる獣ではない。仲間に逃げ道を残す斥候だ。俺は、その逃げ道を守る」
ミラは一瞬だけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに笑った。
「トーヤくん、そういうの真顔で言うからずるいよね」
「ずるいのか?」
「ずるい」
「分かった」
「分かるんだ」
ノルンはセリアの記述を読み上げた。
「セリア・フレイムロード。あなたは燃えるだけの魔術師じゃない。自分の炎を自分の意思で制御する者」
ノルンは少し迷ってから続けた。
「あと、怖いけど、本当は優しい」
セリアの顔が一気に赤くなった。
「なっ、何を言ってるのよ!」
「ご、ごめん。でも本当にそう思って……」
「謝らなくていいけど、そういうのをみんなの前で言わないで!」
ミラがにやにやする。
「火の人、顔まで燃えてる」
「燃やすわよ!」
「ほら、制御制御」
「くっ……!」
セリアは深呼吸した。
そして、ノルンの記述を読む。
「ノルン・エルシア。あなたは沈黙したままの治癒師じゃない。震えても、命のために声を上げる治癒師になる」
セリアは少しだけ目を逸らした。
「……もう、なってると思うわ」
ノルンの瞳が潤んだ。
「セリアちゃん……」
「泣かないで。私が悪いみたいでしょ」
「悪くないよ」
「そういうところよ」
それを見て、俺の胸にも温かいものが残った。
次はレオンだった。
彼は黒板の前に立ち、ノルンの現在記述を見た。
少しだけ沈黙する。
そして言った。
「ノルン・エルシア。君は沈黙したままの治癒師ではない。震えても、命のために声を上げる治癒師になる」
ノルンが息を止めた。
レオンは続けた。
「俺は、その声を聞ける人間になりたい」
教室が静かになった。
ノルンは、泣きそうな顔で笑った。
「……うん」
レオンは少し気まずそうに目を逸らす。
セリアが小声で言った。
「レオン、変わったわね」
「聞こえている」
「聞こえるように言ったのよ」
レオンは反論しなかった。
その後、レオンは俺の現在記述も読んだ。
「アキト・アオキ。青木明登。お前は異物ではなく、人間だ。勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす編集者である」
そこで少し止まる。
「そして、俺をただの勇者候補として見なかった男だ」
俺はレオンを見る。
「それも入るのか」
「俺の中では入っている」
リュミエルと同じ返しをされた。
少し悔しい。
でも、悪くなかった。
タイムラインが淡く光る。
【相互記述確認】
全員が互いの現在記述を音声化しました。
記録しますか?
「記録」
【記録完了】
新規補助候補:
【名前呼び防御 Lv.1】
効果:
仲間が役割固定・校閲誘導を受けた際、本人名と現在記述を呼び返すことで抵抗補助が可能。
制限:
本人との関係性ログが必要。
虚偽または押し付けの記述では効果低下。
「名前呼び防御……」
俺が呟くと、ミラが笑った。
「そのまんまだね」
「でも分かりやすい」
トーヤが真面目に言う。
「名前を呼ぶのは大事だ」
「そうだな」
俺は頷いた。
転生者狩りは役割で呼ぶ。
俺たちは名前で呼ぶ。
単純だけど、それが一番強いのかもしれない。
フィン先生が訓練板を取り出した。
「では実践だ」
「実践?」
嫌な予感がした。
「記述釘の残骸を使う」
「先生、正気ですか」
「正気だ。残骸の反応はかなり弱い。制御下で使う」
「制御下って言って事故るやつじゃないですか」
「だから俺がいる」
頼もしいような、信用しきれないような。
リュミエルが俺を見る。
「危険なら止めるわ」
「俺を?」
「全員を」
「それなら安心」
フィン先生は記述釘の破片を、封印円の中央へ置いた。
赤黒い文字は、すでにほとんど消えている。
だが、微弱な反応は残っていた。
「今回は、誰に反応するか分からん。だから全員、互いの名前を呼ぶ準備をしろ」
教室の空気が引き締まる。
俺はタイムラインを構えた。
「編集操作」
青い視界の中で、記述釘の残骸がぼんやりと光る。
フィン先生が封印円を起動した。
赤黒い糸が、細く伸びる。
今度の対象は。
ノルンだった。
「っ……!」
赤黒い糸が彼女の胸元へ向かう。
【沈黙した治癒師】
【黙れ】
【神殿に従え】
【証言するな】
【治すだけでよい】
ノルンの顔が青ざめた。
聖印を握る手が震える。
「ノルン!」
俺が叫ぶより早く、セリアが前に出た。
「ノルン・エルシア!」
その声は鋭かった。
「あなたは沈黙したままの治癒師じゃない!」
トーヤも続く。
「震えても、命のために声を上げる治癒師だ!」
ミラが窓枠から飛び降りる。
「ノルンちゃん、黙らなくていい!」
レオンが低く、はっきり言った。
「ノルン。君の声を聞く」
リュミエルが星の結界を張る。
「ノルン・エルシア。戻って」
俺はタイムラインを通して、現在記述を呼び出す。
【名前呼び防御 Lv.1】
対象:
ノルン・エルシア
敵性記述:
沈黙した治癒師
本人記述:
震えても、命のために声を上げる治癒師になる。
相互呼称:
成立
実行しますか?
「実行!」
青白い光がノルンを包む。
赤黒い糸が、彼女の胸元で止まる。
ノルンは震えていた。
でも、逃げなかった。
彼女は小さく息を吸い、声を出した。
「私は……沈黙したままの治癒師じゃない」
赤黒い文字が揺らぐ。
「震えても……命のために、声を上げる治癒師になる!」
その瞬間、赤黒い糸が弾けた。
記述釘の残骸が、封印円の中で小さく砕ける。
【名前呼び防御に成功しました】
【校閲誘導を無効化】
ノルンはその場に膝をついた。
セリアがすぐに支える。
「大丈夫?」
「うん……怖かった」
「よく言えたわ」
「みんなが呼んでくれたから」
ノルンは涙を浮かべながら笑った。
「私、戻ってこられた」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
名前を呼ぶ。
たったそれだけ。
でも、あの赤黒い糸を止めた。
フィン先生が封印円を確認し、頷いた。
「成功だ」
「危なかったですけどね」
俺が言うと、先生は平然と答えた。
「危ない訓練だから意味がある」
「特異職科だなあ……」
ミラが呟く。
今回は全員が頷いた。
タイムラインが新しい表示を出す。
【名前呼び防御 Lv.1】を習得しました。
効果:
役割固定、校閲誘導、単独行動誘導に対し、本人名と現在記述を用いた抵抗補助が可能。
条件:
本人記述の登録。
相互認識ログ。
対象者本人の意思。
注意:
本人の意思を代替することはできません。
俺はその注意書きを見て、小さく頷いた。
やっぱり、最後は本人の意思だ。
俺たちは呼び返せる。
支えられる。
でも、代わりに選ぶことはできない。
それでいい。
その線を越えないことが、俺たちの強さになる。
訓練が終わる頃には、全員が少し疲れていた。
だが、昨日より空気は明るかった。
怖いものの正体が少し見えたからかもしれない。
対抗策が一つできたからかもしれない。
ノルンが泣きながらも笑えたからかもしれない。
俺は黒板を見た。
七人の名前。
現在記述。
そして、ナツキの一文。
【私は、まだ終わっていない】
その言葉が、今は前より少し強く見えた。
「アキト」
リュミエルが隣に立つ。
「今夜、旧地下聖堂の下見ね」
「ああ」
「怖い?」
「怖い」
「よろしい」
「怖がってるのに、よろしいなのか」
「怖いと分かっている方が無茶をしにくい」
「最近、それにも慣れてきた」
「いい傾向ね」
彼女は少しだけ笑った。
その時、窓の外で鐘が鳴った。
夕刻を告げる鐘。
旧地下聖堂の下見まで、あと数時間。
相手は七日目を指定した。
だが、こちらは今夜動く。
出頭ではない。
調査だ。
転生者狩りの台本を、そのまま読むつもりはない。
フィン先生が黒板の端に書いた。
【今夜】
旧地下聖堂・外部下見
目的:第二断片の所在確認/罠の把握
禁止:単独行動/深追い/即時突入
「深追い禁止」
リュミエルが俺を見ながら言った。
「分かってる」
「本当に?」
教室の全員がこちらを見る。
俺は両手を上げた。
「本当に。今日は下見だけ」
フィン先生が低く言った。
「その言葉、記録しておけ」
タイムラインが勝手に光った。
【行動誓約ログ】
アキト・アオキは、今夜の旧地下聖堂下見において、単独行動・深追い・即時突入を行わない。
記録しますか?
「……記録します」
【記録完了】
ミラが爆笑した。
「タイムラインにも信用されてない!」
「うるさい」
でも、少し笑えた。
笑えるうちは、大丈夫だ。
夜が来る。
旧地下聖堂の闇が、王都の下で口を開けて待っている。
そこにナツキの結末はない。
でも、第二断片はある。
神の台本と、転生者狩りの赤い校閲線。
その交差点を、俺たちは見に行く。
名前を呼び合う準備はできた。
あとは、闇の中で自分たちを見失わないことだ。




