第33話 保留という名の勝利
神殿査問会は、終わった。
いや、正確には終わっていない。
結論は、保留。
俺――アキト・アオキは、王立アルカディア魔導学園の回廊を歩きながら、その言葉を何度も頭の中で転がしていた。
保留。
無罪ではない。
潔白でもない。
神殿が俺を認めたわけでもない。
ただ、今日この場で拘束されることはなくなった。
職業【編集者】を封印されることもなかった。
神の台本に、ほんの少しだけ余白ができた。
それだけだ。
でも。
それだけで、今の俺には十分すぎるほど大きかった。
「歩けている?」
隣から、リュミエル・アークレインが声をかけてきた。
「一応」
「一応?」
「足は動いてる。でも魂は半分くらい講堂に置いてきた」
「回収しに戻る?」
「絶対に嫌だ」
即答した。
あの大講堂には、できれば二度と戻りたくない。
神官たちの視線。
査察官の冷たい声。
神託の蒼い光。
俺の前世の名前を呼んだ、あの声。
思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。
神。
この世界の神は、実在した。
少なくとも、神と呼ばれる何かは、俺たちの前に現れた。
そして俺を見ていた。
青木明登として。
アキト・アオキとして。
台本外の編集者として。
「……マジで、なんなんだよ」
小さく呟く。
リュミエルがこちらを見る。
「神のこと?」
「ああ」
「私にも分からないわ」
「リュミエルでも?」
「ええ。私は神の器として育てられたけれど、神そのものを理解しているわけではない」
彼女は右手首をそっと押さえた。
袖の下には、まだ【神約の呪印】がある。
査問会で、神は彼女を「器」と呼んだ。
あの瞬間、彼女の呪印は蒼く光り、彼女は痛みに膝をついた。
それでもリュミエルは、自分の言葉で答えた。
自分で選ぶ自由が欲しい、と。
その姿を思い出すと、胸の奥が静かに熱くなる。
「リュミエル」
「何?」
「さっきはすごかった」
「何が?」
「神に、自分で選ぶって言ったところ」
リュミエルは一瞬だけ目を伏せた。
「……震えていたわ」
「それでも言った」
「怖かった」
「それでも言った」
リュミエルは黙った。
少しだけ、耳の先が赤い。
「あなたも、神に断っていたでしょう」
「あれは勢いだ」
「勢いで神に逆らうのは、相当危険ね」
「自分でもそう思う」
「反省している?」
「してる」
「後悔は?」
俺は少し考えた。
神託編集官。
神は俺に、その肩書きを与えようとした。
外れ職ではなく、神殿側の特別な役職として、俺を書き換えると言った。
たぶん、受け入れていたら楽だった。
少なくとも、今より安全だったかもしれない。
でも、あの道の先にいる自分を想像した瞬間、背筋が凍った。
俺は、人に貼られた理不尽を剥がしたい。
なのに、神の側で理不尽を貼る人間になってどうする。
「後悔は、ない」
俺は答えた。
「怖いけど」
リュミエルは、ほんの少しだけ笑った。
「なら、いいと思う」
その言葉に、少しだけ救われた。
特異職科の校舎へ戻ると、教室にはすでに人が集まっていた。
フィン先生は教卓に寄りかかって、いつもの黒すぎる茶を飲んでいる。
ミラは窓枠に座り、尻尾を大きく揺らしていた。
トーヤは盾を壁に立てかけ、静かに俺たちを見ている。
ノルンは椅子に座り、まだ少し青い顔をしていた。
セリアは腕を組んだまま、落ち着きなく足を鳴らしている。
全員がこちらを見た。
一瞬の沈黙。
それからミラが、ぱん、と手を叩いた。
「はい、生還おめでとー!」
「軽いな」
俺は思わず言った。
「軽くしないと重すぎるでしょ。神が出てきたんだよ? 普通に胃もたれ案件だよ」
「胃もたれで済むのか」
「済まないね」
ミラはにっと笑った。
その軽さがありがたかった。
ノルンが立ち上がる。
「あ、アキトくん……大丈夫?」
「何とか」
「レオンも、さっき治療棟に戻ったよ。喉の負担はあるけど、魔力回路は大丈夫そう」
「そっか」
俺は小さく息を吐いた。
レオン。
査問会で、彼は自分の言葉で言った。
俺は神の剣じゃない。
俺はレオン・グランベルだ。
あいつがあんなことを言う日が来るとは思わなかった。
許したわけではない。
昨日まで、ずっとそう思っていた。
今もそうだ。
でも、今日のレオンの言葉は、確かに何かを変えた。
俺の中のレオンの見え方も。
そして、たぶんレオン自身も。
セリアが俺を見る。
「ねえ」
「何?」
「あんた、神に神殿の道具にはならないって言ったわよね」
「ああ」
「馬鹿なの?」
「急に辛辣だな」
「褒めてないわよ」
「分かってる」
セリアは、ふん、と鼻を鳴らした。
「でも、まあ……少しだけ、見直した」
「少しだけか」
「大幅に見直したら調子に乗るでしょう」
「乗らないけど」
「どうかしら」
彼女の言い方は相変わらず刺々しい。
でも、以前のように俺を見下す感じはない。
むしろ、照れ隠しのようにも見える。
ミラがにやにやしていた。
「火の人、素直じゃないねえ」
「燃やすわよ」
「今日それ言うと、神託試問より怖くない?」
「うるさい!」
少しだけ、教室に笑いが生まれた。
その笑いを聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
ああ。
帰ってきたんだ。
神殿の大講堂から。
神の蒼い光の下から。
俺は、この変な教室に戻ってきた。
フィン先生がカップを置いた。
「さて」
その一言で、教室が静かになる。
「浮かれるのはここまでだ」
「浮かれてました?」
俺が聞くと、先生は真顔で言った。
「死刑台から降りた直後の人間にしては、だいぶ浮かれている」
「例えが重い」
「状況が重いからな」
それはそう。
フィン先生は黒板に大きく書いた。
【査問会結果】
・神託試問発生
・判定保留
・アキトの即時拘束なし
・職業封印なし
・学園監督下で仮保護継続
・神殿の警戒度、最大級に上昇
最後の一行が重すぎる。
「最大級ですか」
「最大級だ」
「もうちょっと柔らかく言うと?」
「かなりまずい」
「柔らかくない」
フィン先生は続ける。
「今日の結果は、一見すると勝利だ。少なくとも、神殿はお前をその場で拘束できなかった。神も封印しなかった」
「はい」
「だが、神はお前を認めたわけではない。保留しただけだ」
「分かっています」
「そして最後に言ったな」
俺の背筋が冷える。
神の最後の言葉。
――お前がこれ以上、記述を揺らすなら、次は、神が直接校正する。
校正。
普通なら、文章を直す作業だ。
でも、あの神が言うと意味が違う。
人の職業、称号、記憶、人生。
それを直すという意味に聞こえた。
「神の直接校正」
フィン先生は黒板に書いた。
「これが何を意味するかは分からん。だが、ろくでもないのは間違いない」
「でしょうね」
リュミエルが静かに言う。
「神は、私たちを消すと言ったのではありません。校正すると言った。つまり、存在を消すよりも、役割や記述を書き換える可能性があります」
「それ、かなり最悪じゃないか?」
俺が言うと、リュミエルは頷いた。
「ええ。死ぬより悪い場合もあるわ」
教室の空気が冷える。
ミラの尻尾が止まった。
トーヤの表情も硬い。
ノルンは胸元の聖印を握りしめている。
セリアは唇を噛んでいた。
神が直接校正する。
もしそれが本当に、人の記述を書き換えることなら。
レオンの勇者候補補強。
リュミエルの神約の呪印。
ノルンの沈黙。
セリアの魔術暴走。
俺の外れ職。
それらは、神の校正の一部だったのかもしれない。
いや、まだ断定はできない。
でも、その可能性がある。
「先生」
俺は聞いた。
「神が直接、人の称号や職業を書き換えた記録ってありますか?」
フィン先生は目を細める。
「表向きには、神託による職業授与、称号付与、加護更新の記録はある」
「表向きには?」
「裏の記録は、旧記録保管庫でも封印レベルがもっと高い。今日触れた勇者候補事故記録より上だ」
「つまり、まだ奥がある」
「あるだろうな」
俺はタイムラインを握った。
旧記録保管庫。
勇者候補補強式。
第七版。
神託試問。
神の直接校正。
つながっている。
まだ線は細い。
ところどころ切れている。
でも、確かに同じ方向へ伸びている。
神は、世界を台本として見ている。
職業は役割。
称号は筋書き。
加護は演出。
呪いは修正指示。
死は幕引き。
その言葉を思い出すと、吐き気がした。
「俺たち、これからどうすればいいんですか」
ノルンが小さく言った。
その声には、恐怖があった。
でも、逃げたいだけの声ではなかった。
知りたい。
向き合いたい。
でも怖い。
そんな声だった。
フィン先生は、しばらく黙っていた。
そして、黒板に新しい文字を書いた。
【次の目標】
一、学園内での正式保護体制を作る
二、アキトの特異職科正式所属
三、編集操作の検証と訓練
四、勇者候補補強式の情報収集
五、神の直接校正に関する記録探索
「まずは足場を固める」
先生は言った。
「神と戦うとか、神殿を暴くとか、今の段階で大きく出すぎるな。お前らはまだ弱い」
「はい」
そこは本当にそうだ。
俺は今日、神に勝ったわけじゃない。
ただ、負けなかっただけだ。
レオンも、リュミエルも、みんなでようやく保留まで持ち込んだ。
次に同じことが起きて、生き残れる保証はない。
「アキト」
フィン先生が俺を見る。
「お前は今日から、特異職科の正式所属にする」
「え?」
思わず声が出た。
「仮所属じゃなくなるんですか?」
「ああ。カサンドラ副院長から許可が出た。査問会の結果を受けて、学園監督下で保護するには正式所属の方が都合がいい」
「都合」
「大事だぞ、都合は」
「言い方」
フィン先生は黒板に書き足した。
【アキト・アオキ】
所属:王立アルカディア魔導学園 特異職科 正式所属
その文字を見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
正式所属。
俺に居場所ができた。
外れ職。
追放者。
世界から見捨てられた者。
そんな称号を貼られた俺に、この世界で初めて、正式な居場所ができた。
「……ありがとうございます」
俺は言った。
フィン先生は顔をしかめる。
「俺に礼を言うな。面倒な書類が増えた」
「でも、ありがとうございます」
「しつこい」
そう言いながら、先生は少しだけ目を逸らした。
ミラが笑う。
「新人くん、正式に変人クラスの仲間入りだね」
「歓迎の仕方が雑」
「ようこそ、世界からちょっとズレた人たちの教室へ」
「ちょっと?」
「かなり?」
「そこは少し誤魔化してくれ」
トーヤが真面目に言った。
「俺は嬉しい。アキトがここにいるのは、自然だと思う」
「ありがとう、トーヤ」
ノルンも小さく笑った。
「特異職科、少し羨ましいかも」
「神聖科は?」
「今は……少し、複雑」
その言葉には、深い迷いがあった。
神殿への信頼が揺らいでいる。
でも、神聖科で学んできたこと、治癒師としての誇り、家族の事情。
簡単に切り替えられるものではない。
俺は言った。
「無理に決めなくていいと思う」
ノルンは驚いたように俺を見る。
「今すぐ神殿を嫌いにならなくてもいいし、信じ続けなきゃいけないわけでもない。見たものを、一つずつ考えればいい」
ノルンの表情が少し緩んだ。
「うん」
セリアが腕を組んだまま言う。
「で、私は?」
「何が?」
「私は特異職科じゃないけど、今日だいぶ巻き込まれたじゃない」
フィン先生が即答した。
「お前は剣術科に戻れ」
「冷たくない?」
「お前は剣術科の生徒だ。戻って、レオンの様子を見ろ。あいつも今日からかなり難しい立場になる」
セリアの表情が少し真剣になる。
「……そうね」
レオンは神の前で、自分は神の剣ではないと言った。
勇者候補として、それはかなり危険な発言だ。
剣術科でも、神殿でも、彼を見る目は変わるだろう。
「アキト」
セリアが俺を見る。
「レオンは、まだ素直じゃないと思う」
「知ってる」
「たぶん、謝るのも下手」
「それも知ってる」
「でも、あいつは今日、自分で言ったわ」
「ああ」
セリアは少しだけ視線を落とした。
「だから、見捨てないでとは言わない。でも、完全に切らないであげて」
俺は少し黙った。
完全に切らないで。
それは、セリアなりの願いだった。
レオンを許せと言っているわけではない。
ただ、可能性まで切らないでほしい。
俺はゆっくり頷いた。
「分かった。完全には切らない」
「ありがとう」
セリアが小さく言った。
珍しく、素直だった。
ミラがそれを見てにやにやする。
「火の人、今日けっこう素直だね」
「今だけよ」
「限定版?」
「うるさい!」
やっぱりいつものセリアだった。
その時、タイムラインが淡く光った。
【システム表示】
神託試問の記録を整理中。
取得称号候補:
【保留された異端】
【神託に抗った編集者】
【台本に注釈を入れた者】
称号を選択してください。
「……称号候補が出た」
俺が呟くと、全員がこちらを見る。
「何て?」
ミラが聞く。
「保留された異端、神託に抗った編集者、台本に注釈を入れた者」
ミラが吹き出した。
「保留された異端って、響きが最悪すぎる」
「俺もそう思う」
セリアが言う。
「神託に抗った編集者は強すぎるわね。神殿に見られたら即アウトじゃない?」
「確かに」
トーヤが真面目に考える。
「台本に注釈を入れた者、が一番アキトらしいと思う」
ノルンも頷いた。
「うん。優しい感じがする」
リュミエルが静かに言った。
「私も、それがいいと思うわ」
「理由は?」
「あなたは今日、神の台本を破りきったわけではない。でも、ただ従ったわけでもない。注釈を入れた。別の読み方を示した」
フィン先生も頷く。
「実態に合っている。危険度も比較的低い」
「危険度で称号選ぶの、なんか嫌ですね」
「生き残るためだ」
それはそう。
俺は視界の表示を見た。
【台本に注釈を入れた者】
派手すぎない。
でも、今の俺には合っている。
神の台本を書き換えるには、まだ遠い。
でも、注釈なら入れた。
人は一つの役割だけでは語れない。
リュミエルの答えはリュミエルが選ぶ。
レオンは神の剣である前にレオンだ。
その注釈を、俺たちは確かに書いた。
「これにする」
俺は【台本に注釈を入れた者】を選択した。
【システム表示】
称号:
【台本に注釈を入れた者】を取得しました。
効果:
複数視点の解析精度が上昇。
神殿式の単一記述化に対する抵抗が微増。
一部の神殿関係者からの警戒度が上昇。
「最後の効果、いらないなあ……」
思わず呟く。
ミラが笑った。
「でも、もう上がるとこまで上がってるんじゃない?」
「それはそれで嫌だ」
リュミエルが少しだけ微笑む。
「でも、似合っているわ」
「称号が?」
「ええ」
彼女は黒板を見る。
【アキト・アオキ】
所属:王立アルカディア魔導学園 特異職科 正式所属
その横に、フィン先生が新しく書き足した。
【称号:台本に注釈を入れた者】
「なんか、公開処刑みたいですね」
俺が言うと、フィン先生は言った。
「特異職科では、称号はだいたい晒される」
「嫌な文化」
「慣れろ」
慣れたくない。
けれど、その黒板の文字を見ていると、少しだけ胸が温かくなった。
俺の名前。
所属。
称号。
神に勝手に貼られたものではない。
自分で選び、仲間と一緒に積み上げたものだ。
その時、校舎の外で鐘が鳴った。
夕方を告げる鐘。
長い一日が、ようやく終わろうとしている。
フィン先生が言った。
「今日はここまでだ。全員、休め」
「明日からは?」
俺が聞くと、先生はにやりと笑った。
「お前の訓練を本格的に始める」
「休ませる気、あります?」
「今日は休ませる」
「今日は」
「明日からは地獄だ」
「言い方」
ミラが楽しそうに笑う。
「新人くん、正式所属初日から地獄だって」
「歓迎会が地獄なのか」
トーヤが真面目に言う。
「訓練なら付き合う」
セリアも肩をすくめる。
「必要なら、魔法訓練くらい見てあげるわ」
ノルンも小さく言う。
「疲れたら治癒するね」
リュミエルは静かに言った。
「無茶をしたら止めるわ」
俺はみんなを見た。
変な教室。
変な仲間。
危ない状況。
神に目をつけられた最悪のスタート。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
俺は、小さく笑った。
「よろしくお願いします」
ミラが手を叩く。
「はい、正式加入いただきましたー!」
セリアが呆れる。
「軽いわね」
トーヤが微笑む。
ノルンがほっとしたように笑う。
リュミエルが、ほんの少しだけ目を細める。
フィン先生は黒すぎる茶をすすりながら言った。
「ようこそ、特異職科へ。アキト・アオキ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが静かに沈んだ。
居場所。
たぶん、それに近いものだった。
追放された最弱編集者は、神の台本を書き換えるにはまだ遠い。
でも。
今日、ようやく最初のページに、自分の名前を書いた。




