第四十二譜 最後の笑み
「え――」
【隷獣】が言葉を話した。それだけではない、確かな視線と共に放たれたその内容。
――共に、父たるテュフォネ様。
手足があればまるで傅いた様に敬意を示す【ポルタ・カデラ】に、エトナの身体は一瞬で強張った。
五つの赤い眼差しは、鋭く、そして痛く彼女の心を削ってくる。今や自分の息が荒くなっていることすらエトナは気付いていない。
「あ……、わた……し。うっ……!!」
「ダメだエトナ! 耳を傾けるな!」
最愛の人の焦った声すらも、もはや届いていない。息は途切れ途切れで、顔は青白く、手足は血が通っているのかすら分からないほど冷たい。
【隷獣女】。物心ついた頃から蔑まれてきた彼女の心の傷が再び、剥がれようとしている。
「こ、の……! まさか、ここでコイツらが来るなんて……! 最悪だ……! エトナ、しっかり気を強く持つんだ! 大丈夫、君のせいじゃない!」
――【ポルタ・カデラ】。【五ツ眼】でありながら、【隷獣】としての暴力性は皆無。耐久性も無く、〈魔力〉・〈気力〉でも破壊可能なほど柔らかい。
しかし、凶悪性という点で言えば【隷獣】随一。その固有能力は【トラウマ】の再生だ。
人が背負った業・過去の傷を過剰に再生させ、心を破壊させにくる悪辣性のみを追求したその生態。そこに【隷獣】の特性たる生理的嫌悪の精神汚染が重なれば――
「あ、あぁぁぁぁ゛あ゛!!」
「あはははははは!! みんなみんなしんじゃったー!!! あたしもはやく、そっちいこーっと!!」
「ぎゃああああああ!!」
この世でトラウマを抱えていない大人はきっと〈道導〉だけだろう。ヨハンたち〈雷霆〉ですらそれを抱えている。
【アラクネア】の討伐可能階位は〈燼火級〉。本来であれば、〈雷霆〉が一撃で倒されるレベルじゃない。しかし、【ポルタ・カデラ】によってトラウマが過剰再生され、動きが鈍ったのならば話は別だ。
そして今のこの場に〈雷霆〉よりも強靭な者はいない。気の狂った悲惨な叫び声が連唱され、それぞれが自分の死を選ぶ。
やがて悲鳴はなくなり、痛い程の沈黙がエトナの傷を更に広げた。
「そん、な……。違う、私のせいで――」
アッシュが必死になって自分と目を合わせようとするも、効果はない。彼女の赤い瞳からは焦点が合わず、その脳裏には傷付けられてきた言葉が再生されていた。
――お前がいなければ。――穢らわしい。――何で生きてるの? ――早くくたばれよ。――お前がいるから【隷獣】は……
人が苦しみ、街が壊れ、滅亡へと至る可能性。それが全て自分のせいだとエトナは思い込んでしまう。
冷たいだけだった血が今では沸騰するような感覚へと変わり、自分が自分じゃなくなる感覚、作り替えられていくようにすら感じる自分に恐怖する。
そんな中、まるで見守るように動かない【ポルタ・カデラ】。それすらも自分自身をそうと認識させてしまう要因となり、精神がボロボロに崩れていく。
――ならもう、せめて責任だけでも……と、自分の手で首を絞めようとしたその時。
「それだけは絶対にさせないよ」
ガシッと、アッシュがエトナの手をぎゅっと握りしめる。そのまま、いつかの日と同じように自分の鼓動をエトナに聞かせた。
ここにいる、ここにいていい――と思わせてくれる、温かく穏やかな最愛の音。依存にも似た、アッシュへの独占欲・執着心がひび割れた彼女の心を繋ぎ止めた。
「あっ、しゅ……」
「大丈夫、そんなことしなくてもこれは君の責任じゃない。エトナはちゃんと人間だよ」
「そんな、気休め……! だって……現に今……」
「気休めじゃない。【隷獣】じゃないってのはちゃんと証明されてるでしょ。それにあの【隷獣】が見ているのは君じゃなくて、僕の方だ――」
え、と声にならない音がアッシュの耳に届く。
そのたった一音にアッシュは悲しげに笑って、エトナから体を離した。
「本当、セヴァドス様が立ち直ってくれて良かったよ。〈天蓋〉があるなら、手を離してもエトナは生きられる」
「アッシュ、何を言って……」
「『出来ることがあるのにやらないのは罪』。彼に送った言葉を僕も実行するだけだよ」
目を合わさず、独り言のように告白する。
「あまり知られていないんだけどね、僕のヴェンタスって名前。これって〈道導〉の一人、ルシアの名前でもあるんだ。で、彼女たちに〈外界〉で拾われた僕は、ルシアの母親であるオルガのお婆ちゃんに人間になれるように育ててくれた」
大事な思い出と言わんばかりに楽しげに語るアッシュ。場違いとは分かっていても、こうなったからには思い出さずにはいられなかった。
首につけられたチョーカーにアッシュは手を伸ばす。
彼の言葉を察し、理解したくないエトナだが、そこでアッシュについてのことが強制的に想起され関連づけられる。
――人当たりが良く、瞳の色も普通で、なんでも出来るアッシュが人々から嫌われていた理由は?
『正論野郎』は嫌いと見做せる理由であって、嫌いになる理由じゃない。アッシュの嫌われ方はそう、【隷獣】の生理的嫌悪と同じだった。
――人として当然。人間ならと正論を吐く時にアッシュが口にした客観的な言葉。
あれが、人間を真似ているものから出た言葉だとしたら?
――アッシュがオルガからチョーカーを貰った日は?
【噴火期】が近く、【邪気】が濃くなった頃だ。抑えられなくなった、と考えられないか?
――アッシュに【隷獣】の精神汚染が効いていた素振りが今までなかったのは?
否定したい材料がそのまま肯定を促してくる。
「エトナのことを愛しているのは事実だし、一目惚れしたのも本当だ。……でも、結果的に隠れ蓑にしちゃったのは、ごめんね。これだけはちゃんと謝っとくよ」
「……嘘」
「あぁ、本当に最悪だ。ここで言うこれが最後になるなんて思わなかったな。エトナ、僕は君を――――」
チラリとエトナを見て、すぐに正面を向くアッシュ。
信じられないといったエトナの掠れ声を聞きながら、アッシュは【ポルタ・カデラ】を睨む。その瞳は、かつてないほど冷酷で鋭い。
「まったく、僕は最後まで人間でいたかったのに。余計なことしてくれるよ」
「【これはこれは、おかしなことを言う。確かに生態的に人間であれ、テュフォネ様から直接【邪気】を注がれた貴方様が人間であるはずないでしょう。貴方様は我々と同じです。さぁ、共に人類を滅ぼす使命を果たしましょう。その為に、貴方様は特別に【邪気】を授けられたのですから】」
「そうだね。――けど、それは【僕のこの怒りをぶつけてからだ】」
チョーカーを勢いよく外し、爆発的に膨れ上がった禍々しい紫色の〈気力〉を放ちながら、アッシュは【ポルタ・カデラ】を一撃で粉砕。
路傍の石を蹴飛ばすが如き呆気なさで【五ツ眼】を破壊したアッシュはそのまま、一人では決して戦えない敵である【アラクネア】と対峙した。
「【流石に、このままじゃ戦えないな】」
錆びた血が酸化し、黒く染まった様な黒紫の【邪気】がアッシュを包み込む。【ポルタ・カデラ】が言った通り『生態的に人間』が、そうさせているのか毒の様な効果はそこにはない。
けれど、強烈に増していく嫌悪感が『そう』だとエトナに突きつけてくる。
渦巻いていた黒紫の【邪気】が勢いよく晴れる。そこから現れたアッシュはもう、エトナが見ていたアッシュではなかった。
仮面のように紫白銀の外殻が顔の全体を覆い隠し、青みがかった黒髪は銀灰色へと変わり背中まで伸びている。いつもエトナと繋いでいたあの両腕は、人の肌は失われ【隷獣】の外殻と同じ紫白銀に硬質化。地に着くほど長く大木の様に太くなり、爪は刃の如く鋭くなっている。脚も同様だった。
なによりその瞳だ。青灰色だった瞳は真っ赫に染まって、額にもう一つ赫い瞳が生まれていた。
三つの赫い眼――【三ツ眼】の特徴だ。けれど、放たれる威圧感と嫌悪感は【六ツ眼】に劣っていない。
三つの眼光は【アラクネア】を貫きそうなほど鋭く、鉤爪の如き両手両足で地面を掴むアッシュは力を溜めに溜めている様だった。
そして、仮面の下部が牙の様に開口し、アッシュが言う。
「【次は、お前だ】」
それが合図。蓄え続けた力、四足歩行としての加速力が体当たりとして【アラクネア】に激突し、その巨体を勢いよく後方へと吹き飛ばした――




