第131話 ねこのここねこ
獣人地区の猫の村。
セリカにはケイカ村へ毒対策に向かってもらった。
サイクロプスを倒した俺は小屋へ戻ろうとした。
すると中から二十歳ぐらいの華奢な猫の女性が出てきた。髪は白く、頭の上の尖った耳は黒い。手足は長く、肌は雪のように白い。手の先だけが黒い毛で覆われていた。胸もそこそこ大きく、気品あふれる女性だった。
シャム猫の獣人だろうと俺は思った。
彼女はしなを作りながら歩いてくる。年に似合わない妖艶さ。
「初めまして、勇者さん。チシャと言います。お会いできて光栄ですわ。しかも命を助けていただいて。本当にありがとうございます」
「珍しい猫だな。初めて見た」
「あら、ありがとう。チシャはとても高貴な血筋ですのよ」
俺の傍まで来ると肩に両手を置いてしなだれかかってきた。香水のようなよい香りがする。
「そいつはどうも。会ったばかりなのに、大胆だな」
「ふふっ、獣人は強い男に、惚れてしまうものですのよ」
チシャはそう言うと、美しい唇を赤い舌で舐めた。そして俺の首筋に音を立てて吸い付く。湿った感触が肌に伝わる。
「ふぅ――ッ!」
突然、鋭い声が響いた。
見れば道の向こう側に、ミーニャが尻尾の毛を逆立てて威嚇していた。噛み付きそうな勢い。
くすっとチシャが笑いながら、俺に抱きついて柔らかい胸を押し当てる。
「あら。すでに飼い猫がいたのね」
「ケイカお兄ちゃんから離れて!」
「いいじゃない別に。減るものじゃないし。二人で愛して貰えばよくないかしら?」
ミーニャの黒髪がぶわっと逆立った。黒い瞳が吊り上がる。
次の瞬間、地を蹴って駆け出した。黒髪と巫女服が激しくなびく。黒い疾風となって俺へと迫る。
容赦のない先制攻撃スキル【疾風迅雷】
包丁をきらめかせて引き抜きつつ叫ぶ。
「そいつ危険! 猫だけど、人じゃない!」
「チ――ッ! くぅ!」
鋭く舌打ちしたチシャは逃げようとした。しかし、俺は薄い腰へと手を回して引き寄せた。細く柔らかい肢体を腕に感じる。
すぐに真理眼で見た。
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【ステータス】
名 前:チシャ
性 別:女
年 齢:18
種 族:魔貴猫人族
職 業:魔王軍輜重部隊隊員
クラス:獣戦士Lv15 魔法使いLv10 商人Lv18
属 性:【雷光】【幻魔】
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やはり魔王軍か……。
でも獣人なのに、属性が【魔】なんだな。
ミーニャをチラッと見ると目が合った。
すぐに俺の考えを理解してくれたようで、包丁をしまう代わりに全体重を乗せた渾身の一撃を繰り出した。
「しゃあああああ!」
猫のように鋭い声。細い腕がチシャのみぞおちに食い込んだ。
「かはぁっ!」
チシャはすべての空気を吐き出すと、白目を剥いて気絶した。ふにゃっと腕にもたれかかった。
俺は軽い体をミーニャへ投げつける。
「縛っとけ」
「わかった」
ミーニャは背負っていた大きな荷物を下ろすと、素材をまとめるためのロープを出してチシャの手足を縛った。
それから俺は小屋の中へと入った。
ミーニャはチシャを引きずってあとに続く。
小屋は粗末なもので、かまどのある土間と板張りの床があるだけだった。
床には猫獣人たちが毛皮を敷いて寝ていた。
老婆が2人に老人が1人、あとは包帯を巻いた若い男がいた。
真理眼で見たところ、魔王軍の関係者はいないようだった。
ラピシアは女の子座りでぺたんとお尻をつけて、怪我人の傍に座っていた。
「怪我、治した! たぶん、病気も!」
「ああ、えらい。さすがラピシア」
「えっへん!」
平らな胸を反らして偉ぶった。
実際、治癒効果がすごいのでそのままにしておく。
すると、ただ1人、目を覚ましていた黒猫の老婆が上体を起こした。
「あなたが勇者さまですか……わしはナランディ。助けてくださって本当にありがとうございま――ああっ! アムリタ!」
ナランディはミーニャを見たとたん、目を見開いて驚いた。
「こいつはミーニャ。俺のパーティーメンバーだ」
ミーニャが、こくっと頷く。
「私はミーニャ。……おばあさん、アムリタって誰?」
ナランディはぶるぶると唇を振るわせながら呟く。
「ひ、人違いなのか……アムリタはわしの娘での。黒髪、黒目の、凛とした美しい女の子であった」
「ほう。その娘はどうしたんだ?」
俺が尋ねると、ナランディは悲しげに眉を寄せた。
「20年ぐらい前に村を飛び出したのです。風の噂では山賊になったと聞きましたが……」
「山賊!!」
ミーニャは無表情なまま、ぽつっと呟く。
「お母さん、かも……目の下にほくろがある?」
「おお! その通り! アムリタには泣きぼくろが一つあったのう! で、では、やはり! も、もっと顔をよく見せておくれ!」
ナランディは黒い瞳に涙を浮かべて懇願した。
ミーニャは戸惑い、耳がへにゃっと伏せられていた。
俺は驚いてミーニャに尋ねる。
「ミーニャ、母親の記憶があるのか?」
「わからない。生まれたとき、とても綺麗な女の人に抱かれた。無表情だけど凛とした澄んだ目で、私をじっと見てた。何か言われたけど、わからなかった――でも、とても優しい匂いだった」
「だったらきっとそうだ。行ってやれ」
「ん」
ミーニャはおそるおそるナランディへ近付いた。細長く黒い尻尾は怯えるように垂れている。
ナランディは近付いてきたミーニャを、痩せた腕を伸ばして引き寄せた。我が子を抱くように、強く、強く抱き締める。巫女服が乱れた。
「ああ! アムリタそっくりじゃ! 黒目、黒髪、この匂い!」
「……懐かしい匂い……とても落ち着く、匂いがする――あのときと同じ」
ミーニャは座り込んで、ナランディの胸に顔をうずめた。体から力が抜けて、されるがままになる。黒い尻尾だけが嬉しそうに、ぺたん、ぺたんと床を叩いた。
ナランディは尖った耳を垂れて、涙をこぼしながら言った。
「もう二度と我が子には会えぬと思うておった。それが孫と会えるなんての……長生きしてみるものだのう……」
「お、おばあちゃん……」
「アムリタは、どうしたのじゃ?」
「私を生んだあと、すぐに死んだ」
ミーニャは素っ気無く答えた。尻尾の動きが少し弱くなる。
ナランディは体を離して、ミーニャの顔を覗き込んだ。
「そうか……それは辛かったのう。困ったことがあったら、なんでも言うんじゃぞ。わしがなんとかしてやるからの」
「ん。別にいい。――長生きさえしてくれれば」
「一番難しいことを望むのじゃの、この子は……頑張ろうぞ」
ナランディは顔をくしゃくしゃにして微笑むと、手を曲げて猫のように手の甲で涙を拭った。
それからもう一度ミーニャを抱き寄せて、今度は黒髪を毛づくろいするように舐め始めた。親猫が子猫にするように。宝物を磨くように。
しばらくミーニャは気持ち良さそうに目を細めて身を任せていた。
ところが、突然はっと目を見開いた。
それから震える手を曲げて、手の甲で顔を拭った。さっきナランディがやったように。
すると、黒瞳からぽたりと涙が零れ落ちた。
手の甲で拭えば拭うほど、新たな涙があふれ出る。
あぁ……と吐息を漏らすとともに、涙声で呟いた。
「そっか……こうすれば、よかったんだ……」
二人は親猫と子猫のように身を寄せ合っていた。
いつしかミーニャは自分の二の腕や手首を舐めていた。ナランディと同じ仕草で毛づくろいするように。同じように舌を出し、同じように首を振る。親子のようにそっくりだった。
――ああ、そうか。そうだったのか。
二人の様子を見て、俺は自分のしでかした間違いにようやく気が付いた。
ミーニャと初めて会ったとき、とても内気で自信のない子だと思った。力があるんだからもっと堂々とすればいいのにと思った。
きっと人間たちの中で育ったから、獣人の自分に引け目を感じているんだと考えた。
でも、違ったんだ。
ミーニャは猫獣人として生まれながらも、猫獣人として必要な仕草や習慣を親から習えなかった。だから猫獣人としての自信や誇りが持てず、臆病に暮らすしかなかったんだ。
猫獣人としてのアイデンティティを喪失していたんだ。
俺は頭を掻きながら謝った。
「ミーニャ、すまない。自信を持たせようといじったけど、間違ってた。本当に必要なのは強さじゃなかったんだな」
ミーニャは首を振った。つややかな黒髪が優しく揺れる。
「そんなことない。ケイカお兄ちゃんはいつも正しい。あの時は、自信を持つために生まれ変わるしかなかった。助けてくれてありがとう」
「そう言ってもらえると心が救われる。ありがとうな」
「うん」
こくっと頷いた。
ナランディはビクッと動いて体を離した。
「こ、これは、申し訳ない。孫がいとおしくてつい親愛の情を示してしまいました」
「いや、問題ない。むしろ、もっとしてやった方がいい。――しばらく2人で暮らしたらどうだ?」
「それは、まことにありがたい話ですが……」
案の定、ミーニャが首を横に振る。
「私、ケイカお兄ちゃんと一緒にいる。旅を続ける」
「うん、それで構わない。ただいつも旅してるわけじゃなくて、たびたびケイカ村に帰るだろう? その時は一つ屋根の下で過ごしたらいいと思うんだ」
「それなら、できる――おばあちゃん、それでいい?」
「ああ、いいとも。孫が勇者さまのために頑張っておるのじゃ。わしも負けんようにしないとな」
俺は言った。
「じゃあ、村へ行こう。ナランディ、歩けるか?」
「そこまで年寄り扱いしなくとも大丈夫かの。――ほれ」
ナランディは素早く立ち上がると、部屋の中を歩き回った。猫のようにしなやかな動き。どことなくミーニャに似ていた。
というか、先ほどまでの頼りなさが消えていた。精気が満ちていた。
きっと守るべきものができて、生きる活力が沸いたのだろう。
「おばあちゃん、元気そう。よかった」
俺を見上げてふうっと笑った。珍しいミーニャの笑顔。かわいいながらもどこか強さを感じさせた。
「じゃあ、他の奴らが目を覚ましたら行こうか」
ミーニャが立ち上がる。
「おばあちゃんに会えてよかった。私、幸せだった」
俺を見るミーニャ。雨上がりの夜空のように、黒い瞳は高く澄み渡っていた。
「そうだな。この生きづらい時代、肉親に会える確率なんてほとんどないものな」
俺の言葉に首を振る。
「そうじゃない。私はずっと不幸だと思ってた。だって、お母さんを一度も見たことなかった。お母さんに一度も抱かれたことなかった。――でも違った。本当はお母さんをすでに知ってた。お母さんに抱かれたこともあった。……自分で気が付いていなかっただけで――私はずっと幸せだった」
凛と澄んだ声。いつもと同じで抑揚は乏しいけれど自分自身の声だった。
ナランディが独り言のように呟く。
「幸せほど、気付き難いものはないからのう……」
ミーニャが近付いてきて胸に顔を埋めてくる。顔をこすりつけながら囁く。
「ケイカお兄ちゃん……私、どうして猫耳と尻尾があるんだろうって、ずっと思ってた。どうして人間じゃないんだろうって、悲しんでた」
「周りは人しかいなかったものな」
「うん。でも、間違ってた。人は人、猫は猫。猫人としての自分にもっと自信を持ってよかった。――だって私はお母さんの子なんだから」
迷いのない、静かな声。
猫としての自覚を得た、1本芯の通った声だった。
「それでいい。ミーニャはミーニャだ」
「ありがとう。これからもケイカお兄ちゃんに、猫としてできることを頑張る」
「ああ、頼むぞ」
そっと抱き締めてやると、尖った猫耳が嬉しそうにピッピッと跳ねた。
その時、包帯を巻いていた若い猫獣人が目を覚ました。
大怪我が治っているので驚いている様子。
「目が覚めたか。それなら日が暮れないうちに村へ向かおう。若い男は老人を、ミーニャはもう1人の老婆を、ラピシアは全員の荷物を持ってくれ」
「あ、はい」「わかった」「うん!」
俺はいまだ気絶しているチシャを抱え上げて外に出た。
相変わらずの薄暗い天気。
しかし村を吹き抜けるそよ風はどこか懐かしかった。




