第一話 主婦、ギルドで献立を考える
異世界での買い出しというものは、慣れてしまえば近所のスーパーへ特売卵を買いに行くのとそれほど変わらない、などと私が言うと、たぶん普通の人は「いや変わるでしょ、入口からして床下の隠し階段でしょ、レジ袋の代わりに謎の革ポーチでしょ、ポイントカードどころか討伐証明部位を提出する世界でしょ」と冷静に突っ込むのだろうけれど、主婦という生き物は本当に恐ろしいもので、毎日くり返しているうちにたいがいの異常を生活動線のひとつとして組み込んでしまう。
こちらとしても朝九時半に納戸の床板を開けて石造りの階段を下り、青白く光る蔦の生えた石室を抜けて森の小道を十分ほど歩いた先にある市場町の肉屋のおじさんに「今日は何がいい?」と聞かれる流れが身についた以上、それはもう買い出しなのである。少なくとも私の家計簿上は買い出しであり、ここでうっかり項目名を「異世界遠征」などにしてしまうと途端に話が大げさになり、レシートの出ない肉代や香草代や謎の根菜代について自分の中でどうにも説明がつかなくなるので、あくまでこれは買い出し、専業主婦による健全な生活活動であり、夫の健康と食卓の幸福を支えるための立派な家庭内業務ということにしている。
その日の私は、朝から仕留めた甲殻猪をどう料理するべきかという夕飯の満足度を大きく左右する極めて重大な課題を頭の片隅に置いたまま、リュクレスという市場町の南門へ向かっていた。リュクレスはヴァルハイト大陸の東寄りに位置するアルノール王国の辺境都市で、都市と呼ぶには人の気配も道幅も少しばかりこぢんまりしているくせに、町と片づけるには城壁も市場もギルドも兵舎も妙にきちんと整っている場所だ。私の感覚でたとえるなら、地方都市ではあるけれど駅前の商店街がまだ元気で、市役所の窓口対応も悪くなく総合病院と警察署が思いのほか頼りになる、そういう暮らしやすさと実用性が絶妙に同居した場所だった。もちろん納戸の床下から勝手に出入りしている私のような、不法入国ぎりぎりどころかおそらく正式な手続きという概念から全力で目をそらしている通行主婦が足繁く通っている点を除けば、治安はそこそこ安定しているし、食材の鮮度も申し分なく、おまけに優しい人ばかりという案外どうにか暮らしていけそうな町なのである。
南門の前には、いつものように槍を携えた衛兵さんが二人、朝日を斜めに浴びながら立っていた。
一人は背ばかり妙に高く、起きているのか眠っているのか判別しづらい半開きの目をした青年で、もう一人は勤務中の表情よりも口ひげの角度に神経を使っていそうな中年男性である。どちらもすっかり顔なじみになってしまったので、私が買い物籠を片手に近づくと長身の青年が先に気づき、槍を持っていないほうの手をゆるく上げた。
「 あ、ミオさん。おはようございます」
「今日も朝から狩りですかい」
続けて口ひげの衛兵さんが、ひげの端を親指で撫でながら笑う。
私はそこで“いかにもこの世界で長年暮らし、危険な森も薄暗い地下迷宮も何度となく踏破してきました”という顔を作り、実際には今朝の献立で頭の半分以上を埋め尽くされているにもかかわらず、さも落ち着き払った冒険者のように答えた。
「今日は市場とギルドだけの予定ですよ。夕飯の仕込みがありますし」
この世界で、私はミオという名前で通っている。
正確には真柴美緒なのだけれど、名字まで律儀に名乗るとどうやらこちらの人たちには発音の切れ目がわかりにくいらしい。最初に冒険者ギルドの受付で「マシバミオです」と告げたときも、受付嬢さんは羽ペンの先を登録用紙の上でぴたりと止め、眉間に小さなしわを寄せながらまるで古代語の碑文でも解読するみたいに悩みはじめた。
「マシ……バミオ? 家名がマシで、名がバミオですか? それともマシバが家名で、ミオが名? あちらの遊牧民式の名乗りでしょうか?」
あまりにも真剣な顔で問い返されたものだから、こちらまで何かややこしい文化的難題を持ち込んでしまったような気持ちになり、訂正するのも説明するのも面倒になった私はその場でそっと名字を引っ込めた。
以来、私はミオで押し通している。
家名を省略することにご先祖さまがどの程度お怒りになるのかはわからないけれど、そもそもご先祖さまにしてみれば、まさか自分たちの子孫が中古住宅の納戸の床下から異世界へ通って南門の衛兵さんと朝の挨拶を交わしながら、魔物肉の下処理と夕飯の献立について真剣に悩んでいるなど想像の範囲外もいいところだろう。
だから、どうか多少の略称くらいは見逃してほしい。
こちらもこちらで、毎日それなりに忙しいのだ。
リュクレスの町に一歩足を踏み入れると、最初にこちらを出迎えるのは門番の声でも石畳の硬さでもなく、炭火の上で脂を落としながら焼かれている串肉の朝っぱらから胃袋を直接つかみにくるような香ばしい匂いである。
門をくぐってすぐの広場には夜明けとともに組み上げられた朝市がもうすっかり町の心臓みたいに動きはじめていて、火床のそばでは得体の知れない肉がじゅうじゅうと景気よく音を立て、薄い平パンを片手で器用に開いた屋台の親父が、刻んだ香草と焼きたての腸詰めをそこへ押し込んでいた。湯気を立てる麦粥の鍋の前では女将が干し肉を刃物で薄く削り落として朝食客の椀へ散らし、通りの端に停められた荷車の上では、熟れすぎる一歩手前の紫色の果実が朝日を受けて不思議なつやを放っていた。
その少し先では、魚と呼ぶには細長すぎ、蛇と呼ぶには妙に銀色で、正体を確かめる前に目をそらしたくなる川の幸を何匹も吊るした行商人が、「川銀のいいやつだよ、骨までやわらかいよ」と喉を張り上げている。
初めてこの町へ来たころの私は、その匂いと音と色と呼び声の多さに圧倒され、朝市を一周するだけで胃もたれしそうになったものだけれど、いまではもう串肉の煙を嗅げば「あそこの屋台は塩を強めに振るから喉が渇く」と思い、腸詰めの焼ける匂いが鼻をかすめれば「あれは香辛料がきついので夫のお弁当に入れると午後まで口の中が祭りになる」と判断できるようになった。山盛りの紫果実を眺めれば「ジャムに煮れば悪くないけれど、薄いくせにやたら手に張りつくあの皮をむく手間を考えると、今日は見送っても罪ではない」と冷静に結論を出せるくらいには、立派に主婦目線で市場を歩けるようになっていた。
魔法が存在する世界だからといって、暮らしのすべてが物語に出てくる魔法使いの一振りみたいに、きらきら光ってふわっと片づいて、気づけば家事が終わっているなどという都合のいい話にはならない。
たしかに火種がなくてもかまどへ火を移せる小さな魔道具はあるし、井戸水を飲みやすく整える浄水用の石板もある。荷車に貼れば積み荷の重さをいくらかごまかせる紋章札などという聞くだけなら便利そうな品も町の道具屋に並んでいるのだけれど、安物は肝心なときに機嫌を損ねたみたいに動かなくなることがあるし、高級品は値札を見た瞬間にこちらの財布が先に息絶え、さらに魔力を扱える人と扱えない人の差が思った以上にはっきりしているせいで、一般家庭の台所では薪のかまどが今日も堂々と現役であることが多い。井戸水を汲む腕力は生活能力の一部として数えられることが一般的であり、洗濯物は桶と洗濯板と根気によってどうにかするものだと信じられていた。
食材を冷やして長く保たせる保存箱にいたっては、貴族か大商人の屋敷に置かれる贅沢品であり、庶民の家でそんなものを欲しがろうものなら、「夢を見るのはただだけれど、まずは屋根の修繕費を貯めなさい」と現実に肩を叩かれるのが落ちである。
そう考えると、日本の我が家に当然の顔をして並んでいた炊飯器、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、給湯器のありがたみたるや、もはや四天王などという控えめな呼び方では到底足りず、五大神として台所の一角に祭壇を作り、毎朝きちんと手を合わせてもよかったのではないかと異世界暮らしの私はかなり本気で思うようになっていた。
こちらにはこちらの豊かさがある。
季節の香草は驚くほど香りが強いし、朝に焼いたパンは素朴だけれど噛むほど甘く、顔なじみの店主と値段交渉をしながら献立を決めていく楽しさだって決して悪いものではない。
けれどそれはそれとして、全自動洗濯機の前では王侯貴族でさえ一度くらい膝をつくべきだと思う。
もちろん、そんなことは誰にも説かない。
説明が難しすぎるし、何より桶いっぱいの洗濯物を前にして「ボタンひとつで洗いから脱水まで終わる箱があるんですよ」と言ったところで、たぶん私は疲れた主婦の見る少し哀れな夢だと思われるだけである。
にぎわいはじめた市場を横目に、私はまず香草屋の軒先へ向かった。
目当ては、夫の夕飯に使う蜜根草である。
蜜根草というのは、知らない人が見れば少し太りすぎた生姜か、泥のついた奇妙な芋にしか見えない根菜だ。けれど皮を薄くむけば、切り口から淡い琥珀色の汁がじわりとにじみ出し、すりおろした瞬間には蜂蜜の濃い甘さに、炒め玉ねぎのまろやかさとほんの少しだけ柑橘の爽やかさを混ぜたような香りが、ふわりと台所いっぱいに広がる。肉の臭みを上手に隠し、脂の甘みをぐっと前へ押し出し、煮込みに加えれば味の角をやわらかく丸めてくれるまことに主婦心をくすぐる優秀な食材なのだけれど、問題はこれがそこらの畑で気軽に採れる代物ではないという点だった。
採れるのは、森の奥。
しかも日当たりの悪い湿った斜面や、古い倒木の根元にまとまって生えることが多いせいで、採り子たちは朝早くから籠を背負って森へ入り、ぬかるみに足を取られて虫に刺され、ときには小型の魔物に追い回されながらようやく何本かを掘り出してくる。そういう手間と危険がしっかり値段に乗っているから、市場で買う蜜根草は香りのよさに比例してなかなか可愛げのない値札をぶら下げているのだった。
私は並べられた根を一本ずつ見比べ、丸みと香りの強そうなものへ手を伸ばしかけて、その横に立てられた値札を見た瞬間にほんの少しだけ眉を寄せた。
「今日は、少し高いですね」
店番のおばあさんは、私の声に驚くでも悪びれるでもなく乾いた手で蜜根草についた土を払うと、腰かけていた木箱の上で肩をすくめた。
「北街道が荒れてるからねえ。採り子たちも、奥までは行きたがらないのさ」
北街道。
その単語を聞いた途端、私の頭の中では今夜の甲殻猪に合わせるタレの配合表のすぐ隣へ、赤い付箋みたいな警戒印がぺたりと貼られた。
別に、たいそうな勘が働いたわけではない。主婦の勘、などと胸を張るには少々生々しすぎる、もっと現実的でもっと身も蓋もない生活知識である。この世界で一年ほど狩りをしながら家計を回していれば、流通が乱れたときに何が起きるかなどはいやでも覚える。街道が荒れれば荷が遅れ、荷が遅れれば店先の品が減り、品が減れば値段が上がる。そして値段が上がる背景にはたいてい天候不順、盗賊、魔物、戦、疫病、あるいは領主様のありがたくない税率変更といった食卓に一切歓迎したくない事情が隠れている。
「北街道、また灰狼ですか?」
私がそう尋ねると、おばあさんは一度だけ周囲へ目をやり、誰もこちらに注意を払っていないと確かめてから蜜根草を布の上に並べ直しながら声を落とした。
「灰狼なら、まだいいんだけどねえ。群れで来ても火を焚けば寄りつきにくいし、腕の立つ護衛が二人もいれば、どうにか追い払える。けど、近ごろ出てるのは、どうもそれとは違うらしいよ」
おばあさんの指先が、乾いた土をぱらぱらと落とす。
「夜中に家畜小屋の屋根を破って入り込むんだとさ。中の山羊や鶏から血だけ吸って、肉は半分も食べずに消える。足跡は鳥みたいに細くて、でも爪の跡だけはやけに深い。鳴き声は、女が遠くで泣いているように聞こえるそうだよ。しかも、そいつを見た者は、朝まで熱を出して寝込むって話だ」
私はその話を聞きながら、手元の蜜根草を三本買うべきか二本で我慢するべきか、かなり真剣に悩んでいた。
もちろん、怖い話は怖い話として受け止めている。女の泣き声みたいな声で夜に鳴いて家畜小屋の屋根を破り、血だけ吸って肉を残しながら目撃者に熱まで出させる魔物など、普通に考えて近所にいてほしくない。できれば夫の帰宅前に討伐されてほしいし、街道は早く安全になってほしい。欲を言えば蜜根草の値段も昨日くらいまで戻っていてほしい。
けれど目の前にはもうひとつ、見過ごせない現実があった。
蜜根草、一本銀貨一枚。
怖い魔物の噂も胃にくるが、食費の圧迫はそれより早く、そしてもっと確実に胃袋のあたりを締めつけてくる。しかも今夜の献立は甲殻猪である。あの肉はうまく仕込めば噛むほど旨味が出るけれど、下処理を雑にすると獣臭さと殻まわりの癖が前に出てしまう。黒胡椒だけで押し切る手もあるし、味噌に頼る手もある。けれど夫が一口食べた瞬間に目を丸くしてくれる味へ持っていくなら、やはり蜜根草の甘みは外せない。
私は数秒ほど値札と根菜と家計の残額を見比べ、最後に、今朝の空みたいな顔で「うまっ」と言う夫を頭の中に思い浮かべた。
「三本ください」
言ってしまった。
言ってしまったからには、もう後戻りはしない。夫の笑顔のためなら銀貨一枚分の追加出費くらい必要経費である。あとで甲殻猪の殻をギルドに納めれば素材代が入るし、牙の欠けが少なければ少し上乗せも期待できる。つまり、差し引きで見れば実質黒字。
たぶん黒字。
きっと黒字。
主婦の帳簿というものは、希望的観測を調味料にできるときだけ少しだけ優しくなるのである。
この世界で使われているお金は、下から順に銅貨、青銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、という具合に分かれている。
最初は私も、いかにも異世界らしい硬貨の重みや手のひらに乗せたときの鈍い光に少しばかり胸を躍らせたものだけれど、暮らしに馴染んでくると感動より先に「これは今どこで崩せるのか」という現実的な悩みが顔を出すようになった。
ざっくりした目安で言えば、銅貨十枚も出せば屋台の焼き串が一本買えるし、青銅貨を数枚握っていれば庶民向けの食堂で腹を満たせる。銀貨一枚となると、普段の食卓には少し贅沢な肉や香辛料、状態のいい野菜なんかに手が届く額で、大銀貨はそれなりにまとまった買い物をするときの硬貨、そして金貨ともなれば、一般家庭の主婦が「ちょっと市場で使ってくるわ」と気軽にポーチへ放り込むような代物ではない。
私が初めてギルドで報酬を受け取った日、受付嬢の手から小さな革袋を渡され、中を覗いて金貨を見つけた瞬間には、思わず「おお、本当に異世界っぽい」と感動した。けれどそのありがたみは長く続かなかった。いざ市場で使おうとすると店主は露骨に眉を寄せるし、両替を頼めば手数料を取られるし、うっかり目立つと余計な視線を集めるし、何より日用品を買うには金額が大きすぎて、便利どころかむしろ扱いづらい。
結局のところ、生活にいちばん馴染むのは財布の底でちゃりちゃり鳴ってくれる細かい硬貨である。
日本にいたころ、コンビニで一万円札を出すタイミングに妙な気まずさを覚えたことが何度もあったけれど、こちらの世界で大銀貨を差し出したときに店主が見せる渋い顔も、感覚としてはだいたい同じだ。世界が変わろうと、通貨の単位が変わろうと、大きすぎるお金が日々の買い物に向かないという真理だけは、どうやら揺るがないらしい。
蜜根草をポーチにしまい、ついでに香菜と干し果実も少し買い足した私は、買い物籠の中身を軽く確かめてからいよいよギルドへ向かった。
リュクレス狩猟者ギルド。
正式名称は「アルノール東辺境狩猟互助組合リュクレス支部」という、役所の書類にしか出てこなさそうな長ったらしいものらしいけれど、そんな名前を律儀に最後まで呼ぶ人間を私はまだ一人も見たことがない。建物の正面に掲げられた看板にも堂々と「狩猟者ギルド」とだけ刻まれているのだから、たぶん関係者も本音では正式名称を持て余しているのだと思う。
ギルドの建物は街の東寄りにどっしりと構えた石造りの二階建てで、正面の壁には巨大な角を持つ獣の頭骨が飾られている。初めて見たときはなかなか物騒な歓迎の仕方をする場所だなと思ったけれど、今ではあれを見ないとギルドへ来た気がしない。分厚い扉の横には依頼掲示板があり、朝から紙片を覗き込む者たちで小さな人だかりができていた。裏手へ回れば解体場と素材倉庫が続き、隣の建物は酒場兼食堂になっていて、肉を焼く匂いと安酒の匂いと汗を吸った革鎧の匂いが、風向きによって絶妙に混ざって流れてくる。
出入りする顔ぶれも、なかなか賑やかだ。
腕に古傷を残した革鎧の男たちが、朝から景気づけとばかりに笑い合っている。大きな弓を背負った女性が掲示板の前で依頼票を一枚ずつ吟味している。魔術師らしい長衣の若者は杖の先で地面をこつこつ叩きながら眠そうに欠伸をし、荷運び専門と思われる力自慢は樽を片手で担いだまま受付へ向かっていく。薬草採取を請け負っているらしい家族連れの姿もあって子どもが籠を抱え、母親がその中に入れる薬草の種類を小声で教えていた。
ハンター。
こちらの言葉では、狩猟者。
その職業は、私がこの世界へ来たばかりのころに想像していた「冒険者」よりも、ずっと地に足がついていた。剣を掲げて竜へ挑んで古代遺跡の奥で財宝を見つけ、魔王の手下をばったばったとなぎ倒すような人たちも、伝説や吟遊詩人の歌の中には確かに存在するらしい。けれど、少なくともリュクレス支部の掲示板に貼り出される依頼の大半は、もっと暮らしに近く、泥が跳ね、血が飛び、書類の提出期限がきっちり決まっている仕事ばかりである。
畑を荒らす角兎の駆除。
街道沿いに出没する灰狼の追い払い。
薬草の採取や魔物の巣の下見、行商人の護衛、素材の納入、迷子になった荷馬の捜索。
貴族が開く狩猟会の事前調査なんていう少し気取った依頼が紛れ込むこともあれば、雨続きのあとには下水道に増えた大鼠退治という、あまり食前には考えたくない案件が掲示板の隅に貼られていたりもする。
つまりハンターとは、剣と魔法の世界における害獣駆除業者であり、食肉加工の担い手であり、山菜採りの熟練者であり、ときには街道警備員で、運が悪ければ命懸けで火事場へ飛び込む消防団のような役割まで押しつけられる職業なのだ。
こう言うと、夢や浪漫が少しばかり目減りするかもしれない。
けれど生活というのは、たいていそういう顔をしている。
どれほど勇ましい肩書きがついていようと、その裏側には必ず申請書があり、素材明細があり、報酬の端数計算があり、雨天時の延期連絡があり、誰が解体場の後始末をするのかという、夢物語ではまず語られない切実な問題が積み重なっているのである。
ギルドに所属する手続きそのものは、拍子抜けするほど事務的だった。
まず登録料を払い、名前や出身地、現在の住まい、保証人の有無といった簡単な身元確認を受ける。続いて武器を扱える者なら模擬戦、採取希望者なら薬草や毒草の見分け、運搬や解体を請け負う者なら体力や刃物の扱いなど、それぞれに応じた最低限の技能試験を済ませ、問題なしと判断されれば晴れて銅札を首から下げることになる。
等級は、銅、鉄、鋼、銀、金、白金。
下から順に上がっていく仕組みで、札の材質が変われば受けられる依頼の範囲も広がり、報酬も信用も、それにともなう責任も増えていくらしい。
そして私は現在、なぜか銀札である。
なぜか、というのは謙遜でも、実力を隠したい強者ぶった言い回しでもない。そもそも私が登録時に受付嬢さんへ伝えた条件は、「家庭の都合がありますので、働けるのは午前中からせいぜい昼過ぎまでです」「泊まりがけの依頼は無理です」「夕方には必ず帰ります」「夕飯の支度があります」という、狩猟者志望というより、短時間勤務を希望する主婦の面接みたいな内容だったのだ。
受付嬢さんは羽根ペンを止め、書類の上に視線を落としたままたいへん丁寧な笑顔で言った。
「特殊な制約が多い方ですね」
あのときの苦笑いは、今でもよく覚えている。
ところが、その後がいけなかった。
晩ごはん用の肉が欲しくて大型魔物を狩って持ち込む。香りのいい香草が必要になり、ついでに危険区域の奥まで採りに行ってしまう。川魚を買いに行く途中で毒蜥蜴の群れを見つけ、放っておくと水場が汚れるし、なにより近所の子どもたちが危ないので、軽い家事の延長みたいな気分で片づけてしまう。
そのたびに私は、「たまたまです」とか「帰り道だったので」とか「今日の献立に関係していたので」と説明したのだけれど、ギルド側はどうやら、そういう受け取り方をしてくれなかったらしい。
気づけば依頼達成数が増え、危険個体の討伐記録が積み上がり、素材の質も安定しているという評価までつき、私は本人の気持ちを置き去りにしたまま銅札から鉄札へ、鉄札から鋼札へ、そしていつの間にか銀札へと押し上げられていた。
銀札というのは、ギルドの中ではかなり重い立場にあたる。
普通なら数年どころか十数年かけて経験を積み、失敗も怪我も乗り越え、信頼できる仲間を作り、地味な依頼をひとつずつこなし、ようやく手が届く等級なのだという。そう聞かされたとき、私はなるほど大変なのだなと素直に頷いたが、同時に手のひらに乗せた銀札の厚みを見ながら、「これ、鍋敷きにしたら熱に強そう」と一度だけ考えたことがある。
もちろん、実行はしていない。
たぶんギルド長に知られたら、叱るというより先に黙り込み、そのあと眼鏡を外して、たいへん静かな声で説教を始める気がする。
そんな銀札を胸元で揺らしながら扉を押すと、ギルドの空気がどっとこちらへ流れ込んできた。
革の匂いがまず鼻につく。そこへ鉄の冷たい気配、干し肉の塩気、薬草の青臭さ、安酒の甘ったるい残り香、汗を吸った外套の湿り気、獣脂のこってりした重さ、焼きたてのパンが放つ場違いなくらい優しい香り、受付で使われるインクの匂い、さらに奥の解体場から忍び込んでくる、薄い血の気配が重なっている。
ひとつひとつ取り出せば、決して上品とは言いがたい。
けれどそれらがこの建物の中で混ざり合うと、不思議と嫌な匂いにはならなかった。むしろ朝から誰かが荷を運び、誰かが獲物を解体し、誰かが依頼票に目を走らせ、誰かが腹を満たし、誰かが今日の稼ぎを得るために外へ出ていくのだとわかる、働く場所特有の生々しい匂いだった。
私はその空気を胸に吸い込み、買い物籠を持ち直して奥の受付カウンターへ向かった。
「おはようございます、ミオさん。今日も納品ですか?」
受付嬢のリナさんが、羽ペンを指でくるりと回しながら笑った。彼女は栗色の髪をきっちり編み込みながら薄青い制服をいつも乱れなく着ている、いかにも有能な人だった。依頼書の管理や報酬計算、素材鑑定の手配はもちろん、酔っぱらいハンターの追い払いまでこなすギルドの心臓みたいな存在である。私が初登録の日に「活動可能時間は夫の勤務時間に準じます」と言って場を凍らせたときも、最後まで丁寧に話を聞いてくれたので、私は彼女にかなりの恩を感じている。
「おはようございます。今朝、甲殻猪がうちの……ええと、狩場の近くに出まして。殻と角と胆石が取れそうなので、鑑定お願いします。肉は自家消費で」
「また肉は自家消費なんですね」
「家族が楽しみにしているので」
「ミオさんのご家族、知らないうちにかなり高級な魔物肉を召し上がってますよね」
「本人はたぶん、私の買い物上手だと思っています」
リナさんは一瞬だけ口元を押さえ、笑いをこらえるように肩を震わせた。私はポーチから甲殻猪の殻片、角、胆石を取り出し、カウンター脇の素材台に並べる。解体は家で本格的にやる前なのでまだ一部だけとはいえ、殻は厚く、角は立派で、胆石は薬師が欲しがるサイズだ。奥から素材鑑定士のおじいさんが出てきて、眼鏡の位置を直しながら「ほう、朝採れじゃな」と言った。
朝採れ魔物。
響きだけなら産直野菜みたいである。
鑑定を待つあいだ、私は掲示板を見ることにした。ギルドの掲示板は初めて来た人間ならどこから読めばいいのか迷ってしまうくらい大きいけれど、一応、難度や資格ごとに区画が分けられている。左端には銅札向けの簡単な採取依頼が固められ、乾燥薬草の納入、茸の見分け、畑の脇に生える苦味草の刈り取りなんかが、薄い木札に素朴な字で書かれていた。その隣には鉄札向けの街道警備や荷運びの補助、さらに中央の目立つ場所へ移ると鋼札以上を対象にした討伐依頼が並び、銀札以上の狩猟者にしか許可されない緊急調査の紙片には赤い紐や封蝋がつけられていて、見るからに「軽い気持ちで手を出すな」と言っている。
もっとも、掲示板の下のほうには誰でも受けられる雑務も混じっていて、酒場の樽運び、解体場の掃除、倉庫に入り込んだ小鼠の駆除、迷子の山羊探しなど、剣も魔法もほとんど関係なさそうな依頼が遠慮がちに羊皮紙の隅を丸めてぶら下がっているのだけれど。
掲示板の前には、まだ顔つきに初々しさの残る若い狩猟者たちが集まっていた。
「角兎三十匹なら、今日中にいけるだろ」
「いや、東の畑のほう、巣が増えてるって聞いたぞ。数だけ見て油断すると面倒だ」
「薬草採取と一緒に回れば、日当は悪くないんじゃないか?」
そんなふうに声をひそめたり、急に大きくなったりしながら相談している姿を見て、私は少しだけ懐かしい気持ちになる。
私も最初は、角兎からだった。
角兎というのは、名前のとおり見た目だけならほとんどウサギである。丸い体に柔らかそうな毛、ぴんと立った耳、額には小さな角。ここまで聞けば可愛らしい魔物を想像するかもしれないけれど、実物は後ろ足の筋肉がやたらと発達していて、地面を蹴った瞬間に人間の膝くらいの高さまで一直線に飛んでくる。油断していると、その可愛い額の角がちょうど嫌な角度で膝や脛に刺さるのだ。
ただし、肉はおいしい。
淡白で癖が少なく、筋をきちんと取ってから下味をつけ、薄く衣をまとわせて油でからりと揚げると外は香ばしく、中はふっくら仕上がる。初めて角兎を討伐した日、私は倒した個体を前にして傷の入り方より先に肉質と脂の具合を確認してしまい、同じ依頼を受けていた青年からたいへん微妙な顔でこう言われた。
「ミオさん、倒した直後に食材として見るの、ちょっと怖いです」
失礼な話である。
主婦にとって、可食部の確認は大事だ。
そもそも、魔物とは何なのか。
こちらの世界の学者さんたちの定義によれば、魔物とは「魔素を過剰に取り込み、生態と性質を変化させた生物、または魔素そのものから生じた擬似生命」なのだそうだ。なるほど専門的で、いかにも本の中に載っていそうな説明だけれど、日々の買い物と夕飯の献立に頭を悩ませる身としてはもう少し噛み砕いて言ってほしいところである。
要するに普通の獣や鳥や虫や魚が、土地に満ちる魔力の影響を受けて妙に大きくなったり、皮膚が硬くなったり、火を吐いたり、毒を持ったり、人間が腹立たしくなる程度には賢くなったりしたもの。
あるいは洞窟の奥、古戦場、瘴気の淀んだ森、長く放置された地下道のように、魔素が濃く溜まる場所でいつの間にか形を持って発生する厄介な生き物。
それが、この世界で魔物と呼ばれている存在だった。
とはいえ魔物だからといって、すべてが人を見るなり襲いかかってくるわけではない。臆病で、こちらが距離を取れば向こうから逃げていく種類もいるし、縄張りに踏み込まないかぎり姿すら見せないものもいる。逆に放っておくと畑を荒らし、家畜を襲い、街道の通行を妨げるものもいるので、ひとくくりに「悪いもの」と言って済ませられるほど単純ではない。
適切に狩れば、肉は食材になる。
皮は鞣して革に、骨は道具や魔術素材に、爪や角は加工品に、内臓の一部は薬材に回ることもある。
リュクレス周辺の人々にとって魔物とは、恐怖の対象であり、日々の暮らしを脅かす災害であり、それでいて市場を潤す資源でもあり、誰かの懐を温める商売の種でもあった。
社会にとって害をなす存在でありながら、同時に危ない存在でもある。
けれどまったく無くなってしまえば、それはそれで暮らしが立ち行かなくなる。
台風が来れば家の屋根は心配になるけれど、雨そのものがなければ畑は干上がる。そんな話に、少し似ているのかもしれない。
ヴァルハイト大陸に暮らす人間たちの勢力は、大きく分けると五つある。
まず、私が普段出入りしているアルノール王国。大陸の東側に広がるこの国は、肥沃な穀倉地帯と深い森に恵まれていて、気候も人々の気質も、ほかの地域に比べればいくらか穏やかだ。もちろん魔物は出るし、税は取られるし、役所の手続きは面倒なので、楽園というわけではない。けれど少なくとも市場に米や根菜が並び、森から木材と薬草が運ばれ、真面目な役人が融通の利かなさを発揮しながらも帳簿をきっちり整えているという意味では、暮らすにはかなり安定した土地だと思う。
南へ目を向ければ、海上貿易で栄えるルメリア諸侯連合がある。
いくつもの港町と小さな領地が寄り集まった国で、ひとつの王冠の下にまとまっているというより、商会と領主と船団が利害をすり合わせながら、どうにか大きな船を同じ方向へ漕いでいるような場所らしい。市場に並ぶ珍しい香辛料や、干した海魚、鮮やかな染め布の多くは、だいたいこの南方経由で入ってくる。商売上手で陽気、という噂もあれば、契約書の隅に小さな罠を仕込むのがうまい、という悪口もある。
西には、グランツ山脈圏。
そこは険しい山々と鉱山の国であり、人間の王侯だけでなく、ドワーフたちの自治領も含まれている。鉄、銀、石炭、宝石、精巧な武具、やたら頑丈な鍋。それらの産地として知られていて、職人たちは腕がいいぶん気難しく、酒には強く、納得できない仕事には金貨を積まれても首を縦に振らないのだとか。私はまだ行ったことがないけれど、グランツ製の包丁は一度使うと戻れない、と市場の肉屋が熱弁していたので、いつか台所用品だけでも買いに行きたいとは思っている。
北方に広がるのは、寒冷な草原を移動しながら暮らす騎馬民族の国々である。
国々、と言っても、城壁に囲まれた王都があり、そこから命令が各地へ届くような形ではなく氏族ごとのまとまりが季節に合わせて移動し、ときに協力し、ときに争いながら大きな勢力圏をつくっているらしい。馬、乳製品、毛織物、そして寒さに強すぎる人々。北から来た商人が、まだ肌寒い春先に薄い上着一枚で「今日は暖かい」と言っていたのを見たとき、私は心の中でこの人たちとは体の作りが違うのだと結論づけた。
そして大陸の中央には、古い帝国の名残を引きずる自由都市帯が広がっている。
かつて大陸のかなりの範囲を支配していた帝国は、今では地図の上から消えてしまったらしい。けれどその遺産だけはしぶとく残っていて、石畳の大街道、古代の水路、各地に散らばる魔法学院、学者たちの自治都市、妙に複雑な通行税の規則などが、中央部の暮らしを形づくっている。知識と魔術の中心地である一方、ひとつ書類を通すのに印章が三つ必要だとか、研究者同士の派閥争いで講義日程が変わるとか、聞いているだけで胃が重くなる話も多い。
これを私の感覚でかなり雑にまとめるなら、東は米と森と真面目な役人、南は魚と商売と香辛料、西は鉄と酒と頑固職人、北は乳製品と馬と寒さに強い人々、中央は学者と魔術師と面倒な規則、ということになる。
もちろん、偏見は多分に含まれている。
さて、大陸情勢を考えるうえでいちばん厄介なのは、魔物の発生源が国境線というものをまったく気にしてくれない点だ。
人間たちは地図の上に線を引き、ここからこちらは我が国、あちらは隣国、とたいそう真面目な顔で取り決める。けれど森の奥で魔素が濃くなれば、その森に接する村々が等しく被害を受けるし、山中の古い迷宮から魔物があふれ出せば、どの領主の印章が押された通行証を持っているかなど関係なく、交易路はあっさり塞がる。交易路が止まれば、南から来る塩も、西から来る金属も、北の毛織物も、森で採れる薬草も動きにくくなる。荷が滞れば値が上がり、値が上がれば市場の店主がため息をつき、店主がため息をつけば、最終的に買い物籠を持った主婦の眉間に皺が寄る。
つまり世界の危機というものは、意外と律儀に遠回りをして最後には食卓へやって来るのである。
これ、けっこう真理だと思う。
私が掲示板の前に立ち、蜜根草の値上がりと北街道で流れている不穏な噂とを頭の中で結びつけながら、今夜の献立にどの程度の影響が出るかをかなり真剣に計算していると、背後の酒場側から、朝っぱらから酒気と苛立ちを含んだ荒っぽい声が飛んできた。
「おい、聞いたか、また出たらしいぞ。北のラグ村だ」
「牛が三頭やられたってやつか?」
「牛どころじゃねえ、見張りに立ってた若いのが一人、熱を出して寝込んでる。胸に爪痕みたいな痣が浮いて、うわ言で女が泣いてるって言い続けてるそうだ」
私は掲示板に貼られた薬草採取依頼を眺めるふりをしながら、耳だけそちらへ向けた。主婦の盗み聞き能力を甘く見てはいけない。スーパーのレジ待ちで前のお客さんが話している「駅前の八百屋が安い」という情報を聞き逃さない訓練を積んだ人間は、酒場のざわめきくらいなら必要な単語だけ拾える。
「泣き女鳥じゃないのか?」
「泣き女鳥なら死肉を漁る。屋根を破って家畜小屋に入るほど力はねえよ」
「血だけ吸うなら血喰い蝙蝠の群れか」
「足跡が鳥みたいだったって話だ」
「じゃあ混ざりものか? 魔素溜まりに落ちた獣が変異した類かよ」
「北街道沿いでそんなもんが育ってたら、商隊が通れねえぞ」
「もう通れてねえから蜜根草が上がってんだろ」
はい、出ました。
蜜根草の値上がり、やっぱりそこにつながりました。
私は心の中で家計簿を開き、今日の銀貨支出欄に「北街道の魔物による価格上昇、許すまじ」と書き込みたくなった。人畜に被害が出ているならもちろん深刻だし、村の人たちも心配だし、街道が止まれば町全体が困る。そこはわかっている。わかっている上で、蜜根草一本の値段が上がった恨みは別枠で存在する。主婦の心には公共心と節約心が同居しており、両方それなりに強い。
「ミオさん」
カウンターからリナさんに呼ばれ、私は素材台へ戻った。鑑定士のおじいさんは甲殻猪の角を撫でながら満足げに頷いている。
「状態がいいです。殻片、角、胆石、合わせて大銀貨二枚と銀貨五枚で買い取り可能です。肉を一部でも出していただけるなら、食堂長が追加で買うと言っていますけれど」
「肉は自家消費です」
「即答ですね」
「今日の夕飯ですので」
「甲殻猪が夕飯」
「漬け焼きにします」
「聞かなければよかった気もしますし、聞いてよかった気もします」
リナさんが苦笑しつつ報酬を用意してくれる。私は受け取った硬貨を小袋に入れ、ポーチの中の財布層へ仕舞った。財布層というのは私が勝手に決めた区分で、ポーチの中には肉類、野菜類、鉱石類、薬草類、調味料、戦闘道具、財布、その他よくわからない拾得物という棚分けがあり、これを怠ると「夫の弁当用の干し果実を取り出そうとして魔物の牙が出てくる」みたいな事故が起きる。異世界収納にも整理整頓は必要なのだ。
「ところで、北街道の件、もう正式依頼になっていますか?」
私が何気ない口調で尋ねると、リナさんの表情がほんの少し引き締まった。やはり有能な受付嬢の顔である。
「ラグ村、トール村、ミナの牧場から被害報告が来ています。昨夜の件で緊急性が上がりましたので、昼前には調査討伐依頼として掲示予定です。等級は鋼以上、単独受注は銀札以上、推奨は三名以上の小隊。対象は未確定、仮称は『北街道の哭き喰らい』です」
「哭き喰らい」
「現地の人たちがそう呼び始めているそうです。特徴は、夜間活動、屋根や柵を破る力、血液への執着、鳥に似た足跡、鳴き声による精神影響、目撃者の発熱。魔物学の分類では、鳥獣系と吸血系の混合変異、もしくは魔素溜まり由来の擬似種の可能性があります」
「おいしくなさそうですね」
「そこですか」
リナさんが少し目を細めた。私としてはかなり重要な観点である。討伐するにしても可食部があるかどうかで戦後処理の満足度が違う。もちろん、人や家畜を襲う魔物を相手に「食べられるかな」と考えるのは倫理的にどうなのかと自分でも思うけれど、こちらの世界では魔物素材の有効活用が当たり前で、食肉にできる種類は食肉にするし、革にできるものは革にするし、毒腺は薬師へ回す。命を奪うなら無駄にしない。これは主婦的にも納得できる考え方だった。
「見た目や匂いの情報は?」
「目撃者の証言が曖昧です。影が大きかった、屋根の上で爪音がした、白い顔が見えた、羽音がした、女の泣き声が耳元で聞こえた。共通するのは、被害が必ず夜、家畜の血を吸う、肉を食べ残す、近くに黒い羽根のようなものが落ちている、という点ですね」
「黒い羽根」
「鑑定に回っています。通常の鳥類ではなく、魔素を含む硬質の繊維だそうです」
硬質の羽根。屋根を破る力。血だけ吸う。女の泣き声。鳥の足跡。
私は足を止めないまま、頭の中に詰め込んできた魔物図鑑の記憶を、棚から一冊ずつ引き抜くように探っていった。
異世界に来たばかりのころの私は、それはもう真面目だった。右も左もわからず、森に何がいて草むらの陰に何が潜み、どの爪に毒があり、どの鳴き声を聞いたら逃げるべきなのかを知らなければ、うっかり夕飯の献立を考える前に自分が誰かの夕飯になりかねなかったからである。だから私は、時間を見つけてはギルドの資料室へ通い詰め、魔物図鑑を端から読み、可食素材一覧に付箋を挟み、毒草と薬草の見分け方を何度も確認しながら部位別解体手引きの図解を睨んでいた。初心者向けの森歩き指南を暗記しながらさらには狩猟者の税と納品制度まで、眠気と戦いながらどうにか頭へ叩き込んだのである。
始まりは、もちろん生き延びるためだった。
けれど人間というのは慣れる生き物で、私の場合、その慣れ方が少しばかり台所寄りに傾いていたらしい。図鑑の説明に「脂が少なく淡泊」とあれば塩焼きが合いそうだと思い、「繊維が硬い」と書かれていれば酒と香草で煮込めばどうにかなるのではと考え、「強い臭気あり」と注意書きがあれば、下処理の手順を想像して勝手に腕まくりをした。命を守るための学習は、いつの間にか食卓を豊かにするための研究へ姿を変え、気づけば私は討伐危険度よりも肉質や出汁の出方を気にしながら資料を読み込むようになっていた。
そのせいで資料室の司書さんには一度、眼鏡の奥からなんとも言えない目を向けられたことがある。
「あなた、学び方が独特ですね」
褒め言葉だったのか、遠回しな心配だったのかはいまだに判然としない。
ともあれ、今の状況に当てはまりそうな魔物はいくつか思い浮かぶ。
まず、泣き女鳥。人のすすり泣きに似た声で旅人を誘い、気を取られた相手の荷物や小動物を狙う小型の魔物で、死肉や熟れすぎた果実を好む性質がある。ただしあれはせいぜい大型犬ほどの大きさで、屋根を破るほどの膂力はない。
血喰い蝙蝠も候補には上がる。群れで夜の牧場へ忍び込み、家畜の皮膚に浅く噛みついて血を吸う厄介な連中だ。けれど蝙蝠は蝙蝠であって、鳥のような足跡を残すことはないし、硬い羽根が落ちていたという話とも噛み合わない。
そうなると、残る可能性はかなり絞られてくる。
屋根板を割れるだけの力があること。硬質の羽根を持つこと。血液を好み、しかも鳥獣系に分類されること。そこまで条件を並べると、古い図鑑の片隅に載っていた一種の名前が嫌でも脳裏に浮かんだ。
夜哭鶏。
名前には鶏とあるが、もちろん私たちが朝食の卵と一緒に思い浮かべる、あの丸くて親しみやすい鶏ではない。図鑑の挿絵によれば胴体は牛ほどもあり、白く平たい顔面は妙に人間じみていて、翼のように発達した前肢の先には曲がった鉤爪、首は不自然なほど長く、羽毛は刃物を重ねたように硬い。しかも鳴き声は夜更けに女か子どもが泣いているように聞こえるのだという。
誰がそんなものを考えたのか。
そして、なぜこの世界はそれを実際に存在させてしまったのか。
作った人の趣味を、台所用の包丁を研ぎながら小一時間ほど問い詰めたくなる魔物である。
ちなみに、肉は硬い。
血には強い臭みがある。
可食素材一覧の評価欄にも、はっきり「食用には不向き」と書かれていた。
ここは大事だ。
非常に、大事である。
「夜哭鶏の可能性は?」
私がそう言うと、リナさんは少し驚いた顔をした。
「候補には入っています。よくご存じですね」
「図鑑で見ました。食材として微妙そうだったので覚えています」
「覚え方が本当にミオさんですね」
褒められているのか疑われているのか、最近わからなくなってきた。
そのとき、酒場の奥で椅子が大きく鳴り、ひとりの男が立ち上がった。肩幅が広く短く刈った赤毛、左頬に古い傷と腰に片手斧を下げた、いかにも前衛職ですという雰囲気のハンターだった。名前はガルドと言い、鋼札の上位で、近いうちに銀札へ上がると言われている実力者だそうだ。私が以前川辺の毒蜥蜴を「買い物帰りについでに」片づけた現場を目撃して以来、会うたびに微妙な顔をする人でもある。
「リナ、北街道の依頼、俺たちが受ける。あんなもんを放っておいたら村が眠れねえ」
「ガルドさん、掲示は昼前です。正式な受注手続きが必要ですし、調査班の編成をギルド長が確認します」
「なら確認を急いでくれ。こっちは朝からその話で持ちきりだ」
ガルドの後ろには、弓使いの女性と若い魔術師がいる。三人小隊なら推奨条件は満たしている。私は特に口を挟むつもりはなかった。夕飯の仕込みがあるし、夜間活動の魔物なら拘束時間が読みにくいし、夫に「今日は帰りが遅くなるかも」と言うわけにもいかない。そもそも私は泊まりの依頼は受けない主義である。夫には「今日はちょっと遠くの業務スーパーへ」とも言えない。
それなのに、リナさんはなぜかこちらを見た。
ガルドもこちらを見た。
弓使いの女性も、若い魔術師も、酒場で話を聞いていたほかのハンターたちも、なんとなく私を見た。
やめてほしい。
こういう空気はよくない。
「……私、夕飯の下味をつける予定がありまして」
沈黙。
ギルド内に、非常に扱いに困る沈黙が落ちた。
ガルドがこめかみを押さえた。
「ミオ、お前はいつもそういう理由で上位依頼を断るよな」
「家庭の平和は世界の平和の最小単位です」
「言ってることは立派なのに、なぜか腹が立つ」
「甲殻猪は漬け込み時間が大事なんです。肉が厚いので」
「こっちは北街道の話をしてるんだよ」
「北街道が荒れると蜜根草が高くなるので、私も無関係ではありません」
「そこから入るのかよ」
私は真剣だった。北街道の安全は、人命、交易、地域経済、そして我が家の食卓に関わる。順番はともかく、全部大事である。
リナさんは書類を整えながら、少しだけ声を低くした。
「ミオさん、まだ正式依頼ではありませんので、受けるかどうかの返答は不要です。ただ、ギルド長からは、掲示後に可能なら意見を聞きたいと言われています。夜哭鶏、もしくはそれに近い変異種であれば、銀札以上の経験者の助言が必要ですし、ミオさんは単独で夜間の森を歩ける数少ない狩猟者です」
「夜間の森を歩けるというか、夕飯後に足りない香草を取りに行ったことがあるだけですよ」
「普通はそれをしません」
リナさんの返しが早い。
私は腕を組み、掲示板のほうをもう一度見る。北街道、家畜被害、発熱する目撃者、硬質の黒羽根。被害は夜。まだ人死には出ていないらしい。それは不幸中の幸いでもあり、同時に時間の猶予があまりないという意味でもある。血を吸う魔物は、一度安全な餌場を覚えると繰り返し来る。家畜で足りなくなれば、人へ向かう可能性もある。
それに、女の泣き声に似た鳴き声というのが嫌だった。
私はこの世界の怖いものにかなり慣れたつもりでいるけれど、人の声に似た音を使う魔物は好きになれない。狩る側の判断を鈍らせるし、村の人たちの心を削る。夜、屋根の上から誰かが泣いている声が聞こえて家畜が暴れ、子どもが震え、大人が火を絶やさないように見張る。想像するだけで味噌汁の温度が下がりそうな気分になる。
「現地の村、今夜も危ないですか?」
「可能性はあります。被害間隔が短くなっていますので」
「今夜」
私はそうつぶやくと、市場へ向かう足は止めないまま、頭の中で今日一日の予定表を慌ただしく組み替えはじめた。
まず午前中のうちに買い出しを終える。蜜根草、香菜、干し果実、それから副菜に使えそうな葉物をいくつか見繕い、昼までには家に戻る。帰宅したら、先に洗濯物を取り込んでおきたい。空模様は申し分ないけれど、こういう日に限って午後から風が強くなり、せっかく干したシーツが庭の端まで飛ばされるのだ。ついでに台所へ水を汲み、まな板を出し、甲殻猪の肉を部位ごとに切り分ける。硬い筋は煮込み用に回して、脂の乗ったところは夕飯の主菜にする。蜜根草を刻み、味噌に似た発酵調味料と、こちらの酒に近いものを合わせ、そこへ肉を漬け込んでおけば夕方にはちょうど味が馴染んでいるはずだ。
夫が帰ってくるのは、だいたい十九時過ぎ。
そこから夕飯を出し、食べ終わった皿を下げ、鍋を洗い、余った肉を保存用に分け、明日の朝食の下準備をして夫がお風呂に入っているあいだに台所を片づける。
そのあと、夜の見回りに出る。
……いや、無理がある。
そもそも夫の帰宅時間は日によってずれるし、夕飯が早く終わる保証もない。疲れて帰ってきた夫に「今日はちょっと下の階段の先で魔物を見てくるから、先に寝ていて」などと言えるわけもない。では夫が寝たあとならどうか、と一瞬だけ考えてしまい、私は自分の発想に軽く引いた。
専業主婦とハンター業を本気で両立させようとすると、予定の組み方がだんだん家庭内ブラック企業のシフト表みたいになってくる。
「ミオ、無理に受けろとは言わん」
ガルドが、意外にもまじめな声で言った。
「俺たちが行く。ただ、夜哭鶏なら、鳴き声への対処を知ってるやつが欲しい。お前、何か知ってるか」
私は少し考えた。
「図鑑では、耳を塞ぐだけだと不十分で、鳴き声に含まれる魔素振動が胸骨や頭蓋に響くから、首元に銀草の油を塗るか、魔力を通した布で喉と耳の後ろを覆うと影響が軽減するとありました。あと、あれは正面から見ると顔の模様で硬直を誘うので、灯りを直接当てすぎないほうがいいです。背中側の羽根の根元が比較的薄く、脚の腱を切ると飛び上がりにくくなる。血の匂いに寄るので、生肉を囮にするなら血抜きしないほうがいい。ただし食材としてはおすすめしません」
ギルドの何人かが無言で私を見た。
リナさんがすばやくメモを取り始めた。
ガルドは眉間に皺を寄せた。
「お前、それ、全部図鑑で読んだのか」
「あと、魔物肉の処理手引きに少し」
「なんでそんな本まで読んでる」
「食べられるか判断するためです」
「ぶれねえな」
ぶれないことは主婦の美徳である。たぶん。
リナさんはメモを終えると、少しだけ柔らかく笑った。
「助かります。ギルド長に共有します。ミオさん、今日のところは情報提供扱いで報酬をつけますね」
「え、情報料が出るんですか」
「実用的な対処法ですので」
「では銀草の油を買う足しにしてください。ガルドさんたちが使うなら」
思わずそう言うと、リナさんは目を丸くし、ガルドは一瞬言葉を詰まらせた。私は別に格好をつけたわけではない。銀草の油は高いのだ。鳴き声対策に有効なら惜しまず使ったほうがいいし、ハンターたちが無事に帰ってきたほうが町も村も助かる。あと、北街道が早く安全になれば蜜根草の値段も戻る。ほら、ちゃんと全部つながっているでしょ?
「……お前、変なやつだな」
ガルドがぼそりと言った。
「よく言われます」
「褒めてるんだぞ?」
「ではありがとうございます」
そう返すと、彼は照れ隠しみたいに鼻を鳴らして仲間のところへ戻っていった。弓使いの女性がこちらへ軽く会釈し、若い魔術師は私のメモを覗き込みたそうな顔をしていた。私は報酬の手続きを待ちながら、やっぱり今日は早めに帰って下ごしらえしようと決める。危険な依頼の話を聞いたあとに夕飯の段取りを考えるなんて薄情に見えるかもしれないけれど、私にとって生活を整えることは戦うことと同じくらい大事なのだ。命懸けの仕事をする人がいるなら、帰って食べる温かいものも必要になる。世界がどれだけ物騒でも鍋の中で味噌汁は湯気を立てるべきだし、疲れて帰ってくる夫には柔らかい肉を食べさせたい。
ところが、帰ろうとした私の背中へギルド二階から低い声が降ってきた。
「ミオ、少しいいか」
見上げると、階段の上にギルド長が立っていた。名前はオルグ。年齢は五十代半ばくらい、元白金札の狩猟者で右目に古い傷があり、左腕は肘から先が義手になっている。義手といってもただの木の腕ではなく、魔術式の入った金属骨格に革を巻いたもので、書類をめくるときは普通の手より器用なのではと思うくらいよく動く。彼は厳つい見た目に反して、細かい経費計算に強く、若い狩猟者の怪我にはやたら心配性で、酒場の煮込みが薄い日は厨房に文句を言いに行く、たいへんギルド長らしいギルド長である。
「今、ちょうど帰ろうかと」
「五分で済む」
五分で済むと言う人の話が五分で済んだ試しは、現代日本でも異世界でもあまりない。私は心の中で洗濯機の終了時刻を確認し、甲殻猪の下ごしらえ時間を再計算しながら…まあ十分くらいなら誤差と判断して二階へ上がった。
ギルド長の執務室は、分厚い机と地図と依頼記録の棚で埋まっている。壁にはリュクレス周辺の詳細な地図が貼られ、北街道、森、村、牧場、川、古い砦跡、採取場、魔素溜まりの警戒区域などが色違いのピンで示されていた。私は地図を見るのが好きだ。地図は献立表に似ている。どこに何があり、何をどう結ぶと効率がよく、どこで問題が起きると全体が詰まるのかがわかる。まあ、献立表には魔素溜まりのピンは刺さないけれど。
「北街道の件、どう見る」
ギルド長は前置きを省いた。
私は地図の上、赤いピンが三つ並んでいる場所を見る。ラグ村、トール村、ミナの牧場。被害地点は街道沿いに点在しているようで、よく見ると古い砦跡を中心に半円を描いていた。
「夜哭鶏にしては、被害地点が妙に整っている気がします。普通は餌場から餌場へ移動するので、もっと森寄りか水場寄りに偏りそうです。これは、街道を観察しているか、古い砦跡に巣があるか、誰かが餌場を誘導しているか、どれかでは」
ギルド長の片眉が上がった。
「誰かが誘導、か」
「可能性の話です。血に寄るなら、家畜小屋の近くに血を撒けば来るかもしれませんし、逆に被害を装うこともできるかもしれません。ただ、目撃者が発熱しているなら本物の魔物はいます」
「お前は本当に主婦なのか」
「主婦ですよ。段取りと在庫確認と異臭の発生源特定は得意です」
「最後のやつは何だ」
「冷蔵庫の奥で何かが駄目になったときの技能です」
ギルド長は難しい顔のまま、なぜか少し笑った。
「今夜、ガルドの隊を調査に出す。俺の見立てでは相手は夜哭鶏そのものではない。似ているが、もう少し悪い」
「悪い?」
「硬質羽根に吸血性、精神影響、被害地点の規則性。古い記録に一つ、該当するものがある。哭面鳥、あるいは哭き喰らいの原種。三十年前、北の砦がまだ使われていた頃に一度出た」
「原種というと、変異種より強いんですか」
「強いというより、しつこい。巣を作って餌場を覚え、鳴き声で獲物の恐怖を濃くしてから血を吸う。放置すれば、群れを呼ぶこともある」
私は黙って地図を見た。
群れ。
それはあんまりよくないかも。魔物一体なら討伐依頼で済むけれど、群れになれば村の避難、街道封鎖、物資不足、価格高騰、兵の動員、怪我人、死人、いろいろなものが雪崩のようにつながってしまう。主婦の脳内家計簿が、今度は地域災害対策表に切り替わってしまった。
「私に何をしてほしいんですか」
「受けろとは言わん。お前の制約は知っている。夕方には帰る、泊まりはしない、家族に心配をかけない。妙な狩猟者だが、雇っている以上こちら側としても約束はちゃんと守る。だから頼みたいのは昼までの事前調査だ。北街道へ出て、被害地点の匂いや足跡、羽根、魔素の残りを見てこい。戦闘になったらすぐに退け。ガルドたちが夜に動くための情報が欲しい」
昼まで。
その一言を頭の中で転がしながら、私は机に広げられた地図へ視線を落とし、次に窓の外へ目をやって、まだ高くなりきっていない太陽の位置を確かめた。
いまここを出れば、北街道まではそう遠くない。被害が出たという地点を見て、足跡なり臭いなり、巣へ戻った痕跡の向きだけでも拾えれば深追いせずに引き返すことはできるはずだ。森道を抜ければ多少は時間を削れるし、今日の空模様なら洗濯物を取り込むのが少しくらい遅れても生乾きにはならない。甲殻猪の下味だって昼を過ぎてからでも手順を間違えなければ夕飯には間に合うし、夫が帰ってくるころには台所にいい匂いを漂わせておくくらいの余裕は作れる。
計算上は、問題ない。
ただし問題というものは、こちらが計算に入れなかった場所から落ちてくる。
とくに私が「ぎりぎりだけど何とかなる」と予定を詰めはじめたときほど、面倒事はまるで出番を待っていたみたいに横から顔を出すのだ。
「報酬は」
余計な不安をいったん脇へ押しやり、私はギルド長に尋ねた。
「調査料として大銀貨一枚。巣の位置、個体数、移動経路など、討伐隊の編成に使える情報が取れた場合は上乗せする。魔物と接触して、素材を持ち帰ったなら別計算だ」
「銀草の油代は、ガルドさんたちに回してください。あの人たち、さっきので手持ちをだいぶ使っているはずです」
「それはギルド備品から出す。個人負担にはしない」
それなら、と私は短く息を吐いた。
「受けます。昼までに戻ります」
ギルド長は迷いのない返事を聞いて満足したのか、重々しくひとつ頷くと、机の引き出しを開け、中から赤い紐のついた木札を取り出した。札の表面には簡素な焼き印が押されていて、緊急依頼の事前調査を請けた者に渡される仮受注札なのだという。
それを手渡された私は、首から下げている自分の銀札の横へ赤紐の木札を並べて掛けた。
主婦としては、首まわりの装飾品が増えたところで少しも嬉しくない。しかも宝石でも飾り紐でもなく、責任と危険をぶら下げるための仕事札である。とはいえ受けた以上は文句を言っても始まらないので、私は木札の重みを指先で確かめるだけにして、踵を返した。
執務室を出ようとした、その直前だった。
背後から、ギルド長の低い声が追いかけてきた。
「ミオ。北の砦跡には、昔、門があったという話がある」
私は足を止めた。
「門?」
「古い時代の魔術師が作った、別の土地へつながる門だ。今は崩れているはずだが、哭面鳥はそういう場所を好む。魔素の流れが歪む場所にな」
胸の奥が、ほんの少し冷えた。
門。
私の家の納戸の下にも、こちらの世界へつながる階段がある。あれも門と呼べるものなのか、いまだにわからない。便利な買い出しルートとして使っているものの正体を私はちゃんと知らない。知らないまま肉を持ち帰り、夕飯にして夫に食べさせている。急に蜜根草の甘い香りがポーチの中から漂ってきた気がした。
「その門と、私の……いえ、何でもありません」
「何か知っているのか」
「家の床下が変、というくらいです」
「普通の家は床下が変でも異世界にはつながらん」
しまった。
言い方を間違えた。
私はにっこり笑った。
「冗談です」
ギルド長はまったく信じていない顔をした。
「お前の冗談は、たまに書類に残したくなるほど怪しい時がある」
「書類に残さない方向でお願いします。夫に見つかると困ります」
「夫とは何だ」
「私の最重要保護対象です」
「……もう行け。昼までに戻れ」
私は受付にもう一度だけ頭を下げ、赤い仮受注札と銀札を胸元の内ポケットへしまってから、ギルドの重い扉を押し開けた。
外へ出た途端、午前の日差しがまぶたの裏まで差し込んでくる。
市場は、私がギルドへ入る前よりもさらに熱を増していた。パン屋の窯からは焼き上がったばかりの丸パンの香ばしい匂いが通りまで流れ出し、水場では子どもたちが身の丈に合わない桶を二人がかりで運びながら途中で水をこぼしては笑い、北門へ向かう荷馬車の車輪は石畳の継ぎ目を越えるたびに低く鳴った。道端では護衛の値段が高いだの、荷の積み方が悪いだのと商人が眉間に皺を寄せてまくし立てていて、言われている側の剣士は慣れたものなのか、片耳だけで聞き流しながら干し肉を噛んでいる。
日常が、そこにあった。
こちらの世界にも、ちゃんと生活がある。
私の家に炊飯器はないけれど、夫の弁当を詰める籠があり、味噌汁の代わりになる汁物を煮る鍋があり、洗い終わって干す前の布巾があり、夕方までに戻らなければならない理由があるように、リュクレスには焼き串があり市場がありギルドがあり、北街道の様子を気にしながら今日の商いを続けている人たちがいる。
だから、少しだけ働こう。
昼まで。
昼までなら、まだ主婦の範囲内だ。
私は路地の脇へ寄り、念のためポーチの中身を指先で確かめた。短剣、投げ刃、治癒軟膏、銀草油の小瓶、魔力布、干し肉、水袋、蜜根草、香菜、財布、甲殻猪の肉、それから黒胡椒によく似た香辛料の包み。殺傷力のある道具と夕飯の材料が何の隔たりもなく同じ収納に収まっている状況については、もう深く考えないことにしている。
人生、慣れたもの勝ちである。
北門を抜けると街の喧騒は背中側へ薄まり、かわりに土と草の匂いが少しずつ濃くなっていった。
街道は森のほうへ向かって、なだらかな線を描きながら伸びている。春の風が低い草を撫でるたび、葉先についた朝露が細かく光り、遠くの丘では羊の群れが白い粒のように散っていた。畑の境に立つ案山子の袖が頼りなく揺れ、その向こうの空では大きな鳥影がひとつ、青の中に黒い輪を描いている。
私は歩調を崩さないまま、今夜の献立を頭の中で組み直した。
甲殻猪はやはり蜜根味噌漬け焼きがいい。表面をしっかり炙って香ばしさを出し、噛んだ瞬間に甘じょっぱい肉汁が出るくらいに仕上げたい。付け合わせには月光きのこをバターもどきの乳脂で炒め、香菜は最後に散らす。卵スープは薄味にして、主菜の濃さを邪魔しないようにするべきだろう。浅漬けも欲しい。余裕があれば、干し果実を少し戻して甘煮にしておけば食後に夫が嬉しそうな顔をする。
完璧だ。
実に、隙のない夕飯である。
問題があるとすれば、その完璧な夕飯を作る前に、血を吸う哭き喰らいだか哭面鳥だか、名前を聞いただけで食欲が一段階しぼむ魔物の痕跡を探らなければならないことだった。
「ほんと、主婦の午前中って忙しいわねえ」
誰に聞かせるでもなくそうつぶやくと、胸元の内ポケットで銀札と赤い仮受注札が小さく触れ合い、乾いた音を立てた。
この時点ではまだ、私は考えたくなかった。
我が家の床下にあるあの不可解な門と、北の砦跡に眠っているという古い門が、まったくの無関係ではないかもしれない、などという面倒な可能性については、できれば夕飯を作り終えるまで棚の奥に押し込んでおきたかったのだ。そんなことを真剣に考えるより、甲殻猪を一口食べた夫がどんな顔で「うまっ」と言うかを想像していたほうが、精神衛生上はるかに健全である。
けれど。
空を旋回していた鳥影が、不意に輪を小さくした。
風に乗って滑るように傾いたその影が、一度だけこちらへ顔を向けた気がした。距離はまだある。はっきり見えたわけではない。それでも日差しの中でちらりと浮かんだ白い面のようなものに、私は思わず足を止めていた。
ポーチの口を押さえる。
呼吸をひとつ、細く整える。
さっきまで献立のことで満たされていた頭の中から、余計な温度がすっと引いていった。
泣き声は、まだ聞こえない。
血の匂いもしない。
けれど北街道を渡る風は、市場で蜜根草の値が上がった理由をもう隠すつもりがないほど冷たく澄んでいた。
私は短剣の柄に指をかけたまま、家で待っている洗濯物を思い浮かべた。次に夕飯を楽しみに帰ってくる夫の顔を思い出す。それから女の泣き声に怯えながら戸口を閉ざしているかもしれない街道沿いの村人たちのことを考え、最後に小さく肩をすくめた。
専業主婦の用事は、買い物、洗濯、料理、掃除、回覧板。
それから、たまに魔物の事前調査。
ええ、今日も予定がぎっしりですとも。
主婦ですが何か。




