第7話 おやすみ、マリー
意識が戻ったとき、最初に感じたのは身体の重さだった。
目を開けようとしたが、まぶたが思うように動かない。身体を起こそうとしても、手足にはほとんど力が入らなかった。
薄い膜のようなものに包まれている感覚がある。視界の端には淡い光が流れ、何かの数値や文字が絶えず更新されていた。
<カロン調査員、意識の回復を確認しました。私の声が聞こえますか?>
「……アティ? ……いやアィーダ?」
<はい。現在、医療カプセル内で治療を受けています。意識状態を確認します。こちらの声は明瞭に聞こえていますか?>
「ああ……聞こえている。僕は……どうなったんだ?」
<重症マラリア感染による多臓器障害を発症していました。搬送時には生命維持が極めて困難な状態でした>
僕はもう一度、身体を動かそうとした。しかし、指先がわずかに動いただけだった。
「そんなにひどかったのか……」
<初期診断では、高度の溶血と血小板減少、肝機能障害、急性腎障害、肺機能低下が確認されました。また、全身性炎症反応と循環不全が進行し、意識障害も発生していました>
医療系の管理者AIであるアィーダの話によれば、感染によって赤血球が大量に破壊され、血液の酸素運搬能力が著しく低下していたらしい。さらに、炎症反応と微小循環障害によって、肝臓や腎臓をはじめとする複数の臓器が正常に機能できなくなっていた。
治療には、まず抗マラリア薬を投与して原虫の活動を抑制した。その後、体外循環による血液浄化を行い、感染した赤血球や血液中に蓄積した有害物質を選択的に除去したという。
血液成分の補正によって酸素運搬能力を回復させる一方、腎臓の機能を一時的に代行し、血液中の老廃物を排出。肝臓、肺、心臓についても細胞単位で機能を補助し、損傷した組織の修復を促進する処置が行われた。
脳についても、神経細胞の損傷を抑えるための保護処置と、脳機能の回復を支援する治療が続けられていた。
「それで……助かったのか?」
<現在、生命維持に必要な各機能は安定しています。感染症の進行も抑制されました。ただし、臓器機能は完全には回復していません。引き続き医療カプセルによる治療が必要です>
病気というものが、これほど恐ろしいものだとは想像もしていなかった。
自分がどれほど過酷な環境で活動していたのか、改めて思い知らされた。こうして生きていられるのは、幸運だったと言うほかない。
「ここは……どこだ?」
<マカパ軌道施設、汎用ゲート7の医療区画です。先日の調査で、最低限の施設機能が維持されていることを確認した場所です。幸い、エネルギー供給経路が生きていたため、医療設備の一部を再稼働させることができました>
「そうか……」
<現在の医療設備の稼働率は12%です。施設全体としては十分な機能を回復していませんが、協力者の支援を受け、生命維持に必要な資材や物資の確保、搬送、補充を行っています>
「協力者?」
僕はその言葉に引っかかった。
「本国からの支援を要請したのか?」
<いいえ。アトモスの共有情報によると、先日、地上で接触した現地住民2名のうち、1名を施設の協力者として受け入れました>
最初は、アィーダが何を言っているのか理解できなかった。
しかし、しばらく考えているうちに、ぼんやりとした記憶がよみがえってきた。
高熱で意識がもうろうとしていたとき、誰かの声が聞こえたような気がする。子供たちの声だった。夢なのか現実なのかも分からなかったが、確かに誰かがそばにいた。
「あの子たちか……アティ、いやアトモスが協力を判断したのか?」
<はい。アトモスの判断によれば、TOSへの帰還を試みた場合、8時間以上かかるため生命維持に重大な支障が生じるおそれがありました。また、本国への救援要請についても、感染症の正体が判明していない以上、受け入れは困難との判断でした>
「他の調査員に応援を頼むこともできなかったわけか」
<同様です。感染の可能性がある以上、他の調査員を危険にさらすことはできません。最悪の場合、調査隊全体に感染が広がり、全員が行動不能になるおそれもありました>
「そうだな……」
僕は目を閉じた。
未知の感染症に対して、安易に人を呼び寄せることはできない。まして、閉鎖された船内や居住区に病原体を持ち込むことなど論外だ。
<そのため、アトモスは過去数日間にカロン調査員と接触した現地住民のうち、2名の子供たちに協力を要請しました。感染源の特定につながる可能性があり、また、村の住民から隔離した状態で対応できると判断したためです>
「なるほど……」
今回、僕が医療カプセルに収容されたことで、ようやく感染症の正体がマラリアだと判明した。だが、あの時点では何も分かっていなかったのだ。
本国も、アティも、間違った判断をしたわけではない。むしろ、限られた情報の中で最善の選択をしていたのだろう。
かつてコロニー内で流行性感冒が発生した場合の対応について、教育カリキュラムで嫌というほど学んだことがある。閉鎖空間に未知の病原体を持ち込むことがどれほど危険なのか、僕だって十分に理解していたはずだった。
「そうか……それで、あの子たちに協力を頼んだんだな。彼らは集落に帰したのかい?」
<はい。男児はアトモスのサポートですでに集落へ帰還しています。もう一人の女児は、おそらくこの医療区画にいます>
「……そうか、彼女が支援者か」
僕は小さく息を吐いた。
<はい。治療開始から現在までの約50時間に、資材や物資の確保、搬送、補充を行っています>
「あの子が、そうか……本当にありがたい、命の恩人だ」
<はい。なお、協力者の行動について、追加で報告すべき事項があります>
<協力者は、食事の用意をするため魚を取りに行くと言い、停泊中の小型船を無断で動かそうとしました>
<アトモスが発進前に制止しています>
「……え?」
<フードリファイナーの使用方法を理解するまでに4時間を要しました>
<その後、食品原料の容器をそのまま装置に投入し、フードリファイナーを破損させました>
「なんてことを……」
<現在は代替設備として、8フロア下にあるフードリファイナーを使用しています。その移動中、施設内で5回迷子になりました>
<ほかにも、この50時間の間にトイレの使用方法が分からず2回失敗しています。シャワー設備では漏水事故を1件発生させました>
僕は思わず額に手を当てた。
<ちなみに、現在6度目の迷子になっております>
「…………僕はあと、何時間でカプセルから出られるんだ?」
<現時点で、あと30時間を予定しています>
「そうか……それまでに、これ以上施設が破壊されないことを祈ろう」
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次に目を覚ましたとき、あの少女が医療カプセルにへばりついて僕を見ていた。
いや、見ていたというより、観察されていたのだろうか。
何かを話しかけているようだったが、言葉が通じないので何を言っているのかさっぱり分からない。
アィーダによれば、どうやら何か食べたいものはないか、魚を取ってくるから待っていろ、といったことを話していたらしい。
その後も、病人に接触するには消毒が必要だとか、身体を清潔にしておかなければならないとか、さすが医療系のAIだ、アィーダからかなり厳しくいろいろと注意を受けているようだった。
高性能AIも、こうなるとただの口うるさい母親のようだ。
その日の午後、ようやくカプセルから出られることになった。
身体を起こしてみたものの、倒れてから80時間近くが経過している。長い間ほとんど身体を動かしていなかったせいか、全身に力が入らず、頭もまだぼんやりしていた。
足を床につけると、身体が自分のものではないような感覚がした。立ち上がるには、まだ誰かの支えが必要らしい。
作業スーツが手元にないため、少女と言葉を交わす手段がなかった。そこでアィーダに翻訳を頼むと、医療区画の設備から年代物のネックカラーが出てきた。
こんなものまで残っていたとは驚きだ。ずいぶん古い規格のものだが、基本的な翻訳機能は問題なく使えるらしい。
そうこうしているうちに、アィーダにあれこれ注意されたのだろう。文字通り洗浄・消毒されたらしいマリーが、ブカブカの医療服姿で部屋に入ってきた。
「Você está bem, Charon?」
(カロン、大丈夫?)
ネックカラーを通して、彼女の言葉が翻訳される。
「ああ、助かったよ。君とルーカスがここまで運んでくれたと聞いた。ありがとう」
マリーは僕の顔をじっと見つめていたが、次の瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「Que bom! Achei que você ia morrer!
Quer comer alguma coisa? Se quiser, eu posso caçar um queixada pra você agora mesmo!
Ati, liga a nave! E me arruma uma lança!」
(良かった! 死んじゃうかと思った!何か食べる? なんなら今からペッカリーを狩ってくるよ!アティ、船を動かして! それから槍を用意して!)
「……ペッカリー?」
聞き慣れない言葉に、僕は首をかしげた。
どうやら、魚か何かよく判らないが、食べ物を用意してくれるつもりらしい。それはありがたいのだが、なぜ船と槍が必要なのだろう。
「ああ、気持ちはありがたい。でも大丈夫だ。ここにいてくれ。いいかい、ここにいるんだ」
僕はまだ思うように動かない身体を起こしたまま、彼女に念を押した。
せっかく命拾いしたというのに、目を離した途端に何かを始められてはたまらない。
夜になると、医療区画の照明も少し落とされ、室内には機器の静かな駆動音だけが響いていた。
僕はベッドに横になったまま、マリーからここへ来たときの話を聞いていた。
エレベーターがあったものの、動かなかったため、階段を僕を背負って運んだこと。僕を乗せた毛布を引きずりながら運んだこと。
アティと違ってアィーダはお母さんよりもうるさかったこと。
それから、食事を作る装置を壊してしまったことも、申し訳なさそうに話してくれた。
「ごめんなさい。あれ、壊すつもりじゃなかったの」
「ああ、分かっている。気にしなくていい」
そう答えながら、僕は少し苦笑した。装置の破損については、アィーダからすでに報告を受けている。むしろ、事故にならなくてよかった。
ただ、話を聞くうちに、どうしても気になることがあった。
「ところで、ルーカスが医療バンドを装着してくれたというのは本当かい?」
「うん。ルーがやったよ。アィーダが教えてくれたんだって」
僕は思わず聞き返した。
循環器系の状態を監視し、治療を行う医療バンドだ。基本的な操作は自動化されているとはいえ、患者の状態を確認し、適切に装着するには最低限の知識とかなりの経験が必要になる。
それを医療AIのサポートのみで10歳の少年が行ったというのか。
しかも、彼らは文明から隔離されて100年以上が経過した環境で暮らしている。医療設備に触れる機会など、なかったはずだ。
「ルーカスは、どこでそんなことを覚えたんだい?」
「知らない。アィーダに聞いて、言われたとおりにしたんだと思う」
マリーは何でもないことのように答えた。
僕にとっては、決して何でもないことではなかった。
AIの指示があったとしても、それを理解し、状況に合わせて実行できたということだ。あの少年はかなり理解力が高く、賢いのだろう。
話を続けているうちに、マリーの返事が少しずつ遅くなってきた。
よく見ると、まぶたが重そうだ。ここへ来てからずっと気を張っていたのだろう。
慣れない施設の中で100時間近く過ごしていたのだから、疲れていないはずがない。
「マリー、眠いんじゃないか?」
「……ちょっとだけ」
そう答えたものの、彼女はまだ僕のそばを離れようとしなかった。
「もう休むといいよ。ここにはアィーダもいるし、何かあればすぐに知らせるよ」
ようやく納得したのか、マリーは小さくうなずいた。
ところが、彼女は別室に行くのかと思いきや、フラフラと部屋の隅に歩いていった。
そこには、食品原料が入っていたと思われる潰れた箱が積まれたゴミの山があった。マリーはその中から毛布を引っ張り出すと、身体に巻きつけ、膝を抱えるように丸くなって犬のように寝始めた。
「……そこで寝るのかい?」
「うん。ここでいい」
それだけ言うと、彼女はすぐに目を閉じた。
僕はしばらく、その姿を眺めていた。
ルーカスは10歳にして医療設備を扱う知識と理解力を持っているが、この子はまるで野生児だ。
いや、違うな。どんな環境でも生きていける、強い生命力を持った子なのだろう。
僕は少しだけ笑い、心の中で『おやすみマリー』とつぶやいた。




