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最近文章を書いていなかったので、よたよたとした調子になっているが、このままよたよた行こう。
ダ・ヴィンチの自然観は我々日本人とは違うものである。日本人はアニミズム的というか、自然を対象として捉えるというより自分達と同じものとして感じる向きがある。「共生」という感じである。
日本の過去の優れた画家の画業を思い起こすと、彼らがいかに山や川や、虫や鳥を愛を持って描いていたかという事が思い起こされる。彼らは同じ日本の風土に根付く仲間という感じで事物を見ている。それと比べた時、レオナルド・ダ・ヴィンチ、あるいは西欧の優れた芸術家らはもっと冷たい雰囲気がする。冷たい、理性的な、頭脳的な捉え方をしているように感じられる。比較的東洋趣味の強いゲーテにもやはりそういうものを感じる。
これは当然宗教の違いだろうが今はそこまでは踏み込まない。いずれにしろはっきりしていると思うのは、自然を対象化し、それを賛美するにしても人間と分離したものとして感じる頭脳的な感性というものが、やがては自然を操作し、人間の為の自然という風な態度に変化していった根底にあると考えられる。それは基本的に西洋的なものだ。
ベルジャーエフの言わんとしている事はまさにそういう事だろう。ダ・ヴィンチにとって自然を分解する事は楽しい事だった。絵画を描く為に解剖学を学ぶ事は自然の理法を知る事だった。ダ・ヴィンチは自らが神になろうとしたわけではなく、神と人間との関係をより強固なものとして打ち立てたかっただけだろう。
だがその姿勢はやがて自然を支配していく力に変じた。その後、数百年の歴史は言うまでもない。人間は神の理法を知ろうとする謙譲な態度よりも自然を操作し、支配し、それを自分達のものにする事を優先した。その為に我々にはレオナルド・ダ・ヴィンチが求めた姿勢はわからないが、彼の技術的な先見性だけが目につくものとなっている。