3
ダ・ヴィンチにしろゲーテにしろ、我々からすると神と思えるような天才はより大きな存在を、具体的な事物の向こう側に見ていた。
彼らの天才は自分よりも大きい物を想定する事にあった。ダ・ヴィンチのような人は科学的な視点で世界を解明する事に命を費やしたが、その時はまだ自然は生きていたのである。なぜなら神が生きていたからだ。神を信じていたからだ。
やがて、神は死に、代わりに我々自身が神になった……と言っていいだろう。例えば、私などは深夜、巨大な建築機械、クレーン車や巨大な機械で地中を掘り返しているのを見るとうそ寒い気持ちになる。
私には他の人がこんな気持になった事がないのがむしろ不思議だが…あの巨大な、赤い、灯日のついたクレーン車が夜の中にそびえ立っているのを見る時、人間が巨大な神を操る存在になってしまったという感慨を抱く。巨大なビルの前に立っても同じような気持ちになる。その中で無数に蠢く人間達は一体どのような存在なのだろう?と思う。人間はここまで来たのかという感じも起こる。
ギリシャ世界にとっては様々な神が乱舞していたわけだが、現在では人間が作り出したものがかつての神のような巨大な生物のような振る舞いをする。これは現に山を作り変える事も、バベルの塔を建設する事も、地上から生命を消し去るのもまた容易だ。私が大げさな事を言っていると思うかも知れないが、人間は少なくともここまで来たのだ。
カフカなどはこうした大きな世界に押しつぶされていく個人を描いたのだが、そこでは既に自然は死んでいる。ヘーゲルはその歴史哲学の最後で、これからは人間が理性的に歴史を築いていくのだと高らかに宣言したのだが、実際に築かれた歴史はおそらくヘーゲルのオプティミズムに反するものだった。
我々が周囲を見た時、人間達が作り出した人工物と、人間が作り出した巨大な組織に一致した人間達しかいない。そこに我々はなんら生き生きした自然を見いださない。近代における強い情熱、神から逃れ得た時の、楽園から外に飛び出た時の力強い情熱と悲しみは存在しない。
我々は閉じた世界を完成させると共に一つの終末そのものになったとも言えるだろう。その要因は、ベルジャーエフの言うように、ダ・ヴィンチが自然を理解しようとして駆使した様々な技法・技術、その手段を絶対化した事にあると言えるだろう。ここで目的と手段は入れ替わり、我々は自分達の生命の延長と利便性を得たがそれと同時に、死んだ自然、システムに当てはまった個人という、ダ・ヴィンチであればもはや素描したいと思わないような巨大な集積を手にしたのだった。
※
さて、やたら大仰な言葉を使ってきたこのエッセイももう終わらなければならない。
現代に生きる我々はレオナルド・ダ・ヴィンチという人を振り返ってその天才性を褒め称えるがおそらく、ダ・ヴィンチが見ていたものは見えていない。だから彼はただ「万能の天才」と呼び、言い換えれば、あらゆる方面において優れた能力を持っていた個人しか見いださない。
そのようなだけの個人はおそらくレオナルド・ダ・ヴィンチという人物にはなれない。ダ・ヴィンチに近い存在はゲーテであり、ゲーテもまた、彼の究極目標に対する中途的過程しか我々に残さなかったと言える。彼らがどんな山を登ろうとしていたかは我々には見極めがたい。
それから時間が経ち、自然を理解しようとする願いは自然を機械的に眺め、それを我が物にする方向へと進んだ。人間は神を打倒し、巨大な人間社会を作り上げたが、今度は自分が作り上げたものによって圧倒される事になった。我々は自分達が作り上げたものによって復讐を受けている。その維持の為に、二、三の個人が野垂れ死のうが知った事ではない。
我々はこの社会を維持しなければならないが、「なぜ?」「なんのために?」という問いは禁じられている。我々にとってはただこの世界に染まっていく事が必然であると感じられているからだ。言い換えれば、人間にとっての神は形を変えたに過ぎない。神が外部に、宗教として存在するものから、自分達主導のものとする事によって、むしろ我々は自分自身から疎外された。我々は世界の中に当てはめられた自分自身の姿を見るのみだ。
我々が世界を眺めると、もうそこで世界は死んでいるのがよくわかる。世界は既に手垢がついている。観光旅行でしか世界を回れず、システムに当てはまった上での労働、その上で、選択肢を与えられているが実際には拘束された遊興だけしか存在しない。生きる事も死ぬ事も何かに当てはめられた状態で、その上での些細な出来事を描いているにすぎないものが「純文学」とされる。
文学はもともと、神から離反する人間の悲しみについて描いていたが、完全に人間の勝利がやってきてしまったのであらゆる差異性を消去されてしまった。そこで、強引に「文学的」という看板をぶら下げたいが為に差異のようなものを各自ひねり出しているのが現状で、これらは当然全て亜流に属するものだ。これら全ては時間の中でわずかな差異、末端としてすぐに消えてしまう砂上のひっかき傷にすぎない。
我々がかつての芸術家と同じように世界を眺めようとしても、例えば「恋愛」を描こうとしてみても、そこには大抵、小さな利害に拘泥する情けない現代人の姿しか映し出されない。「売上」に貢献する為に広告だけが大袈裟な言葉を並べ立てるが世界が無生物に似た何かに近くなっているのは避けようがない。
まずするべき事は我々が失ったものは何かを知る事だろう。ダ・ヴィンチのデッサンは生き生きとした生命力を湛えているが、そのダ・ヴィンチの天才はどこから来たのか、何を信じた為に起こったのか、それを考える事は……カント的に言えば超越的ではなく、超越「論」的に意味があるものとなるだろう。まず我々は自分がなんであるのかを知る必要がある。そして自分(人間)が何であるのかを知る為には、自分でないものが何であるのかも知る必要がある。そうでなければ差異がなくなり、我々は我々自身を認識する境界線すら見いだせないものとなってしまうからだ。




