路地の怪物と異能
現代の日本。
人知れず、特殊な力――「異能力」を持つ者たちが存在している。
異能力者の存在は世間には知られておらず、彼らは一般社会に紛れて暮らしていた。
そんな世界で、ごく普通の高校生として暮らしていた少年、狼谷零爾。
ある夕暮れ、零爾は人間を襲う謎の怪物「異塊獣」と遭遇する。
逃げることもできたはずだった。
それでも零爾は、目の前で襲われている人を助けるため、異塊獣へ立ち向かう。
自分自身の力すら知らない零爾は、やがてこの世界の「境界」に触れていく。
普通の人間と異能力者。
人間と異塊獣。
そして、誰も知らない世界の真実。
これは、一人の少年が「こちら側」の世界へ踏み込み、隠された境界の向こう側へ進んでいく物語。
放課後の夕暮れ時。狼谷 零爾は、どこにでもある普通の通学路を歩いていた。
足元には、いつの間にか自分に懐き、当たり前のように並んで歩いている一匹の大きな狼。周囲の人間には見えていないのか、ただのデカい犬だと思われているのか、誰も気に留める様子はない。
「今日夕飯何にしようか……」
そんな他愛もないことを考えていた時だった。
裏路地から、生臭い風とともに「ガチガチ」と骨が鳴るような異様な音が響いた。
嫌な予感に背中を撫でられ、零爾が路地を覗き込む。
そこにいたのは、人間の形を崩したような異形の肉塊——「異塊獣」。
そして、その巨大な爪の下で、腰を抜かして怯える一般人の姿だった。
「ひっ……助け——」
考えるより先に、零爾の身体が動いていた。
「そこから離れろっ!」
零爾は踏み込み、襲いかかろうとしていた異塊獣の側頭部へ全力の拳を叩き込んだ。
——ガキィンッ!
「ぐっ……!?」
手応えは生身の人間を殴った感覚ではない。まるで分厚い鉄板を殴りつけたかのような激痛が拳を襲う。異塊獣の巨体は微動だにせず、ただギロリと赤黒い目を零爾に向けた。
(硬すぎる……! ダメージが全く入ってねぇ!)
圧倒的な力量差。まともに戦えば一瞬で殺される。
零爾は即座に切り替えた。戦うのではない。あの人を逃がす。
「早く走れ! 逃げろ!!」
声を張り上げ、一般人を庇うように異塊獣の前に立ちふさがる。だが、その一瞬の隙を異塊獣は見逃さなかった。
ゴオッ!!
太い腕が横薙ぎに振るわれ、零爾の胴体を直撃する。
「ガハッ……!?」
視界が激しく回転し、零爾の身体は路地の壁に叩きつけられた。背中に激痛が走り、地面に崩れ落ちる。
「う……あ……」
視界が霞む。身体が言うことを聞かない。指一本動かすことすら一苦労だった。
守ろうとした一般人は、恐怖のあまり零爾に目を向けることもなく、悲鳴を上げて走り去っていく。
(逃げられたか……よかった……)
だが、異塊獣の狙いは去っていく一般人から、足止めをした零爾へと変わっていた。じりじりと足音を立てて近づいてくる。
(動け……動けよ、俺の体……!)
死の恐怖。しかしそれ以上に、「目の前の化け物に殺されるわけにはいかない」という強い衝動が胸の奥から湧き上がる。
その強い意思に呼応するように、零爾の身体の奥深くで「何か」が熱く脈動し始めた。
(……なんだ、これ?)
体内を巡る不快で、けれど圧倒的に熱い「何か」の流れ。零爾は無意識のうちに、その熱い流れを掴み取り、身体全体へ巡らせようと手繰り寄せた。
じんわりと、麻痺していた感覚が戻ってくる。
「……なんか、体が少し軽い……?」
知識も何もない。自分が何をしたのかすら理解していない。ただ「動けるようになった」ということだけを頼りに、零爾は泥臭く立ち上がった。
横に立つ狼が、声もなく低く身構え、鋭い眼光で異塊獣を睨みつける。
「よし……行くぞ!」
零爾と狼は、阿吽の呼吸で躍動した。
狼が無言のまま疾走し、異塊獣の視界を遮るように影から飛びかかって注意を逸らす。その隙を突き、先ほどよりも少しだけ速く、重くなった零爾の拳が異塊獣の関節部に突き刺さる。
一人と一匹の泥臭い連携。何度も弾き飛ばされ、擦り傷を増やしながらも食らいつき——ついに異塊獣が大きくバランスを崩し、地面へ倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……っ! 倒し……たか……?」
荒い息を吐きながら、零爾は安堵のため息をつく。
だが、彼には知識がなかった。異塊獣は「核」を破壊されない限り、何度でも再生するということを。
倒れたはずの異塊獣の背中から、どす黒い異素が湧き上がる。
零爾が自分のボロボロになった手を見つめている背後で、異塊獣の巨大な爪が静かに持ち上げられていた。
狼が異変に気づき、死角から迫る脅威へ向けて低く身構える。しかし、間一髪、反応が遅れる。
(しまった——)
振り下ろされる死の爪。死を覚悟して目を瞑りかけた、その時。
「——『重力掌握・圧壊』」
だるそうな、けれど低く通り抜ける声が響いた。
ズガァァァァァンッ!!!!
見えない巨大な重圧で殴りつけられたかのように、異塊獣の巨体が一瞬で地面ごと押し潰された。
アスファルトがクモの巣状に割れ、圧倒的な重力が路地裏全体を支配する。異塊獣は叫び声すら上げられず、その核ごと平坦に潰されて黒い塵へと変わっていった。
「え……?」
呆然とする零爾の前に、ポケットに手を突っ込んだ一人の少年——重条 朔哉が立っていた。
朔哉は踏み潰された跡地を一瞥すると、ボロボロで立ち尽くす零爾へ視線を向ける。
「……こんなところで何やってんだ、お前」
「あ……いや……人が襲われてたから、助けようとして……」
零爾が素直に答えると、朔哉は「はぁー」と深いため息をついた。
その時、路地の入口からカツカツと一人分の足音が近づいてくる。
現れたのは、きっちりとスーツを着こなした男が一人。手元にある端末を操作しながら、淡々と路地へ入ってきた。
「重条くん、お疲れ様です。アラートを受けて急行しましたが……おや、そちらの君は?」
男が血だらけの零爾へ視線を向ける。
朔哉は面倒くさそうに首を回しながら、零爾を顎でしゃくって淡々と言い放った。
「あー、こいつさっき異塊獣と殴りあってました。多分能力者です」
「……は?」
「え……?」
スーツの男は端末を操作していた手を止め、零爾を見直す。零爾も「殴りあうのって普通じゃないの……?」と言いたげな顔で固まる。
横に立つ狼は、ただ静かに男と朔哉を見つめていた。
夕闇が迫る路地裏で、狼谷零爾の「普通の日常」が静かに終わりを告げた瞬間だった。




