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墨染栞の帝国探索日誌 ~白紙の頁に教授と綴る、失われた七つの宝石~  作者: ぷりぷりなまこ
第二章 目覚めた揺りかご

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第八頁 「大地に沈む灯と浮かぶ断片」


【アイゼンの輪郭】


ページターン号の静かな飛行は、二日間続いた。


窓の外では、雲の層がゆるやかにほどけるように薄れ、やがて山脈の稜線が、曖昧さを拒むかのような明確な輪郭をもって現れ始める。


その姿は、これまで私が見てきたどの風景とも異なる質感を帯びていた。フォグ・エンドの霧が境界を溶かしていたあの景色とも、帝都の装飾的で精緻な構造とも異なり、そこに在るものはただ、岩と土、そしてそれらが幾重にも積層した結果として現れた、分断されることのない硬質な線である。触れることはできずとも、その密度は、視線を通して確かにこちらへと伝わってくる。


「着陸準備を始めよう。気流は安定しているが、地形の起伏が大きい。高度の落とし方には注意が必要だ」


教授の声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保ちながらも、その内側にはわずかな昂揚が滲んでいた。操縦席に立つ彼は、複数のレバーとダイヤルを滑らかに操作しており、その一連の動作は、機械的というよりも、むしろ長年使い込まれた楽器を奏でる演奏者のような連続性を帯びている。


私は調査用の外套へと着替え、その布地が肩に馴染む感触を確かめながらも、意識の一部は依然として窓の外の山嶺へと引き留められていた。機体は安定を保ったまま、ゆるやかに高度を落としていく。


やがて視界の先に広がったのは、山脈の麓に抱かれるように形成された盆地だった。


その中央に、鉄と石の色をした都市が、まるで大地そのものに沈み込むかのような姿で存在している。街並みは直線によって構成され、建物は互いに距離を詰めながら密集し、その配置は自然発生的というよりも、あらかじめ定められた規則に従って「置かれた」かのような印象を与える。


街路には軌道が走り、蒸気機関車が石炭を積んだ貨車を牽引しながら、一定の速度で運行している。その光景には、霧の都にあった曖昧な広がりも、帝都に見られた華やぎもない。ただ、機能と目的とが、余分なものを削ぎ落とした末に残った形として、そこに現れている。


「街路の直線配置は、輸送効率を最大化するためのものだろう。鉱山から精錬所、そして加工区域へ至る経路が、ほぼ最短距離で接続されている。……ただし、この構造は流通だけでなく、内部の動線を一定の範囲に拘束する性質も持っている」


教授は視線を外さぬまま、観測結果を言語化していく。その語りは簡潔でありながら、未知の構造に触れていることへの静かな喜びが、その言葉の奥に確かに存在していた。


ページターン号が着陸場へと滑り込み、地表へと接触した。機体を通して伝わる衝撃は重く、しかし安定した響きを伴っている。扉が開かれると、外気が流れ込み、そこには湿り気を帯びた霧でも、乾いた都市風でもない、冷たく引き締まった鉱物の匂いが含まれていた。


「降りようか。まずは環境を把握するところからだ。君の観察も、ここでは重要になる」


教授はそう言って先に地面へと降り立つ。その言葉には、いつものように私を対等な探求者として扱う確かな信頼が込められていた。私はその後に続き、靴底を通して伝わる硬い地面の感触に、一瞬だけ意識を向ける。


周囲には、煤に染まった作業服を纏った鉱夫たちが行き交っている。


彼らの瞳の奥には、単なる消耗では説明しきれない、どこか一点を凝視するような光が宿っているように感じられた。彼らが運ぶ鉱石は、手押し車や蒸気運搬機によって都市内部へと送り込まれていく。その流れは、人と物とが分断されることなく連続しており、全体として一つの巨大な機構が動作しているかのような印象を与える。


「採掘から精錬までが、一つの連続したプロセスとして設計されている。この都市そのものが、巨大な生産機構として機能していると言っていいだろう」


教授の分析は、目の前の現実と正確に噛み合っていた。だが、その整合の中にあってなお、私の内側には別の感覚が静かに芽生えている。


この都市の輪郭は、あまりに鋭い。


空間を繋ぐのではなく、むしろ分断するように線が引かれている。それは大地そのものに刻まれた、消えることのない痕跡のようなものだ。まるで、一枚の厚い紙にためらいなく刃を走らせ、そのまま深く刻み込んだかのような。


「栞君。何か気づいたことはあるかい?」


問いに、私は一瞬、言葉を選ぶための沈黙を挟む。


「はい……この都市では、それぞれの要素が、はっきりとした輪郭を持っているように感じられます。フォグ・エンドでは境界が溶けていましたが、ここでは逆に、すべてが切り分けられているようで……まるで、大地そのものに刻まれた『銘』が、そのまま形になっているかのように」


「……なるほど。輪郭が先に存在し、それに従って配置が決定されている、という仮説だね」


教授はわずかに頷き、そのまま思考を接続する。


「もしそれが正しいとすれば、この構造は単なる効率最適化では説明しきれない。地形そのもの、あるいはそれ以前に存在した何らかの『基底構造』が、設計に影響している可能性がある。観測対象として保持しておこう」


その言葉は、評価でありながらも、同時に次の思考への誘導でもあった。教授が私の隣へと歩み寄る。その距離は、ごく僅かではあるが、これまでよりも近く感じられた。冷えた空気の中で、彼の体温が微かに伝わってくる。その存在を、私は意識せずにはいられなかった。


「まずは情報収集だ。労働者の集まる食堂のような場所を探そう。君はどう思う?」


「……はい、その方が、効率的だと思います」


私たちは、鉱夫たちの流れに沿うようにして、都市の中心部へと歩き出した。


直線的に伸びる道の両側には頑丈な石造建築が連なり、壁面には稼働によって染みついた煤が層を成している。ときおり、蒸気機関車の汽笛が空気を震わせ、鉱石を積んだ貨車が軌道を軋ませながら通過していく。


その振動は地面を伝い、靴底から身体へとゆっくりと侵入してくる。この都市は、単に動いているのではない。動き続けることそのものが、その存在条件として組み込まれているかのようだった。



【一息と、地に流れる話】


やがて、私たちは一軒の食堂の前で足を止めた。


その店は周囲の建物と同じく石造りで、分厚い木の扉には、長年にわたって人の手に押され続けてきた痕跡が、木目の奥にまで静かに染み込んでいるように見えた。


教授が扉を開けると、鉱夫たちの低い話し声と、湯気を立てる料理の匂いとが、外の冷えた空気を押し返すように一度に流れ出してくる。店内は窓から差し込む光が煤に薄く曇らされているにもかかわらず、思っていたよりも明るかった。その明るさには、磨き上げられた清潔さとは異なる、日々使われ続けることで保たれてきた生活の『熱』がある。


長い木卓には、すでに多くの鉱夫たちが肩を寄せるようにして腰を下ろし、黙々と食事を口へ運んでいる。交わされる言葉は決して多くなく、その少なさの中に、疲労と、それでもなお明日も働き続けることを前提とした諦観にも似た落ち着きが滲んでいた。


「ここで少し休もう。こういう場所の空気は、街の輪郭を読むうえでも案外重要なんだ」


教授に促され、私たちは窓際の席に着く。やがて店主と思しき男性が、パンとシチューを私たちの前へと置いていった。その所作には、日々同じ動作を繰り返すことで無理なく研ぎ澄まされた安定がある。


シチューは濃く、深い味わいを持っていた。湯気の奥に肉と根菜の匂いが重なり、その熱が口から喉へと落ちていくにつれて、旅のあいだ知らず知らずのうちに身体へ溜め込まれていた硬さが、少しずつほどけていく。私はスプーンを運びながら、その変化が身体の内側へ静かに広がっていくのを感じていた。


教授もまた、いつもの落ち着いた仕草で食事を進めている。彼の手つきには無駄がなく、それでいて窮屈さはなく、何気ない所作の中にも他者や物への自然な敬意が滲んでいた。その横顔を見ていると、私の心の内側にも、食堂の暖かさとは別の、やわらかな静けさが満ちてくる。


「この都市では、休息は余剰ではなく、構造の一部として組み込まれているのだろうね。労働密度が高い分、短い時間で効率よく回復するための場所が必要になる。この食堂も、その機能を担っていると考えるのが自然だ」


教授の言葉は、相変わらず簡潔で、けれどただ冷静なだけではなかった。目の前にあるものを理解していくことそれ自体を楽しんでいる気配が、その声音の奥に確かにある。


鉱夫たちの顔には疲労が刻まれている。額に残る汗の跡、煤に曇った頬、無言でパンをちぎる手つき。けれど温かい食事を前にしたときだけ、彼らの眉間にわずかな緩みが生じる。その変化はほんの僅かだが、だからこそかえって確かで、この場が彼らにとって一時的にでも自分の輪郭を取り戻すための場所であるようにも思えた。


この空気は、フォグ・エンドの曖昧さとも帝都の洗練とも異なる。もっと重く、生々しく、地の奥から絶えず押し返してくる圧のようなものを含んでいる。


食事を終えると、教授はコーヒーを頼んだ。湯気を立てる黒い液面に指先が添えられる。その指は長く、節度を備えた動きをしていて、カップの縁をほんの僅かになぞる仕草にすら、考えごとの延長のような静かな癖が見えた。私は気づけば、その無意識の動きに視線を留めてしまっていた。


「栞君」


名を呼ばれ、私は小さく肩を揺らすようにして我へ返る。教授は穏やかに微笑んでいた。


「少し疲れたかい?」


「……いえ、大丈夫です」


そう答えながらも、この都市が持つ独特の輪郭と圧力が、私の感覚を思っていたより深く引き寄せていることを、まだうまく説明できないままにいた。教授は私の返答をそのまま受け取りつつ、すぐには話を閉じなかった。


「そうか。ならいい。……ただ、無理をして感覚を鈍らせるのは得策ではない。君の認識は、調査で重要な観測の一つだからね」


その言い方は、過剰に庇護するものではなく、確かな気遣いを含んでいた。私をただ守るべき対象としてではなく、共に進む知的な担い手として見ていることが、その言葉の輪郭からはっきりと伝わってくる。


「はい、教授」


そう答えると、胸の内に小さな灯がともるような感覚があった。それは誇らしさに近いのかもしれないし、あるいは、それだけでは足りない別の何かなのかもしれない。


私は自分の前に置かれたコーヒーへと手を伸ばし、ゆっくりと一口含む。苦味ははっきりとしていたが、その奥には微かな香ばしさがあり、舌の上に残る熱が、散りかけていた思考を少しずつ一つの場所へ引き戻してくれるようだった。



【坑道の異変と証言】


「ところで」


教授が、ふと声の調子を変えた。その変化はわずかで、聞き逃してしまいそうなほどだったが、先ほどまで食事と会話の中にあった穏やかな流れとは、確かに異なる方向へと意識を導くものだった。彼の視線は、食堂の奥、壁際に寄せられた卓で交わされている鉱夫たちの会話へと向けられている。


「あの話、聞き取れるかい。断片で構わない、拾える範囲でいい」


私も同じ方向へと視線を滑らせる。周囲の音が一様に存在しているはずなのに、意識をそこへ寄せた瞬間、他のざわめきがわずかに後退し、彼らの声だけが浮き上がるように感じられた。


「……やはり、あの坑道はおかしいとしか言えん」

「先輩が踏んだ途端、姿勢がおかしくなったのを見たぞ」

「天地が逆転でもしたってぇのかぁ?」

「いや、違え。上下がなくなった、というのか……うまく言えねえが、とにかく、普段と違えんだよ」

「それで、閉鎖になったんだなぁ……」


言葉は途切れ途切れで、統一された説明にはなっていない。だが、その断片の間にある“揺らぎ”のようなものが、私の内側へと静かに入り込んでくる。


重力の異常。上下という基準の喪失。


そのどちらも、言葉としては不確かでありながら、しかし完全な誤認とも言い切れない感触を伴っている。それは、これまで私たちが辿ってきた現象のいくつかと、どこかで接続しているようにも思えた。


——『大地の揺りかご(テルラ・ベランカ)』。


その名が、まだ確証を伴わないまま、私の思考の奥でかすかに形を取り始める。だが、それを即座に結論として引き上げるには、あまりにも情報が不足していることも、同時に理解していた。


「……教授」


私が小さく呼びかけると、彼はすでにこちらへと意識を向けていた。その眼差しには、私の思考の方向をおおよそ把握していることが、静かな確信として表れている。


「同じ結論に至りかけているようだね。だが、ここではまだ仮説の段階に留めておこう」


教授は声を抑えたまま、言葉を続ける。


「証言から読み取れるのは、局所的かつ条件依存的な力場の変化だ。重力そのものが反転しているのではなく、基準となる座標系が一時的に失われている可能性もある。……ただし、観測者の認識に依存している部分も大きい。現時点では、いくつかの解釈が並立している状態だ」


その説明は簡潔でありながら、可能性を一つに収束させない余地を残していた。断定を避けつつも、思考の進むべき方向は示されている。


「ですが……」


私は言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。


「上下が『なくなった』という表現は、単なる錯覚とは少し違うようにも思えます。もし感覚だけであれば、もう少し別の言い方になるはずで……」


最後まで言い切る前に、私はわずかに言葉を濁した。自分の中でも、まだ整理しきれていない部分が残っていることを、自覚していたからだ。教授はその未完成の言葉をそのまま受け取り、否定することなく頷く。


「いい視点だ。感覚の表現には、必ずしも正確ではないにせよ、現象の特徴が反映されることが多い。……それを前提にするなら、『方向の消失』という状態は、空間そのものの基準が揺らいでいる可能性を示唆している」


彼の言葉によって、私の中で曖昧だった感覚に、ひとつの仮の輪郭が与えられる。完全に理解したわけではない。だが、理解へと至るための道筋が、わずかに見え始めている。


「では、その坑道へ向かいますか?」


そう口にしながらも、私は無意識のうちに、先ほどの鉱夫たちの言葉を思い返していた。教授はゆっくりと立ち上がる。


「ああ。だが、その前に条件を整理する必要がある。閉鎖されている以上、現地には何らかの制約があるはずだ。いずれにせよ、無断での立ち入りは、観測条件を不必要に複雑にする」


その言い方には、危険を軽視しない慎重さと、それでもなお先へ進もうとする意志とが、静かに両立していた。教授は店主のもとへ歩み寄り、いくらかの硬貨を差し出す。そのやり取りは短く、しかし相手への配慮を欠かない落ち着いたものだった。


私は席を立ち、その背中を追う。


食堂の中の温もりが、扉の向こうに近づくにつれて少しずつ遠ざかっていく。その代わりに、外の冷たい空気と、先ほど耳にした言葉の余韻とが、ゆっくりと私の意識の中で重なり始めていた。


次に向かう場所が、ただの坑道ではない可能性を、私はまだ確信としてではなく、しかし確かに感じ取り始めている。



【閉鎖区画と例外許可】


食堂を出ると、私たちは鉱夫たちの流れに逆らうようにして、坑道管理事務所へと向かった。


通りを進むにつれて人の流れはまばらになり、代わりに建物の輪郭がいっそう硬質なものとして際立ってくる。この都市では人の営みすらも、あらかじめ定められた線に沿って配置されている。その流れに逆らうという行為そのものが、わずかな抵抗として身体に残るようだった。


事務所の建物は、周囲と同じく石造りでありながら、装飾の一切を排した機能のみの佇まいをしていた。分厚い扉を押し開けると、内部には机と椅子が置かれただけの、余白の多い空間が広がっている。その中央で、一人の男が書類の山に半ば埋もれるようにしてペンを動かしていた。


彼は私たちの気配に気づくと顔を上げ、露骨に不機嫌な表情を浮かべて眉をひそめる。


「……何だ?」


その声は低く、乾いた石を擦るようなざらつきを含んでいた。

教授はその前へと進み出ると、相手の感情に触れすぎない距離を保ちながら、静かに一礼する。


「失礼いたします。帝立大学古代史のエーデル・ルートヴィヒ・エーデルシュタインと申します。こちらで耳にした坑道の件について、確認したいことがありまして」


男は最初、露骨な警戒を崩さなかったが、教授の名を正確に聞き取った瞬間、その視線にわずかな変化が生じた。値踏みするように教授を見上げ、続いて私へと視線を滑らせる。その眼差しは冷たく、ここにいる理由を測ろうとするような圧を伴っていた。


「帝国大学の教授、か。なら理解しているはずだな。ここは帝国の基幹資源を扱う管理区域だ。許可のない立ち入りは認められん」


拒絶は明確だった。だが教授は、そこに対抗するような強さを見せるのではなく、むしろ相手の前提を共有するように言葉を選んだ。


「おっしゃる通りです。だからこそ、軽々しく立ち入るべきではないと理解しています。……ただ、先ほどの証言に見られる現象が、単なる局所的な事故ではない可能性も考えられるのです。供給ラインに関わる以上、早期の観測は無視できないと判断しています」


教授はあくまで『現象』と『合理』を語る。相手の立場を否定することなく、その内側に論理を差し込むように。男はしばらく言葉を返さなかった。沈黙のあいだ、彼の視線は揺れ、単純な拒絶から別の計算へと移行しているのが見て取れる。


「……外部からの影響、という言い方をしたな。それは、どういう意味だ」


「現時点では仮説の域を出ませんが、過去の記録との比較が必要になります。……無論、許可なく踏み込むつもりはありません」


最後の一言は、わずかに柔らかく置かれていた。それが、相手に対する敬意であると同時に、交渉の余地を残すための配置であることが、私にも分かる。


「……分かった。正式な手続きではない。あくまで例外だ」


男は一枚の紙を引き抜き、短く書き付けると、それをこちらへ差し出した。


「万一何かあっても、こちらでは一切の責任は負わん。それでも行くというなら、止めはしない」


教授はその紙を受け取り、目を通した後、静かに頷いた。その応答には、提示された制約を受け入れたうえで、それでも進むという明確な意思が込められていた。男は最後に、もう一度だけ私たちを見た。その視線には、先ほどの評価とは異なる、どこか言葉にしきれない感情が混じっている。


「……気をつけろよ」


それは警告というよりも、経験から滲み出た実感に近い響きだった。そして、ぼそりと続く。


「お偉いさんには分からんだろうがな……この地が、何を抱えてるかなんて」


その言葉は、小さく、しかし確かな重みを持って空間に残った。私はそれを、すぐに意味として捉えることができなかった。ただ、『抱えている』という表現だけが私の中に引っかかる。まるでこの都市そのものが、内部に何かを押し留めているかのような感覚。


食堂で聞いた鉱夫たちの言葉が、遅れてそこに重なっていく。上下の消失。方位の喪失。それらが単なる事故ではなく、一つの流れとして繋がりかけているように思えたが、その全体像はまだ霧の中にある。


「栞君」


教授の声が、思考を引き戻す。

振り向くと、彼はすでに扉の方へと向かい、次の行動へ移る準備を整えていた。その横顔には、状況を受け入れた上でなお前へ進もうとする、静かな決意がある。


「行こう。条件は整った。あとは現地で確かめるだけだ」


「……はい」


私は短く答え、その背を追う。

事務所の外へ出ると、冷たい空気が再び身体を包み込んだ。だが今は、その冷たさの奥に、わずかな“引力”のようなものを感じていた。


それがどこへ向かうものなのかは、まだ分からない。

ただ、その先にあるものから、目を逸らすことはできないとだけ、はっきりとしていた。



【断絶の先に浮かぶもの】


坑道への入り口は、管理事務所の裏手にあった。太い鉄格子が閉ざされ、『立入禁止』と書かれた立て札が掲げられている。教授が先ほど受領した許可証を見せると、番人の男は驚きを隠せない表情で、重い音を立てて鍵を開けた。


「危険ですから……本当に、気をつけてくださいっすよ」


番人の声はわずかに震えていた。その目には、職務上の警戒というより、この暗がりの先に潜む『理解不能なもの』への明確な畏怖が滲んでいる。


私たちは坑道の中へと足を踏み入れた。


冷たい空気が、湿気と錆の匂いを伴って肌を撫でる。坑道の壁は剥き出しの岩盤で、所々に鉱脈と思われる黒い帯が、傷跡のように走っていた。足元に敷かれた砕石は、靴が触れるたびにザリザリと鈍い音を立てる。その音は乾いているはずなのに、どこか重く、空間の奥へと吸い込まれていくような違和感があった。


坑道の奥へと進むと、やがて巨大な岩塊が通路を完全に塞いでいる場所に突き当たった。通常の落盤のようにも見えるが、岩の隙間から滴り落ちる水の波紋が、ほんのわずかに不規則な広がりを見せている。その歪みは光の屈折によるものか、それとも座標そのものの狂いなのか――判断を下すには、まだ材料が足りない。


「これは、ただの崩落ではないようだね」


教授は岩塊の断面を注意深く観察し、低く呟いた。


「通常の崩落なら、岩塊は重力に従って下方へ集積するはずだ。しかし、見てごらん。一部の岩塊が、不自然な角度で静止している。まるで、落下の途中で何らかの不可視な反発に阻まれたかのように」


教授の言葉に促され、私はその「断絶」の先へと視線を向けた。そこには、通常の理では説明しがたい光景が広がっていた。


「教授。あそこを……」


私が指差した先、天井付近の虚空に、人間の頭ほどの岩塊が浮かんでいた。それは支えもなく、まるでそこが定位置であるかのように、静かにその場に留まっている。


「ほう……」


教授は興味をそそられたように近づき、その岩塊を指先で軽く突いた。すると岩塊は、水中を漂う海草のように抵抗なく、ゆっくりとその場で回転を始めた。滑らかすぎるその動きは、ここが地下数百メートルの閉鎖空間であることを忘れさせるほどに、現実感を欠いている。


「面白い。重力場がほぼ消失しているか、あるいは複数の斥力が干渉し合って均衡を保っている。この周囲の座標系は、私たちの知る『大地』のそれとはすでに切り離されているのかもしれない」


教授の瞳の奥には、強い知的好奇心が静かな灯となって揺れている。その様子を見ていると、私の内側にも、恐怖とは別の『引き寄せられるような感覚』が生まれてくるのを感じた。


「さらに奥へ進むには、どうすれば……」


「まずはこの『不規則な力場の地図』を描き出す必要があるね。浮遊する岩塊を利用できるか、それとも別の支点を探すべきか。一つずつ、この場の記述を読み解いていくしかないだろう」


教授は時折メモを取りながら、岩の配置や回転の周期を確かめ始めた。私はその傍らに立ち、目に映る光景と、皮膚が感じる『上下を失う予感』の差異を抱え続ける。その沈黙は、今にも崩れそうな均衡の上に成り立っているように思えた。


やがて、教授は思考をまとめるように言葉を置いた。


「この岩塊は、この空間における『島』のようなものかもしれない。そして島と島との間には、目に見えない接続経路が存在しているはずだ。私たちは、その繋がり――綴じ目を見つけ出す必要がある」


「島と、綴じ目……」


その言葉が、静かに胸の奥へと沈んでいく。それは物理的な説明であると同時に、まだ誰も読み解いていない物語の断片のようでもあった。


この先に眠る『大地の揺りかご』が、どのような形でこの地の理を書き換えているのか。その正体にはまだ手は届かない。けれど、私たちはすでに、その巨大な矛盾の一頁をめくり始めていた。



─────────────────

帝国探索日誌 第八頁

「大地に沈む灯と浮かぶ断片」

日付: エデルシュタイン暦 876年 秋の月 28日

場所: アイゼン鉱山・閉鎖坑道

記録者: 墨染 栞

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本日、教授と共にアイゼン鉱山の閉鎖坑道へと足を踏み入れた。目的は、この地で囁かれる異常現象の観測、そして第二の宝石『大地の揺りかご(テルラ・ベランカ)』に関する記述を探ることにある。


坑道の入り口は、冷たく湿った空気と錆びた岩の匂いに満たされていた。奥へと進むにつれ、私たちは巨大な崩落箇所に直面したが、それは単なる地盤の脆弱さが招いた事故の跡ではなかった。


そして、私たちはそれを目にした。

人間の頭ほどの岩塊が、何の支えもなく虚空に浮かんでいる光景を。


それは、私たちがこれまで当然の前提としてきた『地が人を支える』という物理の在り方から、決定的に外れた位置にある現象だった。教授はこの光景を、局所的な重力の変調、あるいは空間構造の断絶として捉えているようだった。彼はこの異常な空間を『島』と『綴じ目』に例え、その間を繋ぐ見えない経路を見出す必要があると述べた。


私に贈られたモノクル越しにその岩塊を覗けば、そこにはまだ意味をなさない『情報の揺らぎ』が淡く滲んでいる。私の内側には、未知の理に触れているという高揚と同時に、この空間そのものが持つ、説明しきれない根源的な違和が残っている。


上下の感覚が、足裏からじわりと剥がれ落ちていくような不確かさ。それが何に由来するものなのか、今の私にはまだ、正しく名前を与えることはできない。


この白紙の頁に、今宵も新たな墨が滲んでいく。

明日、私たちはこの『見えない川』をどのように渡ることになるのだろうか。暗い地の底で、静かに回転を続ける岩塊の残像が、瞼の裏でなお消えずに残っている。

──────────────────

帝国探索日誌 第八頁 了

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