第六頁 「乾ききらぬ墨と次なる標」
【帰還と観測整理】
ページターン号の甲板に立つと、フォグ・エンドの街並みは、古い絵葉書の縁取りのように、白い霧の中へ静かに溶け込んでいった。
今朝まであの地に満ちていた不穏な静けさは、わずかに和らいでいるのだろうか。それとも、そうであってほしいと願う私の内側が、そのように読もうとしているだけなのかもしれない。どちらであるのかは、まだ判然としない。ただ、冠を抱いた腕に残る確かな重みと、霧の奥へ淡く失われていく街の輪郭だけが、今の私にとっては、曖昧さの中に沈まず残っている数少ない事実だった。
船内へ戻ると、大書庫にはすでに教授の姿があった。
中央の巨大な解析テーブルには太陽の冠が置かれ、その周囲を、黄銅と玻璃で組み上げられた精密な観測機器が幾重にも取り囲んでいる。教授の指先は、それらを一つずつ確かめるように動いていた。その所作には急き立てるような速さはなく、むしろ長く付き合ってきた装置の癖までも知り尽くしている者だけが持つ、静かで揺るぎない親しさが宿っている。
歯車がかすかに軋む音、蒸気管から立ち上る白い息、冠の表面から滲むほのかな光。それらが重なり合い、このページターン号にしか存在しない、紙と機関と遺物の気配が混じり合う密度を形作っていた。
「戻りましたね、栞君」
彼は振り返ることなく、言葉だけをこちらへ差し出した。私の足音が床板へ残したわずかな響きさえ、彼には機関音の周期よりも明瞭に聞き分けられているのかもしれなかった。
「はい。フォグ・エンドの街の様子は、少しだけ変化しているように見えました。倒れていた方が、自力で立てるようになっていましたし……街全体の息苦しさのようなものも、ほんのわずかですが、薄らいでいたように感じられました」
「重要な観測結果だ。時間経過に伴う変化として記録する必要がある。後で、君が見たままの言葉を、そのまま記述に残してほしい。観測の初期段階では、解釈よりも、まず偏りの少ない記録の蓄積が優先される」
彼の言葉には、私の感覚そのものを前提に置く響きがあった。ただ参考意見として拾い上げるのではなく、私という観測者の認識を、研究の一部としてきちんと座標の中へ置こうとする態度。その受け止め方が胸の奥へ遅れて沈み、まだ言葉にしきれない温かさとも緊張ともつかないものを、静かに残していく。
「まずは今回の取得物、遺構の状態、そして考えられる外部影響について整理しよう。その上で、兄上への報告書を作成する」
教授は冠に近づき、その表面へ指先をそっと触れた。撫でるというより、構造の応答を確かめるための最小限の接触だった。彼の指が触れた箇所だけ、光がゆらりと揺れ、表層の下に潜んでいる何かが、完全には閉じきっていない頁のように微かに脈を打つ。
「取得物は、太陽の冠。伝承においては『すべてを満たすもの』として記述されているが、私たちが観測した時点では、その構造に明確な不整合があった。層構造の一部が断絶し、情報の伝達経路が連続性を失っている。結果として、本来想定される機能が安定して発揮されていない。欠損は自然損耗として説明できる範囲を超えている可能性がある」
彼はそこで言葉を切り、観測機器のレンズ位置を細かく調整した。玻璃を通過した淡い光が、冠の内部構造を壁面へと投影していく。
そこに現れたのは、繋がるはずの線が途中で断ち切られ、連続しているべき輪郭が不自然に途切れている幾何学模様だった。整っているように見えながら、どこかで記述が剥落している。ひとつの頁として成立しているはずの拓本が、要となる部分だけを抜き取られたまま、なお全体の形だけは残されている——そんな印象が、光の中に滲んでいた。
「遺構自体も異常な出力状態にあった。通常運用の閾値を超える負荷が継続的に加わっていたと見ていいだろう。長期的な過負荷運転が構造劣化を加速させた可能性がある。ただし、これが単なる経年劣化に由来するものか、あるいは外部干渉によって誘発されたものかは、現時点では判別できない」
教授は結論を閉じない。常に仮説を仮説のまま保持し、その輪郭だけをひとまず整えて先へ進める。その思考の在り方は、目の前の装置を扱う手つきと同じく、どこにも無理な力をかけないまま、それでも確実に前へと進んでいくように見えた。
「君はどう思う、栞君。冠の欠損と、街の状態との間に、何らかの相関を感じるか」
問いを向けられた瞬間、言葉がすぐには形を持たなかった。喉の奥に小さなひっかかりが残り、意識は一度、あの祭壇の光へ引き戻される。揺れていた冠の光、力を失ったように地へ沈んでいた人々、そして、そこから少しずつ戻りつつあった街の呼吸。そのいずれも、まだ私の中では一枚の頁へ収まりきっていない。
「はっきりとは……申し上げられません。ただ、冠の光が揺らいでいた時の感触と、街の方々の様子とが、どこか重なって見えたのです。欠けている部分を、互いに埋めようとしているというのか……あるいは、本来そこに留まるべきものが、別の場所へ滲み出していたような……そんな印象が、まだ残っています」
言いながら、自分の言葉が完全に定まっていないことも分かっていた。だが、掴みきれないからといって無意味でもない、その手前の揺らぎだけが、消えずに残り続けている。
「その前提で考えるなら、冠は本来の『満たす』機能を維持できず、不足分を外部から補填しようとしていた可能性がある。もしそうなら、周辺環境や生体側からエネルギーを引き抜く挙動が発生していても不自然ではない。仮説としては整合性がある。興味深い視点だ」
教授は私の言葉を否定しない。曖昧なまま差し出した感覚を、彼はそのまま切り捨てることなく、構造として仮置きできるかたちへと組み直していく。その接続のされ方に触れるたび、私の内にある読み切れなさは、消えるのではなく、別の厚みを持って残っていくようだった。
「兄上への報告書は、ひとまずこの内容で構成しよう。では、通信を開始する」
教授が通信機器のスイッチを入れると、内部で圧力が変化する低い音が響き、蒸気の白い息がゆっくりと立ちのぼった。やがて向こう側の画面に、一人の男性の姿が映し出される。
見上げるような高身長、隙なく整えられた黒の三つ揃い、そして、その双眸には、対象を見通すというより、見通した上でなお秩序の中へ配置する者の静かな光が宿っていた。エーデル・ヴァルター・エーデルシュタイン。帝国の支配者であり、教授の兄。
『お前か、ルート。それに、墨染の娘もいるようだな』
その声は低く落ち着いていたが、音の表面をなぞるだけでは届かない、絶対的な威圧と管理の気配を含んでいた。私の存在を確かに認めながらも、その視線の主軸は教授に置かれている。
『取得報告を聞こう』
「はい、兄上。陽輪の祭壇において、太陽の冠の確保に成功しました。ただし、対象の機構は不完全な状態でした。層構造の一部が欠損し、本来機能は十分に発揮されていません。また、遺構自体も過負荷状態にあり、長期にわたる異常動作の痕跡が確認されています」
教授の報告は簡潔だった。感情を差し挟まず、観測結果と推定可能な範囲だけを、過不足なく並べていく。
『…不完全だと。自然劣化か、それとも』
陛下の言葉はそこで途切れたが、その先に置かれている問いは明白だった。外部からの干渉、その可能性。
「現時点では断定できません。ただ、遺構周辺の土地や住民に、影響と見られる変化が確認されました」
『他の地域でも、同様の報告が上がっている。特定地域での重力反転現象。大陸西部では、建造物が浮上し、地表側の均衡が大きく崩れているという』
重力反転。
その語が耳に入った瞬間、心臓がわずかに深く打つ。陽輪の祭壇で感じた均衡の揺らぎ、フォグ・エンドで見た、人々から何かが抜け落ちていくような感覚、それらが私の中でゆっくりと擦れ合い、まだ一枚にはまとまらないまま、しかし別々の頁でもなくなりつつあることを知らせてきた。
「兄上、それらの現象は、太陽の冠の異常と関連がある可能性が——」
『可能性はあるだろう。だが断定には早い。ただし、お前たちの発見が現象解明の鍵の一つであることは間違いない。以後の調査には、これまで以上の注意を払え。特に、墨染の娘に、これ以上の影響が及ぶことは避けるべきだ』
その時、陛下の視線が初めて私へ向けられた。教授の眼差しが問いを差し出すものであるとするなら、この視線は配列を定めるものだった。守ろうとしているのか、管理しようとしているのか、その境界はまだ読めない。ただ、そのまなざしが私の上に落ちた瞬間、背筋のあたりに細い硬さが走り、身体の輪郭が少しだけ強く意識された。
「承知いたしました、兄上」
教授は静かに応じた。通信はそこで終了し、画面は暗く沈む。部屋には再び、冠の光だけが揺らめき、その淡い明滅が、先ほど交わされた言葉の余韻を壁や機器の表面へ薄く書き残しているように見えた。
「教授、先ほどの重力反転というのは……」
「単独事象ではない可能性を示している。太陽の冠が『すべてを満たす』機構だったなら、その機能が反転した場合、『すべてを奪う』挙動に転じることも理論上はあり得る。作用方向が逆転しているなら、引力場への影響も考慮すべきだ。本来、引き寄せるはずのものが、逆に遠ざける方向へ働いている可能性がある」
教授はそこまで言って、再び冠へ視線を戻した。その思考は、すでに次の層へ踏み込んでいる。私の中に残っている問いは、彼にとっては閉じるべきものではなく、さらに別の観測へ接続するための入り口なのだろう。
「ただし、これはあくまで仮説だ。因果関係を確定させるには、追加の観測と比較対象が必要になる。現状では、まだ系全体の構造が見えていない」
彼はそう言って、私へ向き直った。その瞳には危機への怯えよりも、未知の構造が新たに輪郭を持ち始めた時にだけ宿る、静かな知的興奮があった。
「今は休息を優先しよう。栞君も疲れているだろう。記録は今日のうちに整理したいが、無理に思考を回し続けても精度は落ちる。君の観測は、君の感覚がまだ崩れていない状態で残したい」
その言葉を受け取った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。けれど安堵と呼ぶにはまだ早く、ほどけた隙間から、祭壇の光景が再び静かに滲み出してくる。
「……はい」
小さく頷きながらも、私の意識はまだ、陽輪の祭壇の内側に薄く留まり続けていた。
あの不完全な光、繋がるはずの線が途切れていた構造、そして、満たすはずのものが、かえって外へ滲み出していたかもしれないという感触。それらは一つの答えとして閉じることなく、白紙の頁の上に見えない筆圧だけを残したまま、私の中で静かに重なり続けている。
ページターン号の機関音は、変わらず低く、規則正しく響いていた。
その安定した振動に包まれているはずなのに、私の内側では、まだどこか一箇所だけ、綴じ目の合わない頁が擦れ合っている。けれど、その不揃いのまま抱えておくことこそが、今の私にできる唯一の誠実さなのかもしれなかった。
教授の言う通り、まだ構造は見えていない。だからこそ、読み切れなさを読み切れなさのまま残しておかなければならないのだと、私はようやく、その入口にだけ触れかけていた。
【静かな余白】
ページターン号における私の居室は決して広くはなかったが、必要なものは過不足なく整えられていた。
小さな机と椅子、簡素でありながら清潔な寝台、そして壁際に据え付けられた収納棚。窓の外には、淡い星々を散らした夜空が静かに広がっており、玻璃越しにやわらいだその光は、遠い頁の余白へ控えめに銀箔を置いたような落ち着きを、この小さな空間へ落としていた。
椅子に腰を下ろした瞬間、背中から足先へかけて、ようやく疲労が形を持って立ち上がってくるのを感じた。意識を張っているあいだは気づかずにいた緊張が、静けさの中へ身を置いた途端、遅れて身体の表面へ滲み出してくる。
それに触れることで、私はふと、光の巣での接触を思い出していた。
あの瞬間に感じた、温かく、同時にわずかな痛みを含んでいたような感触。それはすでに過ぎ去ったはずなのに、なお皮膚の下に薄く残り、指先でなぞれば見えない文字が浮かび上がるのではないかと思わせるほど、奇妙に持続している。まるで古書の余白へ意図せず落ちたインクが、拭い切れぬまま淡い染みとして残り続けるように、その存在だけが私の内側に留まっていた。
教授は、私が疲れているから休むべきだと言った。
確かに、その判断は正しいのだろう。けれど、心の方はまだ報告の場から戻り切ってはいなかった。重力反転——あの言葉は、理解としてはまだ私の中へ収まりきらないまま、ただ重い響きだけを残している。陽輪の祭壇で感じた均衡の崩れ、街の人々から抜け落ちていく生気、地が空となり建物が浮かぶという異常。それらは互いにどこかで触れ合っているはずなのに、一続きの記述としては繋がらず、頁の上で離れたままの断簡のように、私の中で静かに散らばっていた。
その時、扉がごく控えめな音を立てて開いた。
振り向くと、そこに立っていたのは教授だった。両手には、湯気の立つマグカップが二つ。それらの白い息が、部屋の静寂にわずかな温度を持ち込み、ひとりで抱えていた思考の密度を、ほんの少しだけ和らげる。
「少しは落ち着いたかい?」
彼は私の机の上へ片方のカップをそっと置いた。黄銅製の器の縁から立ち上るハーブの香りはやわらかく、花とも草ともつかぬ甘さを湛え、夜気に冷えた意識の縁へ静かに滑り込んでくる。
「はい……少しは」
自分の声は思ったよりも小さく、どこかまだ現実へ馴染み切れていないように響いた。
「これを飲むといい。ハーブティーだ。緊張状態が長く続いた後には、呼吸と心拍の両方を落ち着かせる助けになる」
教授は当然のように座ることはせず、部屋の隅に静かに立っていた。気遣いは差し出すが、必要以上には踏み込まず、こちらが息を整えるための余白を決して奪わない。
その在り方に触れるたび、私は自分が守られているのか、それとも対等な相手として尊重されているのか、その二つが分かちがたく重なった感覚を覚える。そしておそらく、私が心を乱されるのは、まさにその重なりのためなのだろう。
私はカップを両手で包み込んだ。掌に伝わる熱は穏やかで、しかし確実に現実の輪郭を取り戻させる。湯気に触れた頬が潤い、香りが胸の内へ広がるにつれ、胸骨の裏側で張り詰めていた糸の一端が、ようやく指先の届くところへ下りてきたような気がした。
「教授も……お休みになった方が、よろしいのではありませんか」
「ああ、そのうちね」
彼はそう言って、ごく淡く笑った。その笑みは、日中に機器や遺物へ向けている知的な緊張をわずかにほどき、彼の表情へ、夜の灯りにだけ見せるやわらかさを差し込んでいた。
その時、不意に視線が合った。
ほんの一瞬のことだったはずなのに、なぜかその一瞬だけ、時間がゆるやかに薄く引き延ばされたように感じられる。教授の瞳には、観察の光とは異なる静けさがあった。測ろうとするでも、解こうとするでもなく、ただこちらの存在をそのまま受けとめているような深さ。
そのまなざしに触れた途端、胸の奥が確かに脈打ち、呼吸がわずかに浅くなる。私は慌てて視線を落とした。手の中のカップの縁、その丸みを追うことに意識を向けなければ、自分の中で起きた変化の輪郭に不用意に触れてしまいそうで、少し怖かった。
「何か、気になることがあるのかい?」
教授の問いは穏やかだった。けれど、その穏やかさゆえに、かえって隠しごとが難しくなる。
「……いいえ。ただ、少し疲れているだけです」
できるだけ平静を装ったが、声はわずかに揺れていた。その揺れを彼がどう受け取ったのか、確かめる勇気はまだ持てなかった。
「そうか。ならば今は、無理に考えを進めなくていい。思考を閉じることも、次の観測のためには必要な工程だ。明日の朝には、新しい頁が開かれているかもしれない」
新しい頁。その言葉は、休息を促す比喩以上に、深く私の中へ沈んだ。
教授はそれ以上踏み込むことなく、部屋を出ていった。扉が静かに閉まる。彼の気配が去った後の静けさは、かえってそれまでよりもはっきりと部屋を満たした。機関の低い響きや、壁の向こうを流れる蒸気の気配が、遠い背景音としてゆるやかに浮かび上がる。
私はハーブティーを一口飲んだ。温かな液体が喉を、胸の奥へと通り抜け、滞っていた冷えを少しずつ押し流していく。それに伴って、祭壇で感じた均衡の崩れも、ほんのわずかだが遠ざかっていく。
けれど、完全には消えない。あの不気味な均衡の崩れも、教授と視線が重なった瞬間の名づけきれない温かさも、どちらも読み切れないまま、ひとつの頁の上で静かに干渉し合っていた。
やがて寝台へ横たわり、天井を見上げた。そこには星を模した人工の灯りが点在し、ページターン号の夜をなだめるように満たしている。本物の星空よりも近く、けれど手の届かない配列。
明日の朝、新たな頁が開かれているかもしれない。
それは私が歩むべき道の輪郭なのか、それとも、私はまだ白紙の頁として、読み手を待つ側に留まっているのだろうか。答えは、まだ見つからない。ただ、見つからないままでいることにも、今は意味があるのだろう。
私は目を閉じ、機関の鼓動と体の内側に残るほのかな温かさをひとつずつ確かめながら、静かに明日の朝を待つことにした。
調整方針に基づき、翌朝の静謐な空気感と、教授との間に通う知的な信頼、そして次なる目的地「アイゼン」への予兆を大切に構成いたしました。栞君の足裏に伝わる感覚や、教授の指先の動きといった、微細な解像度を深めています。
【次なる頁の選定】
翌朝、私はまだ夜の名残を薄く留めた空を眺めながら、大書庫へと向かった。
機関の低い鼓動は、昨夜と変わらぬはずなのに、休息を挟んだ身体にはわずかに異なる響き方をしている。その規則正しさが、かえってこれから始まる思考の輪郭を静かに整えていくようでもあった。大書庫へ足を踏み入れると、解析テーブルの上には「太陽の冠」と数枚の古地図が広げられ、玻璃の観測機器が淡い朝光を受けて、静かな冷たさを宿していた。
「お早う、栞君」
教授は私の気配に気づくと、穏やかに声をかけた。その声音には、研究者として思考を立ち上げる際の引き締まった明晰さがあった。それは冷たさではなく、むしろ未知へ向かうために自らの認識を整えた者の、静かな熱を含んでいる。
「お早うございます、教授」
「よく眠れたかい?」
「はい。おかげさまで、少し頭の中が落ち着いたように思います。まだ昨夜の話のすべてが整理できたわけではありませんけれど、少なくとも、考えるための余白は戻ってきた気がします」
「それで十分だ。未整理なままでも、観測に耐える状態なら先へ進める。むしろ、早く整えすぎない方が見えるものもある。では、始めよう」
彼は地図の一枚を指し示した。エデルシュタイン帝国の全図。山脈、平原、河川、そして各地の遺構。その広がりを見つめていると、帝国そのものが一冊の巨大な書物であり、私たちはその綴じ目の隙間へ指を差し入れ、まだ開かれていない頁を一枚ずつ確かめようとしているのだという感覚が、胸の奥で静かに立ち上がってきた。
「太陽の冠は『すべてを満たすもの』として伝承されている。だが、私たちが観測した個体は、その作用が部分的に反転していた。層構造の欠損が、本来の性質を歪めていた可能性が高い」
教授が観測機器を動かすと、玻璃面に断絶構造の再現図が浮かび上がった。繋がるべき線が途切れ、要の部分だけを抜き取られた拓本のようなその像は、見えている部分よりも、見えなくなっている部分の方に強く意味が滲んでいるように思えた。
「この欠損が機能の反転を引き起こしたと仮定するなら、同種の現象が他の六つの宝石にも生じている可能性を考慮する必要がある」
教授の指が地図上の地点を辿る。七つの宝石、それぞれに対応する場所と伝承。
「太陽の冠は『満たす』性質を失い、『奪う』側へ偏っていた。では、次の宝石が本来の性質を失った場合、どのような現象が生じるだろうか」
教授は思考の入り口をこちらへ差し出す。私は記憶の底から、欠けた文字を拾い上げるように伝承を思い起こす。
「第二の宝石は……『大地の揺りかご』。伝承では、『それは、すべてを受け止めるものといわれている』——そう記されていました」
「その通りだ。すべてを受け止めるもの。では、それが反転したならどうなる」
受け止める、という言葉の感触を反芻する。地に立つ時の確かさ、足裏へ返ってくる重み。もしそれが拒絶へ転じ、そこにあるものを外へ押し返すようになったなら。想像は言葉へ変わる前に、わずかな不安定さとして広がった。
「……すべてを、拒絶するもの、なのでしょうか」
「その仮説は、兄上から得た情報と整合する」
教授の瞳に鮮明な光が灯った。
「大陸西部で報告されている重力反転現象——地面がそこに存在するものを支えなくなっている状態だと解釈できる。もし『大地の揺りかご』が本来の機能を失い、『拒絶する』側へ偏っているなら、現象としては十分に説明可能だ」
教授の指は地図上の一点、鉱山都市アイゼンを示した。
「白土の眠り処。そこに『大地の揺りかご』が眠っている。大地の支持機構に異常が生じているなら、影響は都市機能全体に波及する可能性がある」
教授の分析に恐怖の色はない。だが、地面という『在って当然のもの』が拒絶へ転じる想定は、私の足裏に込める力を無意識に強めさせた。
「ただし、これもあくまで仮説だ。現地での照合に先立ち、まずは帝都へ向かう。アイゼンへの出発準備と、追加調査の許可を整理しておく必要がある」
教授は地図を一枚ずつ丁寧に畳んでいく。その慎重な手つきを見ていると、構造を読むという行為には、対象の在り方を損なわずに受け取る姿勢そのものが含まれているのだと思わされる。
「帝都では兄上と直接対面し、協議を行う。君にも同席してもらいたい。私の助手として——いや、それだけでは不十分だな。今回の観測において、君の認識は既に不可欠な位置を占めている」
帝都、皇帝との対面。教授の隣に立つ者としてその場へ出ること。胸に立ち上がった緊張は、怖れとわずかな高揚とが分けられないまま重なっていた。
「はい、承知いたしました」
「君の知識と感覚は、これから先の調査において不可欠になる。だからこそ、その存在を帝都の中枢にも明確に認識させておく必要がある」
認められるということは、そこに置かれる責任まで含めて受け取ることなのだと、私は身体のどこかで知り始めていた。
「では、準備を始めよう。帝都への出発は明日の朝だ。君にも手伝ってもらうが、無理に抱え込まなくていい」
教授が大書庫を後にし、私は一人、解析テーブルに残る冠の微かな光と、示された新たな進路を見つめていた。帝都、そして大地の揺りかご。
次に開かれる頁は、思っていた以上に厚く、重い綴じ目を持っているのかもしれない。
だが、その複雑さの中へ踏み込むこと自体が、新たな読みの始まりなのだ。結論を急がず、これから開かれる頁の手触りをそのまま抱えて、私は準備に取り掛かった。
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帝国探索日誌 第六頁
「乾ききらぬ墨と次なる標」
日付: エデルシュタイン暦 876年 秋の月 22日
場所: ページターン号・大書庫
記録者: 墨染 栞
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本日、私たちは陽輪の祭壇より太陽の冠を持ち帰り、その解析をひとまず終えた。
かつてそれは、万物を遍く満たし、欠けたものへ静かに充足を与える性質を持っていたのだと考えられる。けれど、教授の観測によれば、冠の層構造には明確な欠損が存在しており、その断絶が、本来の性質を歪め、結果として『満たす』ものではなく、むしろ外側から奪い取るような挙動を生じさせていた可能性が高いという。
あの遺構の内部で私たちの進路を塞ぐように張り巡らされていた光の巣も、そうした反転の副次的な現れであったのかもしれない。まだ断定に至るだけの材料は揃っていないものの、少なくとも、あの光が単なる防衛機構としてのみ存在していたのではないらしいことは、私の中にも薄く残っている。
教授は、この現象を単独の異常として閉じることなく、帝国各地で報告されている他の変調との接続可能性を示した。とりわけ、大陸西部で観測されている重力反転現象について、第二の宝石『大地の揺りかご』との関連を仮説として提示している。
『すべてを受け止めるもの』と伝えられるその宝石が、もし太陽の冠と同じく本来の性質を失い、逆方向へと機能しているのだとすれば、それは受容ではなく拒絶、保持ではなく排出の側へと傾いているのではないか——教授は、そのように構造を整理していた。私はその言葉を聞きながら、地が人を支えるという、普段は意識することもない当然の前提そのものが、どこかで静かに裏返ってしまう感覚を思い描いていた。
うまく言葉にはしきれないが、足元にあるはずの確かさが、ある日ふいに頁の余白のように失われてしまうとすれば、それはきっと、身体より先に認識の方を揺らがせるのだろう。
この仮説を確かめるため、私たちは『大地の揺りかご』が眠るとされる遺跡『白土の眠り処』へ向かうことを決めた。ただし、その前に必要なのは、皇帝陛下への正式な報告と、帝都での準備である。教授は、これまでの観測結果と今後の調査方針を、より詳細なかたちで帝都へ提示する必要があると判断した。
明日、私たちはいったん帝都へ戻る。
そこは私にとって見慣れた街であるはずなのに、今回ばかりは、これまでとは異なる頁として開かれようとしているようにも感じられる。皇帝陛下への直接の報告、そして次なる調査へ向けた備え。それらの一つ一つが、まだ綴じられていない次の章の見出しのように、私の前へ静かに並べられつつある。
私の心は今、期待と不安とを単純に分けられぬまま、複雑な色合いを帯びている。
陽輪の祭壇で見た光の巣の記憶は、なお意識の片隅に薄く残っており、時折、まだ読み返していない頁のように、不意にその存在だけを主張してくる。教授の指先が触れた時の温度もまた、すでに過ぎたはずの出来事でありながら、完全には失われず、どこか私の内側へ静かに書き留められてしまったもののようだった。
それが何を意味するのか、今の私にはまだ読み切れない。ただ、遺物の不完全な光も、帝都へ戻るという決定も、そして教授の隣で次の調査へ向かう私自身の在り方も、そのすべてが、次なる頁の序として、まだ乾ききらぬ墨のように静かに滲み始めている。
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帝国探索日誌 第六頁 了




