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墨染栞の帝国探索日誌 ~白紙の頁に教授と綴る、失われた七つの宝石~  作者: ぷりぷりなまこ
第六章 影の落丁と康熙綴

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第三十一頁 「廃都の静寂とモノクロの頁」


【色の剥落】


ページターン号の船首が、世界の境界線を静かに、しかし決定的に切断した、その瞬間であった。


窓際に立ち、私は移ろいゆく夕暮れの空を眺めていた。それは燃えるような茜色を背景に、鉱都の無数の煙突から吐き出される煤けた煙を、金箔で打ち延ばしたかのごとき黄金色へと変容させ、雲の輪郭を紫水晶のように縁取る――壮大なる自然の奇観であり、光の祝祭であった。


だが、その色彩の奔流が、古いフィルムが焼き切れたかのように、一拍置いて唐突に無へと帰した。


あたかも画家が描きかけたキャンバスを、無慈悲な手で何もかも拭い取ったかのようだ。世界から『色彩』という属性が根こそぎ剥ぎ取られ、残されたのは、ただ光と影の階調だけで構成された、不気味な灰色の静止画。


私の知覚は、そのあまりに暴力的な変容に凍りついた。


恐る恐る、自分の指先を眺めてみる。鏡に映すように丁寧に整えていた爪は、常に古い染物から滴り落ちたような、深みのある『紅』を帯びていたはず。なのに、今そこにあるのは、石膏のごとき無機質な灰色の平面。生命力の残滓をすべて奪い取られ、ただの鉱物質へと還元されたかのような質感。


視界の端々には、古い銀塩写真特有のザラついた粒子が浮遊しているような、微かなノイズが走る。それは現実の揺らぎというより、世界そのものの解像度が低下し、その『粒子性』を露呈させているかのようだった。ここはもはや生きた時間が流れる現実ではなく、現像液の中に永遠に固定された、巨大な『拓本』の中。出口のない閉塞感が、ひたひたと私を侵食していく。


「……栞」


隣に立つ教授の声が届く。だがその声すら、霧の向こうから響くように遠い。


彼の、理知的な輝きを湛えていたダークブラウンの髪さえもが、今は鈍い鉄の色に染まっている。眼鏡を直す僅かな動作さえ、音を失った無声映画の一場面のように現実感を欠き、私の瞳に映る。


彼が何かを言っている。口の動きは読み取れる。だが、意味が定着しない。色彩を奪われた世界では、彼の言語そのものが背景の灰色に滲み、溶けていってしまうのだ。


「……わ、わかります」


どうにか声を絞り出すが、この静寂の中では自分にしか聞こえない虚しい残響。世界が一枚のモノクロの頁となり、私もまたその一部となって、白と黒のグラデーションの中へ消失していくのではないかという、根源的な恐怖。


教授は私の傍らに、泰然と立っている。


彼の眼鏡の奥の瞳には、この異常事態への冷徹な知性と、隠しきれぬ困惑が混在していた。彼もまた、己の論理という枠組みでこの現象を縛り直そうと、思考の糸を巡らせている。だが、その思考さえも、この空間では滑らかで冷たい灰色の平面に過ぎないようにも見えた。


「大丈夫か、栞」


再び、彼の声。今度はよりはっきりと、重みを持つ『意味』として私の鼓膜を震わせた。


「はい……。ですが、教授、この……あまりに不自然な光景は……」


「観測事実そのものだ。疑う余地はない」


彼は冷静に言い放ち、窓の外の灰色の死界を、稀少な標本でも見つめるような眼差しで射抜いた。


「光の波長の選択的な吸収か、あるいは我々の視覚認識そのものへの何らかの物理的な干渉……。解析する価値は十二分にある」


彼の言葉は、色彩を失ったこの世界に、『知性』という強固な輪郭を塗りつけていく。揺らいでいた私の足元が、彼の論理によって少しずつ確かな硬度を取り戻していく。


「……あなたの知性は、私にとって、かけがえのないものです」


心の底から、そう思った。この灰色の世界において、彼の存在だけが、失われたはずの色彩そのものであるかのように感じられた。


彼は私の言葉を聞くと、微かに笑った。その笑みもまた、淡い影のような美しさで構成されている。


「私もだ、栞。君の感性と分析は、このモノクロの迷宮において最良の羅針盤となる」


彼の手が、私の手を優しく握りしめる。

その温かさだけが、この凍てついた世界に残された唯一の『熱』として、私の掌に灯された。


「行こうか、栞。この静寂の根源、ノクス旧帝都へ」


教授の言葉に、私は力強く頷いた。



【音の真空】


ページターン号が、抗いようのない沈黙の中へと静かに降下していく。


着陸の衝撃が船体を震わせるが、本来ならば盛大に響き渡るはずの金属の軋みや、高圧蒸気の排気音が、周囲を覆う濃密な影に吸い込まれるようにして消失した。音の余韻を一切許さない、絶対的な『音の真空』。私はただ、その不可解な真空に身を委ねるしかなかった。


船体が完全な静止に至ったことを知らせる、最後の一打――『コン』という乾いた衝撃音さえない。ただ、微細な残留振動が船底から足裏へと伝わるのみ。それはまるで、光さえ届かぬ巨大な水槽の底へと沈められたかのような、残酷なまでの隔絶感であった。


「降りる準備はいいか、栞」


教授の声が、この静寂の中で唯一、異質な『異物』として響く。だが、彼の言葉ですら、この世界に完全に馴染むことを拒まれているかのようだった。


私は小さく頷くと、昇降口の方へと歩を進める。その数歩の間、私は自らの足音が死に絶えていることに、改めて戦慄を覚えた。船内に敷き詰められた黄銅の床を、私の靴底は音もなく滑っていく。まるで、自分が肉体を失った幽霊にでもなってしまったかのような、薄ら寒い浮遊感。


そして、重厚なハッチが開放される。


扉が開かれた瞬間、さらに深く、重たい静寂が雪崩のように押し寄せてきた。船内に残っていた微かな機械の駆動音さえも、外界の完全な沈黙の前では、無粋で騒々しいノイズに感じられる。


船外へと最初の一歩を踏み出す。だが、靴底が太古の石畳を叩く音は『響かない』。

まるで、吸音性の高い黒い真綿の上を歩いているような、音の死に絶えた不気味な感触。それがこの世界の物理法則なのだ。


鼓膜が内側から圧迫され、頭蓋の奥が痛むほどの静寂。私は、自らの存在をこの水墨画《モノクロの階調》に繋ぎ止めるため、何度か喉を鳴らし、掠れた声を絞り出そうとした。


「……ここは……あまりに、静かすぎます……」


しかし、その微かな震え、私が吐き出したばかりの言葉の端々は、吐き出したそばから闇の層に飲み込まれていく。隣に立つ教授にすら届いていないのではないかという、根源的な孤独。そして、己という頁がこの灰色の沈黙に塗り潰されていく恐怖が、私の肺を冷たく締め上げた。


「気をつけろ、栞。この街の空気密度は、通常よりも遥かに高い可能性がある。音波の伝播が極端に減衰されていると仮定できるな」


教授の声は、どこまでも冷静であった。彼の言葉は、この沈黙の世界に論理という一点の灯火を掲げるかのようだった。


「密度が、高い……。だから音が、届かないのですか」


「そうだ。あるいは、我々の認識中枢に直接干渉する、何らかの未知の要因。いずれにせよ、物理的な現象として観測し、繙読する価値がある」


彼は外套の隠しポケットから、小型の分析機器を取り出した。黄銅と硝子で組まれた、精緻な工芸品のごとき装置。彼がその細いレバーを操作すると、硝子管の中の銀色の水銀柱が、生き物のように微妙に揺らめいた。


「興味深い……。空気の成分比率は正常だが、音の伝播率のみが極端に低い。まるで、この空間全体が振動を捕食する『スポンジ』になっているかのようだ」


「スポンジ……振動を、捕食する……」


「そうだ。極微細な構造体が、大気の振動を即座に熱へと変換し、吸収してしまう。これは自然の産物ではない。高度に設計された、人工的な干渉だ」


彼の眼鏡の奥に、峻烈な知的好奇心の光が宿る。


私を恐怖させるこの『音の墓場』は、彼にとっては解明すべき魅力的な謎題エニグマに過ぎないのだ。その強固な理知の姿勢に、私は再び、自分がこの人の隣に立っていることの意味を、静かに噛み締めていた。



【保存された死】


霧が重く滞留する街路には、数千年前の意匠を完璧に留めた黄銅の街灯や、彫刻の細部まで鋭利に保存された石柱が林立している。そこには、本来ならば存在するはずの、風化という名の『時間の記述』が一切存在しない。


埃一つ落ちていないその街並みは、美しさを越えて、防腐処理を施されガラスケースに収められた『標本』の陳列棚を想起させる。生きた息吹が途絶え、ただ『装丁』だけが外部の意思によって強制的に維持されていることへの、生理的な嫌悪。


「これは……」


「帝国初期、あるいはそれ以前の様式だ。完璧に保存されている……あまりに、完璧すぎるほどに」


教授は街路に立つ一本の石柱に近づき、その表面を慈しむように、しかし峻烈な観察眼を以て指先で撫でる。


彼の指先が石に触れる瞬間、私の心臓が、無意識に、そして激しく跳ねた。彼の指が感じ取っているであろう冷厳な質感を、私自身の肉体で追体験したいという、切実なまでの、あるいは背徳的なまでの欲求。


「教授、その質感は……」


「石だが、常温で存在する物質とは思えない。まるで、分子の運動そのものが凍結したかのような、異質な硬度だ」


彼の分析を耳にし、私は石柱に触れることを一瞬ためらった。


それは、生きた体温を持つ人間が触れるには、あまりに冷酷で、慈悲のない無機物のように思えたからだ。しかし、教授の識見を自らの皮膚で確かめたいという、逃れがたい知的好奇心が、私の本能的な恐怖を打ち負かした。


私の指先が、静かに石柱に触れる。


冷たい。それは、冬の朝の氷のような冷たさではない。それは、差し出した体温を際限なく吸い込み、無へと帰す『拒絶の拒絶』のような、硬質な無感覚。私の指先のぬくもりが、この石の『構造』には一切認められず、ただ虚空へと消し飛ばされていくような、絶望的な拒絶。


「……っ」


言葉にならない微かな喘ぎが、喉の奥から上がってくる。私は弾かれたように手を引いた。指先には、何も残っていない。感触さえもが、この灰色の死界に同化し、奪い取られてしまったかのようだった。


「大丈夫か、栞」


「はい……。ですが、この街は……まるで、死体が、美しいまま永久に保存されているようです」


「その通りだ。これは『保存』されている。だが、誰が、何のために。そして、なぜ、これほどまでの完璧さを求めたのか」


彼の言葉は、モノクロームの霧を切り裂く論理の閃光。私の揺らぐ心が、彼の言葉という楔によって、少しずつ、しかし確実に、現世へと繋ぎ止められていくのを感じる。


「一度も閉じられることなく、永遠に晒され続けた、頁のよう……です」


「面白い表現だ、栞。この街が一枚の巨大な古書の頁だとするなら、我々は今、その禁忌の行間を歩いていることになる。だが、この頁は誰も読まなかった。誰も閉じなかった。ゆえに、時間が経過しても、色褪せることも、摩耗することもない」


「読まれなかった、頁……」


私の唇が、無意識にその言葉を反芻する。それは、私自身の、まだ何も書かれていない白紙の心に、深く、暗く響いた。私の心は、まだ一文字も刻まれていない純白の宣紙。教授の言葉という『墨』が響くたび、私の内側に、新たな真理が静かに、そして抗いようもなく滲んでいく……。


「行こうか、栞。この街の中心へ。我々の繙読リードを待つ、中心核コアがあるはずだ」


彼は、私の手を再び強く握る。


その温かさだけが、このモノクロの世界において、唯一の「生」の証明として、私の掌の中に残っている。



【教授の知的な焦燥】


二人が進む道筋は、どこまでも続く灰色の直線であった。


道の両側には、完璧に保存された建物が、墓標のごとく整然と立ち並んでいる。窓硝子は一つとして罅割れず、扉の蝶番には、歳月がもたらすはずの錆ひとつ浮いていない。まるで時間が止まった街、あるいは、初めから時間という概念さえ存在しなかった街。


教授は層視単眼鏡レイヤード・モノクルを瞳に当て、壁面に刻まれた古代の碑文を凝視した。


彼の思考は、常に「観測・分解・仮説・沿革化」という厳格な律動リズムを辿る。不完全さ《ノイズ》という欠落があるからこそ、その隙間に知性の刃を差し込み、真理を繙読することができるのだ。しかし、この拒絶的なまでに完璧な記述の前では、彼の論理は刃を立てる場所を見出せず、ただ空虚に滑り落ちるのみであった。


「……何だ、これは」


彼の呻きが、死に絶えた静寂の中で異質な『音』として響く。


「どうされたのですか、教授」


「この文字には……摩耗も、欠落も、経年による『揺らぎ』さえもない。あまりに絶対的な『正解』として、そこに記述されている」


彼は単眼鏡を外し、壁面を指さした。そこには、数千年前の古代帝国の文字が、今しがた彫られたかのように鋭利に刻まれている。


「読めるか、栞。……いや、君の目に、これは『言葉』として映るか?」


私は壁面に近づき、その文字に目を凝らす。しかし、それは意味を成す記号というよりは、完璧な均衡を保つ幾何学図形の羅列にしか見えなかった。余白を一切許さない、閉じた論理の集合体。


「……意味を読み解くことができません。ですが、あまりにも完璧です。まるで、昨日刻まれたかのような鮮烈さで……」


「だろう。これでは、解析のしようがない。歴史とは本来、誤読と補完が織りなす多層的な物語だ。だが、この街はそれを許さない。ただ、『自明の理』としてそこに居座るだけだ」


彼の言葉に、私はかつてないほど濃い焦燥の気配を読み取った。


『知の案内人』としての自負が、解釈の余地を徹底的に排したこの世界によって、静かに削り取られていく。眼鏡の奥で、彼の瞳が微かに、しかし痛切に彷徨う。体系化できない現象、構造化を拒む完璧な沈黙。それは、万物を知性で領土化してきた彼にとっての、根源的な敗北感であったのかもしれない。


「教授……」


私は彼の手を、祈るように握りしめる。その温かさだけが、この灰色の深淵において、唯一私を繋ぎ止める現実の温度であった。


「大丈夫です。私たちは、二人でここに来たのですから……」


「……そうだ。そうだ、栞。君がいてくれる。私の知性が壁に突き当たったとき、君の感性が、その先を拓く。私の理論を、君の直観が補完するのだ」


彼の言葉は、私の胸の奥に小さな、けれど消えない火を灯した。


私の、まだ何ものにも染まっていない白紙の心に、彼の『信頼』という黒いインクが、熱を持って滲んでいく。


「はい。私にできること……この『目』で視えることがあるのなら」


「ああ。この街を、君の感性で繙読まわしよみしてほしい。歴史学者の偏ったフィルターではなく、古書堂の店主として……日々、書物の『声』を聴き続けてきた、君のその感性で」



【影の浸食】


彼の真摯な頼みに、私は震える指先で力強く頷いた。


すがるように白頁記録帳アルバ・フォリウムを取り出し、愛用の万年筆を走らせる。自らの正気を、そしてこの灰色の世界を現実に繋ぎ止めるための、必死の『記述』。


しかし、紙面に引かれたはずの黒いインクの軌跡は、定着する間もなく、背景の無機質な灰色へとその濃度を譲り、薄れ、消えていく。まるで、私がこれまで積み上げてきた人生という物語が、この街の巨大な『無』によって一頁ずつ落丁デリートしていく予感そのもの。


『記録』こそが、私の依り代であった。


古書を守る家系に生まれ、私は常に、何かを記し、残すことで自分の輪郭を確かめてきた。しかし、綴った先から文字が『背景』に同化していく様は、私の魂の根幹を激しく揺さぶる。


インクの匂いさえもがこの死んだ影に喰われ、自分がこの世界に『書き込まれた存在』ではなく、単なる『消し忘れ』のように感じられていく。足元から存在そのものが透け、透徹な無へと還っていくような、底知れぬ喪失感。


「……どうした、栞。手が震えている」


教授の視線が、私の指先に注がれる。その瞳に、学術的な関心を超えた明らかな心配の色が浮かんだ。


「私の……記録が、拒まれているのです。まるで、この街が、私の存在そのものを『無効』として扱っているかのように……」


「……」


彼は黙って、私の手から記録帳を奪うように取り上げた。そして自らも万年筆を走らせる。彼の、あの理知的で力強い筆致さえもが、私の文字と同じ残酷な運命を辿り、灰色の中に霧散していった。


「……面白い」


教授は、消えゆくインクの断末魔を見つめて、静かに独白した。


「この世界は、『記述』そのものを拒んでいるのではない。……『定着』という概念を、根本から拒絶しているのだ。インクは紙の繊維に浸透はする。だがその後、背景の階調へと強制的に同化させられる。これは単純な物理現象ではない。より高次の、構造的な意志を感じる」


彼の言葉は、この絶望的な影の世界に、一筋の論理という名の光を射し込ませる。私の揺らぎ、消えかけていた心が、彼の言葉という錨によって、再び現世へと繋ぎ止められていくのを感じる。


「高次の……意志、ですか?」


「そうだ。我々がまだ繙読できていない、この世界の絶対法則。だが、それこそがこの廃都の謎を解く、最後の一行かもしれない」


彼は、冷え切った私の手を再び強く握りしめた。その掌の熱さだけが、このモノクロームの奈落において、唯一信じられる『色』であった。


「心配するな、栞。たとえ紙の上の文字が消えようとも、君という存在そのものがこの世界に染まることはない。君は、君という物語のままだ」


彼の言葉は、私の心の奥底に、消えない灯をともした。


私の、まだ何ものにも汚されていない真っ白な心に、彼の『信頼』という熱いインクが、今度こそ消えない刻印として深く滲んでいく。


「はい……。信じています、教授」


私は、ようやく呼吸を整え、彼を見つめ返した。彼の信頼が、私の消えかけた輪郭を、この灰色の現実へと再び強く縫い留めてくれたのだ。


「行こうか、栞。まずは宿へ。この不可解な静寂の中で、我々もまた身を隠し、『保存』されねばならんからな」


彼の口元に、微かな、皮肉めいた笑みが浮かぶ。


その僅かな表情の変化さえもが、この色彩を失った絶望的な廃都において、私には唯一の鮮やかな『色彩』であるかのように思えた。



【不穏な予感】


宿へと続く、長く寂れた坂道。


光源がどこにあるのかさえ不明瞭なこの世界にあって、私たちの影だけは石畳の上にドロリと長く伸び、まるで独自の意志を持つかのように背後の闇へと尾を引いていた。それは、すべてが希薄な灰色の世界において、唯一、不気味なほどに『濃度の濃い』存在であった。


一歩、歩を進めるたびに、自分の影に後ろ髪を『引っ張られる』ような、物理的な重量を伴う重圧が背中を襲う。


背後の闇が、私たちの影――すなわち実体以外のあらゆる『情報』を飲み込もうと、見えない指先で引き摺り戻そうとしているような、底知れぬ不穏。私は、何度も冷たい背後を振り返らずにはいられなかった。背後の闇に、自らの輪郭を喰い破られていないかを確認するために。


「……教授」


「どうした、栞」


「この影……なんだか、生きているようで……私たちの足首を、掴もうとしているみたいです」


「そう感じるのも無理はない。だが、影に意志などない。光が遮られることによって生じる、幾何学的な『結果』に過ぎないよ」


彼の言葉は、常にこの灰色の世界に論理という光を当てようとする。だが、私の内側で膨れ上がる原始的な不安は、彼の清廉な論理だけではどうしても拭い去ることができなかった。


「ですが……なんだか、自分がこの影の重みに引きずられて、向こう側へ堕ちていくような……」


「気のせいだ、栞。この世界の異常な静寂と無色彩が、君の平衡感覚を過敏に、そして情緒的にさせているだけだ」


彼は私の手を強く握る。その温かさだけが、モノクロームの奈落において唯一の暖かさとして残っている。けれど、その確かな体温さえも、長く伸びた影がもたらす冷ややかな予感を完全に打ち消すには至らなかった。


石畳に投影された二人の影が伸びるにつれ、物理的な距離よりもずっと、彼が遠くにいるような錯覚に陥る。私は、自分の影が彼の影と混ざり合うのを、恐れるような、あるいは烈しく渇望するような、割り切れぬ心境のまま坂を上り続けた。


もしも、私たちの影が重なり合った瞬間、その境界線から何かが決定的に壊れてしまうのではないか――そんな、漠然としながらも強烈な、黒い予感が胸を衝く。


坂の先に見えてきたのは、黒塗りの二階建ての宿であった。そこから漏れ出る僅かな明かりもまた、冷たく灰色に沈み、救いとしての光の色を失っている。


「……ここですね」


「ああ。ここが、この街で唯一、我々が一時的な安息を得られる場所だ」


彼は重い木製の扉に手をかける。その動作すらも、音を剥ぎ取られた無声映画の一場面のように、現実感を伴わぬまま私の瞳の奥へと焼き付いていった。



─────────────────

帝国探索日誌 第三十一頁

「廃都の静寂とモノクロの頁」

日付: エーデルシュタイン帝国暦 876年 秋の月 64日

場所: ノクス旧帝都

記録者: 墨染 栞

─────────────────

ページターン号が不可視の境界を切り裂いた瞬間、窓外の茜色は消失し、世界は灰色の階調で描かれた静止画へと変貌した。色彩という『世界の属性』が剥奪され、私はまるで、現像液の中に固定された巨大な『拓本』の中に迷い込んだかのような閉塞感に苛まれる。


教授の知性を輝かせていたダークブラウンの髪さえ、今は鈍い鉄の色に染まって見える。彼の眼鏡を直す僅かな動作さえ、音のない無声映画のように現実感を伴わず、ただの『映像』として私の網膜に冷たく焼き付いていく。


音も同様に、その存在を消した。船体が着陸の衝撃で震えても、本来響くはずの金属の軋みや蒸気の排気音は、深い影に吸い込まれるようにして消え去った。鼓膜が内側から圧迫されるような静寂。自らの存在をこのモノクロの頁に繋ぎ止めるため、掠れた声を絞り出そうとしても、その微かな震えさえもが闇の層に捕食され、教授にすら届いていないのではないかという孤独が肺を締め上げる。


街は、あまりに完璧に『保存』されていた。風化という『時間の記述』が一切存在せず、黄銅の街灯や石柱の彫刻は、防腐処理を施されガラスケースに収められた『死体』の陳列棚を想起させる。石柱に触れた時の硬質な無感覚は、体温を奪い去る『拒絶の拒絶』。この光景は、一度も閉じられることなく、永遠に晒され続けた頁。変化を許さぬ、残酷なまでの完成がそこにあった。


教授もまた、層視単眼鏡で壁面の碑文を分析していたが、その不完全さを排した記述の前では、彼の『観測・分解・仮説・構造化』という思考プロセスは、ただ虚空へ滑り落ちるのみ。眼鏡の奥で彷徨う彼の瞳に、知の案内人としての自負が削り取られていく揺らぎを見た。解釈の余地を排した世界……それは、彼にとっての最大の拒絶なのかもしれない。


震える手で白頁記録帳を開き、正気を確かめるように万年筆を走らせる。しかし、紙面に引かれたインクは定着する間もなく、背景の灰色へと濃度を譲り、薄れていく。積み上げてきた人生という物語が、この街の巨大な『無』によって一頁ずつ落丁デリートしていく予感。私はこの世界に書き込まれた存在ではなく、単なる『消し忘れ』に過ぎないのではないか。足元から存在が透けていくような、底知れぬ恐怖。


宿へと続く、長く寂れた坂道。光源が不明瞭であるにもかかわらず、二人の影は石畳の上にドロリと長く伸び、独自の意志を持つかのように背後の闇へと尾を引く。一歩進むたびに、自分の影に後ろ髪を『引っ張られる』ような、物理的な重量を伴う重圧。背後の闇が、二人の『影』を飲み込もうと、見えない指先で引き摺り戻そうとしている。


影が長く伸びるにつれ、教授との距離は物理的なそれよりも遥かに遠く感じられた。自分の影が彼の影と混ざるのを恐れ、同時に渇望する、割り切れぬ心境。私は何度も冷たい背後を振り返り、自らの輪郭がまだそこに在ることを確かめずにはいられなかった。


その先に見えたのは、黒塗りの二階建ての宿。そこから漏れる光もまた、冷たく灰色に沈んでいた。


「……ここですね」


「ああ。これが、この街で唯一、我々が休むことができる場所だ」


教授が重い木製の扉を開く。その動作もまた、音のない無声映画の一場面のように、現実感を剥ぎ取られたまま私の瞳に映った。

─────────────────

帝国探索日誌 第三十一頁 了

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