第六十九話 大丈夫だから
「くしゅっ!」
不意に響いた小さなくしゃみに、フェリシアが慌てて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫? 夜はまだ冷えるものね」
窓の外では、相変わらず風が時折窓を揺らしていた。もちろん窓は閉めているのだけど、窓枠の隙間からは冷たい空気が入り込んでいた。
「もうベッドに入ろっか。そのほうが温かいし」
「……はい」
少し恥ずかしそうに頬を染めながらも、フェリシアは素直に頷き立ち上がった。
「えっと……、フェリシアはこっち側でいいかな?」
私は、できるだけさりげなく壁際を指さした。
「はい、わかりました。……あの、何か理由があるのですか?」
「え! どうして?」
語尾がひっくり返ったのが自分でも分かった。それでも、視線だけは逸らさないように努力した。
「ふふ、何となく聞いてみただけです」
そう言いつつも、フェリシアは私の考えを見透かすような眼差しを送ってくる。別に変なことを考えていたわけではないのに、その目で見られると何故か落ち着かなくなる。
――まぁ、まだ隠し事があるのは事実なんだけど。
「あっ、えっと……」
壁際を指した理由を言ってしまえば、フェリシアがベッドから落ちないようにするためだった。
ただ、私は寝相が悪いというわけではない。たぶん……。
朝起きて布団をかぶっていなかったことはあるものの、ベッドの下で目を覚ましたことはない。そう、一度もない。
それでも、広いと言えないベッドに二人というのは……すこしだけ自信がない。そして、そのことを口に出すのが恥ずかしかった。
――ど、どうしよう……。何か、いい言い訳は……。
記憶の図書館の案内板を確認する。当然、それらしい言葉のかけらすら見つかる気配がない。
――えぇ、分かっていましたよ!
私は意を決した!
「フェリシアがっ、落ちない……ように……」
次第に尻すぼみになっていく声、逸れる視線。恥ずかしいものは恥ずかしかった。
「え!?」
フェリシアの顔から、それまでの取り澄ました表情が崩れ、代わりに年相応の自然な表情が浮かんだ。
「……ぷっ」
堪えきれなかったように、フェリシアは小さく吹き出した。
「笑わないでください……」
ジト目で睨んでみるけれど、まったく効果はなさそうだった。
「だってっ……、ふふっ」
口元を手で押さえ、なんとか堪えようとするものの、一度火がついた笑いはなかなか収まらないようで、肩が揺れていた。
「王女殿下をベッドから落としてしまう、なんてことになったら……」
「それは、大変ですねっ。ふふふ……」
他人事のように、心底楽しそうに笑うフェリシア。
そんな状況が父の耳にでも入った日には……、大袈裟に頭を地面につける父の姿が簡単に想像できた。
「そうです、大変なんです。もうっ」
頬を膨らませてみせると、ようやく笑いが少し落ち着いてきたのか、フェリシアが目元を拭いながら口を開いた。
「大丈夫ですよ。一緒に寝た時もそうでしたから」
「あのベッドは大きかったので……」
もごもごと言い訳のように付け加えた。
「ではっ、お言葉に甘えさせていただきますね」
くすくすと笑いの余韻を残したまま、フェリシアが先にベッドへと潜り込んだ。私も続いて、壁際とは反対側に体を滑り込ませる。二人分にしては少し狭いけれど、なんとか収まりそうだった。
ふと視線を感じて振り向くと、ルナが気を利かせたのか、例の花瓶の隣で、丸くなって目を閉じているところだった。
「ルナにはちょっと悪いことをしちゃいましたね」
「まぁ、大丈夫じゃないかな」
その時、机の上でルナの尻尾がふわりと揺れた。声は聞こえなかったけれど、なんとなく『問題ない』と言われたような気がした。
「フェリシアは大丈夫? 寒くない?」
「えぇ、ユミナも無理していませんか?」
「うん、平気」
そう答えた拍子に、フェリシアと目が合った。思っていたよりもずっと近い距離に、一瞬息が止まった。慌てて瞬きをして、視線を天井へと逃がす。
――ち、近い……。
慌てて視線を逸らしたけれど、フェリシアも同じように目を逸らしたのが、気配で分かった。
しばらくの沈黙のあと、フェリシアが少し体を揺らした。
「ユミナは……ヴィセリアの学校に、行っているのですよね?」
普段の快活な口調とは違う、どこか迷っているような、遠慮がちな問いかけだった。
「うん。冬の間だけだったけどね」
「……その、楽しかったですか?」
天井を見上げながら、記憶の糸をゆっくりとたぐり寄せた。
「うん。楽しかった、かな。色々と知ることが出来たし。でも……、苦手な事もあって……」
「あら、そうなのですか?」
「人名や家名、地名が……。もう、ほんとにごちゃごちゃで……」
それぞれの講座で並べられた、似たような響きの名前。覚えたと思った端から、するりと記憶からこぼれ落ちていくあの感覚は、今思い出しても頭が痛かった。
「ふふ、なるほど」
くすくすと笑う声に、ふと頭をフェリシアの方へ向けた。
「フェリシアは、そんなことないのよね……?」
そう言いながら、内心ではひそかに期待していた。「実は私も苦手なの」なんて、意外な一面が返ってくるのではないかと。
「そうですね、一通り覚えていますね」
返ってきたのはあっさりした答えだった。
「で、ですよね~」
さすが王族というべきか、育ちの違いをまざまざと見せつけられた気がした。
「やっぱり、小さい頃から学校に行ってるの?」
「いいえ、色々な方に直接教わるという形ですね」
「なるほど。でも、王都には学園……えっと、王立……レガリア学園っ。確か、王族の方も通ってるのよね?」
「え!?」
フェリシアが、ぴたりと動きを止めた。予想外の反応に、指先できゅっと布団を握りしめた。
「もしかして……違ってた?」
リィナから聞いた学園の名前は、確かそのはずだったのだけれど……。慌てて記憶を辿るけれど、何度確認しても間違ってはいないはずだった。
「いえ、その通りです」
ほっと胸を撫で下ろした。
「でも、よく知ってましたね……」
「実は、ギルバートさんの娘さんが、学園に通っているみたいで少しだけ聞いていたの」
「まぁっ、そうだったのね」
「凄く、大きい図書館があるんでしょ!?」
思わず声が弾んだ。頭の中では既に、天井まで届くほどの本棚がずらりと並んだ光景が広がっていた。妄想が膨らみすぎた結果、本棚が高くなりすぎてしまい、実用性の欠片もなかったけれど……。
「えぇ、確かにあそこは圧倒されてしまいますね」
「フェリシアでも……」
その一言で、脳内の図書館がさらに何倍にも膨れ上がった。整然と並ぶ背表紙、静かな空気、隅々まで満ちた紙とインクの匂い……、想像だけでふわふわと夢見心地になってしまう。
「……ふへぇ~」
気の抜けた声が漏れたのと同時に、口の端から何かがこぼれそうになっているのに気づいて、慌てて口を押さえた。
「ふふ、すごく興味があるみたいですね」
「はい! でも、学生じゃないと入れないみたいで……って、あれ? フェリシアは……」
「私は、来年入学するのですけど……、これでも王族なので、何度かお邪魔させてもらったことはありますよ」
「そ、そうだよね……」
改めて、今この状況がとても異常なことを理解した。
「フェリシアと一緒なら私も入れたりするのかな?」
誰かに向けたわけではなかったけれど、ふと口からこぼれた。
「…………」
返事がないことに気づいて、隣を見る。フェリシアは何かを言いかけて、それを飲み込むように、そっと口を閉じた。
「フェリシア……?」
「あ……いえ、何でもありません」
そう言って咄嗟に浮かべた笑みは、いつもよりほんの少しだけ、ぎこちなく見えた。
「一緒じゃなくても申請が通ればユミナはもちろん、他の人でも入れますよ」
王国の知が集約された場所の扉が閉ざされていないことは、素直に嬉しく希望が持てた。ただ、それは同時に申請の大変さを物語っているように思えた。
「……それって、絶対簡単じゃないよね?」
「そうですね、何かの研究や魔導具の開発など、民のためになるようなことであれば……。もしくは、図書館で働く場合なども大丈夫だと思いますよ」
「働く!!」
ゆっくり忍び寄っていた眠気が、窓の風にさらわれるように散っていった。
――そっか、その手があったわ! 大きい場所なら人手も必要になるはず。それに、もし学園じゃなくても似たような場所は他にもあるはずで……。
明確な目標が見つかった気がした。
「ユミナが望む……、一緒に入……こ……」
「どうしたら図書館で働けるか知ってる?」
食い気味に飛び出した私の声が、フェリシアの言葉を遮る形になった。けれど、その時の私はそんなことに気づく余裕もなく、ただ目を輝かせてフェリシアの返事を待っていた。
「ぁっ、えっと……ごめんなさい、そこまでは分かりません……」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
「はぃ……、はぁ~」
ふと漏れたため息が、やけに耳に残った。
その音で興奮に浮かれていた頭が、すっと冷静さを取り戻していく。
――そういえば、フェリシアが何かを言いたそうにしていたけど……。
改めて思い返せば、さっきの言葉の続きは聞けていないままだった。それに、あの時の笑みも、どこか無理をしているようにも見えた。
普段のフェリシアなら、こんなに歯切れの悪い言い方はしない。
――何か、悩んでいることでもあるのかな……。
勝手に浮かれていた分だけ、申し訳なさが胸に広がった。
――よく思い出して私。
フェリシアに気づかれないように小さく深呼吸をする。
――ベッドに入るまでのフェリシアは私のよく知るフェリシアで、ベッドに入ってからは……そう、学園について話していたのよね。学園の立派な図書館が……って、今はそうじゃないでしょ!
頭の中で、フェリシアの声を再生するようにたどる。少し戸惑うような、いつもより控えめな声色だった。
『ユミナは……ヴィセリアの学校に、行っているのですよね?』
『……その、楽しかったですか?』
『私は、来年入学するのですけど……』
――そっか。フェリシア、初めてなんだ……。それに、確か友達も……。
来年から、右も左もわからない場所で、大勢の同年代の中に飛び込むことになる。しかも、王女として。気負わないほうがおかしい。
――不安にもなるよね。私もそうだったし……。
腑に落ちた気がして、私はそっと隣に体を向けた。
「フェリシア」
自分でも驚くくらい、優しい声が出た。
「はい……?」
いつもと違う響きがあったのだろう。フェリシアはきょとんとした顔で、瞬きを二度繰り返した。
「大丈夫だから」
正直、何をどう伝えればいいか分からなかった。それでも「たとえ離れていても、あなたの友達として気持ちだけはいつも傍にいるから、だから大丈夫。あなたは一人じゃないよ」と精一杯の気持ちを込めたつもりだった。
「えっ……、ですが……」
今にも消え入りそうな声だった。
――どうしても離れ離れになっちゃうから、心配になっちゃうよね。
「私たち友達でしょ」
気休めにしかならないかもしれないけれど、言葉にして伝えておきたかった。それにフェリシアならすぐに別の友達ができると思っていた。
「……来て、くれるのですか?」
「もちろん!」
――い、いや……流石にちょっと遠い?
完全に勢いで答えてしまった。
――……でも、フェリシアが困っていたり寂しいって言うなら……、ルナに全力で走って貰えれば少し会って帰るぐらいはできるんじゃないかな。問題はフェリシアに何て説明するかだけど……。
「ありがとう、ユミナ!」
薄暗い部屋の中でもはっきりと表情が分かるぐらい、声の響きに安らぎが混じっていた。
「……うんっ」
その声を聞いたら、フェリシアにはルナのことを全て伝えてしまってもいいと思えた。
突然、会いに行って驚くフェリシア。そんな光景を思い浮かべながら目を閉じる。
「ふふ、楽しみです。一緒……なんて」
いつになく嬉しそうなフェリシアの声が、耳に心地よく響く。ちゃんと安心してもらえたのだと思ったら、張り詰めていた気が緩んだのか、瞼が急に重くなってくる。
遠くなっていくフェリシアの声を聞きながら、意識は柔らかな闇へと沈んでいく。最後に浮かんだのは、驚いた顔をして、それからくしゃっと笑うフェリシアの姿だった。




