第1話 坂口勇
ピロロン。ピロロン。ピロロ……。
部屋に鳴り響くアラーム音。
俺はその音で目が覚める。
目の前には見慣れた白い天井。
「はあ。もう朝か」
鉛の腕で携帯を目の前に持ってくる。
時刻は6:30。
俺はそれを確認するとその下にある「止める」のボタンを押してアラームを止めた。
「はあ。今日も仕事か……。嫌だな」
そう言いながら俺はベッドに仰向けになる。
俺は朝が苦手だ。
だが俺のアパートは会社から遠いところに位置している。
俺は人混みが嫌いだ。
だがあの満員電車に乗らないと、あの人混みの中を通り抜けないと会社に辿り着けない。
俺はサービス残業の強制、パワハラ、安月給というブラック三銃士が揃った会社が嫌いだ。
だが仕事をしないと生きていけない。
俺は沢山の不満を抱いて生活している。
だが今の俺にはそれらを解決できるほどの金も余裕もない。
「はあ。そろそろ動かないとな……」
俺は乾いたスライムのようになった体を解しながら起き上がる。
ボキボキという骨の音と共に足が床につく。
「よっこらしょっと」
俺は重い腰を上げる。
ボキッ。
「いてっ」
腰の骨の音と声が重なる。
(今日も体、やばいな……)
そうして俺は顔を洗うために洗面所に向かうのだった。
◇ ◆
俺は洗面所の電気をつけてから洗面台の前に立つ。
すると鏡の中の人物と目が合う。
その人物はとてもだらしない見た目をしていた。
ボサボサの髪。
死んだ魚の目とその下を走る黒い線。
そして襟の黄ばんだ元は白かったであろうシャツ。
俺はそんな姿を見て落胆する。
「はあ。これじゃあまるでゾンビみたいじゃねーか」
そう。これは俺「坂口勇」の姿だった。
「ははは。昔はこうならないように努力してたんだけどな……」
俺はそんなことを口ずさみながら顔を冷水で洗うと壁に掛かっているタオルで拭く。
そして今度は鏡の自分と向き合いながら寝ぐせを1つずつ治していく。
すべての工程を終わらせた俺は1度、携帯の画面を光らせる。
「6:42……。まだ大丈夫だな」
そうして俺はゆったりとキッチンに向かうのだった。
◇ ◆
キッチンに着いた俺は昨晩、買い置きした大好物の唐揚げ弁当を冷蔵庫から取り出す。
そしてそれを電子レンジで温め始める。
待ち時間は2分30秒。
正直朝から唐揚げはどうかと思うが、これでも俺はまだ26歳。
それに俺は昔、クラスの大食い選手権で優勝したことがある。
あれはいい思い出だったな……。懐かしい。
だから多分大丈夫……だと思う。うん。大丈夫……だよな?
そんなことを考えていると電子レンジがピーピーと音を立てた。
俺は勢いよく電子レンジのドアを開ける。
すると唐揚げの食欲をそそる匂いが俺の鼻を通り抜ける。
「すぅーーーーはぁ。やっぱ、唐揚げの匂いは最高だ」
さっきまで俺の中にあったネガティブな思考が吹っ飛ぶ。
そこで俺は中から蒸気を漂わせる唐揚げ弁当を取り出す。
そして電子レンジの横に置いてある割り箸を持って食卓に座った。
弁当の蓋を開く。
するとご飯の瑞々しさ、唐揚げの脂っこさという真反対の液体の混ざった匂いが胃をさらに刺激する。
そうして俺は割り箸を袋の中から取り出し、2つに割ろうとする。
パキッ。
「あ……」
だが右の割り箸に割れが偏ってしまった。
俺は目を棒にしながらそれを見つめる。
(やっぱこれって企業側の嫌がらせかなんかだろ。綺麗に割れたことが1度もないんだが?)
ちょっと食欲が失せてしまったがそれでも唐揚げは俺の大好物。
すぐにそれをバランスの悪い箸で口へと運び込む。
「うまい……」
俺はそう囁く。
噛めば噛むほど溢れ出す肉汁。
それをさらに際立たせるご飯の弾力と甘み。
そして極めつけはこのバランスの取れた熱さ。
口内の温度と殆ど差がないためそれらが実際に溶けているかのように脳を錯覚させる。
これこそ、俺の見つけた絶対麗度。
うむ。我ながら素晴らしい努力だな。
俺はじっくり唐揚げを味わっていた。
そのつもりだった。
だが唐揚げは気づくと俺の前から消えていたのだ。
「ダニィ!? も、もう唐揚げが……ない……だと?」
俺はショックを受けて体が溶けてしまう。
うう。俺の唯一の楽しみが……。
俺の鮮やかな世界を……鮮やかな色に染まった世界を返してくれー。
だがそう願っても唐揚げは帰ってこなかった。
そうして俺はプラスチックの器と蓋だけになった唐揚げ弁当をゴミ箱に捨て、軽く手を洗った。
そして歯を磨きにキッチンを後にしようとした時、1つの萎れた花が目に入る。
それは「黄色のキンセンカ」だった。
俺に特段花の趣味はない。
ただこの花は、キンセンカは、この「黄色のキンセンカ」だけは特別だ。
これは俺の……。
俺は撫でるようにキンセンカに触れる。
普段は生き生きと咲いているが今の彼女はまるで死にかけのようだった。
そこで俺は思い出す。
最近は家に帰れない日が続いて彼女の水を変えてあげられていなかったことを。
俺は彼女の入った花瓶を優しく手に取るとキッチンの洗面器に移動する。
「ごめんな。最近、構ってあげられなくて」
俺はそう言って水を入れ替えた。
だがそれでも彼女の生気は戻らなかった。
俺は歯を食いしばる。
「本当に……ごめん」
そうして俺は彼女を元の場所に戻すと歯を磨き、さっさとスーツに着替えた。
そして部屋を出る直前に彼女に一言。
「いってきます」
そう言って俺は部屋を後にするのだった。
◇ ◆
波のように押し寄せる人だかり。
風を切り裂きながら進む地震のような音。
そして砂利の上に敷かれた2本の金属棒。
そんな駅のホームで俺は7:21発の電車を待っていた。
現在の時刻は7:03。
電車が来るまで20分弱あったが俺は携帯を弄っているふりをして人間観察をしていた。
俺と同じ死んだ魚の目をしている人。
とても綺麗なビジネスウーマン。
そして高校生。
様々なタイプの人が居たが彼らには1つの共通点があった。
それは彼らのほとんどが携帯の画面に夢中になっていたことだ。
(まったく。この人たちは何をしているんだろう? もったいないな~)
あの人たちはこの後、勉強や仕事に縛られる。
それなのに何でこの貴重な自由時間を大切にしないのか?
俺はそんな彼らが少し可哀そうに思う。
(まあ、そのおかげで俺はこういう時間を大切にできているっていう愉悦感に浸れるんだけどね)
そんな風に考えていた時だった。
「なあ。お前さ、いい加減美咲に告っちゃえよ」
「な!? おま、何を言っているんだよ?」
後ろから男子高校生の恋バナが聞こえてくる。
(お。これは面白そうだな)
そう思った俺は聞き耳を立てる。
「だってお前ら幼馴染で幼稚園からずっと一緒なんだろ? そんなのもう確定演出じゃねーか」
「はぁ。まったく、お前ってやつは……。あのな? 一応言っておくけど、幼馴染だからといって必ずしも付き合えるわけではないだぞ? そういう冗談は漫画やアニメの中だけにしとけよ」
(ぐふぉ!!)
その言葉が矢のように刺さる。
「そうやってすかしてるけどさ……美咲のことが好きなのは変わらないだろ?」
「うっ。ま、まあそうだけど? あんな美少女だし? 学校のアイドルだし? 好きなるなって言う方が難しいよ。うん」
「だよなー。あっ。そういえば今日もお前、美咲と2人きりで買い物をするだって?」
(はふぃ!?)
今度は心の奥底が燃えるように熱くなる。
「ああ。そうだけど……。それ、どこから仕入れてきたんだ? 誰にも言ってないはずなんだけど……」
「実はお前らが2人きりで話しているところを偶々見てさ。それで、盗み聞きした☆」
「おい。何をやってるんだ、お前」
彼はそう言ってもう片方の男子高校生の頭に軽くチョップをかます。
「いて。……というか、そこまで行ってるんだったらもう付き合ってるのと同じだろ。絶対向こうもお前に気があるって」
「そうは言ってもさ……」
「それじゃあ俺から1つ、言わせてもらおう。お前、今日の買い物デートの後、美咲に告れ」
「は、はい!?」
(は、はい!?)
俺は男子高校生と連動する。
「だって告らなきゃ何も進展しないんだぞ? そんなの絶対後になって後悔するって」
(がはっ!!)
またもや俺の心に矢が刺さる。
「うっ。確かに……」
「んじゃ俺と今から約束しろ。今日絶対に美咲に告るって」
「い、いや、そう言われても……」
「告れ。じゃないとクラス全員にお前が美咲のことが好きってバラすぞ」
「うっ。わかったよ」
そう言って2人は指切りをする。
そして告白を強制した男子高校生がもう片方の子の肩に手を回す。
そんな2人は青春を謳歌していた。
しかし、一方の俺はライフがゼロになっていた。
実は俺にもめちゃくちゃ可愛い幼馴染が居た。
彼女の名前は「中川シェリー」。
名前からもわかると思うが、彼女はハーフだった。
反射光でより美しくなる白銀の髪。
海と太陽のような青と黄色のオッドアイ。
そして猫のような可愛らしい顔つき。
俺は彼女のことが好きだった。
でもその想いが報われることはなかった。
彼女とは家族ぐるみで旅行に行ったり、同じ部屋で雑魚寝したりするほどに仲が良かった。
しかし彼女は俺が8歳の時に親の仕事の関係で引っ越してしまったのだ。
もっと一緒に居たかった。
ちゃんと好きって言っておけばよかった。
俺もあんな可愛い彼女が欲しかった。
俺は今になってひどく後悔している。
だからさっきの言葉は全く関係のない俺に激刺さりしていたのだ。
(トホホ......羨ましいな)
俺がそんな風に落ち込んでいると、
『キンコンカンコーン。まもなく、3番乗り場に、急行……』
という放送が流れてきた。
(3番乗り場か。ちょっとだけ下がっておこう)
そうして俺は後ろのわずかなスペースに入る。
(はあ。それにしても朝からこんなボコボコにされるなんてなぁ……)
すると、
「お。美咲からメールが来た」
という声が聞こえてくた。
そしてもちろん俺の心もちゃんとえぐられた。
「マジか!? ちょっと見せろよ」
「うわぁ!! 急に押すなって……あっ」
その声の後、俺の体は宙に浮かぶような感覚に襲われ、景色が直角に回転する。
「へ?」
目の前には線路。
右には電車。
そして何故か周りが止まって見える。
(え? ちょ……え?)
俺はなかなか状況が呑み込めていなかった。
そこで俺は状況整理のために周囲を見渡す。
すると車掌さんと目が合った。
車掌さんは目を見開いたままブレーキに手をかけようとしていた。
その瞬間、俺の頭にある1字が浮かび上がる。
それは「死」だった。
電車と俺の距離は長く見積もってもせいぜい30m。
急行列車なら1秒足らずで通過してしまうだろう。
これは……間に合わない。
そこで俺はこれから死ぬんだなと悟った。
俺はゆっくりと迫りくる死を感じながらため息をつく。
(まあ、自業自得か。俺みたいな奴がまともな死に方なんて、できるはずないもんな。アハ、アハハ……。これは俺に対する天罰なんだ。仕方がないさ)
すると一気に時間の流れが早くなる。
鼓膜が破れそうになるほどの警笛が右から迫ってくる。
俺はそれに合わせて目を閉じるのだった。
◇ ◆
2025年 3月27日 午前7:14 : 坂口勇死亡
死因:電車の人身事故
→体は原型をとどめていなかった




