序章:第一話
☆
ガサッ…ザザッ……
「グルルゥ……」
後ろから迫るのは獣の足音。
獲物が一人だと分かると、夜の獣はどこまでも追ってくる。
「はぁ……、しつこいなぁ……っ!」
少年は勢いよく右足で踏み切り、振り向きざまに足音の主めがけて炎の魔法を放った。
杖から撃ち出された炎は、最も近くまで迫っていた獣に当たり、その後ろの二、三匹を巻き込んで吹き飛ばす。
しかしその奥からまだ足音は続く。
もう何度この攻防をしたことか、少年は走っては迎撃をひたすら繰り返していた。
(次がこちらに到達する前に走らなくては……)
少年は再び走り出そうと前へ踏み込んだ。
しかし、その足は思わず止まった。
「ガルゥ──グルルルゥ……」
進行方向からも獣の唸り声が響く。
……どうやら囲まれたらしい。
「流石にもう逃さないってことですか……」
暗い茂みの中から光る眼がこちらを覗いている。
「僕もそろそろ疲れてきましたから……、ここで決着を着けましょう。」
杖を前にかざし魔力を集中させる。
魔力が高まるにつれて辺りの温度が一気に上がり、杖のクリスタルが赤い輝きを増していく。
それを阻止しようと、茂みの中から数十もの獣じみた影が一斉に飛び出した。
「劫火円舞《インフェルノ》────」
静かに少年の声が響き渡る。
一瞬の静寂ののち、熱風とともに赤い閃光が視界を焼き尽くした。
☆
「さっきの爆発音……、この辺りだと思ったんだけど……」
微かに聞こえていた獣の足音を追い、エルフの少女は道を外れて森へと踏み入っていた。
通り過ぎた道には、焼け焦げて崩れた獣の死骸がいくつも転がっていた。
どうやら、戦いながら逃げている者がいるらしい。
そんな中、爆発音が森の中に響き渡った。
少女はその場所を目指して、少し開けた水辺に辿り着いていた。
向こう岸がすぐ見えるぐらいの小さな湖は、頭上から差し込む月光でキラキラと輝いている。
そっと水面を覗き込むと、ぼんやりと少女の姿が写り込んでいた。
腰までの長い金髪が、かすかに吹く風に揺れている。
水面から視線を戻して辺りを見回すと、ただ真っ暗な森が四方に広がっていた。
少女の長い耳に届くのは、風で擦れる木の葉のカサカサという音だけだった。
「群れた足音はもう聞こえなくなっちゃったな……。さっきので片がついたのか……ん?」
きらり、少し離れた茂みの隙間から光るものが見えたような気がして、思わず視線が向いた。
ゆっくり茂みまで近づくと、そこには確かに金属のように光るものが転がっていた。
少女はそっと手を伸ばす。
光の正体は、赤いクリスタルを埋め込んだ金色の杖。
手に取るだけでわかるほど、手入れの行き届いた立派な杖は、それだけで主にどれほど大切にされているかが伝わってくる。
そう、この杖の主はどこに……?
少女はすぐにあたりの茂みに目を向ける。
少し草を掻き分けて進むと、黒い布の端が視界に映る。
「あ……!」
横たわる黒いフードの人影。
少女は駆け寄ると、すぐさま呼吸を確認する。
「……大丈夫、生きてる……!」
意識はないが呼吸は安定している。
右足の噛み跡から出血があるが、服のあちこちが焦げている程度で、命に関わるような怪我はしていないようだ。
恐らく追われていたのはこの少年だろう。
少女は先に足の止血をしようとしたが、前方の暗闇から微かに草が擦れる音を聞き、思わず手を止める。
音の出所を辿るように目を向けたその奥、木の陰から何かが飛び出してくる。
「……っ!」
手負いの野犬だ。
少女は反射的に右手をかざす。
「氷結の杭《コールドスパイク》っ!」
「グルルァッ! キュィ……」
唸りながら突っ込んできた獣に、鋭く尖った氷の杭が突き刺さる。
「野犬の生き残り、いや……」
獣の体は氷の杭で床に打ち付けられているが、その場でのたうち回り、異様な姿をさらしていた。
皮膚は爛れ、骨まで露出している。
腐敗した箇所からは、禍々しい漆黒のクリスタルのような結晶が生えていた。
おそらくどこかで強い瘴気に触れて、体が変質してしまったのだろう。
少女は目を細め、気が進まない様子を見せながら、腰の剣に手をかけた。
「どうか安らかに──」
静かに降り下ろした刃が、首と思われる部位をはねる。
そこまでやってようやく動きが止まる。
ピキッという小さな破砕音と共にクリスタルが割れると、野犬の体は黒い火で燃え尽きるように跡形もなく消え去った。
瘴気によって体が変質した魔物、一般的に《狂化種》と呼ばれるモノ特有の消え方だ。
完全に消滅するのを見送った少女は、剣を鞘に収めながら倒れている少年の元へと戻る。
早く少年の止血をしなければ血の匂いに誘われて、野犬以外の敵も寄ってくるかもしれない。
そう考えた少女は、すぐに応急処置を始めるのだった。
☆
森の中の小さな湖。
ちょうど湖の真上だけ綺麗に開けていて、月の光が水底を照らしている。
エルフの少女は岩場に腰掛け、頬杖をつきながら、遠くの景色をぼんやり眺めていた。
少女の名前はイーゼル。
とある調べものをするために、大陸の各地を旅して回っている。
次の目的地へ向かう道中、街道沿いの森から獣に追われる者の足音を聞き、少女は追跡を始めた。
その先で、恐らく応戦していた少年が意識を失って倒れているのを発見し、今に至る。
視界の端に目をやると、岩陰には先ほど応急処置をした少年が横たわっていた。
治療をしたと言っても、傷口の汚れを拭き取った段階で自力で傷が塞がり始めており、気休め程度に包帯を巻いたぐらいになってしまった訳で……。
ぼんやりそんな事を考えていると、小さく呻く声が聞こえ、微かに少年の指先が動いた。
「うっ……、ん……」
「目、覚めました?」
「……だ…れで…」
イーゼルは真上から少年の顔を覗き込んだ。
微かに開いた目はまだ虚ろで、しばらく宙を泳いでいた。
徐々に焦点が合い、イーゼルの姿を捉えると、少年は勢いよく体を捻り態勢を整えた。
低い姿勢を維持しながら、素早く距離をとる。
「……っ! …………?」
フードの中から警戒の目をこちらに向けたまま、右手で何かを探すように動かす。
しかし、本来あるはずの物は見つからず、その目に一瞬、焦りが走った。
「お探しのものはこれ?」
イーゼルは、背後に隠していた赤いクリスタルが埋め込まれた杖を、少年に見えるように手に持った。
少年の表情が再び険しくなる。
「それ……、返してください」
「返さないって言ったらどうする?」
「…………」
警戒の態度はお互いに崩さない。
少しの間睨み合いが続いたが、イーゼルは一度目を閉じて一息入れると、ゆっくり近づいて少年の手が届くギリギリの場所に杖を置いた。
「ふふっ、どうぞ」
返してもらえると思っていなかったのか、少年は少し困惑したような表情を見せた。
まだ警戒の色は残っているが、静かに杖に手を伸ばした。
「どうも。……素直に返してくれるんですね」
「普通の人間さんではなさそうだから、起きた時に反射で襲われたら困ると思って取り上げてただけだからね」
「そう……ですか」
少年は杖を掴むとゆっくり立ち上がった。
「ちなみに、何で気付いたのですか」
「ん?」
「人間じゃなさそうって……」
「右足」
「右足……?」
少しだけ血の滲んだ包帯が、ズボンの裾から覗いている。
しかし少年はここまで痛がる様子もなく、すでに右足の傷は完治しているようだった。
「ゾンビみたいな野犬に噛まれて、結構深い傷になってたんだけどね。この短時間で立っても気付かないくらい回復してるのは、流石に人じゃないと思うなぁ」
「……」
少年はしばらく右足を見つめてから、何かを考えるような素振りを見せる。
「その……、助けてくれたみたいで、……ありがとうございます」
「いや、私は何もしてないよ。野犬追い払ったのも君だろうし」
一匹残ってはいたものの、野犬の群れをほぼ壊滅させるとはかなり腕が立つように見える。
ではなぜ気絶していたのか、イーゼルはそれが気になっていた。
「それで、なんで行き倒れてたの? その様子だと、あんまり右足は関係なさそうだし」
「えっと……」
記憶があまりはっきりしていないのか、少年はまた何かを考えるよに少し険しい表情になる。
「確か最後に迎撃した時に、思ったより敵までの距離が近くて、着弾した自分の魔法の爆発をもろに受けて……、その後は曖昧ですね」
「なるほどね。災難だったみたいだね。ま、無事に目が覚めてよかったよ~」
そう言いながら軽く微笑むと、イーゼルはさっきまで座っていた岩場に腰掛けた。
咄嗟の迎撃では、距離感を測り損ねて術者が巻き込まれることはよくある事故だ。
とはいえ、気絶するほどの衝撃を受けたのに、見た目にわかる傷が右足の噛み跡だけだったのは、一体どんな超常の回復力なのか……。
次々と質問攻めにしそうになったが、あまり警戒されるのもいただけないので、イーゼルは一旦全て飲み込むことにする。
「とりあえず、もう少し休んでなよ。軽く動くには問題なさそうだけど、夜に出てくる敵は強いから、明るくなるまでは下手に動かないほうがいいと思う」
「……そうですね」
少年は何か言いたげだったが、水辺の方に寄りながら少し辺りを見回して手頃な岩に腰掛けた。
少年も少し落ち着いたように見えたので、イーゼルは軽く咳払いをして、少し改まったように話しかける。
「私、イーゼル・クロイツェルっていいます。名前くらいは聞いてもいいかな?」
少年は目を合わせないまま不愛想に答える。
「アルシアです」
「ふーん、いい名前ね。よろしくね、アルシアくん」
「どうも」
目線だけを寄越して小さく会釈するアルシアに、イーゼルはにっこりと笑顔で返す。
それで会話は終わりだと思っていたイーゼルだったが、意外にも次に切り出したのはアルシアの方だった。
「その……」
「ん? どうしたの?」
「一応助けてもらったので、何かお礼をしておきたいのですが……」
気まずそうな視線を向けながらアルシアはそう呟く。
少し考えて、イーゼルはふんわりと微笑みながら返事を返す。
「ふふっ、律儀だね。でも私、ほんとに何もしてないから、お礼なんて気にしなくていいよ」
「律儀とかではなくて……、単に人に借りを作っておきたくないんです」
鋭い視線が身に刺さる。
これは断っても引き下がってくれなさそうだなぁと察したイーゼルは、もう少し考えてみることにした。
アルシアと名乗ったこの少年は家名こそ語らなかったが、
恐らくいいところの魔法使いだと思われる。
きちんとした魔法装備に、見る人が見ればわかる一級品の杖、どれも一般的に流通している物ではなく、オーダーメイドで作られているように見える。
ここまでの装備を整えられる人は、かなり限られているはずだ。
そんな人物が、正体を伏せて行動しているのはどうしてなのか。
イーゼルは、目の前の少年に少し興味が湧き始めていた。
「そういえば、アルシアくんってこれから向かう場所とか決まってるの?」
「行先は特に。気の向くまま歩いているので」
「なるほどね。じゃあ、こういうのはどうかな。私はここから北にある中央都市リーベリアってとこを目指してるんだけど、その前に一旦宿場町を経由するから、そこまで私に同行してもらえないかな?」
「同行ですか」
「うんうん。最近は街道でも狂化した魔物とか出るらしいし、宿場町まではそこまで距離はないけど、一人よりは二人の方が安全に行けるかなって」
「ふむ……」
アルシアはなにかと葛藤しているようで、表情が一段と険しくなる。
フードで影になっている部分が多いにも関わらず、もろに行きたくなさそうなオーラが滲み出している。
「君、露骨に嫌そうな顔するね……」
「人が多い場所は苦手なので……。でも、町にたどり着くまで同行でいいんですよね?」
「うん、着くまででいいよ」
「なるほど」
「人混みが苦手なら、着いたらすぐ離脱で大丈夫」
少年は小さく黙り込む。
「どうかな?」
ものすごく悩む表情をしている。
こうして見ると、少年は会話はかなり堅い印象があるが、その表情はずいぶん豊かに見える。
唸りながら悩んだ後、小声で返事が返ってきた。
「わかりました。同行しましょう」
「そうこなくっちゃ! じゃ、夜が明けてきたら出発ね! 森を抜けて川沿いの道を歩けば、街道にすぐ合流できるわ。街道に出たらすぐに宿場町が見えると思う」
「了解しました。その距離なら昼前には着きそうですね」
「うんうん。特に迷う道も無いから、そのくらいで着くはずだよ」
今はただの出会いでも、後に意味のあるものになることもある。
昔読んだ誰かの冒険記に書かれていた言葉だ。
次の街に向かうだけのこの縁も、ちょっとした旅の物語くらいになればいいなと思いながら、イーゼルはほほ笑むのだった。




