後編
つぎに折原くんと顔を合わせたのは月曜の朝だった。というか、あたしが出勤するタイミングで彼が帰ってきたんだ。
「あ。おはよう、ございます」
「おはよ。打ち上げ? まさか飲酒はしてないでしょうね?」
「だいじょうぶです。ずーっとカラオケで。喉ガラガラです」
「ふーん。あ、もうこんな時間だから急ぐね」
わざとらしく腕時計を見て、ほんとはまだまだ余裕があったのにないふりをした。徹夜でカラオケ。十九歳ってなにを歌うんだろう。きっとあの子も、一緒にいたんだろう。
折原くんが何か言いたげにあたしの腕をとろうとしたけど、振り払って走った。
今日。帰ってきたら、ちゃんと話をしないと。
だけどなかなか切り出せなかった。徹夜明けなのに学校にもバイトにも行ってくたくたになっていた彼は、リビングのソファで倒れ込むように寝てしまって、仕方なくあたしは毛布をかけてあげた。
ひとえだから目立たないけど、意外とまつ毛が長い。オールでカラオケしても荒れない丈夫な肌。のどぼとけ。さらりとしているようで、近くで見ると案外ごわごわしている髪。耳たぶにそっと触れてみる。ほんとうに、気持ちよさそうに寝ている。
あと少しだけ、告げるのを先延ばしにしても。いいかな……。
目がさめると、なぜかあたしがソファに横たわっていて、折原くんにかけたはずの毛布にくるまり、さらに掛布団までかけてあった。ど、どういうこと?
キッチンから、じゅわっと何かが熱される音がする。ていうか、今何時?
「おはようございます。ゆうべはありがとうございました」
「え? な、なにを?」
「添い寝」
うそ? うそでしょ? でも記憶が落ちてて……。折原くんの耳たぶをつまんでみたところまでしか思い出せない。まさかあたし、あのままもたれかかって、寝てた?
「だいじょうぶです、みんなまだ寝てます。沢木さんも遅番らしいし。朝ごはん、一緒に食べますか?」
「あ、あの」
「フレンチトーストですけど」
…………たべたい。
結局、甘いたまご液のたっぷりしみこんだ厚切りフレンチトーストを、熱いカフェオレと一緒にいただいた。ずるい。こんなにおいしいものをつくれるなんて、ほんとうにずるい。
「陽乃さん。お弁当も、よかったら持ってってください。自分のをつくるついでに、ちゃちゃっと詰めたんで」
「……やっぱり、おかあさんだ。男子大学生の着ぐるみを着たおかあさんだ」
「はいはい。みんなには内緒ですからね? 野村さんとか、俺のもつくれとか絶対言うから」
「野村くんにもつくってあげたら?」
「いやです。彼女にしかつくりませんよ」
かの、じょ。彼女って言った。おそるおそる折原くんを盗みみると、昨日触れた耳たぶが真っ赤になっている。あたしまでどきどきしてきちゃって、あわてて席をたった。
さっと食器をあらったあと、自分の身支度をする。ぱしっとメイクして、髪は会社で制服に着替えるときにひとつにまとめるから、おろしたまんま。
そうこうしていたら、野村くんが起きてきたみたいで、「やべーこんな時間!」と叫びながら階段を駆けおりる音が聞こえてきた。そんな野村くんのことはさくっと無視して、折原くんはあたしを玄関先で見送ってくれた。
あたし。ほんとうに言えるのかな。あんなにやさしい彼を、苦しめたくない。だけどあたしが、自分のわがままで、これ以上縛るわけにはいかないから。
パソコンに向かっていると無意識に肩がいかって力が入ってしまうらしい。かちこちに張ってしまった肩をぐるぐる回す。ぼんやりと頭が痛む。お昼休み、ランチの誘いを断ってしばらくデスクに突っ伏していた。
「そうだ。……おべんとう」
食べなきゃ。無造作にうしろでひとつにしばっていた髪をほどいたら、少しだけ不快な痛みがやわらいだ。食べるのには髪はじゃまだけど、ずっと結んでいるとどうにも神経が引っ張られるみたいで痛くなる。
皆出払っていてあたしひとりだから、自分のデスクで食べてもいいかな。買ってきたおにぎりやパンはなにも気にせず仕事しながら食べちゃうこともあるけど、手作りのお弁当なんてめったに持ってこないから、見つかるといろいろからかわれてめんどくさい。この前持ってきたときも、「どうしちゃったの今宮さん、こんなのつくれるんだ?」なんて騒がれて、おまけにちくちくと「今さら女子力アピールとか」みたいなことも言われたし。しかも半笑いで。なにを食べようがあたしの勝手なのに。
ま、そういうことを言うひとはひとりなんだけど。彼女はとにかくいろんなひとに対して、そういう棘のあることばやプライベートなうわさをばらまきたがるから、なるべくならかかわりたくなかった。あたしが彼氏と別れたときも、どうしてだかすぐに彼女にばれて、言いふらされたあげくに嬉しそうに世話を焼かれ、合コンにまで連れて行かれて、ほとほと疲れてしまった。
ああ、もう。やなこと思い出した。
ステンレスボトルに入れたあたたかいウーロン茶を飲む。そっとお弁当箱のふたを開けると、思わず、「わあ……」と声がもれた。
いんげん豆の豚肉巻き、ひじきの煮物、たこさんウインナー、ポテトサラダにブロッコリー。そして、たまごやき。折原くんの、たまごやき。
「いただきます」
疲れも頭痛も人間関係のめんどくささも、吹き飛んでしまいそう。
まずは、たまごやき。さすが、冷めてもふっくらする裏ワザをつかってるだけあって、おいしい。三切れあるから、のこりの二切れはさいごのお楽しみにとっておこう。こうやって、おかずを食べる順番を考えるのもお弁当のお楽しみ。折原くん、ありがとう。
彼も今、同じものを、学校で食べてるんだよね。ふと、そのことに思い当たる。
「…………」
ごめん、ごめんね。嬉しくなってしまった。つき合えないと思っているのに、嬉しくなってしまった。
「あれー。今宮さん。外に食べに行ったんじゃなかったの?」
大きな声がしてはっと我に返る。見ると、営業の白石さんだった。ことし中途採用ではいったひとで、たしか年は野村くんと同じらいだったと思う。歓迎会の二次会で、みょうにからまれて大変だった。わりとさわやか系の顔立ちで、彼と同じ営業の矢野ちゃんが「いいよね」って騒いでる。
「白石さんこそ」
「ちょうど一区切りついたから戻って昼寝しようと思って」
「昼寝?」
「知らないの? 十分程度の昼寝を効果的に取り入れることで作業効率が劇的にアップするんだよ」
「そうなんですかー」
いや、知ってますけどね。
「っつーか」
大きな目をきらきらひからせて、あたしのデスクに寄ってきた。な、なに?
「今宮さん、それ手作り?」
「あ。えと、まあ。いちおう」
自分がつくったんじゃないですけど。
「すっげー。そんなうまそうなのつくれるの? 意外だなあ。なんかいっつも眉つりあげて伝票処理してるイメージしかないから」
悪かったですね。
「俺が彼氏だったら絶対離さないのになー。元カレ、もったいないことしたよね」
なんでこのひとにまでばれてるの? ていうかセクハラでしょそれ……って、
「だっ、だめっ!」
思わず大きな声を出してしまっていた。あたしの、あたしのたまごやきを。盗った。食べた。あたしの、あたしのたまごやきを。
折原くんが、「彼女」にしかつくらないって言ってた、お弁当を。
「え? ちょ、そんなに怒る?」
「…………」
すいませんでしたおとなげなかったです、と小声でぼそぼそつぶやいて白石さんから顔をそらした。食べ物でむきになるとか、まるで小学生じゃない、あたし。白石さん、どん引きしてるし。でも断りもなく食べるそっちも、距離感おかしくない?
と、白石さんの携帯が鳴った。ごめんねと片手をあげて彼は電話に出る。話しながら自分のデスクにもどり、メモをとりはじめた。
もう、さいあく。
トイレの個室にしばらくこもって心を落ち着けたあと、丁寧に化粧を直した。お化粧して肩をいからせてキーボードをたたくすがたも、愛想笑いを貼りつけて会議室にお茶を出すすがたも、折原くんは知らないんだなって思う。あたりまえだけど。あたしだって彼の「家」でのすがたしか知らないし。「家」以外の顔なんて知らなきゃよかったって、ちょっとだけ、思ってるし。
あーもうダメダメだ。切り替えて、午後からもがんばらなきゃ。鏡に向かって、きゅっと、髪をひとつにたばねた。
トイレを出たところで、
「いたいた。探してたんだよ」
と、白石さんに話しかけられた。
「さっき、ほんとうにごめんね。俺のほうこそおとなげなかった」
「もういいですから」
にっこりと笑ってみせる。いきなり大声で怒ったりしてあたしも悪かったと思う。いや悪いのは俺だし、と白石さんは手を横にふる。
「おわびに、今夜、食事おごるよ」
「は?」
「おいしい店知ってるんだ。今宮さんのたまごやきには勝てないかもしれないけどね」
めちゃくちゃうまかったと、さわやかに笑う白石さん。
「えっと、あの。すみませんが、行けないです」
「今夜、予定あるの? じゃあ明日でも、金曜でもいいし」
「そうじゃなくって。……あのお弁当、彼氏がつくってくれたんです」
「え」
「あたしの、彼氏が」
嘘じゃない。お試しだけど、いまは、折原くんがあたしの「彼氏」。
ずるいあたしでごめんね。やさしさに甘えてばかりでごめんね。なんにも返せなくてごめんね。まだ、未来を怖がっているあたしで、ごめんね。
自分の輪郭がぐずぐずに溶けていきそうな感覚がいやだった。この間まで「しっかりものの弟」だった折原くんの存在が、どんどんふくらんで、あたしを圧迫する。
はやく割ってしまわなきゃ。たまごがかえってしまうまえに。
仕事が終わって、折原くんに電話をかけた。出ない。メッセージにもいつまでたっても既読がつかないから、きょうはバイトなのかもしれない。そう思って、彼のバイトしてるコンビニに寄ってみたけどいなかった。
路面電車に乗って、彼の大学近くの電停で降りた。そんなことしなくても、シェアハウスで待っていれば会えるんだけど。でも、あの「家」で、いつものようにやさしくされたら、またずるずる先延ばしにしてしまいそうだった。
あの銀杏並木の、焼きそば屋のテントがあったあたりをふらふら歩く。もう銀杏の葉はすべて散ってしまっていた。うすい闇のなか、つめたい木枯らしに吹かれて、からだが縮こまる。自分はいったい何をしているんだろう。
案内掲示板を見たあと、サークルの部室があるという場所をさがして行ってみる。もう帰っているかもしれないと思いながらも。と、目の前のクラブハウス風の二階建ての建物から、階段を降りる足音が聞こえてきた。
折原くんだった。うす闇のなかでも、彼のすがたははっきりとわかる。わかってしまう。
ひとりじゃ、ない。小さい影がとなりにいる。女の、子……。
ふたりは歩きながら、あたしのいるほうへと近づいてくる。折原くん、気づかない。そうだよね、あたしがこんな時間にこんなところにいるなんて、思いもしないよね。
女の子は。このあいだの、「津村さん」だ。きょうはポニーテールじゃないけど、間違いない。あたしはとっさに、何学部の何棟なのかしらないけど、近くの建物へ寄って身をかくした。
「もう泣き止めよ」
「だって」
「勘違いだって。木下先輩はそんなことしないって」
「そうかな。信じらんない」
なんの話してるの。
「電話するから。送ってもらいなよ」
「やだ。あいつの顔なんて見たくない」
津村さんは涙声で、もうやだ、おりはらー、と叫びながら、折原くんの背中にこぶしをぶつけている。
何してるの。何してるの何してるの何してるの。
「折原くんっ!」
飛び出していた。ふたりの、前に。
「陽乃さ……、どうして」
「話があって来たの」
津村さんが、涙に濡れた目をまんまるく見開いて、あたしの顔をみた。
「あっ。ごめんなさ……。このあいだの彼女さん。あの、ちがうんです、その」
「彼女じゃないですから。だいじょうぶです」
言い捨てて、すっと、津村さんから折原くんへと視線をうつす。
「だれとつき合おうが、ご自由にどうぞ」
「陽乃さん。ちょっと待って、なにか誤解してる?」
「誤解だろうが誤解じゃなかろうが、どっちだって関係ないの。あたし、今日でお試しを終わりにしようと思ってて」
「……って」
「ずっと言おうと思ってた。あたしやっぱり折原くんとはむり。弟だもん」
いろいろありがとう。お弁当もおいしかった。
そう、笑顔で告げて。くるりときびすを返して、走った。走って走って、走り抜けた。パンプスがかかとにこすれて痛い。大学構内を出て、電車通りに出たところで。なにかにつまずいて、転んでしまった。
「……あ」
ストッキングは見事なまでに伝線してしまった。足はくじいてないみたいだけど、靴擦れが痛くて限界。
よろよろと立ち上がる。深い藍色の、冬のはじまりの空を。見上げていると電線のあいだの三日月が滲んだ。路面電車のまるい光が近づいている。はやく電停まで行こう。
これでよかった。どのみち、つき合うのはやめようと告げるつもりだった。
だけどもう、あの家を出なくちゃいけないかもしれない。彼の、無防備なすがたが。台所仕事の音が。おいしい料理のにおいが。笑顔が。手の感触が。声が。すぐそばにある暮らしなんて、もう、耐えられないと思った。
「はるのさん」
まぼろしの声が聞こえる。
「はるのさんっ」
ゆらりと振り向くと、今しがたまで思い浮かべていた、あたしの「おとうと」が。泣きそうな顔して、あたしの名前を呼び続けている。
「あの子を送っていかなくてもいいの?」
「いいんです。津村なら、彼氏が迎えにきたから」
「ふうん」
「あの、誤解ですから。たまたま喧嘩の現場に居合わせちゃって、からまれちゃって。明日にはあのひとたち、何ごともなかったみたいにいちゃいちゃしてると思うんで、というかいつものことなんで」
「……気をつけたほうがいいよ」
レールの軋む音がする。路面電車が通り過ぎていく。なにを、と折原くんのかすれた声が届く。
「あのね。女の子っていうのはね。傷ついたときにやさしくしてくれるひとに、弱いんだよ。恋してるみたいな気分になっちゃうの」
「あの。それって」
「だからね。むやみに、泣いてる女の子にやさしくしないほうがいい。勘違いだったって、甘えてるだけだったって、相手はぜったい気づくから」
「陽乃さん」
「ごめんね。ありがとう。あたし、もう折原くんに甘えないよ」
あたしは、うまく、笑えているだろうか。
折原くんが、あたしの、今までの彼氏たちと同じだとは思いたくない。さっきの津村さんのことだって、きっと彼が言ってることが真実なんだ。そう信じることはたやすい。だけど、未来は。どうなるか、わからない。
「期限の日まで、まだ時間はある。せめて、それまで、おれを」
「やだ。それじゃ、取り返しがつかなくなる」
「陽乃さんっ」
折原くんが、あたしのからだを引き寄せて、抱きしめた。電車通りの、広い歩道のまんなか。通り過ぎる車のライトに照らされる。通行人たちがちらちらとあたしたちに視線を寄越しながら足早に過ぎ去っていく。こんな、場所で。
振りほどこうとしても、折原くんの力は強い。はじめてあたしを抱き寄せたときの、ふるえていた彼とは、別のひとみたい。くるしい。
「陽乃さん。なんで泣いてるの」
「泣いてなんか」
ほんとうはもう、気づいている。たまごはかってに育っていって、今にも破裂してしまいそう。完全に、手遅れなんだ。
「キスしたい」
「だめ」
「一生、陽乃さんにごはんつくりたい」
「だめ。一生なんて決めちゃだめ」
涙をこらえる。諭すように、ゆっくりと、言い聞かせる。
「まだ十九歳なんだよ。今はよくても、あたしのことが重くなる日がきっとくる。あたしは折原くんより先に年をとってくけど、折原くんのまわりには若くて可愛い子がいっぱいいるから。気を遣わなくてもいい、同世代の子が」
あの子みたいな。
「ひょっとして、妬いてくれてる、とか……。ちがったら、おれがばかみたいだな」
ばかみたいじゃないよ。ばかなのは、あたしなんだ。
傷つきたくなくて、もう二度と苦しい思いをしたくなくて逃げてるだけ。
「陽乃さんって。自分がおれを傷つける可能性は考えないの? おれみたいなガキに愛想つかして、包容力のあるオトナの男にふらふらいっちゃう可能性」
「え?」
そんなこと、気にしてるの?
「おれは、陽乃さんになら、傷つけられてもいい。未来がどうでも、もう、戻れないから」
あたしを抱きしめる腕にちからがこもる。
「おれのこと、好きですか」
あたし。ほんとうに、この腕をふりほどくことができるの? そんなこと、もう、できないくせに。
戻れない。
「好きよ」
戻れない。どうしてくれるの?
折原くんの細い指があたしのなみだをぬぐう。もう一度、好きよと告げようとしたとき。あたしのくちびるは、ふさがれた。やわらかくて、あたたかな。折原くんの。
「……だめって言ったのに。こんな場所で」
「だって」
なんでそんなに必死なの? そんなに一生懸命なの? 怒られてしゅんと肩を落とした彼の、余裕のない瞳が、いとおしくてたまらない。
未来がどうでも。戻れないなら、進むしかない。
あたしも腹を決めなくちゃ。
すうっと、冷えた空気を吸い込んだ。
「あたし。うそをつきました。やきもちをやきました。ほんとは一生折原くんを縛りたいし、甘えたいし、寝顔を見てたいし、キスもしたいし、ほかの女の子のこと見ないでほしいし、ごはんもつくってほしい」
「わかりました。よろこんで」
「敬語もつかわないで」
「はい」
「はいじゃないでしょ」
「うん」
「一緒に帰ろう?」
「うん」
ゆっくりと歩きだす。指と指をからめて、電車が来るのを待った。もしもこの先、恋のたまごを、ずっと、ずーっと、彼とふたりであたためつづけることができたら。どんなものが生まれるんだろう。
そんなことを、考えはじめていた。