九
静まり返った室内。拭き清められた卓袱台が置行燈のぼんやりとした灯りを映している。決して広い家ではないが、昼間の賑やかさを思うと妙にだだ広く淋しく感じる。居間に足を踏み入れた玄武は、いつもながらそう思わずにはいられなかった。
襖の向こうでは朱雀と秋沙、青龍と風馬の四人が寝息を立てている。その安心しきった穏やかな空気を背に感じながら、彼は大きくひとつ欠伸をした。そして灯りを落とすために行燈に手を伸ばした丁度その時、勝手口の戸を叩く微かな音が聞こえた。
「ごめん下さい。」
戸の外にいる人物が遠慮がちに囁く。その声は、玄武のよく知っているものだった。
「その声は……秧鶏か? どうしたんだ、こんな夜更けに。」
眉を顰めつつ、玄武は少しだけ身構えて勝手口を開けた。
「すみません兄さん、こんな時間に。」
肩を竦め恐縮する秧鶏。その背後に影のように静かに佇む背の高い姿に、玄武の視線は釘付けになった。
「久しいな、玄武。」
「楸……。」
この国を治める若殿。城下に住む者であっても、一生に一度も顔を見る事なく終わるかも知れぬ人物。庶民にとっては言葉を交わすことも近くで見ることも殆どなく、馴れ馴れしく口を利くなど以ての外である。しかし、その「庶民」である筈の玄武は、夜更けに押しかけた客人を嫌な顔ひとつせず家に招き入れながら、その若殿と親しげに話していた。
「本当に、随分と長いこと会っていなかったな。だが突然来るとはどうしたんだ? 今は大変な時だろう、こんな所に来てて良いのか?」
「いやなに、たまにはお前の気楽で幸せそうな顔を拝みたくなっただけさ。なかなか抜けられなくてこんな時間になっちまった。すまないな。」
「それは構わん。お前も人目を引くのは好ましくないんだろ。ただ、俺一人じゃ、ろくなもてなしは出来ねえぞ。」
襖の向こうを気にして小声の会話。身分がかけ離れている筈のふたりだが、交わされる言葉は気さくで、旧知の仲であることが容易に窺えた。楸の後ろに控える秧鶏は、口も挟めず目を丸くして、育ててくれた兄と己の主人との様子をただ見ていた。
「まあ、座れよ。茶でいいか?」
「ああ。」
「あ、私がやります。」
秧鶏は慌てて土間へ降り、湯を沸かしだした。勝手知ったる戸棚をあさり、客用の茶と有り合わせの茶菓子を調えて戻る。ふたりはぼそぼそとした声でただの世間話を続けながら、将棋盤を挟んで向かい合っていた。いつもの決まり事だとでもいうように何も言わず、仕舞い込んでいた将棋盤を出して駒を並べる玄武。楸が先手で指し始めた後は勝負に集中しているのか、会話は殆どなくなった。盤上で駒を動かす音だけが響く。
「ここは、静かだな。」
楸が呟く。それに頷いてから、玄武は大きく息を吐き出した。
「おい楸。言いたい事があるならさっさと言っちまえ。」
「言いたい事?」
「おう、あるんだろ。そうやって悶々と考え込んでられっと鬱陶しくてかなわねえ、言え。秧鶏も連れて来たってことは、多少なりともこいつに関係する話題か。……の前に、秧鶏にどこまで説明してあるんだ?」
玄武がふと気付いて尋ねると、楸も手を止めた。
「そう言えば、何も説明していなかったな。ある程度は教えておいた方が良かろう。玄武、異存は。」
「ねえよ。そもそも口止めしたのはそっちだろうが。どこまで明かすのかもお前に任せる。」
何故か少しだけ不機嫌そうに応じる玄武。恐らく「口止め」「秘密」といったことが気にくわないのだろう。楸は玄武に頷くと、秧鶏に向き直った。
「何から話すべきか。秧鶏、今までに玄武から私の事を聞いたことはあるか?」
「いいえ、一度もございません。それ故に楸様に連れられてここに着いた時は驚きました。」
まだ驚きが治まっていない様子の秧鶏はゆっくりと答える。ひとつ息をついて、恐る恐る尋ねた。
「玄武兄さん、あなたは何者なのですか?」
「玄武は、私の乳兄弟であり義兄弟だ。すぐ上に嫡子たる兄がいた私は乳母に任せ切りで育ったから、玄武とは本当の兄弟のようだった。」
そう言って、楸は懐かしむように目を細めた。玄武も一つ肩をすくめて言う。
「俺もガキだったからな、母親に楸は偉いんだと叱られても分かってなかった。こいつも嫌がっていたのをいいことに、敬語も使わずにここまで来ちまった。未だに人前以外で『若』だの『殿』だのなんて呼んだことねえ。」
「私がそうしろと言ったんだよ。勝手に玄武が兄、私が弟とふたりで決めていて、私は玄武の後にくっついて回っていた。」
楽しそうなふたりは本当に兄弟のようだった。本当の血縁はなくとも、兄弟にはなれるのだ。それは秧鶏にもよく分かっていた。彼も玄武の『弟』であり、この家の子どもたちの『兄』なのだから。実の兄弟とどちらが大切か比べることなど出来ない。違う大切さ、違う感情。
「秧鶏にとっても私にとっても、こいつは『玄武兄さん』なんだな。」
「よせやい。」
嬉しそうに照れる玄武。秧鶏は、自分に微笑みかける主がとても近い存在のように思えた。
「楸様……。」
何を言いかけたのか、彼自身にもよく分からない。しかし楸のどこか淋しそうな笑みに言葉は止まってしまった。
楸は玄武に向き直ると、少しだけ背を強ばらせた。
「で、その『兄さん』に話したいことがあるわけさ。」
「何だ改まって。……この戦のことか?」
「それも話そうと思っていたが……青龍のことだ。」
楸の言葉は思いもしなかったもので、秧鶏は一瞬、自分の良く知る「青龍」という名が、この家で暮らす少年その人を指すことを認識できなかった。
一方の玄武は、その名を聞いた途端に苦い顔をして目を逸らした。不貞腐れたような顔で口を閉ざす。
「お待ちください。何故、楸様が青龍をご存知なのですか。」
思わず尋ねてしまった。聞いてはならない事だったかも知れない……そう思ったが、楸は盤上の駒を一手だけ動かすと秧鶏の顔をまっすぐ見て、言った。
「お前は、青龍の両親を知っているか。」
「いいえ。」
十年前のある日、朝から家の中がやたらと慌しい日があった。秧鶏と秋沙、それに木葉は外で遊ぶようにと追い出されたが、庭からは何人もの人間が家に出入りしている様子もずっと見えていた。ただならぬ何かを感じていつになくぐずる秋沙と不安にかられたらしい木葉を、秧鶏は励まし続けていた。その日から数日間、玄武は食事の用意だけはしても殆ど子ども達と一緒に食卓につかず、奥の一室に籠りがちだった。やがて、また兄妹が屋外に追い出される日があった。今度は人の出入りは多くなく、見知らぬ老女が訪ねてきただけだったが、何かのきっかけとなった日であることは間違いない。その夜から、玄武はやや憔悴した様子ながらも食卓に戻ってきた。しばらく泊まることになったという玄武の実の兄と……生まれて間もない赤ン坊と共に。
その赤ン坊が、青龍だった。
「青龍は、妹の忘れ形見だ。小さくてひ弱だった朱雀が、その命を懸けて産み落とした子だ。俺は朱雀に、青龍は俺が育てると約束した。」
朱雀。それが、この家に暮らす十七歳の少女を指すのではないことは明らかだった。朱雀という名の女性がもう一人いることを、秧鶏も知っている。今は亡き、玄武の実の妹だ。可愛がっていた妹の忘れ形見だったのなら、それを大切にする玄武の思いも分かる気がする。
しかし、驚いたことに楸も同じように苦しそうな顔をしていた。
「お前だけが特別のつもりか、玄武。俺だって同じだ。お前の大切な妹御の子であると同時に、彼は我が兄の子なのだから。」
「えっ!」
楸に兄がいたことは勿論誰もが知っている。城主家の嫡男・藜は十年前、戦地に倒れた……その直後城主も亡くなり、楸は若くして城主となったのだ。その藜に?
「藜様にお子がいらしたなんて、初めて知りました。奥方がいらしたとさえ聞いたこともございません。」
「そうだろう。これは両家の一部と、近しい人間のほんの一握りしか知らぬ秘密。今となっては、私と玄武しか知らないといっても過言ではない。」
楸の言葉に、秧鶏はただ唖然とするばかりだった。城主の家にまつわる大きな秘密、そしてその中に自分がこうして入り込んでいる。
「青龍がこうして自身の身分を知らずに育つことが、朱雀の遺志だったんだ。あの子が成長し事実を受け止められるようになるまで、隠し通すという事だった筈だ。」
玄武は秧鶏に言うでもなく、ただ噛み締めるように呟いた。
「それなのに、もうあの子を連れ戻すのか。」