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「それなのに、もうあの子を連れ戻すのか。」
「今すぐという事ではないが、そろそろ考えてもいいだろう。」
冷静に告げる楸に対し、玄武は明らかに苛立った様子で言う。
「あの子はまだ十だぞ、幼すぎる。あの小さい肩にそんな重荷を背負わせるつもりか。」
「すぐではないと言っただろう。それに、無理に連れて行くつもりはない。本人が選べるよう、事実を告げるだけだ。」
「それが重荷だっつってんだよ! 青龍はいい子だ、真面目な子だ。全部背負っちまうに決まってる。」
「玄武。」
感情的な玄武の声と対照的に静かな、しかし凛と強い楸の声が遮った。
「怒るなら静かに怒れ。子ども達が起きてしまうだろう。」
「……分かってる。」
勢いを殺がれた様子の玄武はぶすっとして押黙る。楸は続けた。
「それに言っただろう、俺も同じだと。俺も早過ぎると思っている。城に戻れば重荷を背負い、堅苦しい身分になる……出来るだけ先延ばししてやりたかった。だが、そういう訳にいかないのさ。今は、何が起こるか分からない。」
楸の低い声に、玄武も秧鶏も顔色を変えた。
「戦況は、そんなに悪いのか。」
「いや、普通に考えれば悪いという程ではない。言葉通り、何が起こるか分からないんだ。相手の狙いが分からず、次の手が読めない。」
楸は溜息をつくと共に、将棋を一手進めた。
「そうか。お前にそう言わせるとは、相当だな。」
玄武も考え込みながら駒を動かす。思い出したように彼らはまた勝負に没頭し、会話は一度途切れた。
「……なるほど。」
沈黙を破ったのは、玄武の低い呟きだった。
「確かに楸、お前自身が口で言う以上に、……もしかしたら自覚してる以上に参ってるらしいな。」
「は?」
聞き返す楸に、玄武はパチンと駒を進める音で答えた。
「普段なら、俺にこんな負け方するお前じゃないだろう?」
その意味は、駒の動かし方程度しか分からない秧鶏にも分かった。玄武の駒の一つがあと一手で王を取れる位置にあり、楸には回避できる手はない……王手、ということだ。
「お前は昔から頭の回転が速くて、この手の勝負には滅法強い――まあ、俺が弱すぎるだけかも知れんが――だから俺の戦術を読み切れなかった事などなかった。」
「お前のは戦術とは言えん。行き当たりばったりに真っ直ぐ突っ込んでくるだけではないか。」
「ああその通りさ。それは今回も変えてない。だが、今回お前はどうした? そもそも俺の手を読もうとしたか? ……よほど、心ここにあらずだったんだな。」
「……。」
楸には言い返すことは出来なかった。次の手を探そうとするかのように盤上を睨んだまま黙りこくっている。やがて、はぁと大きく溜め息を吐き出した。
「参ったな。まったく、付き合いの長い奴には敵わない。」
「おう。ついでに全部吐き出しちまえよ、楽になるぞ。相談には乗れねぇが、愚痴ならいくらでも聞くぜ。」
快活に笑う玄武に、楸の顔にも微笑が浮かぶ。
「お前に相談してどうにかなると期待する訳が無いだろう。お前なんぞに策を講じさせるとすれば、俺もヤキが回ったということだ。」
「ひでえ言い草だな。」
軽口をたたき合う。楸の肩からすとんと力が抜けているのが見て取れた。
「相手の狙い、そんなに分かりにくいのか?」
「ああ。動きが読めない……定石が通じないんだ。こちらの予測した動きとは妙にずらして動く。いや、というよりも……」
「何だ?」
ふと気付いて眉を顰めた楸は、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「後から考えれば……ずれているのは考えではなく、時間だ。こちらの手を受けての動きと見るには遥かに速いが、こちらの指示や考えを読んで動ければ、あるいは……。」
それを聞いた玄武は訝しげに顔をしかめる。
「どういう事だ。考えを読む? 『まるでサトリの妖のようだ』とでも言う気か。」
「ふざけている場合か。こちらの内部を知るには、サトリより現実的な方法があるだろう。」
「……間諜か!」
言うと同時に、玄武の顔つきが急に引き締まる。あえて軽く振る舞っていた様子の彼だが、もはやその余裕もないのだろう。楸と秧鶏に寄るよう合図し、今まで以上に声を潜めて言う。
「そういうことなら、関わりがあるかは分からんが噂を聞いたぞ。」
「噂?」
「ああ。国境の山の麓の村で聞いた話だ。城下の方角から村を通り抜けて山中に頻繁に入っていく若い女が、ここの所よく見かけられているらしい。人相まではよく分からんが、その村じゃ見かけない者だと。しかも日が暮れる間際という変な時間に山に行くんで、村人たちも気味悪がっていた。」
「ふむ、確かに妙だな。外の者が城にそう易々と入れるとは思えないが、用心に越したことはない。出入りの管理と城内の見回りを厳しくしよう。」
楸も玄武と同じような低い声で応じ、考え込む。その間にもう玄武は身を起こし、あっという間に元ののんびりした表情に戻っていた。
「あくまで噂だ、真偽の程は知らん。だが一応耳に入れておこうと思ってな。」
「有難い。」
楸は疲れたように微笑んで頷いた。それから冗談めかして付け足す。
「城に籠っていると、どうしても城下の囁きには気付けぬものだ。」
「そんな高い所に籠っていられる神経は解らん。俺なら息が詰まっちまう。また来い、窒息する前に。」
「分かった。」
この夜矢継ぎ早に起こった事の大きさに、秧鶏はただ何も言えずに二人を見つめることしかできずにいた。生涯忘れられぬ時となるに違いない。
玄武のもとを辞した後、楸はしばらく見なかったほど穏やかな表情で秧鶏に笑いかけた。
「秧鶏、すまなかったな。こんな夜更けに、私の我が儘に付き合せてしまって。」
「いいえ、とんでもございません。……しかし、何故?」
何故、ここに同行させたのか。何故こんなにたくさんの「秘密」を明かしたのか。
そして、他の誰でもなく秧鶏だったのには理由があるのか……その答えだけは本当は分かっていた。けれどその「答え」が正解であると、他ならぬ楸の口から聞きたかったのだ。
秧鶏のそんな思いを、楸は知る由もない。答えを知っているなんて夢にも思わないだろう。彼は淋しそうに微笑みかけ、ただぽつりと呟いた。
「もう、隠し事はたくさんだ。」




