表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
散華乱舞  作者: 岩淵 笑実
本編
20/32

弐拾

 静かに襖が開けられ、虚ろな目で自分の手を見つめていた琥珀ははっと顔を上げた。彼を案内しここで待つよう告げた使用人たちとは見るからに異なる、良い身なりの美男美女が立っていた。琥珀はまさかと思いながら彼らに尋ねる。

「あなた方は……(ミズノト)の若様と、姫様?」

 ゆっくりと頷く楸に、少年は慌てて居住まいを正し平伏した。紫苑は彼の前に少し身を屈める。苦い表情の兄に微笑みかけ、彼女は琥珀に静かに言った。

「おもてをお上げなさい。木葉の最期の願いを聞き届けてくれた事、感謝します。」

 琥珀は唇を噛んだ。木葉のかき消えそうな微かな声は、何故か琥珀の耳の中でいつまでも消えずにいた。

(私、帰りたい。お願い、連れて帰って、私の居場所に。)

「感謝などと……礼などおっしゃらないでください、姫様。私はあなた様のお命を狙い、ご家臣を斬ったのです。この命をもってしても償いきれぬ大罪人に、そのような資格はございません。胡蝶……木葉のことも、全て僕の所為です。姉は助からなかったのでしょう。」

 紫苑は悲しそうに目を伏せて答えた。

「ええ。あなたに運び込まれた時にはもう、息がありませんでしたから。……でも、もう良いのです。あなたを責めはしません。」

 琥珀は驚いて顔を上げた。

「どうして……。」

「秧鶏も木葉も、恨みや苦しみなど無い、穏やかな顔をしていました。仇討ちや仕返しなど二人は望まないでしょう。それに、あなたが償ったとて彼らは戻りはしない。無意味な虚しい死など見たくありません。」

 琥珀は無礼とは思いながらも、紫苑姫から視線を外すことが出来ずにじっと彼女を見つめていた。琥珀は今まで、このような考えを聞いたことがなかった。今のような乱世には似つかわしくない……しかし、この憂い顔の美姫が言うと、少し理解できるような気がした。もっとも、琥珀の知るもう一人の美姫がこれを聞いたら、甘い考えだと一笑に付すであろうが。

 紫苑を少し下がらせ、次に楸が琥珀の前に腰を下ろした。彼は琥珀の目をじっと見据え、低い声で言う。

「いくつか、知りたい事がある。教えてくれるな。」

 琥珀の顔がさっと強張った。

「咎めず命を救う代わり、情報を渡せとおっしゃるのですか。僕は以前の主を裏切る気は……」

「そうではない。私は決して隣国を攻め落とすつもりはない。私が知りたいのは、翡翠姫のこと。そしてお前のことだ。」

「僕の、こと?」

「そうだ。お前、私に何か話があるのだろう? その為にここに来た。いくら姉の願いと言えど、わざわざ敵国まで連れてくるなど普通はあり得ない。危険を冒してまで来た理由があるはずだ。」

 琥珀は唖然としたように楸の鋭い目を見ていた。

「……あなた方は、不思議な人ですね。翡翠様のおっしゃっていた通りです。天下を目指す機知も手腕もおありなのに、野心をお持ちでない。」

「私は、天下人の器などではないよ。」

 楸は穏やかに言った。それを目指すのは気性の激しい兄上の方が向いている、もし生きておいでなら……と、彼は心の中でそっと付け足した。

「楸様のお察しの通り、僕がここに来たのは姉の為だけではない。楸様にお願いがございます。翡翠様を、お救い頂きたいのです。」

 琥珀が真剣な目をして言う。その言葉は楸の予想とは少々違ったものであったらしく、彼はほんの少し眉根を寄せた。

「姫を……救う?」

「はい。翡翠様を、止めて差し上げてください。この戦は、本当にあの御方が望んでいたものとは違う。あの御方ご自身にも分かっていらっしゃる筈です。でも、終われない。ならば誰かが止めなくてはなりません。もちろん、和平を破ってこの国に攻め込んできた翡翠様をお救いせねばならぬ謂れはないと思われることは承知しております。しかし、僕には他に頼る術を思い付けない。」

 懸命に語る琥珀を、楸は見定めるようにじっと見据えていた。少年の言葉は、偽りや表向きではない本心から発されたものであるように思えた。

「翡翠姫を止める……この戦をやめさせることが、姫を救うことになる、と? たとえどんな手を使ったとしても?」

 楸は一段と低い声で問うた。どんな手でも、という言葉は暗に彼女を排除することも辞さないと示しているのだ。琥珀もそれを理解し、迷った末にゆっくりと頷いた。

「このまま続ければ、翡翠様の御心は傷付く一方です。それに、あなた様は無意味なことをなさる方ではないと、僕は思います。」

 真っ直ぐに楸を見返す、少年の強い目。その視線を受け止めて、楸は暫し考え込んだ。

「兄上、如何なさいます。」

「楸様……。」

 待ち切れぬというように声をかけられ、彼は苦笑する。

「二人とも、そう急かすものではない。そう容易く決断できるものではないのだからな。……紫苑、お前はどう思う。お前ならどうする。」

「私でございますか?」

 急に話を振られて紫苑は面食らったが、少し考えてきっぱりと言った。

「私は、翡翠姫のこれまでの行いを許すことは出来ません……琥珀、あなたに命じてさせた事についてもです。けれど、本当は人を許せずにいることなど嫌です。今までを許すことが出来ぬ代わりに、これ以上許せぬ行いがないよう止める、という考えは間違っているでしょうか? 私は、翡翠姫をお引き止めしたい。それを兄上に任せて……お願いしても、宜しいですか。」

 紫苑も真っ直ぐに兄を見つめる。楸はふっと笑い、二人に頷いた。

「相分かった。」

「有難きことと存じます。」

 楸の言葉に、琥珀は改めて深々と頭を下げた。

「私も一度姫と話してみたいと思っていたから行くまでだ。姫に戦をやめさせられるかどうかは分からぬ。それには、琥珀、お前の力がいる。」

 琥珀は驚き弾かれたように顔を上げた。

「僕……?」

「そうだ。私では姫の心は動かせぬし、救ってやることも出来ぬ。それが出来るのは長く姫の傍にいて、その心をよく知る者のみ。」

 琥珀の顔を正面からしっかりと見据える楸の瞳は優しく穏やかだった。その目に押されるように、琥珀はこっくりと一つ頷いた。

「……分かりました。僕、微力ではございますが、翡翠様をお救いする為に力を尽くします。」

「よし。」

 楸はにっと歯を見せて笑った。琥珀はもちろん、紫苑でさえ近頃見た覚えのない、悪戯っぽい子供のような笑みだった。

「それでは早速動き出すとしようか、麗しの姫君を救い出す為にな。」

「兄上、なんだか面白がっていらっしゃいます? 御伽話(おとぎばなし)ではございませんのよ。」

 呆れたように口を挟む紫苑。楸は不敵に笑うだけで何も言わなかった。琥珀に与えた室を出、紫苑は奥の間へ戻ろうと足を向ける。ふと振り返り、指示を出すために歩き去る兄の後ろ姿を見送りながら、紫苑はもう一度呟いた。

「こんな事を面白がって、本当にお気楽なんだから……。そんな兄上、嫌いじゃないけれど。」

 彼女は何を考えたかふふっと笑い、踵を返す。兄の後を追うように歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ