拾九
一体どれほどの距離を逃げてきたのであろうか。不意に視界が開けて、ずっと俯き加減で足早に進んでいた少年は顔を上げた。雑木林が途切れ、そこは見覚えのある景色だった。闇雲に逃げているつもりが、無意識に足が知っている道を辿ったのか。自分が逃げ延びた事を知り、少年は大きくひとつ息を吐いた。彼は目についた小川の畔に腰を下ろし、無造作に袖を捲り上げた。
幸い、辺りに人気はない。腕の大きな刀傷が人目を引くこともなかった。
傷の手当てを終えてからも、少年はそこに佇んでいた。水面を見つめたまま動かない。考え事でもしているのか、何かを待ってでもいるかのように。やがて気配を感じ、彼は振り向いた。
「お前か。何をしに来た?」
彼の見上げる先には、血の気のない顔をした若い女がひとり立っていた。彼女は短刀を構え、叫んだ。
「秧鶏さんの仇! 私が討つわ!」
叫び声と共に突きかかる木葉を、少年は軽々と躱す。彼女は諦めず何度も突きかかるが、結果は同じことだった。何度繰り返したか、少年はとうとう短刀を叩き落とし、彼女を突き飛ばした。再び立ち上がる気力もなくし泣き出した木葉を醒めた目で見下ろす。
「お前に仇討ちなど出来ぬ、胡蝶。」
「その名で呼ばないで! 私は胡蝶なんて名じゃない!」
「すぐにこの場から立ち去れ。そうすれば、見逃してやる。」
動く気配をみせない木葉に、少年は刀を抜き放った。
「まだ向かって来るというのなら、容赦なく斬り捨てる。」
木葉は顔を上げ、少年を睨み付けて吐き捨てた。
「斬るなら斬りなさい! 私はあんたを許さない、末代まで祟ってやる。」
「……。」
暫し睨み合う二人。やがて少年は黙ったまま刀を納めた。
「お前は本当に甘い奴だな、琥珀。その女を見逃すのか。」
思いもよらぬ声がして、二人とも驚いてその声の方を見る。いつの間にか、不敵な表情を浮かべた美しい娘が二人をじっと見据えていた。少年が信じられぬというように呟く。
「翡翠様!? 何故、此処に……」
「お前が斬れぬというなら、この女は私が消しておいてやろう。もう使えぬのなら、用は無い。」
翡翠は手を伸ばしながらゆっくりと木葉に歩み寄る。その冷たい視線に射抜かれたように、木葉は逃げることも出来ず翡翠姫を見つめていた。
「お待ちください。」
焦ったように琥珀が姫を遮る。
「このような事に翡翠様のお手を穢すわけには参りません。それに、何も命まで取らずとも……」
翡翠は琥珀の顔を見つめ、眉を顰めた。
「琥珀。お前は何故そんなにもこの女を消すことを嫌がる? 他の者の殺生にはいつも何も言わぬだろう。」
言われて、琥珀は衝撃を受けたように立ちすくんだ。翡翠の言うとおり、今まで琥珀は翡翠の決めた殺生に殆ど口出しをしなかった。問われて初めて、使っていた女の死を望まぬ自分に気付いたのだ。
「……理由は解りません。けれど僕は、この人に死んでほしくない。」
歯を食いしばり答えた琥珀に、翡翠はふっと笑った。
「己の理解できぬ感情、か。憶えている筈はないのだが。姉弟の絆とやらを信じたくなるな。」
「……え?」
木葉は思わず声を上げていた。今、翡翠姫の口から出た言葉は……どういう意味?
「お前も何も憶えていないのだろう。胡蝶。」
「胡蝶ではございません、私は……。」
「幼い頃の記憶を失い、木葉という名で今まで生きてきた。お前の正体を教えてやろうか?」
木葉は吸い込まれるように翡翠を見つめていた。ほんのり笑みを浮かべた美しい口元、深く暗い闇のような瞳。何故だか、ひどく恐ろしい。何も答えられずにいる木葉をよそに、翡翠は話し出した。
「お前たちが城に来たのは十六年前のことだ。胡蝶は、私の遊び相手だった。しかし城主である我が父上が亡くなり、世継ぎの騒動が巻き起こった時、城の奥深くにおり秘密を知ってしまっていた胡蝶は命を狙われた。私は胡蝶を密かに逃がし、隣国へと落ち延びさせた……記憶がないのは、その時よほど怖い思いをしたからであろう、可哀想に。」
「それが、私だとおっしゃるのですか? まさか。」
「そのまさかが事実なのだから仕方あるまい。成長してからは、琥珀もたいそう私の役に立ってくれたな。琥珀と胡蝶の間に繋がりがあったからこそ、琥珀はお前を情報源として使うことが出来たのだ。私は担ぎ上げられた『弟』を利用し、周りの汚い大人どもを追い落としてやった。それから胡蝶が隣国の城に仕えていることを突き止め、戦に使えると気付いたというわけだ。胡蝶を隣国に逃がしたときは、まさかこのような使い方ができるとは思わなんだ。何が幸いとなるか、分からぬものだ。」
くくっと笑う翡翠。木葉がかすれ声で呟く。
「なんてこと……彼や私や、ご自身の弟御まで利用するなんて。一体、何の為に? 私には分かりません。」
翡翠はハッと嘲笑い、吐き捨てるように言った。
「我が国の繁栄の為、そして私の為だ。お前ごときに理解されようとは思わぬ。」
「たとえ国の為でも、人を道具のように使うとおっしゃるのは間違っています。紫苑姫様は……」
「隣国の姫がどう言おうと、私の知ったことではない。」
紫苑の名を聞いた途端、翡翠は苛立ったように声を荒らげた。と、そこまで黙って聞いていた琥珀が声を上げた。
「翡翠様は……僕を信頼して、お傍に置いてくださったのではなかったのですか。ただ、使えると……道具のように……。」
「信頼? 私は誰も信じぬ。誰しもいつかは私の元からいなくなる。」
「そんな! 僕は……僕はただただ翡翠様の為に、翡翠様の御心を少しでも支えて安らいでいただきたいが為に、こんなにも一心にお仕えしてきたのに……!」
琥珀は叫び声と共に、刀を抜き放った。震える刃が自分に向けられても翡翠は眉一つ動かさず、ただ鼻で笑った。
「どうした? 私が憎いのか? 私は何もしておらぬぞ。私を勝手に信じ、同じものを求めたお前が愚かだっただけだ。」
「うるさいっ!」
琥珀は喚きながら翡翠へと斬りかかる。翡翠は思いもよらぬ俊敏さで身を屈めると、落ちていた木葉の短刀を拾い上げ刀を受けた。そんな動きなど予想だにしていなかった琥珀の体は大きく泳ぐ。その隙を突いて懐に飛び込んできたものを咄嗟に避けたが、後ろに跳んだ琥珀の脇腹には赤いものが滲んでいた。
「琥珀!」
「……っつ。」
琥珀は呻いて歯を食い縛り、翡翠姫を見上げた。
「頭に血が上った勢い程度では、この私を斬るどころか傷を負わせることすら叶わぬぞ。しかし……」
言うと翡翠は短刀を放り捨て、打掛の内、帯のあたりに右手を差し入れる。
「主に刀を向けたお前の行い、死に値する。」
翡翠はその右手を真っ直ぐに琥珀に向けて突き出す。細く白い手に握られた見慣れぬ無骨な塊に、琥珀は目を見開く。翡翠は薄く笑った。
「短筒は初めて見たか?」
乾いた大きな音が響いた。
それと同時に、琥珀の体は突き飛ばされて地面に転がった。しかし脇腹の傷と地面に打ち付けた腕の他に痛みは感じられない。訝しみながら顔を上げ、琥珀は叫んだ。
「胡蝶!」
ぐったりと倒れる木葉に駆け寄り、抱き上げる。彼女はぴくりとも動かなかった。翡翠は薄く煙の立つ短筒を手にしたまま軽く舌打ちした。
「琥珀。その女に免じて、今だけはその命見逃してやろう。命が惜しくば二度と私の前にその姿を現すな。」
去ってゆく翡翠姫の後姿を、琥珀はただ茫然と見送った。かつて自分が信じ、慕い、全てを捧げてきた人の後姿が遠ざかってゆく。姿が見えなくなっても、しばらく動くことが出来なかった。
やがて、腕に抱きかかえた青白い顔に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「すまなかった、胡蝶。」
すると、琥珀の言葉が聞こえたように、木葉の口元が僅かに動いた。何かを言おうとしている。
「こ……はく、お願い……。……たい。」
琥珀は必死でその微かな声を聞き取ろうとした。彼女の、最期の願いなのだ。
「……たし、かえ……りたい。……がい、つれ……かえって。わた……の、ばしょ……」
「分かった。帰ろう、お前の場所に。」
「あり……がとう……。」
「大丈夫、僕が必ず連れて行くから。だから、もう少しだけ頑張ってくれ。」
琥珀は力強く言い、木葉の脇を支え肩を貸して立ち上がった。しかし木葉の体はぐらりと崩れるように傾く。彼女にはもう、僅かな力さえ残されていなかった。
「う、わっ」
支えきれず諸共に倒れこんだ琥珀は、慌てて再び木葉を抱き起す。しかし彼女の唇はほんのりと微笑みを浮かべたまま、もう二度と動くことはなかった。
「胡蝶……姉さん? 姉さん! しっかりしてよ、帰るんだろ。死なないでよ姉さん!」
少年の声だけが、むなしく辺りに木霊していた。
注:日本の戦国時代、火縄銃は入ってきていましたが短筒はまだありません。どうしても登場させたかったのでここだけ史実ガン無視ですごめんなさい。




