拾壱
誰かがもし見かけたとしたら、さぞ異様な光景だと思った事だろう。
黄昏の光の消えゆく雑木林に、若い男女の人影があった。まるで逢引の最中ででもあるかのように向かい合って立つふたり。しかし明らかにそうではなかった。男が手を真っ直ぐに伸ばし、女の額に指先を押し当てている。もし本当に逢引であるのならこんな姿勢ではいないだろう。女は虚ろな表情で目を閉じ、まるで額の指だけで全身を支えられているようにさえ見えた。
「ねえ、教えて、《胡蝶》。」
相手の男は、やけに高い声で囁いた。まるで、まだ幼さの残る少年のような。
「知っている事はそれで全部?」
「ええ、そうよ。」
その声に女は表情と同じく虚ろな口調で応じる。顔を隠した相手の男は、透かし見える口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ山を下りて真っ直ぐお帰り。城に着いたら僕と会った事も、山に入ったことも全部忘れるんだ。……また呼ぶからね。」
男は言ってすぐに身を翻し、女の前から姿を消した。女は暫し佇み、やがてくるりと方向を変えて木立の中を歩き去って行った。
一先ず姿を隠して様子を見守っていた男は、女がいなくなるとすぐに藪から出て女とは逆方向に歩き始めた。陽はもう山の向こうに落ち、朱い光の消えた空の色は紫紺へと変わりつつある。真の闇に包まれる前に林を抜けなければ……そう思った男の足は自然と早まる。途中からは行き当たった道に沿って進み、やがて人里の明かりが見えると彼の足取りは少し緩んだ。それでもまだ背筋を強張らせたまま、ひっそり静まり返った村を誰にも見られることなく通り抜け、城下を散歩でもしているようにわざとらしくゆっくりと歩く。橋を渡り、塀に穿たれた低い木戸をくぐってやっと肩の力を抜いた。その瞬間、
「琥珀。」
「!」
急に声をかけられ、彼は思わず飛び上がった。
「ひ、翡翠様!」
声の主を認識し、彼は慌てて顔を隠していた被り物を取り去って居住まいを正した。
薄布の内から現れた彼の顔は髭もなくつるりとなめらかで、先程の声から想像されるほど幼くはないものの、まだ年若い少年であることが一目で分かる容貌をしていた。額に前髪を垂らし、その下から相手を射る凛々しい眼差しと引き締まった唇は、少年剣士と呼ぶに相応しい。微笑めば人懐こい表情を浮かべるだろうと予想できたが、どこか冷めた目で何かを見据えている印象があった。
その目に、今は僅かだが怯えの色を浮かべた少年。身を縮める彼を、さらに冷たい瞳の美女が見据えていた。
「翡翠様……。何故このような夜更けに、このような所までおいでになられたのです?」
「このような所? ここは私の城だぞ。自分の居城の庭を散策しておるのみ、他意はない。」
堂々と言い放つ彼女の言葉は正しく、反論の隙はなかった。動くこともできず押黙る琥珀を余所に、姫は背後に控える侍女を振り返った。
「先に戻っておれ。」
「はい、姫様。過ぎたる夜風はお体に障ります故、ご散策はほどほどになさいませ。」
「分かっている、すぐ戻る。」
侍女は二人に軽く頭を下げると、静かに建物の方へ戻って行った。庭の隅、隠れるように作られたくぐり戸の前に残されたのは二人きり。
「……今宵は、何処へ出掛けていた?」
琥珀は答えに詰まったように暫し答えず、やけにゆっくりと口を開く。
「此度の戦の為……翡翠様の為に、」
「私の為?」
「情報を……敵国の内情を探らせた者と、会っておりました。」
何故声が震えるのか、何故後ろめたさを感じるのか。そんな謂れは無い筈なのに。彼自身にも分からなかった。彼をじっと見据える姫の眼差しに、圧されている所為なのだろうか。
「ふむ……。」
姫は何を思ったか、暫し琥珀を見つめた後、不意にその肩を掴んで彼を引き寄せた。
「なっ、ひっ、翡翠様!?」
「お前、会っていたのは女か。」
翡翠の言葉に顔を強ばらせる琥珀。それを鋭く見据え、翡翠は低く呟く。
「図星か。」
「いえっ、あの、その、確かに女でございますが、ただ利用しているモノであって決してそのような」
「別に言い訳せずとも良い。たとえお前がそのような感情を持っていたとしても私の知った事ではない。」
冷ややかに告げられる言葉に琥珀は心なしか肩を落とす。それを見ていない様子で、姫はぼそりと呟くように言った。
「それにしても、良い情報源を手に入れたものだな。なかなか役立っている……よくやった。」
主人の口から発された言葉に、琥珀は一瞬ぽかんと彼女を見つめる。しかしすぐに口元から笑みが広がり、彼は少年のように顔を輝かせて力いっぱい頭を下げた。
「あ、有り難きお言葉!」
そんな琥珀の様子を、翡翠姫は冷めた視線で見下ろしていた。口元を嘲るように歪めた、氷のような笑み。
と、不意に彼女に異変が生じた。咄嗟に手で胸元を押さえ、肩を強ばらせる。引き攣った表情を隠すように彼女は琥珀から顔をそむけた。いくらきつく胸元を押さえても、全身が小刻みに震えるのを抑えることができなかった。
「……翡翠様?」
異変に気付いた琥珀が声を掛ける。彼女は辛うじて声を絞り出した。
「もう……よい。下がれ。先に城へ戻れ。」
「しかし、ご様子が……もしやお体でも」
「何でもない! とにかく早く去れ。」
叫ぶように告げ顔を顰める翡翠に、琥珀はなおも戸惑った表情でその場に立ち竦む。それが姫の逆鱗に触れた。
「さっさと私の前から立ち去れ! そしてこの事は決して口外してはならぬ、良いな!?」
「は、はいっ!」
怯えた少年は逃げるように駆けていった。その直後、翡翠はがくりと膝をつき蹲る。身体を支えようと地面を掴んだ手が震える。苦しい。片手で懐を探り、何かを自分の口へと運ぶ。大きく息をついて落ち着きを取り戻すまで、いやに時が長く感じられた。
「くっ……、このような……我が身が忌々しい。」
やっと整った息で、彼女は吐き捨てる。力強く顔を上げる、その瞳は鋭く何かを見据えていた。
「このような所で、終わる訳にはゆかぬ。」