第12章 止まった信号
玄弥が変わっていくことを、誰よりも見てきた澪。けれどその澪自身も、半年のあいだ、家族のために「だいじょうぶ」を続けてきました。
今回は、澪の家の近くで、赤のまま変わらなくなった信号のモンスターと向き合う章です。それは、異界の影が混じらない――この町の、誰かの色だけでできた怪物でした。
朝の六時半。台所に立っているのは、いつも、白石澪だ。
卵焼きを巻きながら、リビングの壁の小さなカレンダーを横目で見る。今日の日付に、丸がひとつ。『面会』と、自分の字で書いてあった。母が、隣の市の病院に入って、半年になる。重い病気ではない、と聞いている。けれど「重くない」が「すぐ帰れる」を意味しないことを、澪はこの半年で覚えた。
「ねえちゃん、たまごやき、こげてる」
パジャマのままの弟が、テーブルから言った。小学三年。寝癖が、玄弥に負けないくらい、ひどい。
「焦げてない。これは、香ばしいって言うの」
「こげてるよ」
「うるさい。さっさと顔洗ってきな。遅刻するよ」
弟の朝ごはんを皿に出し、自分の弁当には、巻き終わりの、いちばん端の卵焼きを詰める。父は、まだ寝ている。昨日も、帰りは日付が変わってからだった。起こさないよう、洗濯機は、いちばん静かな運転で回した。
全部、誰にも言っていない。言えば、心配される。心配されると、自分が「かわいそうな子」になる気がして、それが、何より嫌だった。だから澪は、今日も「べつに、普通だけど」という顔をして、家を出る。
弁当の隅の、卵焼きの端っこは、毎朝、ちょっとだけ、しょっぱい。
その日の夕方、異変は、澪の家のすぐ近くで起きた。
弟を学童へ迎えに行く途中の、小さな交差点。歩行者用の信号が、赤のまま、変わらなくなっていた。
ボタンを押しても、待っても、青にならない。赤い光だけが、点きっぱなしで、じりじりと、夕暮れに焼きついている。渡れない人たちが、少しずつ、横断歩道の前に溜まっていく。みんな、苛立った顔で、けれど、なぜか、誰も無理に渡ろうとしなかった。
澪だけが、その赤い光の奥に、何かが立っているのを見た。
信号機より、少し背の高い、人のかたちをした影。全身が、信号の赤に染まっている。うつむいて、ただ、立っている。動かない。動けない、というように。
「……なに、これ」
澪は、スマホを握った。玄弥に、かけようとして、指が止まる。
また、玄弥を呼ぶのか。
いつも、呼ぶのは、自分のほうだ。玄弥が困っていると、放っておけなくて、面倒を見て、隣に立って。なのに最近は、玄弥のほうが、自分の知らない場所で、自分の知らない強さを身につけていく。呼んでも、もう、追いつけない気がした。
澪は、結局、電話をかけた。かけてしまう自分が、少し、嫌だった。
玄弥たちが着いた時、赤い影は、ひとまわり大きくなっていた。
「これ……澪の家の、近くだよな」
玄弥が言うと、黒瀬凪人が、スケッチブックを開いたまま、ぼそりと言った。
「この子、赤しかない」
「赤しか、って?」
「いつものやつには、奥に、黒いのが混じってる。王冠みたいな。でも、こいつには、ない。ぜんぶ、ここの色だ。……この町の、誰かの色」
その言葉に、澪の心臓が、嫌な音を立てた。
アヴァロンが、剣の柄に手を添える。
「異界の影は、混じっておりませぬ。これは――この土地で、生まれたものです」
赤い影が、顔を上げた。顔は、ない。けれど、その「うつむき方」を、澪は、知っていた。鏡で、毎朝、見ている。
玄弥が、影に近づこうとした。いつものように。手を伸ばして、声を聞こうとして。
その時、影の中から、声が、こぼれた。
だいじょうぶ。
へいき。
わたしが、やるから。
玄弥の足が、止まった。ゆっくりと、振り返る。澪を見た。
その目が、澪には、見えすぎる目だった。
「澪」
「言わないで」
澪は、反射的に、そう言っていた。
「これ、澪のじゃないか。澪、ずっと、一人で――」
「言わないでって、言ってる」
声が、震えた。怒りなのか、別のものなのか、自分でも分からなかった。
「玄弥は、すぐそうやって、人の中、勝手に読んで。咲良ちゃんの時も、宮下さんの時も、そうやって、救ってきたんでしょ。でも、私のは、読まないで。読まれて、楽になりたいわけじゃ、ない」
玄弥は、何も言えなかった。図星を、言い当てたつもりが、いちばん触れてはいけないところを、踏み抜いてしまったことに、ようやく気づいた顔だった。
「私は、平気だから」
澪は、そう言って、影に背を向けた。背を向けて、しまったのが、間違いだった。
赤い影が、ぐにゃりと伸びて、澪の足元の地面が、信号と同じ赤に染まる。さっきの源兵衛川と同じ――境界が、薄くなっていた。澪の体が、足首から、その赤い光へ沈みかける。
「澪!」
玄弥が、動いた。
澪には、その動きが、見えなかった。気づいた時には、もう、玄弥の腕の中にいた。地面の赤い光は、二人のいた場所で、ぱしゃりと弾けて、消えている。
助かった。
そう、頭では分かった。けれど澪は、自分を抱きとめた玄弥の腕の硬さに、息が、詰まった。速すぎた。人が、あんなふうに、動けるはずがない。すぐそばにある玄弥の横顔は、汗ひとつかかず、息も乱さず、ただ、澪を救うためだけに、研ぎ澄まされていた。
それは、頼もしかった。
同時に、知らない人の腕の中にいるみたいで、たまらなく、寂しかった。
そして、その腕の硬さに、玄弥自身が、ひそかに、心地よさを覚えていることにも――澪は、気づいていなかった。
『そら』
また、あの声が、玄弥の耳の奥で、軋んだ。
『その力だ。迷わず動けば、誰も、こぼれ落ちぬ。お前は、もう、分かっているはずだ』
玄弥は、奥歯を噛んで、その声を、振り払った。けれど、振り払いきれない自分が、いた。
「……はなして」
澪は、小さく言った。玄弥が、はっとしたように、腕をゆるめる。その「はっとする」までの、ほんの一瞬の遅れ。玄弥が、自分の体が勝手に動いたことに、自分で驚いている。その顔を見て、澪は、泣きそうになった。
赤い影は、まだ、そこにいた。うつむいて、震えて、「だいじょうぶ」「へいき」と、繰り返している。
玄弥は、もう、影に手を伸ばさなかった。読もうとも、しなかった。ただ、澪の隣に、黙って立った。
「……ごめん」
玄弥が、言った。
「澪のこと、勝手に、言おうとした。澪が、いちばん、言われたくないことだったのに」
澪は、答えなかった。
「俺、咲良ちゃんとか、宮下さんのことは、聞けたんだ。知らない人だから、聞けた。でも、澪のことは……近すぎて、たぶん、聞き方を、間違える」
澪の目から、こらえていたものが、一粒だけ、落ちた。
それは、母のことでも、弟のことでも、玄弥のことでもなかった。ただ、半年ぶんの「だいじょうぶ」が、たった一粒、外に出ただけだった。
「……つかれた」
澪は、言った。誰にともなく。世界でいちばん、言いたくなかった、二文字だった。
その瞬間、赤い影が、ふっと、肩の力を抜いた。うつむいていた顔が、少しだけ、上を向く。信号機の赤が、点滅して――青に、変わった。
溜まっていた人たちが、何事もなかったように、横断歩道を渡っていく。誰も、さっきまで信号が止まっていたことなんて、覚えていないみたいだった。
影は、もう、いなかった。
玄弥は、何か言おうとして、やめた。今、何を言っても、たぶん、間違える。だから、ただ、澪が落ち着くまで、隣にいた。それが、今日、玄弥にできる、精一杯だった。
帰り道、二人は、ほとんど話さなかった。けれど別れ際、澪が、ぽつりと言った。
「弟の、迎え。一緒に来てくれる?」
玄弥は、驚いた顔をして、それから、うなずいた。
「うん」
「……べつに、甘えてるわけじゃ、ないから」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「分かってる、ってば」
澪は、ふん、と前を向いた。けれど、その横顔は、少しだけ、ほどけていた。
信号は、青だった。
二人は、並んで、横断歩道を渡る。玄弥の腕の、あの怖いくらいの速さのことは、まだ、二人のあいだに、解けずに残っている。けれど今日だけは、澪は、それを、隣に置いたまま、歩くことにした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
咲良やこよみの心は「聞いて」救えた玄弥が、いちばん近い澪には、聞き方を間違えました。近すぎて、読むことが、踏み込みすぎになってしまう。救う方法が、いつも正しいとは限らない――転の入り口で、玄弥はそれを思い知ります。
そして、身体強化の鋭さで反射的に澪を救った玄弥。助けられた安堵と、「知らない誰かの腕の中にいるみたいな」寂しさが、澪の中で同時に来ました。あの怖いくらいの速さは、まだ二人のあいだに、解けずに残っています。
それでも澪は、生まれて初めて「つかれた」と言い、「弟の迎えに来て」と、ほんの少しだけ、玄弥に甘えました。半年ぶんの「だいじょうぶ」の、たった一粒。
次章では、玄弥たちの優しさそのものを否定する存在――影の騎士が、姿を現します。




