2/騎士と幼女
朝の空気は冷たく、まだ日が昇りきっていなかった。孤児院の庭には薄い霧が残り、いつもより静かなはずの時間帯に、不釣り合いな気配が漂っている。
門の外に、馬のいななきと鎧の擦れる音が重なっていた。
「王都の騎士団だってよ……」
誰かの囁きが聞こえる。子どもたちは不安そうに顔を見合わせ、大人たちは慌ただしく動き回っていた。
私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。胸の奥がじわじわと冷たくなっていく。
来ると思っていた。
昨日のことが、ただで済むはずがないと分かっていた。
「リシェル、こっちにいなさい」
世話役の女性に手を引かれ、建物の陰へと連れていかれる。隠すつもりなのだろう。けれど、その手は少し震えていた。
隠してどうにかなる話ではない。
そんなことは、誰よりも分かっているはずなのに。
門が開く音がした。
重たい足音がいくつも近づいてくる。
やがて、数人の騎士が庭へと入ってきた。銀の鎧に身を包み、整った装備をまとっている。その中心にいる男だけが、わずかに軽装だった。
背が高く、無駄のない体つきで、周囲を一瞥する視線は鋭いが落ち着いている。
「昨日、この場所で奇跡が起きたと聞いた」
低く通る声だった。
場の空気が、一瞬で張り詰める。
世話役の女性が前に出て、ぎこちなく頭を下げた。
「き、奇跡だなんて……そのようなものでは……」
「報告は受けている。瀕死の兵士が生き延び、同時に戦況が好転した。偶然にしては出来すぎている」
男の言葉は淡々としていたが、その視線はごまかしを許さないものだった。
沈黙が落ちる。
誰も口を開けない。
その空気の中で、私は息を止めていた。
見つかる。
そう思った瞬間、胸の奥がひりつく。
「……その子か」
声がした。
顔を上げると、男の視線がまっすぐこちらに向いていた。
世話役の女性の手が、わずかに強く握られる。
「違います、この子は――」
「隠す必要はない」
男は静かに言った。
「確認するだけだ。害を加えるつもりはない」
その言葉に、周囲の空気がわずかに緩む。
嘘ではないのだろう。
少なくとも、今この場では。
私はゆっくりと前に出た。足が震えるのを抑えながら、男の前まで歩く。
視線がぶつかる。
逃げたくなる衝動を、なんとか押し殺した。
「名前は」
「……リシェル」
声が小さくなる。
男は一度だけ頷いた。
「俺はレオルド。王都騎士団所属だ」
短く名乗ると、そのまま本題に入る。
「昨日、お前が何をしたのか、覚えているか」
「……少しだけ、触れただけ……です」
嘘ではない。けれど、それだけではないことも分かっている。
「治癒魔法か」
「……わかりません」
本当だった。今の自分の力が何なのか、正確には分からない。
男は少しだけ目を細めたが、それ以上追及はしなかった。
「もう一度、やってみろ」
その一言で、周囲の空気が再び緊張する。
無理だと思った。
やりたくないとも思った。
けれど、断れる状況ではない。
騎士の一人が、軽い傷を負った腕を差し出してきた。
「これでいい」
私はその腕を見つめる。かすり傷程度だ。本来なら、放っておいても治る。
それでも、視線が集まる。
逃げ場はない。
「……ほんの、少しだけ……」
自分に言い聞かせるように呟き、そっと手をかざす。
指先に、かすかな温もりが集まる。
弱い光。
昨日と同じ、頼りない光。
それが傷に触れると、わずかに血が止まり、皮膚が整う。
それだけだった。
騎士が腕を見て、小さく息を吐く。
「……確かに、治ってはいるな」
だが、驚きは薄い。
当然だ。これだけなら、珍しいことではない。
周囲の緊張も、わずかに緩む。
「やはり治癒魔法か……」
誰かが呟く。
その言葉に、私は少しだけ安心した。
この程度なら、大したことはない。
そう思われるなら、それでいい。
「もういい」
レオルドが言った。
「今のだけなら、特別視する必要はないだろう」
その一言で、空気が一気に軽くなる。
世話役の女性も、ほっとしたように息をついた。
終わった。
そう思った。
だが。
「ただし」
レオルドの声が、再び場を引き締める。
「昨日の“結果”は説明がつかない」
視線が、再びこちらに向く。
胸の奥がざわつく。
「偶然だとしても、確認する価値はある。王都へ来てもらう」
言葉は穏やかだったが、拒否を許さない響きがあった。
「そんな……この子は……」
世話役の女性が戸惑いの声を上げる。
レオルドは少しだけ表情を和らげた。
「強制するつもりはない。ただ、このままここに置いておくほうが危険だ」
その言葉の意味は、誰もが理解した。
すでに噂は広がっている。
昨日の出来事は、もうこの場所だけのものではない。
「……守るためだ」
レオルドは静かに言った。
その視線は、真っ直ぐだった。
嘘ではないと分かる。
けれど、それでも。
胸の奥が冷える。
守るため。
その言葉を、以前にも聞いたことがある気がした。
そしてその結果を、私は知っている。
「……いきます」
気づけば、そう言っていた。
周囲が驚いたように私を見る。
自分でも驚いていた。
けれど、ここに残る選択肢はなかった。
もう、始まってしまっている。
だったら、逃げることはできない。
レオルドは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。
「分かった。準備をしろ」
短くそれだけ告げる。
私は小さく頷いた。
胸の奥で、何かが軋む音がする。
静かだったはずの世界が、また動き出している。
望んでいなかったはずなのに。
それでも。
止まらない。




