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1/奇跡を捨てた少女

火の匂いがする。鉄と血が混じった、喉の奥に張りつくような匂いだ。息を吸うたびに胸が軋む。


――どうか。


誰かの声が遠くで反響している。


――どうか、救ってください。


視界の端で、何人もの人が膝をつき、こちらへ手を伸ばしていた。その中心にいるのは私だった。


光が満ちる。ただ優しいだけではない、逃げ場のない光。差し出せば差し出すほど求められ、与えれば与えるほど奪い合いが始まる。それでも私は手を伸ばし続けた。目の前で泣いている人を見捨てられなかったからだ。ただそれだけだったのに。


乾いた声がした。振り向くと、若い兵士がこちらを睨んでいる。


「なんで、あっちだけなんだよ」


違う。そんなつもりじゃない。


「お前がいるからだろ」


その言葉は静かだったが、重く胸に落ちた。


「お前がいるから、戦争が終わらねぇんだよ」


息が止まる。言い返そうとしても声が出ない。違うと言い切れるのか分からなかった。確かに私は救っていたはずなのに、振り返ればそこにはいつも火があった。誰かの願いを叶えたあとには、必ず別の誰かの絶望が生まれていた。それでもやめられなかったのは、救わない理由がどこにもなかったからだ。


だが結果は、崩れた城壁と転がる死体、焼け焦げた大地、そして憎しみに満ちた視線だった。


「……どうして」


かすれた声が自分のものだと気づくのに時間がかかった。私はただ、目の前の人を救いたかっただけなのに。


胸の奥が空っぽになっていく。その感覚に耐えきれず、最後に私は祈った。もう二度と同じことが起きないようにと。


――どうか、奇跡なんてなくなってしまえばいい。


光が弾け、何かが世界から抜け落ちていくのを感じた。それが自分の中にあったすべてだと理解した瞬間、意識が途切れた。



目を覚ましたとき、最初に感じたのは寒さだった。薄い布団の中で体が丸まっている。冷たい空気が肺に刺さるようだった。


「……ここ……」


声を出してすぐに違和感に気づく。高く細い、自分のものとは思えない声だった。ゆっくりと上体を起こすと、見慣れない天井と古びた木の梁が視界に入る。周囲には簡素なベッドが並び、隣では子どもが寝息を立てていた。


視線を落とすと、自分の手がやけに小さいことに気づく。白くて細く、幼い手だった。


「……え」


呟いた瞬間、記憶が流れ込んでくる。知らないはずの生活、寒い朝、薄いスープ、重たい水桶。そして名前。


「……リシェル……?」


それが今の自分の名前だった。五歳。戦争で家族を失い、この孤児院に預けられている。


「……生きてる……」


そう呟いた直後、胸の奥に重たいものが沈む。最後の祈りと、世界から奇跡を消した記憶がよみがえる。


「……やらない」


震える声で言い聞かせる。


「もう、やらない」


奇跡は使わない。それが唯一の償いだと思った。



数日が過ぎ、孤児院での生活に少しだけ慣れてきた。朝は水を汲み、掃除をして、昼は薄いスープと固いパンを食べ、夜は疲れて眠るだけの単調な日々だが、それでも平和だった。少なくとも、あの頃に比べれば。


「リシェル、水こぼれてるよー」


「……ごめん」


小さく返して桶を持ち直す。まだ慣れない体はすぐにふらつくが、特別ではない日常に安堵していた。目立たず、何も起こらない生活が続けばいいと願っていた。


しかしその静けさは、突然破られる。


「誰か! 開けてくれ!」


外から怒鳴り声が響き、入口の方が騒がしくなる。


「怪我人だ! 早く!」


その言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。嫌な予感がする。それでも足は止まらず、気づけばそちらへ向かっていた。



運び込まれたのは若い兵士だった。腹部が裂け、血が止まらない。


「治癒魔法は!?」


「もう使った! 魔力が残ってない!」


焦りの声が飛び交う。助からないと誰もが分かっていた。


私は少し離れた場所からそれを見ていた。関わらなければ何も起こらないはずだった。しかし兵士がかすかに目を開け、途切れ途切れに言葉をこぼす。


「……まだ……死にたく、ない……」


その一言が胸に深く刺さる。足が勝手に動いた。


「……しなないで」


震える手を伸ばす。ほんの少しだけならいいと自分に言い聞かせながら、指先にかすかな光を灯す。弱く頼りない光だったが、それでも傷に触れると血の流れがわずかに緩んだ。


だがそれだけだった。命を救えるほどの力ではない。


「……これじゃ……」


言いかけた瞬間、遠くで角笛が鳴り響いた。


「押し返したぞ! 敵が退いた!」


歓声が広がり、状況が一変する。そのあまりにも出来すぎたタイミングに、周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。


「……この子が……?」


「奇跡だ……」


違う。ただの偶然だと否定したかったが、言葉は喉に詰まって出てこない。周囲の期待と畏れの混じった視線に包まれ、胸の奥が冷たくなっていく。


また同じことが始まるのだと理解してしまった。



その日を境に、周囲の態度はわずかに変わった。露骨ではないが、明らかに期待されている。小さな怪我人を前に差し出され、治してほしいと頼まれる。断りきれず、私はまた手を伸ばしてしまう。


ほんの少しだけと自分に言い聞かせながら。


夜、ベッドの中で目を閉じても眠れない。昼間の出来事が何度も頭をよぎる。止めたはずなのに、世界は勝手に動き出している。


もしまた同じ状況になれば、自分はきっと手を伸ばしてしまう。それが分かっているからこそ、恐ろしかった。


胸の奥には小さな光が残っている。世界から消えたはずの奇跡の残滓。それは消えることなく、静かに灯り続けていた。



翌朝、外が騒がしくなった。


「王都の騎士団だ!」


その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感が確信に変わる。重い足音が近づいてくる。逃げ場はどこにもない。


そのとき、胸の奥の光がわずかに揺れた。


奇跡を捨てたはずの世界で、それでも消えなかったもの。それが何を意味するのか、このときの私はまだ知らない。ただひとつ分かっていたのは、何も起こらないでほしいと願うほどに、世界は動き出してしまうということだった。

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