エンディング
ユリアは静町を大きく見渡すことのできる開けた場所に来ていた。
そこから見える空はどこまでも続いていて、海風が吹いている。
心地のよい場所である。
しかし、そこに誰かが来ることはない。誰も近寄ったりはしない場所だ。ユリアも、もうかなりの間来ていなかった。
その場所の名は、動禅台。
動禅台事件の名前の由来となった、ゼ号作戦における激戦区。
それは、おびただしい数の命が、『たかだか底の知れた思惑』によって散った、忌まわしい場所だ。
ここで、鉄ヶ山は取り返しのつかない過ちを犯し、逃げ出し、そして、それからも、ずっと過ちを犯し続けてきた。
かといって、ここに眠っている者がいるわけではない。ただ、血なまぐさい記憶があるだけだ。
ユリアは手にした清酒の栓を抜いた。そして、もう汚れで文字の隠れてしまっている石碑に、それを注いだ。
かつては死で埋め尽くされていた動禅台は、今ユリアがいる場所を除いて、花が目いっぱい咲いていた。
「いつか、一度だけ、あなたとここに来たことがあったわね。これと同じ紫色の花を持って……」
ユリアは石碑のそばにある花に細めた目を向ける。
「あのときワタシは言ったわ。いつかここを、持ってきた花でいっぱいにしたいって」
そこに咲いていた紫の花はエゾギク。またの名を、アスター。
「この花、あなたが供えて、植えたんでしょう? それがこんなにいっぱい広がって……バカね、これはエゾギク。あのときワタシが持っていたのはミヤコワスレよ」
動禅台に咲き誇るアスターの香りは、鉄ヶ山の体についていた香りと同じものだった。
いつかの時、あるはずもない夢の中で感じた鉄ヶ山のぬくもりがユリアの体を這う。
なぜ。もし。思っても仕方のないことで頭がいっぱいになる。
頭の中がこんなにも誰かのことでいっぱいになったには、ユリアにとっては生まれて初めてのことかもしれない。
「……それとも、わざとなのかしら? エゾギクも、ミヤコワスレも、『別れ』を意味する花。でも、ミヤコワスレは『しばしの忘却』、エゾギクは『追憶』という意味を持っている」
ユリアは、アスターを一本だけ摘むと、優しい手つきで石碑に添えた。
それは本当に優しい手つきで、落としてしまいそうになるぐらいだった。
「ねえ、本当は、それがあなたの本心なんじゃないの? 自分を忘れないでほしいって……言えないから、言葉にすることは許されないから……だから、この花に託したんじゃないの?」
清酒を注ぎ終えたユリアは一つ息をつく。
タン、と栓をした瓶の、遮光のために暗いガラスに、花が淡く浮いていた。
見上げた空には青い色がどこまでも続いている。
ユリアの青い瞳に、宇宙まで透けてしまいそうな空の色が呑まれた。
「……あの子ね、以前に比べれば随分と自然になったわ。あれがあの子の本当の笑顔なのね」
ユリアの口元が少し緩む。薄く塗られた口紅が光った。
「あなたにも見せてあげたいな。あの屈託のない笑顔ったら、すごく可愛いのよ」
誰も眠っていない、いまやただの石の塊にすぎない石碑に笑顔を向ける。
その笑顔はとても柔和で、幸せそうなものだった。
「ねえ、今ならわかるわ。あの子がああして笑えるように、あの笑顔ができるように……あなたは、支払いを決して終えようとはしなかったのね……」
ユリアの声は少し震えていた。
「其は微笑みの代価」
ユリアの足元、まだ地面に染みこまずに残っている清酒の水溜りに、一滴、ユリアの涙が落ちた。
「でもね、教えてよ慎之介……ならば、これは、なに?」
ユリアの震える唇は、どれほど強く噛み締められても、止まることはなかった。
「私の内からあふれ出てくるこれは、いったいなんなの?」
震える体を自分で抱きしめ、震える足に耐えて、ユリアは言葉を振り絞る。
「此は……」
一滴、一滴、波紋をつくっていた雨は、いつしか、頬を伝う川になっていた。
「此は……弔いの、代価……」
見上げた青一色の空には、ただひとつだけ、一筋の長い雲が流れていて、それは、それを見たユリアの心を、強く、強く、切りつけたのだった。
其は微笑みの代価 完




