第5話「特訓開始。…ユキよ、気にするな」
ヴィクトリアには『カーニバル』という祭りがある。
仮面で素顔を隠して、身分、年齢、性別に関係なく楽しむことが祭りの始まりらしい。今では仮面だけが形式的に残り、カーニバルの参加者は顔を隠すことなく、お面を頭に斜めにつけるのが普通らしい。
期間は2月と6月の、最初の週。
その間は、中心部のサンマルコ広場だけでなく、街全体、国全体で、様々な屋台や出店が開かれている。まるで、日本のお祭りの縁日のようだった。
「はい、もう一度! 1、2、1、2!」
外から聞こえてくる喧騒をよそに、ボクはアーニャの手拍子に合わせてリズムを取る。
「そこで、ターン! 一回転したら、観客席にスマイル!」
「…こう?」
「ダメダメ! 笑顔が硬いっ! もっと、観客のハートを掴んだら喰らい尽くすような笑顔で!」
「…どんな笑顔だよ」
ボクは額の汗を拭いながら、両膝に手を添える。
あの悪夢のような会議から3日経った。ボクは宮殿の一室を借りて、アーニャにダンスの稽古を受けていた。
ご丁寧にルームミラーの部屋まで用意されていて、上下ジャージ姿の自分が、鏡に映し出されている。ポニーテールに結われた黒い長髪が、動くたびに激しく踊る。
「ほらほら、本番まで時間がないんだよ。もっと、気合いれて」
「そんなこと言ったって、…はぁはぁ、すぐにできないよ」
「大丈夫。ユキなら、すぐにできるようになるって」
そう言って、手本を見せるようにアーニャが踊りだす。難しいステップを軽々こなし、優雅にターンした後、軽く跳ぶ。とんっ、と小さな音がして、アーニャがにっこりと笑う。
「ほらっ、ユキも」
「…う、うーん」
ボクは言われるがまま、アーニャの踊りを真似る。だが、思うように足が動かず、ギクシャクとした動きになってしまう。
「もっと、リズムに乗って!」
「…はぁはぁ」
「うん、いい感じ。そこで跳んで」
「…っ!」
アーニャの合図で上に跳ぶ。
重力を振り切った感覚が、少しだけ気持ちいい。
「…はぁはぁ。…どう?」
「うーん」
アーニャが腕を組んだまま唸る。
「…ダメね」
「…えー、まだダメなの?」
「うん、ダメね。ジャンプの時に、思いっきりが足りないのよ。ユキは、おっぱいが大きいんだから、もっと揺らしていかないと」
「胸のことは触れないでよ!」
ボクは庇うように胸を隠す。
うまく踊れない原因はわかっている。この豊かな膨らみのせいだ。この胸のせいで体のバランスがとれないのだ。激しく動けば動くほど、ふたつの膨らみは上下左右に暴れまわってしまう。
「それにしても、よく揺れるよね。…ちゃんと、下着つけてる?」
「つけてるよ!」
恥ずかしくなって、顔が真っ赤になる。
「じゃあ、ブラの種類を変えてみる?」
「え? 種類を変えたら違うの?」
「全然、違うよ。まぁ、そっちは私が用意するから、心配しないで」
「…普通のにしてよ」
「わかってるって」
そう言って、アーニャが親指を立てる。
…ものすごく心配になった。
「調子はどうだ?」
「あ、ゲンジ先輩」
アーニャの猛特訓のさなか、休憩しているとゲンジ先輩が入ってきた。すると、隣に座っていたアーニャが、ガバッと直立不動に立ち上がる。
「ゲンジ社長! お疲れ様です!」
…社長?
「うむ。ダンスのコーチ、ご苦労である」
「ありがとうございます。社長の考えた振り付け通り、レッスンを行っているところです」
ばっ、と敬礼しながらアーニャが答えている。
「それで、首尾はどうだ?」
「はい! 彼女には才能があります! あと数日もあれば、マスターできるかと!」
「うむ」
ゲンジ先輩が腕を組んで、深々と頷く。
ボクは目線をアーニャとゲンジを行ったり来たりさせながら、口を開く。
「…えっと、ゲンジ先輩、どういうことなんですか?」
「ふむ。ユキには、まだ話していなかったな」
ゲンジ先輩が無表情のまま答える。
「今回のイベントに先立って、アイドルのプロダクションを設立することになったのだ。発起人である我が社長となって、ユキとアーニャ殿をトップアイドルに育てる。それが、我が社の目標である」
「はぁ! 何を言っているんですか!?」
驚いて叫び声をあげてしまう。
それでも、ゲンジ先輩は淡々と答えた。
「…冗談だ」
「…は?」
「冗談に決まっているだろう。何をそこまで焦っているのだ?」
ゲンジ先輩は顔色1つ変えずに言う。
…この人の冗談はわかりにく過ぎるよ。
「び、びっくりさせないで下さいよ」
「ふむ。驚かせたのなら謝ろう。すまなかった」
「そうですよね。ゲンジ先輩がアイドルの育成なんて、考えるわけがないですよね」
「当たり前だ」
ゲンジ先輩は当然と言わんばかりに頷く。
そこに、アーニャが口を挟んだ。
「ねぇ、社長。振り付けでわかりにくいとこがあるんだけど?」
「どこだ?」
「この、曲の2番入ったところ」
「ふむ。マイクスタンドを跨いで、腰を揺らしながら観客にアピールするとこだな」
「そうそう。社長も実演してくれたけど、ちょっとわからなくて」
「了解だ。あとで細微に渡るところまで教授しよう。アイドルの育成に関しては、我はプロだ。総プレイ時間、800時間を超える我の経験と実績を信じろ」
「はい! ありがとうございます、社長!」
目を輝かすアーニャ。
…あれ?
…なんか、おかしくない?
…このダンスの振り付けって、ゲンジ先輩が考えたの?
…というか、アイドルの育成のプロって、なに?
「む、どうした、ユキよ?」
「…ゲンジ先輩。…確認なんですけど」
「なんだ?」
「…先輩は、アイドルなんかに興味はないんですよね?」
「もちろんだとも」
無表情のまま答える。
「…じゃあ、なんでダンスの振り付けなんて知っているんですか? そもそも、アイドルの知識が何もないのに、どうして陣頭指揮をとれるんですか?」
ボクが問うと、ゲンジ先輩は珍しく言葉を詰まらせる。
「もしかしてゲンジ先輩って、オタ―」
「ユキよ」
ゲンジ先輩がボクの言葉を遮った。
そして、無表情のまま淡々と答えた。
「気にするな」




