第4章:1.再会、若様と伴読の初見
台北市大安区の深夜、雨上がりの蒸し暑さは徳記小餐館の二階にある小さなロフトの中に今なお澱のように溜まっていた。
闕恆遠は少し湿気を含んだ畳表に横たわり、天井の黄色い染みをぼんやりと見つめている。
彼の頭の中では、今日の授業でケヴィン先生が悦清禾に向けて放った、あのオーバーな「Excellent!」という褒め言葉が何度も反響していた。
自分がもらったのは、ケヴィン先生のどこか困惑気味な苦笑いと「Try again」という励ましの言葉だけだ。
「もし……もう一度あの夢に戻れたら……」
彼はひとりごちたが、その声は扇風機の駆動音にかき消されて消えていった。
まぶたがますます重くなり、体はゆっくりとマットレスの中に沈み込んでいく。
あの無重力のような軽やかな浮遊感が再び予定通りに訪れ、まるで優しい両手が疲れた小学生の体から彼の魂をそっと引き離していくかのようだった。
そして、再び目を開けた瞬間、空気の質が変わっていた。
油煙やカビの匂いではなく、冷涼な清香を帯びた、ラベンダーと上質な香木が混ざり合った気配だ。
彼は、五、六人の子どもが並んでゴロゴロと転がれるほど大きな深紫色のベルベットの大ベッドの上に横たわっていることに気づいた。
「戻ってきた……本当に戻ってこられたのか!?」
彼は思わず手を伸ばし、シーツの感触を確かめた。
その絹のような滑らかな手触りは、現実世界のざらざらとした草蓆とはあまりにも対照的で、彼に言い知れぬ高揚感と安らぎをもたらした。
その時、窓の外ではセントルシアの二つの月がちょうど交差する時間帯を迎えており、白く輝く月光と緋色の微光が巨大なアーチ型の窓を突き抜け、鏡のように磨き上げられた大理石の床に降り注いでいた。
コン、コン
部屋の扉が、きわめて規則正しく、かつ優しい力加減でノックされ、そのまま静かに押し開けられた。
「若様、お目覚めになられましたか」
執事長のアルヴィンは相変わらず仕立ての良い燕尾服を身にまとい、その手には一皿の銀のトレイを載せている。
トレイの上には淡い青色の光を放つ魔法の石燈と、温かい水が張られた洗面器が置かれていた。
その立ち居振る舞いは、何千回も練習を重ねたダンスのように優雅だった。
「本日の早朝、ご主人様から申し付けられております」
「若様が学院へ初登校される前に、」
「伴読の令嬢との対面儀式を済ませなければならないと」
アルヴィンはそう言いながら片膝をつき、慣れた手つきで闕恆遠のシルクの寝間着を脱がせていく。
その動きはどこまでも丁寧だが、闕恆遠の肩の皮膚に触れたとき、アルヴィンの指先に薄い硬いタコがあるのを闕恆遠は感じ取った。
「アルヴィン……君は父さんのところにずっといるの?」
闕恆遠は、アルヴィンが自分に青と赤の生地に金糸の刺繍が施された中世魔法風のショートローブを着せかけてくれるのを見つめながら、思わずそう尋ねた。
アルヴィンの手がわずかに止まり、その顔にはいつもの淡々としつつも絶対的な忠誠を誓う笑みが浮かんだ。
「はい、若様」
「それはもう十五年も前のことにございます」
「あれは【暴雨要塞】での魔石の嵐の中、」
「ご主人様の商隊が、当時すでに意識を失っていた私を特別に救い出してくださったのです」
「もしあのとき、ご主人様が危険を顧みず、」
「自らあの貴重な『避雷石』を用いて私の心脈を護ってくださらなければ、」
「私はとっくに北境のちりに帰っておりました」
アルヴィンは立ち上がり、闕恆遠の腰に銀色の飾り帯をしっかりと結びながら、その瞳に命を賭すような揺るぎない決意を宿した。
「アルヴィンにとりましては、」
「闕家のすべての成員をお守りすることが、単なる職務ではなく、我が魂の帰るべき場所なのでございます」
「ですから、どうか若様、お心にお留めくださいませ」
「何があろうとも、アルヴィンは常に若様の一歩後ろにおります」
その言葉は闕恆遠の胸をじんわりと温かくさせた。
現実の世界では、皿洗いを手伝うだけの普通の子供にすぎない彼が、ここではこれほどまでに重く、そして純粋な忠誠を一身に受けている。
「若様、お時間でございます」
「千家の令嬢とご両親が、すでに一階の大廳にお着きになられております」
闕恆遠は深く息を吸い込み、ピンと背筋を伸ばした。
アルヴィンから教わった立ち居振る舞いを思い出し、できる限り足取りを落ち着かせ、優雅さを失わないように歩を進める。
白い大理石で作られた階段状の長い回廊を下り、吹き抜けの三階分の高さがある大廳へと足を踏み入れると、彼は側面のソファに腰掛けている三人の人物にすぐに気づいた。
それは、きちんとした身なりの布服をまとった一組の男女と、その間にちょこんと座ってうつむいている小さな女の子だった。
女の子は淡いピンク色のレースが縁取られたワンピースドレスを身にまとい、髪は可愛らしい二つの団子結びにまとめられ、両手を落ち着きなく膝の上で重ね合わせている。
闕恆遠が大廳の中央へと歩み寄ると、その三人は一斉に立ち上がった。
「若様、お目にかかります」
男性が一歩前に進み、闕恆遠に向けて深く頭を下げた。
「私は千廣維と申します。こちらは家内の巫雅筑でございます」
「闕会長の温かいお心遣いに感謝いたします。我が家の慕羽に、このような闕様のお屋敷でお仕えする機会をくださり、本当にありがとうございます」
闕恆遠の視線は、ずっと下を向いたままのその少女へと釘付けになっていた。
異世界の衣装を身にまとっており、大廳の光と影が幾分薄暗いとはいえ、その馴染み深い面影はまるで稲妻のように彼の脳裏を撃ち抜いた。
「きみ……顔を上げて」
闕恆遠の声はわずかに震えていた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、二人の視線が空中でピタリと交差した。
それは大きく輝く瞳でありながら、今は驚きと不安でいっぱいに揺れていた。
丸みを帯びた愛らしい顔立ちに、生まれ持った少しばかりの「プライド」を感じさせる唇の形。
それは、今朝まさに学校の廊下で、ステッカーを手に「英語、ほんとに苦手なんだね」と得意げに笑っていた千慕羽その人ではないか。
「……っ!」
千慕羽の瞳孔は、闕恆遠の顔立ちをはっきりと捉えたその瞬間、大きく見開かれた。
彼女の唇はわずかに半開きになり、喉の奥を何かにつかまれたかのように言葉が出てこない。
彼女の脳裏では、現実世界の教室の最後尾に座り、先生との対目を避けて縮こまっていたあの「冴えない男の子」が、目の前で豪華な青と赤の礼服をまとい、威厳を漂わせながらもどこかからかうような笑みを浮かべる「若様」の姿と完全に重なり合っていた。
「慕羽!」
「早く若様に礼をしなさい!」
「家で教えたしきたりを忘れたのか!」
千慕羽は父親の低い叱咤の厳声ハッと我に返ると、まるで条件反射のように両手でスカートの裾を軽く持ち上げ、両膝を曲げてこれ以上ないほど丁寧な、しかしどこか怯えたようなカーテシーの礼をした。
「……慕羽、若様にお目にかかります」
「今日より、この慕羽が若様の学業の伴読と身の回りのお世話を担当させていただきます……」
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
彼女の声はひどく小さく、これまで聞いたこともない従順さを帯びていたが、その声色の背後には隠しきれない動揺と悔しさが滲み出ている。
闕恆遠は上座の彫刻が施された大椅子に腰掛けたまま、現実世界ではあんなにも高飛車だったのに、今は自分の前で頭を垂れざるを得ない少女を見据え、言い知れぬ奇妙な高揚感を味わっていた。
「……千慕羽、こっちへ来なさい」
闕恆遠は、できる限り落ち着いた重みのある口調でそう告げた。
千慕羽は足取り重く歩み寄り、闕恆遠の前三歩の距離で足を止めると、最後まで彼の目を真っ直ぐに見ようとはしなかった。
「さっき……君は僕の学業を担当するって言ったよね」
「……はい、若様」
「じゃあ、もし僕が勉強についていけなかったり」
「あるいは……言葉の喋りがうまくいかなかったりしたら」
「君はどうするつもりだい?」
闕恆遠はあえて「言葉」という二文字を少しだけ強調して発音した。
千慕羽の肩がピクリと大きく震える。
彼女は顔を上げ、チラリと闕恆遠の顔を盗み見た。その瞳には不信感、戸惑い、そして「これはいったいどういうことなのよ」という軽いパニックの色が浮かんでいる。
しかし、両親やアルヴィンが見守る手前、彼女はぐっと唇を噛みしめ、俯きながら小さな声で絞り出した。
「そ、それは……慕羽の不手際にございます」
「若様が……すべて完璧にできるようになるまで、慕羽が責任を持って徹底的にお教えいたします……」
広大な大廳の空気が、この瞬間、凍りついたようにピタリと静まり返った。
吹き抜けの高いドーム天井の下、夕暮れの光が創始者の功績を描いたステンドグラスを通り抜け、色鮮やかでありながらどこか重々しい光と影を投げかけていた。
空気中には高価な沈香の香りと微かな魔力の波長が漂い、呼吸の音さえも不自然に響くほど静まり返っている。
千慕羽はスカートの裾を摘まんで膝を折る姿勢を崩さないまま、指先にぐっと力を入れすぎて、その爪先がかすかに白くなっていた。
彼女の視線は白い大理石の床からゆっくりと上へと這い上がり、一塵の曇りもない磨き上げられた黒いショートブーツ、金糸の縫い取りが施された赤と青のショートローブを経て、最後にようやくその顔へとたどり着いた。
それは今朝、教室の最後尾で「Apple」の発音につまずき、ケヴィン先生に優しく諭されていた、あのどこか自信なげで無口な男の子の顔だった。
だが今、その顔は権力の象徴たる彫刻の大椅子に腰掛け、彼女が今まで一度も見たことのない落ち着いた輝きを瞳に宿しながら、見下ろすように彼女を捉えていた。
その瞬間、千慕羽の頭の中は雷に打たれたように真っ白になった。
普段は知性とプライドに満ちているはずの大きな瞳には、恐怖とパニックの色がこれでもかと浮かび上がり、唇はわずかに震えたまま言葉ひとつ出てこない。
『何か大きな間違いに違い――』
『現実のあいつは、単語すらまともに覚えられない闕恆遠なのに!』
『どうしてここに……どうしてあいつが「若様」なの?』
『それに私、なんでこんな奴に頭を下げなきゃいけないわけ?』
緊迫感が限界に達したその時、千慕羽の背後に控えていた千廣維が小さく咳払いをして、この息が詰まりそうな沈黙を破った。
「慕羽、どうしたのだ」
「早く若様に感謝の挨拶を申し上げるんだ」
千廣維の声には、どこか焦りを帯びたへりくだりと娘をたしなめる響きがあり、彼は軽く身をかがめると、娘の肩をそっと手で押した。
傍らに控えていた巫雅筑もすぐに、いかにも現実世界の親らしい、少しばかりのへりくだりと恭しさを混ぜ合わせた愛想笑いを浮かべ、手にした上質な菓子が詰まった漆塗りの木箱をギュッと抱きしめ直した。
「うちの子は、闕様のようにお気高いお方にお目にかかるのが初めてなもので……」
「すっかり気後れして、見とれてしまっていたようですわ」
「若様、どうかお気を悪くなさらないでくださいまし」
「この子は普段はおとなしく、」
「しきたりも熱心に学んでおりますゆえ、今日は少し緊張しているだけでございます」
巫雅筑はそう言いながら、闕恆遠の斜め後ろに立つアルヴィンへとそっと視線を投げかけ、その冷徹な管家の表情から少しでも同情や理解を得ようと探った。
大椅子の背に身を預けている闕恆遠の掌には、じんわりと冷や汗が滲んでいた。
彼は自分の胸のなかで心臓が激しく脈打つのを感じていた。
それは、現実世界における「冴えない子供」としての劣等感と、夢の世界における「若様」としての優越感が、激しくせめぎ合う感覚だった。
普段は学校の廊下でいつも顎をツンと上げ、誇らしげな小さな白鳥のように振る舞っている目の前の少女が、いまは親に促されるまま自分に頭を下げ、小さくなっている。
その姿を見つめる彼の胸中には、快感と不憫さが入り混じった複雑な感情が渦巻いていた。
若様は彼女を見据え、驚くほど落ち着いたトーンで告げた。
「お立ちなさい、伴読の君」
千慕羽はまるで熱いものに触れたかのように体をこわばらせ、ぎこちなく姿勢を正した。
恥ずかしさと衝撃で彼女の頬はほんのりと赤く染まっている。
彼女は闕恆遠の襟元を凝視したまま、どうしてもその見慣れた顔のほうへ視線を上げることはできなかった。
「……あ、ありがとうございます、若様」
その声は蚊の鳴くように小さく、泣き出したいほどの悔しさが滲み出ていた。
アルヴィンが優雅に一歩前へ歩み出る。
その動作はプロとして非の打ちどころがなかった。
彼は白い手袋をはめた手で巫雅筑から漆塗りの贈り物を受け取り、千家の夫婦に向けてわずかに頷く。
「千のご主人様、奥様、どうぞご安心くださいませ」
「闕氏商会と千家のお付き合いはこれまでも固く結ばれております」
「若様のお伴となるお方選びにつきましては、ご主人様も奥様も大変重きを置いておられました」
「慕羽様がこうして屋敷にお迎えされた以上、私どもは最高級のしきたりに従い、その生活と学業を万全の体制でお支えいたします」
アルヴィンの口調は平穏でありながら、逆らうことを許さない威厳を帯びていた。
その言葉に千家の夫婦は胸を撫で下ろし、何度も頭を下げる。
「若様の言うことをよく聞くんだよ」、「ご迷惑をおかけしてはならないよ」といった長輩同士の社交辞令や子供への言い付けがしばらく大廳のなかに漂ったあと、彼らはアルヴィンに案内され、名残惜しそうに大廳をあとにした。
大廳の重厚な扉がゆっくりと閉じられ、くぐもった重い音が響き渡る。
その広々とした空間に残されたのは、椅子に腰掛けた闕恆遠、直立するアルヴィン、そして相変わらず俯いたままピンク色のレースの裾を両手で強く握りしめている千慕羽の三人だけだった。
「若様、お時間は貴重にございます」
「伴読の令嬢もお揃いになられましたので、書房へと移り本日の基礎練習を始めましょう」
「ご主人様もおっしゃられておりました。聖黎明学院のご入学試験が間近に迫っておりますゆえ、」
「若様の呪文の詠唱における発音には、なお一層の精進が必要でございます」
闕恆遠はうなずき、アルヴィンの支えを借りて立ち上がった。
千慕羽のそばを通り過ぎたとき、彼女の身から現実世界で嗅ぐような高級なシャンプーの香りに似た匂いが、夢の中特有の清らかな魔薬草の香りと混ざり合ってふわりと鼻腔をくすぐった。
「ついて来い」
闕恆遠は低い声でそう告げた。その口調には、自分でも驚くほど自然な威厳が宿っていた。
三人は歴史ある油絵がずらりと並ぶ長い回廊を通り抜け、足音が広々とした通路にコツコツと寂しく響き渡る。
千慕羽はその後ろをついて歩きながら、闕恆遠のまっすぐな背中を見つめ、心の中で起きていたパニックを次第に極度のシュールさへと変えていいていた。
『あいつが前を歩いて、私が後ろをついていくって……』
『これって今朝、私たちが先生に頼まれて職員室へ教材を取りに行ったときの並びと同じじゃない!』
『しかもあのときは、あいつが後ろで私の重いバケツを持ってくれてたのに!』
書房に到着し、重厚な赤褐色の木製扉を押し開けると、古びた羊皮紙と魔石が放つかすかな硫黄の匂いが鼻を突いた。
天井まで届く壁一面の本棚には所狭しと本が並び、部屋の中央には大きな黒檀の机が置かれ、その上には微かな蛍光を放つ青い魔石の板が鎮座している。
アルヴィンが魔石板に触れて明かりを灯すと、柔らかな青い光が二人の顔を照らし出した。
「伴読の令嬢、若様の向かいにお座りください」
「本日の主題は『基礎魔力感応と詠唱起動』にございます」
「若様は実地におかれまして――おっと、普段の日常におかれましては、」
「単一の魔力に対する精度の安定がまだ十分ではございません。そこをあなた様が横から補助して差し上げる必要がございます」
千慕羽はまるでロボットのようにぎこちなく椅子に腰掛けた。
彼女が机の上にある、古代の文字が刻み込まれた石板に目をやった瞬間――その文字の、その形を見た瞬間、
彼女の息がピタリと止まった。
『これ、今朝ケヴィン先生が黒板に書いて、私たちに暗記させようとしてた英単語そのものじゃない!』
アルヴィンは分厚い羊皮紙の手稿をパタリと開き、淡い金色の光を放つその中の一語を指し示した。
「若様、この起動の言葉を試してご発音くださいませ」
「正しい発音であれば、石板が『明るい』光を放つはずでございます」
闕恆遠はその文字を凝視した。
現実の世界ではケヴィン先生があまりにも早口で発音し、自分がどうしても巻き舌のコツを掴めなかったあの単語。
若様は深く息を吸い込み、「あなたはどうせ失敗する」と言いたげな疑わしい目を向ける慕羽の視線を正面から受け止めながら、ケヴィン先生の口の動きを懸命に思い浮かべた。
Li……Light.
青い魔石の板がわずかに明滅したが、すぐにプツリと消えてしまった。まるで接触の悪い電球のようだ。
アルヴィンは小さく首を横に振る。
「発音がややこもりすぎており、エーテルの共振が不足しております」
その時、それまでずっとうつむいて沈黙を守っていた千慕羽が、まるで職業病のように、ガバッと顔を上げた。
たとえこのシュールすぎる身分の逆転の中にあっても、彼女の誇り高い優等生としての自尊心が、恐怖心を一時的にねじ伏せたらしい。
「そんな風に発音するわけないでしょ」
彼女の声にはまだわずかな緊張が混じっていたものの、「勉強」の領域に踏み込んだ途端、普段の勝ち気なプライドが自然と溢れ出してきた。
彼女は立ち上がり、テーブル越しに、その愛らしい顔を闕恆遠へとぐっと近づける。
「舌先を上の歯ぐきに当てて、もっとクリアに響かせなきゃダメなの」
「『Light』であって、『Li-te』じゃないのよ」
そう言いながら、彼女は無意識のうちに白い小指を伸ばし、羊皮紙の上に書かれたアルファベットの文字をツンと指し示した。
「ほら、こうやるの……私の口の形をよく見てて」
彼女の手本を示す声は、銀の鈴を転がしたように書房の中に美しく響き渡った。
その完璧な発音に呼応するかのように、目の前の青い魔石板が瞬間的に眩しいほどの白い光を放ち、書房全体を明るく照らし出した。
闕恆遠は彼女を見つめた。
すぐ目の前にある、真剣そのものの表情と、「あなたって本当に要領が悪いんだから」と言いたげな少し呆れた混じりの顔をじっと見つめる。
胸の内で膨らんでいた「若様」としての優越感はスーッと消え去り、その代わりに呼び起こされたのは、現実世界の教室で彼女に間違いを指摘されたときのあの気恥ずかしさと――それ以上に、「絶対にこいつを見返してやりたい」という強烈な対抗心だった。
『夢の中じゃ、正しく発音しさえすれば光が灯る』
『じゃあ、現実の英語の授業でも同じようにやれば……?』
闕恆遠は彼女を見据え、その瞳に深く強い執着の光を宿した。
「もう一度、教えてくれ」
その言葉に、千慕羽はハッとしたように動きを止めた。
真っ直ぐに自分を見つめる若様の瞳には、知りたいという強い渇望と、「いつか絶対に追いついてみせる」という気迫が満ちており、彼女の心にあった「冴えない男の子」というレッテルは音を立ててひび割れていく。
『これって、本当にあの闕恆遠なの……?』
書房を満たす青い魔光が、二人の見つめ合う視線のなかで揺らめき、明滅を繰り返している。
二つの世界が交差するこの場所で、「力」と「言葉」をめぐる最初の授業が、この絶妙な身分の反転の中で幕を開けたのだった。




