1-3-10 第七戦決着
サーラとシェリーは、倒れた者たちの傍らに膝をつき続けるレイラに短く言葉を残し、神殿の奥へと進んだ。
レイラは振り返らなかったが、その背に宿る静かな意志と、柔らかな眼差しの気配が、ふたりの歩みを押していた。
神殿の内は、音を失っていた。
足音さえ吸い込まれるような静寂が満ち、時間そのものが緩やかに凍りついているかのようだった。
「……ついにここまで来たわね」
シェリーの声は低く、空間に溶けていく。
サーラは応じず、ただ前方へ視線を据えた。
神殿の中心、わずかに差し込む光の中に、「宝瓶の壺」が鎮座している。
青を湛えたその表面は、静かでありながら、どこか深い水底を思わせる気配を宿していた。
サーラは慎重に歩み寄り、ためらいのない手つきで壺に触れる。
指先に伝わるのは、冷たさではなく、確かな重みだった。
「おめでとう、サーラ。これで一つ、手に入れたわけだね」
シェリーが安堵を滲ませて言う。
だが、サーラはすぐには応じなかった。
壺を抱えたまま、わずかに視線を落とす。
達成の実感が、胸に満ちてこない。
代わりに浮かび上がるのは、先ほどの光景だった。
倒れた者たちの間を歩き続け、疲労を押してなお手を止めなかった少女の姿。
「……これで、よかったのかな」
自分に向けた問いは、小さく、しかし確かに揺れていた。
「サーラ?」
シェリーが覗き込む。
サーラは答えず、壺へと視線を戻した。
この器に宿る力。その意味。
そして、それが本来届くべき場所。
思考は静かに収束していく。
やがてサーラは目を閉じ、ひとつ息を整えた。
開かれた瞳には、迷いは残っていなかった。
「……行こう、シェリー。戻るわ」
「戻るって……?」
「レイラのところに」
短く、しかし揺るがない声だった。
シェリーは一瞬言葉を失う。
「せっかく手に入れたのに……どうするの?」
「この壺は、あの子が持つべきものよ」
サーラは壺を抱き直し、はっきりと言い切る。
「力が必要なのは、私じゃない。あの場所で、今も誰かを救おうとしている人」
その言葉に、説明はなかった。だが、十分だった。
サーラは踵を返し、来た道を駆け戻る。
シェリーは小さく息をつき、すぐにその背を追った。
再び広場へ戻ったとき、景色は変わっていなかった。
倒れた者たち。
その間を縫うように動き続けるレイラの姿。
疲労は明らかに深まっている。指先を震わせながら、それでも彼女は、手を止めていなかった。
「レイラ!」
サーラの声に、ようやく振り返る。
「……どうしたの?」
視線が壺へと移り、わずかに驚きが滲む。
「その壺……あなたが」
サーラは間を置かず、歩み寄った。
そして、壺を差し出す。
「これを、使って」
レイラの動きが止まる。
「……え?」
「この壺は、ここにいる人たちを救うためのものよ。レイラ、あなたならそれができる」
言葉は簡潔だった。だが、そこに迷いはない。
レイラは壺を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「でも……これは、あなたが……」
「いいの」
サーラは静かに遮る。
「あなたはずっとここで人を助けていた。壺の力は、今あなたにこそ必要なものだと思うの。お願い、受け取って」
その言葉に、レイラの視線がわずかに揺れる。
やがて、深く息を吸い、ゆっくりと手を伸ばした。
壺に触れた指先から、微かな波紋が広がる。
それは音ではなく、意志に近い響きとなって、静かに伝わってきた。
『我が名はヒュドラリウム。
汝の歩みは、すでにここへ届いている。
癒やし続けたその在り方こそ、この力にふさわしい。よって、汝を担い手と定める』
それは宣言ではなく、ただ事実を告げていた。
光が、静かに拡散した。
それはレイラの内に積み重ねられてきたものへ、そっと重なっていく。
やがて、その光は形を曖昧にする。
粒子のようにほどけたかと思えば、連なり、流れとなる。
壺の口からあふれたそれは、水のように見えた。
細やかな粒となって宙に広がり、静かな雨のように降り注ぐ。
レイラの手が、わずかに動く。
その微かな動きに導かれるように、光のようであり、水のようでもある流れは、迷いなく倒れた者たちへと降りていった。
頬に触れる。
額に触れる。
その一滴一滴に、見覚えのある気配が宿っている。
これまで彼女が繰り返してきた、あの癒しと同じものが。
強張っていた指先が、わずかにほどける。
浅かった呼吸が、ゆっくりと深さを取り戻していく。
レイラは止まらない。
壺を抱えたまま、これまでと同じように、魔法を紡ぎ続ける。
ただ、届く範囲が、違っていた。
ひとりに向けていたはずの力が、同時に幾人にも行き渡っていく。
やがて、ひとりが身を起こした。
続いて、またひとり。
戸惑いながら周囲を見回し、確かめるように立ち上がる。
変化は静かに、しかし確実に広がっていく。
倒れていた者たちが、順に意識を取り戻していく。
水はなお降り続いていた。
それは何かを洗い流すためではない。
ここに残っていた痛みを、ひとつずつ解きほぐしていくためのものだった。
重く沈んでいた空気が、ゆるやかにほどけていく。
その中心で、レイラはなお手を動かし続けていた。
壺を抱いたまま、これまでと変わらぬ所作で、ひとりひとりへと意識を向けている。
だが、その手応えは明らかに違っていた。
「……これは……奇跡、なの……?」
かすれるような声が、思わず零れる。
自分の手が届くはずのないところまで、確かに届いている。
それが何によるものなのか、レイラ自身にも判然としない。
サーラはその様子を見つめ、静かに首を振った。
「違うよ」
短く、しかし確かな声だった。
「それは、もともとあなたが持っていた力。
ただ……届く範囲が、広がっただけ」
レイラの指先が、わずかに止まる。
降り注ぐ流れは途切れない。
むしろ、その言葉に応じるように、より澄んだ軌道を描いていく。
「……私の、力……」
レイラは小さく繰り返す。
その響きは、驚きではなく、確かめるようなものだった。
サーラは微かに頷く。
「うん。だから、あなたが持つべきだったんだよ」
レイラは壺を抱きしめる。
「ありがとう、サーラ。
私……今まで、自分には何もできないと思っていた。でも……違うのね。
この力で──もっと多くの人を、救える」
その言葉に、誇張はなかった。
サーラとシェリーは、ただ静かに頷く。
光は穏やかに残り、場の空気を変えていた。
サーラは最後に、もう一度だけ壺を見た。
その力がどこまで届くのかは、まだ分からない。だが、この選択が誤りでないことだけは、疑いようがなかった。
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