3〔完〕
「そういえばマリアさん、昨日、先生からお薬をいただきましたか?」
「あのあとちょっと寝て起きたら、痛みもだいぶマシになってたから、薬はもらわずに帰ったわよ。……薬代だってばかにならないもの」
「くすりだい……?」
そうつぶやいて固まってしまったパトリシアは、しばし熟考したのち、おそるおそるといった様子で尋ねてきた。
「……マリアさん、この学園に特待生として通う間の特権について、教師の方からお聞きではありませんか?」
「特権? 無償で学園に通えるというだけじゃなくて?」
思いがけないことを聞かれて、マリアが目を瞬くと、パトリシアはすんっと無表情になった。
「そう。……そうですか。この学園の教師はずいぶんと怠慢をしているようですわね……」
長いまつげを伏せ、地を這うような低い声でささやく。美しい顔が表情をなくすと、下手な怒り顔よりもよっぽど恐ろしいことをマリアは初めて知った。怒りの矛先は自分ではないのに、背筋がぞくぞくする。
やがて気を取り直したように、パトリシアが切り出した。
「あのですね、マリアさん。特待生であるマリアさんが学園にいる間医療を受けたところで、毎月の薬代程度なら、お金はかかりませんわよ」
「は?」
初めてもたらされる情報を呑み込めないマリアに、パトリシアは「最初から説明いたします」と決意を込めた瞳で言った。
「特待生の学費などの諸費用は、国民の税から賄われています。なぜか。それは、特待生の将来に、国が強く期待しているからです。それだけの税を費やす価値があると判断しているのですわ。
つまり、特待生制度というのは、投資なのです。
マリアさん、この学園に入学する際に、卒業後は一定期間国に貢献する職に就くよう、誓約書を書かれましたわよね」
「ええ、書いたわ。この学園を卒業さえすれば、優良な勤め先を確保してもらえるってことだと思ったけど……」
「あれも一種の契約です。優秀な人材を今から囲い込んでおくための、国の政策です」
それはマリアも薄々理解していた。どう転んでも自分の損にはならないため、あまり気にしたことはなかったけれど。
「そこまで将来を縛る以上、国は、学力特待生がこの学園に通う間勉学に集中できるよう、サポートする義務があるのです。
医療費は一定額まで自己負担なし。
衣食住も、あまりに困窮していれば、補助する制度がありますわ」
寝耳に水すぎる情報のオンパレードに、マリアは再び機能停止に追い込まれた。
そんなマリアを見、トリシアはため息をつく。
「優秀なマリアさんが、こんな重要なことを、説明されたのに覚えていないということはありえません。つまり、入学時の対応……いえ、入学前の事前説明から、不備があったということ……なんということでしょう。
申し訳ありません、これは、この学園に手続きを委任している国の責任でもありますわ……」
悔いるような口調でつぶやいたのち、パトリシアはにっこりと、それはもう美しく笑った。
「このことは、エヴァンス公爵家から学園の方に、きつく、きつーくご忠告して、今後二度とないようにいたします。これまで被ってきた不利益がありましたら、今からでも補償されるように手配いたしますわ。
ですからどうかマリアさん、どうかこの国や貴族に失望せずにいてくださいますか……?」
「あ、はい……」
エヴァンス公爵家なんて、マリアからすればほぼ王族である。そんな家から直接苦情を入れられる学園側の気持ちを考えると、マリアはそれ以上もう何も言えなかった。
その後、今日の授業が終わったら薬をもらいに行く約束をさせられ、なんなら今日はこのまま早引けすればいい、ノートは自分が取るし、かぶらない授業の分も何とかするから、と主張する公爵令嬢をなだめるのに、マリアは難儀した。
過保護か。
今日は昨日よりずっとしんどくないし、あんまり身体が楽を覚えると怠けてしまう、と反論したマリアに、「あなたはもう少し怠けることを覚えるべきです」と労わるような笑みを向けられた。
過保護か。
この令嬢はマリアを甘やかして何がしたいのだろう。うっかり火照ってしまった頬を押さえ、ずっと疑問に思っていたことをマリアは何とはなしに口にしてみた。
「あのさ……あんた、私を嫌ってたんじゃなかったの?」
何とはなしに口にしてみた――を装えていただろうか。
本当は、ずっと、ずっと聞いてみたかったことなのだ。
率直な問いを投げかけてきたマリアを見返したパトリシアは、しかし黙考し、言葉を選ぶようにして話し始めた。
「……誓って言いますけれど、昨日申し上げたことに嘘はありませんよ。私はマリアさんを好ましく思っています。
学力特待生と認められるほどの才能がありつつ、努力家でもあるところ。それをひけらかさないところ。
ひとり、これまでと全く異なる環境に身を置きながら、己のやるべきことを見失わない強さに、私は感銘を受けていたのです」
突然始まった手放しの讃辞に、マリアは口をつぐむしかない。パトリシアがそんなことを考えていたなんて思いもよらなかった。そんな――自分を、そんなにも、見ていてくれたなんて。貴族の末端にすら届かない特待生なんて、その至らなさを指摘するとき以外、ろくに視界にも入っていないと思っていたのに。
「――あなたが男子生徒と仲良くしていることで、周囲に誤解されていることを歯がゆく思っていました。あなたの努力は本物であるのに。
貴族的な処世術を身に着ければ、あなたがもっと正しく評価されるのではないかと、傲慢にも考えたのです。
普段の私の言い回しが誤解を招いたのであれば……いいえ、これは卑怯な言い方ですね。
私は、あえて誤解されるような言動をしておりました」
パトリシアは自嘲した。
「私、これまで色々ございまして、貴族社会では少々難しい立ち位置なのです。ほとぼりが冷めるまで、大人しくしているよう家からも言われておりまして」
細い溜息をつきながら、眉根を寄せて苦く笑う。
「他家がどんな企みで近づいてくるかもわかりませんので、安易に深い交流を持つわけにもゆかず……。そうすると、どのような距離で関わるべきか、計りかねて……。
それで、もういっそ嫌われてしまって、卒業までやり過ごせばよいかと思い切りましたの。
あなたにも表立って好意的に接することもできず、もはや嫌われてもいいと思い切って、露悪的かつ迂遠な言い方で、周囲に受け入れられる立ち振る舞いを伝えているつもりになっていました。
お門違いにも程がありますわね――誠に申し訳ございませんでした」
悄然と肩を落とし、心からの悔いを込めた瞳で謝罪を述べるパトリシアを、マリアはまじまじと見返した。
パトリシアは誤解している。この学園の人間は、パトリシアを嫌っているわけではない。
――高慢で、しかし誰よりも気高く美しい彼女を前にして、誰もが手を出しあぐねているだけだ。
よく思い返せばマリアに投げられた数々の嫌味だって、ただ罵るだけの言葉は、パトリシアではなく他の令嬢からぶつけられたものであった。パトリシアは本当に、マリアの振る舞いを遠回しに改善させたかっただけなのだ。
しかし、マリアはこの話題をそれ以上続けたくなかった。
果たして貴族社会で、何があったのかは知らない。マリアは学園以外で貴族と関わることなど一切ないし、噂も庶民であるマリアにはほとんど回ってこないから。
でも、そんな陰のある微笑はパトリシアには似合わない。いつもの嫌味令嬢の笑みか、昨日のちょっとぽやぽやした笑顔でいてくれないと、こちらが落ち着かないではないか。
「……もういいわよ。気にしてないって言ったらうそになるけど。言い方はともかく、言ってたことは間違いじゃなかったもの。
実際、あんたに言われた通りに、所作を――見様見真似だけど、ちょっと気を付けるようにしたら、周りの目がすこし、すこーし穏やかになった気がするし」
「マリアさんはおやさしすぎます。無理をなさっていませんか?」
「してない。いいんだってば。やった方が謝罪をして、やられた方がそれを受け入れた。
はい、これで終わり。解決!」
口を挟ませない勢いで言い募って、おまけにぱん、と手を打ち鳴らすが、パトリシアは依然として納得できないというような困惑顔。
だからそんな顔をするなというに。
マリアは、話を変えるべく問いかけた。
「そんなことより、昨日からなんでやさしくしてくれるの? そっちの方がよっぽど気になる」
貴族令息たちとそこそこ仲良くしている自分など、パトリシアからすれば敬遠してしかるべき存在だったのではないだろうか。
その問いかけにパトリシアは、しまった、みたいな顔になった。
「……昨日、マリアさんの顔色が朝からよろしくないのは気付いていましたの。
それでもマリアさんなら、ご自分で解決されるかと思っていたのです。
ですが保健室で、あまりにお辛そうなマリアさんを見たら、つい、放っておけなくて……」
きまり悪げに笑うパトリシアを見て、今度はマリアがすんっとしてしまった。
このひと、あれだ。道端の捨て猫を拾ってしまうタイプだ。
マリアは直感した。
「思いがけず話が長くなってしまいましたわね。そろそろ休憩時間が終わりそう。
マリアさん、次の授業の準備など、大丈夫ですか?」
パトリシアの指摘に時計を見上げれば、なるほど、始業まであと幾ばくもない。
「大丈夫よ。準備は大体もう済ませてあるから」
「よかった。長くお引き留めして申し訳ありませんでした。
では、教室に戻りましょうか」
微笑んで、空き教室の扉に向かおうとする優雅な後姿を見つめた。
この扉をくぐれば、パトリシアはまたあの嫌味令嬢に戻る。ノートは貸してくれるらしいし、まったくの無関係になるわけではないだろうけれど。先ほどまでのように、気安く会話など交わせない――ただの学力特待生と、高値の花に戻るのだ。
マリアは唇をきゅっとかみしめた。
ついぞここまで翻弄されっぱなしだ。このまま終わるのは、マリアの気が収まらない。
泣かせるまではいかなくても、せめて一矢報いたい。
何か、何かないか、と優れた記憶力を頼りに思いを巡らす。回転の良いマリアの脳は、高速で様々な可能性を探った末に、昨日のとある記憶から、とっておきの秘策を導き出した。
「……言っとくけど、私知ってるんだからね。あんた、養護の先生とそういう関係なんでしょ。
昨日なんて、あまーい声出しちゃってさ。大好きオーラ駄々洩れだったわよ!」
「え」
弾かれたように振り向き、ぽわっと頬に朱を上らせるパトリシア。ついでそんな自分を恥じたように、手のひらで両頬を押さえる。
「ち、ちがうのです、私、私とあの方は、そんな関係では……」
頼りなげに視線を左右にさまよわせ、ぎゅっと一度きつく目をつむると、震える声でパトリシアは懇願した。
「おねがい、マリアさん、だれにも、だれにも言わないでください……」
すがるように潤んだアメジストの瞳が見つめてくる。窓から入り込む陽の光にきらりと反射して、まるで朝露に濡れたライラックのよう。
やめて。
そんな、そんな簡単に、弱味を見せないで。
昨日の今日で、ちょっと距離の近づいた級友にそんな顔するなんて、隙だらけにもほどがある。嫌われ令嬢を演じているのではなかったのか? もはやこれすら彼女の手の内だと言ってくれた方が、いっそ精神にやさしい。
マリアがとっさに返答できないでいると、パトリシアはダメ押しのように、きゅっとマリアの制服の袖を弱々しくにぎってきた。
「ああもう!!! わかったから! 誰にも言わないから!」
――もうだめだ。この天然チートお姫さまに、勝とうと思うことがまず間違いだったのだ。
一矢報いようとか思ったのは誰だ? 自分か。自業自得だったわ。
マリアはもはや燃え尽きそうになりながら、降参の声を上げる。
しかし彼女は逃がしてくれなかった。
水分を多く湛えたままの瞳でこちらを見つめ、挙句の果てに、へにゃ、と笑った。
「ありがとう、マリアさん。――やっぱりあなたって、やさしいです」
放ったはずの矢が自分に跳ね返ってきた心地だった。胸を貫かれた。
だからさあ!!
何度も何度も(心の中で)言ってるけど!!
そういうギャップとかちょいちょいタラシっぽい言動とか!!
ずるくない!?
そんなの大スキになっちゃうじゃない!!!
マリアの心の絶叫にかぶさるように鳴る始業の鐘は、
一発K.O.、試合終了――のゴングの音に違いなかった。
もちろんマリアの負けである。