5-1
これは一年前に過ぎ去った記憶。
彼以外の誰にも知らされず、彼の愛する彼女さえ、それは知らない。
フルークレシスに見えているものは、もはやかなり限定された風景でしかなかった。視界に暗い帳が落ち始めている。
世界は朝を迎えようとしているが、フルークレシスの人生は黄昏時だった。
駆け抜ける大地は先に集落の明かりが見えるものの、人の姿はまるでない。できればもっと先まで、と思ったが。
ふいに自分の体が中に浮いた感覚があった。それを知った瞬間には、地面に叩きつけられ、霞む地平に自分を振り落として駆けていく馬の姿を捉えていた。とはいえどうすることも出来ない。遠ざかる足音を聞きながらフルークレシスはその馬の無事をふと願ってしまう。
それよりももっと無事を祈るべきはずの娘がいるが、彼女のそれを祈ることの無駄さはわかっていた。
ただ、セツナの死は、苦しいものでなければいいとだけ願う。
セツナをあの神都から救い出したいと思ったし、セツナもそれを望んでいた。けれどセツナは薔薇瞳を放りだすことは、十数年教え込まれてきた責任感によって難しい。だからフルークレシスは彼女のために代わりを探し、その解放の手段をみつけた。
だがそれは見つけるべきではなかったのか。
夜にまぎれて探し当てたそれは、二人の言葉を失わせる禍々しさを持っていた。あれを支配する手段までは、まだフルークレシスは見つけていない。ただ、それはセツナの代わりにはならないだろうということははっきりしたし、だからフルークレシスは、また次の手段を考えるよ、とセツナを励ました。
「もう疲れた」
そう答えたセツナの顔はその十数年に疲弊して、百年近く生きているフルークレシスよりも諦観に満ちていた。
ずっとセツナは病み疲れていたのか。彼女の完璧さは、その先何十年かの覇気を食いつぶして成り立っていたのだろう。この若く、疲れ果てた娘のために、フルークレシスは別にもう終わらせてもいいと思ったのだ。
もしかしたら自分がうかつな希望を与えてしまったのがよくなかったのか、そんな後ろめたさもあった。希望がなければ逆に裏切られもしなかったものを。セツナの心を折ったのは自分かもしれない。
心中などというその陳腐さは我ながら滑稽だが、自分ならセツナを苦しませずに終わらせて上げられる。そして自分も間違いなく死ねる。
セツナの白く細い首筋に、喰いついたのは、暁の塔の真下だった。自分は薔薇瞳の血で死ぬし、セツナも死に至る量の血を失うはずだった。
どうしてそんなことを思ってしまったのか、自分でもわからない。
ここで二人が心中して失うものの大きさに怯えた。
自分はどうなってもかまわないが、セツナの名誉はどうなる。
十数年で疲れ果てるほど身を削って彼女が作り上げた薔薇瞳セツナの偶像は。それを崇める民衆などどうでもいいが、それでも。
死んだのちに彼女が悪しざまに言われることは耐えかねた。
だからその場で機核を掴み、フルークレシスは神都を離れたのだ。セツナがどうして、と力なく叫んでいた声は聞こえたが、振り返る余裕はなかった。薔薇瞳の血はあっという間に身を蝕む。薔薇瞳は夜見の血族に血を吸われたからといって、使者や召使にはならないが、失血でほどなく死に至るだろう。
最後の瞬間に互いにそばにいられなかったことはフルークレシスとてやるせない。
しかし、どうしても、セツナに闇の薔薇瞳のように後世まで残る悪名を付けたくない。弱音を吐く彼女同様に、それでも期待に応えようとする彼女も好きだったのだ。
第三十七代薔薇瞳は、若くして死んだがそれでも誰よりも優秀であったと讃えられえるように。
セツナにその願いを語る時間がなかったことは申し訳ないと思う。もしかしたら最後の最後に裏切られたとでも思うだろうか。
セツナはフルークレシスが逃げたとは思うまい。それほど脆い関係ではない。ちゃんとフルークレシスの意図はうっすらとでも察してくれるだとう。だが察したことで、裏切ったと思うかもしれないのだ。
名誉よりただ自分がいることを望んでいたとしたら。
……考えてもしかたない、と彼は目を閉じた。
手の中に握られた機核が徐々に重くなってくる。
そして。




