1-7
「毎日こっぴどくやられているんだって?」
「笑い事じゃありませんよ!」
ユージがナユタと個人的に話すべく部屋にやってきたのは彼女が神都に来て一月ほどしてからのことだった。控えていた侍女や神官を全て下がらせると、とたんに口調を崩した。
「まーなー。キリエちゃんは完璧主義だから」
「食事の作法からダンスとか話し方とか。笑い方まで練習させられるんです!」
テラスでの朝の謁見は徐々に慣れてきた。あれはにこにこして手を振っていればいいのだからまだ楽なものである。
そのまま午前は祭事を行い、午後は昼食からキリエにしごかれている。食事の作法は徐々にこなれてきたが、合格とするやいなや、今度は晩餐時の話題選びに変わった。そこでナユタの教養不足が露呈し、今は午後中勉強だ。音楽、歴史、美術、時には隣国の言語に至るまで。
その後はダンスだ。夕飯は遅い時間に軽くすませ、気がつけば寝ている。
今日はキリエが女官達のほうを見て回っているので、たまたま午後も放り出されている珍しい日だ。
薔薇瞳の執務室は名の通り薔薇のデザインを基調とした装飾、そして濃く穏やかな色調のボルドーを中心にあつらえてあった。居心地がよくないのは、この部屋のもつ歴史にナユタが圧倒されているからだ。
『セツナ様は、薔薇瞳というだけでなく、王都の社交界では主役でした』
キリエの言葉に、私には無理です、と反射的に口をついて出たが、軽く聞こえないふりをされた。
それだけのことをすべて一人で教えられるキリエの実力はすごいが、振り回されるナユタの疲労は激しい。
「まあ、キリエちゃんも期待しているんだろうな」
ユージは客用の長椅子に無雑作にごろんと仰向けに転がる。彼もどこか疲れているようだ。
「もしナユタちゃんがさ、セツナ様に似ていなければ、我々としてもこんな身代わりなんて出来なかったんだよね、そもそも。でもまあ貧相なことを覗けば驚くほど似ている。姉妹でもこんなに似ているなんて珍しいくらいだよ。おまけに薔薇瞳なんてこれ以上文句を言ったら罰が当たるほどの幸運だ。だから、我々も、うまくごまかせるなんて思ってしまったわけだ。悪いとは思っているよ」
「だったら」
「でも他に手段が無い。セツナ様と同等にとは言わない、でもばれない程度にはボロを隠したいんだよ」
ユージはキリエとは違ってナユタへの申し訳なさを感じている。貧相だのボロだの口は悪いがその言葉にもいたわりがあった。
しかしなにかがナユタにはひっかかる。
「あの」
愚痴は止めてナユタは彼に話しかけた。長椅子から起き上がりもしないでユージは目を向けた。もしかしたら眠いのかもしれない。
「セツナ、様、にはいつあわせてもらえるんですか?」
「会っても、ただ昏睡しているだけだよ?サワが世話しているけど、でも回復はそうとう難しいだろうなって思うし。会っても話とか出来る状態じゃない」
「でも」
ナユタは言う。
「でもわかっているたった一人の肉親なんです。会いたいです」
しばらくユージは沈黙していた。寝ているのかと思った頃、ようやく反応がある。
「考えておくよ」
ユージはむくりと起き上がった。ナユタはまじまじと顔を見て、そこにやはり疲労の濃い色をみた。よく考えてみれば、忙しくないはずが無い。セツナがいた頃は二人で分け合ってきた業務をユージは今ほぼ一人でこなしているのだ。彼だけではなく、キリエも紅蓮も、事情を知るものは多忙だろう。
「それならサワは忙しいんですね」
「え?」
「わたしの面倒もみてくれているから」
「サワはいい子だろう」
「はい。わたしが今普通に話ができるのってサワしかいないから、サワがいると嬉しかったけど、忙しいんですね。あまりかまってもらっても困るかな」
「もともとお喋りだから話をすること自体は気にしないと思うよ。本当は君にも誰か専属になってもらうほうがいいんだろうけど、まだ事情を知らないものに君を預けるのは怖いな。かといってキリエやサワ以外の人間にセツナ様の世話はさせられないし」
「大丈夫です。わたし、基本的なことは一人でできるから」
「一人でやってもらっちゃ困るんだよ。キリエちゃんも言ってるだろう『薔薇瞳はかしずかれることに慣れてもらわなければなりません』って」
「あ、そっか」
ユージが行うキリエの真似があまりにうまく、ナユタは笑ってしまった。
「そういえば、リョウがうるさいんだっけ」
リョウ、聞き覚えのある名前をナユタは必死に頭の中の名簿で探る。これもキリエからなにがなんでも覚えろと言われたことだ。
「えっと……薔薇瞳守護団右翼団長」
「お、よく覚えているね」
薔薇瞳信仰の中心となるのは無論薔薇瞳その人だが、しかし、その威光を具現化するものも人々の拠りどころである。
神格化された初代薔薇瞳への信仰を保持する神官達、そして実際に夜見の血族と現世で戦う薔薇瞳守護団である。薔薇の従者である紅蓮は、守護団に属しているわけではなくあくまで薔薇瞳その人に仕えるという立場だ。もちろん夜見の血族の戦闘ともなれば先陣を切るわけだが、彼に対しては畏怖の念はあっても畏敬の念は薄い。今は人々のためにあるとはいえ、それまでは人を糧としていたものを信頼しきるのは難しいのだ。その微妙な距離が『魔犬』という別称にはこめられている。
したがって守護団、そして守護団長の人気は高い。王都とは関係がいまひとつな神都ではあるが、王家や貴族の若い世代の間では、実際国軍より薔薇瞳守護団の方が配属希望が高いほどである。
現在守護団長のリョウも、二桁台であるが王位継承権を持つ存在だ。
「わたしまだ、リョウさんにあったことありません」
「ああー、あいつ妙なところで鋭いからなあ。話をまださせたくないんだよ。もうちょっとそれらしくなってからってことにしようと思ってさ。それにリョウは今、北方の守護についていて不在なんだ」
「え、そうなんですか?」
「いっそ話したほうがいいのかなあ。でもあいつ暴力馬鹿だしな……セツナとも仲が悪くなってしまったし」
「暴力……って」
「しかも紅蓮とものすごく仲が悪いんだ。紅蓮の態度も態度だったんだけど、リョウも血の気が多くてね。いろいろわだかまりがあった末、無謀にも紅蓮に決闘を申し込んだ」
「ええっ」
一般的に、夜見の血族一人倒すのに、順調にいったとしても十人の守護団員がいるという。その夜見の血族を薔薇の犬は、三人一度に相手できるというのだ。
その人はバカだ……とナユタは口には出さないまでも思ってしまう。
「もちろん紅蓮がまともにやりあうわけも無くて、わざと負けてね。でもリョウはそれで余計怒りを強くして、もう今も最悪」
ぶつぶつ呟きながらユージは立ち上がった。
「ああ、休憩しすぎた。まずい、大臣待たせすぎている」
「え、待たせていたんですか」
「そろそろ行くわ。うちと軍の守護範囲の話だからこじれるんだよな。セツナがいればもうちょっと楽なんだけど。まあいいや、腹黒い会話してくるか」
「あ、あの、もしわたしがいたほうがいいなら」
立ち上がったユージはにっこり笑う。その笑いだけで、ユージも腹黒い会話が得意なのだろうと予想させられる。ものすごく適任だろう。
「いいよ。まだ体調が優れないって言ってあるから」
ほうりだしていた例の帽子をかぶりなおす。
「具体的な話だから、笑って座っているだけじゃかえって困るんだ。じゃあねー」
ユージはあまり消えていない目の下のクマを擦りながら出て行った。入れ違いにまた女官達が入ってくる。
「セツナ様?」
一人がナユタに声をかけた。
それほどにナユタの表情は衝撃を受けたものになっていたのだ。
『笑って座っているだけじゃ』
ユージの言葉に悪意はない。けれど、それが今のナユタの限界だということをあまりにも明らかにしてしまった。
どれほどナユタがキリエにしごかれようとも、セツナにははるか及ばない。
早くから薔薇瞳としての教育を受けたがため、そして当人の素質のため、セツナは知性に優れ、度胸とカリスマを兼ね揃えた。それを半月前に来たナユタが代行しようというのも無理があるのだ。しかしユージもキリエもそれがわからぬほどバカではない。
結局彼らがナユタに求めるものは、セツナの身代わりとしてのナユタであり、薔薇瞳をもっていようともナユタ自身ではなかったのだ。
ここにいる義務を負っているというのに、誰も実際はナユタを必要としていない事実に、ナユタは青ざめていた。
それが指し示すものは唯一つ。
孤独である。
普段はキリエにしごかれて、ぐったりとしてすぐに眠ってしまうナユタだが、その日は寝付けなかった。
サワに会えないため、誰かに心境を話すことも出来ない。ナユタは寝室のベッドの上で膝を抱えていた。女官達を下がらせた部屋は静かだ。
キリエから教えてもらうことを完璧に覚えたとしても、もともとの素質と言うものはどうにもならないのだ。自分を考えてナユタは首を横にふった。
面倒くさい権力闘争で、王都の連中を煙にまいたりやり込めたりすることなどできそうになかった。それはもう性格としての問題かもしれない。もしそれが薔薇瞳として求められることでも、できそうになかった。
薔薇瞳といっても人である以上様々な性格がある。闇の薔薇瞳と呼ばれる十五代薔薇瞳などは民を夜見の血族に売り飛ばしたということで、名を言うことすらはばかられる黒歴史だ。すべてが慈悲深かったわけでもないし、夜見の血族を憎んだわけでもない。
けれど、ナユタの場合はすでにセツナのようにあれという不可避の事実がある。彼女が彼女らしくいることは誰も願っていない。
自分が求められることがないという事実は、ナユタの心に暗い影を落とす。そしてそれを語る相手もいない。
仮にサワがここにいてもそれを話すことはできないことに気がついた。
彼女はもとはセツナの友人である。直接ではないとはいえ、セツナへのやっかみや非難めいたことは言いたくなかった。
寝台からおり、部屋を横切るとナユタは窓を開けた。
地上五階の塔からは神都の明かりが見えた。夜も更けたとはいえ、町の路地には飲み屋だろうか、明かりが灯っていた。
入ってきた風にナユタは目を細める。
「早く寝ろ」
いつかと同じくドアの辺りから声がした。
「……あまり驚かせないで欲しいのだけど」
「別にそういうつもりではない」
紅蓮が立っていた。久しぶりに見る彼は相変わらずの無表情だ。それでもその整った顔立ちは文句の付けようが無い。
「なんでいつもそこにいるの」
「今だけじゃない」
紅蓮の返事にナユタは笑った。
「久しぶりにあったくせに」
「気取られていないようだな。よかった」
その淡々としたものの言い方にナユタははたと気がついた。
「もしかして、本当にいつもいるの?」
「基本的には」
「だ、だって見える場所にいないよ?」
「俺がずっとそのあたりにいたら、気になるだろう」
たしかに目につくことはつく。
「早く寝ろ」
つかつかと拠ってきた紅蓮は無雑作にナユタの服の後ろ首を掴む。ぎゃっと息を詰まらせたナユタを寝台に放り投げた。
「こんな高いところの窓を開けるな。落ちたら困る」
「……なんでそんな心配を……」
ナユタはうつむいた。結局彼も『薔薇瞳』が怪我しないかどうかの心配しかしていない。
「セツナは落ちた」
ここではなく、塔からだが、と紅蓮は告げる。
「……紅蓮はセツナと会っているの?」
「日に一度くらいは」
「どんな感じなの、セツナ」
「よくはないな」
紅蓮は言葉少ない。彼にも彼の抱えているものがあるのだろう。
「……いいなあ、セツナ」
なぜ紅蓮にそんなことを言う気になったのかはわからない。まさに魔が差したとしかいいようがない。
「みんなに思われていてうらやましい」
「うらやましい?」
紅蓮は聞き返す。
「あんな風になってか」
「だって、みんなセツナ様セツナ様って、わたしこんなところにいる意味なんてないよ。セツナだけずる……」
その言葉を最後まで言い切ることは出来なかった。つかつかと近寄ってきた紅蓮がナユタの襟首つかんで引き起こしたからだ。
「うらやましいとか、ずるいとか。そんなこと言って恥ずかしくないのか!」
紅蓮の声は低くひそめられていた。だがその迫力にナユタは小さく息を飲む。紅蓮はその名の通り、燃え上がるように怒っていた。
「ちょっとこい」
「え?」
「それならセツナとあわせてやる」
来い、と紅蓮は寝台の近くにかけられていたガウンを投げつけてきた。
「会うって……だって、わたしだってもうこの部屋から出るなんて許されない」
「ああ、警備がいたな」
紅蓮は笑った。
「それは関係ない」
そう言って先ほど閉めたはずの窓を自分で大きく開いた。ナユタに手を差し出す。
「大丈夫だ、来い」
手が震えているのは紅蓮の気迫のせいだ。それでも寝台から降りてナユタはおそるおそるガウンを羽織る。軽い夜の履物に足を入れると底が柔らかい音を立てた。
窓辺まで近寄って、ナユタは紅蓮の手をとった。その手を引き寄せると、彼はナユタを小さな子どもを抱えるように抱き込んだ。高さのある窓枠に、簡単に足をかける。
夜の冷ややかな空気が頬を撫でたと思った瞬間、紅蓮は外に飛んだ。




