1-8
紅蓮!と叫んだつもりだったがその声は掻き消えた。
窓から飛び降りた紅蓮は、階下の窓枠に足を着き、地面までの距離を短くして衝撃を柔らげていた。三度、四度、そして音も無く地面に降り立つ。
そうだ、見たではないか、夜見の血族からナユタを助けてくれたときに、あの人間ばなれした跳躍を。
「紅蓮」
彼は人ではない。
今、自分が紅蓮への恐怖心を隠しきれていないとわかったナユタは、顔を上げる代わりに紅蓮の胸元をぎゅっと掴んで額をつける。仕立ての良い彼の黒い服にしわがよった。
儀礼式典、また通常業務において、神殿職員の纏う服にはいくつもの縛りがある。王都の食事作法についてはナユタもキリエも馬鹿馬鹿しいと罵ったが、長い歴史である神都にもそういったものはないわけではない。
特に服についての色彩は絶対である。
薔薇瞳の純白。
神官の深紫。
守護団の濃紺。
そして唯一魔犬だけが纏う、漆黒。
式典の際に大きな帽子で髪を隠すのは、髪の色を覆い隠すためである。魔犬は総じて目に鮮やかな赤い髪であるがために、薔薇瞳の禁色を犯しているという問題が何代か前に持ち上がった。結局他の職の赤毛も問題となり、髪を覆うことになったのだった。紅蓮の目の色は薔薇瞳とよく似た赤だが、その瞳には金色がちらちらと瞬く。
神都において赤は聖色であり、薔薇瞳の目以外には存在を許されないと言ってもいい。薔薇瞳が白を着るのも要はその目の色の絶対性を高めるためだ。
ただし、それは式典においてである。普段からそんなことを言っていては、日常業務に差しさわりがある。ユージが神官の要職についてからはさらにルーズになった。セツナの衣装担当に向かって「なんで可愛いのに白しか着ちゃいけねえんだよ、つまらん」とまで言った。しばらくセツナはユージが幼児趣味ではないかと疑っていたらしい。
サワに聞いたことを思い出したナユタだが、そういえば紅蓮はいつも制服だと気がつく。服に興味があるタイプでも無いのが理由だろうかと思うが、今はそれを問うている場合ではなく。
「紅蓮は、空を飛べるの?」
声は思いもかけずかすれていた。
「まさか」
紅蓮は先ほどの怒りがおさまっていないのか、いつもよりさらに無愛想だ。
「ただ人より多く跳べるだけだ」
するりとその腕から下ろされた。紅蓮はそのまま歩き始める。慌てて追うナユタがついてくると確信しているようだ。
美しいモザイク模様が描かれたタイルの床をナユタは彼の後をついて歩いた。神殿内には無数の建築物がある。それを結んでいるのは回廊だが、それ自体がまるで迷宮のようだ。もちろんそびえる塔はもとより、地下にもいくつも回廊や広間をつくっている神殿内はさらに複雑だ。
回廊には灯火が等間隔に並んでいた。この時間に通るものも少ないだろうが、夜見の血族にその威光を示すために、神殿内は明るく維持されていた。
植物のつるのように滑らかに、そして凝った装飾の施されたランプは回廊ごとに違っていて、こんな時だというのにナユタの目を楽しませた。
いくつもの回廊を越え、紅蓮がたどりついたのは小さな古ぼけた塔だった。多くの塔が神殿の大聖堂に近いところにあるか、離れていてもなんらかの形で連なっているというのにその塔は随分古ぼけて、またぽつんと独立していた。
細く先が尖った形の塔は、窓が最下部にしかなかった。
紅蓮が入り口にあった鈴を鳴らしてから、その入り口に鍵を差し込んだ。三つほど使ってようやく開けると、幾分ぞんざいにナユタに中を指し示す。
「ここなんだ」
塔の中は静まり返っていた。入るとすぐに壁に沿った螺旋階段がある。というかそれしかない。
「もとは王都にあって、異貌の薔薇瞳が幽閉されていた塔だ。移築した」
先の見えない螺旋階段を上りながら紅蓮は話し始めた。
「えっと……十七代目?」
「よく知っているな」
「でも、たしかその塔って神都の別の場所にあるよね」
「あれはこれを模して作った新しいものだ。観光や巡礼の者が見たがるが、やはり人の往来が多ければ多いほど状態が悪くなる。歴史的遺物だからなるべく状態よく保存したいんだ。けれどこの神殿の中にあれば、ただの古い塔にしか見えない。不思議な事に誰も気にしないんだ……説明が無ければ誰もそれがなにかなんて気にしないものだ」
紅蓮の固いブーツの音が響いていた。随分長く、息の切れる階段の先に、もう一つ扉があった。開ける前に扉が内側から開いた。
「紅蓮様」
そう言って出てきたのはサワだった。
「さきほどお見えになったばかりなのに。何かあったのですか?」
「いや、自分は大丈夫だ」
「なにかお怪我とか……ナユタ様!?」
先に立つ彼の背後にいるナユタを見て、表情が驚きに変る。
「え、えへへ」
「あの階段上ってきたんですか?」
「うん、大変だったよ……」
「紅蓮様も、背負ってさしあげればいいのに」
「なぜそこまで甘やかさねばならない。サワは毎日上り下りしているじゃないか」
サワは驚きがおさまると、二人を室内に招きいれた。
この塔唯一の部屋は小さなものだった。人が横になるのは五、六人が限界だろうし、立っていても十人ほどが入れば息が詰まりそうな気分になる。
部屋の中には寝台が一つと長持が一つ。目立つものはそれだけだった。ゆらゆらとランプの光が壁に揺れていた。
その寝台に、セツナは……三十七代目薔薇瞳は横たわっていた。
さすがにナユタも心臓がこわばったような気がした。入り口から動けない。紅蓮の手がナユタの肩に置かれた。それに押されるようにして、ナユタは足を出す。いままで気に止めなかった自分の足音が大きく聞こえた。
「セツナ、妹様です」
囁くようなサワの言葉の先に、セツナを見た。
目の前にあるセツナは胸まで毛布で覆われていた。細い首と華奢な鎖骨。そして青ざめた顔。昏睡状態とはいえ、セツナの方がやはり大人びている。身長も高そうだ。
目は固く閉ざされていたが、病んで醜くなっているという印象は無かった。ただ白く儚い。
自分と似ているかどうかナユタには判断つきかねた。
だが、美しい。
セツナの頭部は白い包帯で覆われていた。白く柔らかい夜着もあって、こんな時ですら薔薇瞳の正装に身を包んでいるようだ。
「頭を打ったんです」
サワはぽつりと言った。
「暁の塔の階段から落ちて。早朝のことでした。私、セツナの隣の部屋にいたのに、彼女が部屋を出て行ったことなんてまったく気が付かなかった」
悔恨が粘液のようにどろりとまとわりついている言葉。
「……なんで暁の塔になんて用事があったのかしら」
「サワ、誰も君を責めていない。それを言うなら自分もそうなんだ」
紅蓮とサワの言葉も耳に入らないほどに、ナユタはセツナを見つめていた。
「ずっと眠っているの?」
「ええ。階段の下に倒れているのを見つけられてからずっと」
ナユタはおそるおそる手を出した。
この白い肌はまるで夜見の血族のもののようだと思う。けれど、触れたそれは確かに暖かく血が通っていて、だからこそやりきれなさを増した。
「なんで」
ナユタはつるりとした彼女の頬に指先を滑らせながら言う。
「なんでこんな暗くて窓も締め切ったところに」
「しかたないんです。セツナ様がこんな状態だなんてこと誰にも知られてはいけないし。それにはこの『異貌の薔薇瞳の塔』が一番目立たなくていいんです」
「でもまるで、罪人みたいだよ、これじゃ。本当は、一番いい部屋で寝ているべき人なのに」
「わからないのだな」
紅蓮はため息交じりだった。
「薔薇瞳も魔犬も、これこそがある意味本質だ」
「どういうこと?」
振り返ったナユタは、紅蓮の揺らぐことの無い目を見つけた。赤とも金ともつかない瞳はいつも揺らいでいるように見えるが、裏腹に魂はあまりに強い。
「夜見の血族を前にして正気でいられる人は少ない。お前もそうだっただろう?だから強く在れる薔薇瞳は夜見の血族と戦う人の意思の具現だ。そして人が戦う相手としては、彼らはあまりに強い。ならば魔犬は人が持てない剣の代わりを務めよう。だからこそ、人は我々を敬い慕う。それが出来ないものにここでのうのうとする権利は無い」
「でも今まで頑張ってきた人に」
「セツナに今も意思があるのなら、この扱いに不平は言うまい。戦えないセツナの姿など、人々にとって不安材料にしかならないからだ」
紅蓮の言葉はセツナの話をしているようで、その実ナユタを責める内容だ。彼はそれだけの覚悟をナユタに要求している。
「多分、ね」
あまりにも強い彼の言葉に、サワは助け舟を出すように口を挟んだ。
「多分、セツナはきっとそう言う。セツナは夜見の血族に負けないことだけを望んでいたから。でもナユタ様はナユタ様らしい薔薇瞳であればいいと思うよ」
自分の姉は一体どれほどの人間だったのかと、ナユタはまたセツナの顔に目を落とした。
神殿にあっては女神。
町にあっては慈母。
戦場にあっては戦士。
偉大な彼女の姿にナユタは圧倒される。
だがそれは全て薔薇瞳のものだ。セツナは個人はまだなにも見えない。もしかしたらそんな小さなものはもっていなかったのだろうか。
「セツナ、いつか目が覚めるの?」
「そう願っています」
けれどサワの口調から、それが絶望的なことだと気が付く。よくて、このままゆっくりと衰弱していくだけなのだ。
「……サワ、ありがとう」
「気にしないでくださいよ」
にこりとサワは笑った。
キリエの後ろで目に付かないように彼女の物まねができるくらいのサワだ、その明るさが意識も無いセツナの役に立つことをナユタは願った。
「あまり居て、ここを不審がられてもお前の不在がばれてもことだ。そろそろ戻ろう」
紅蓮が言ったことにナユタは素直にうなずいた。ここはあまりにも息が詰まる。
サワを置いて二人は部屋を出た。無言で長い長い階段を下りる。外に出ると紅蓮はまた几帳面に外側から三つの鍵を閉めた。
ナユタは塔を見上げた。確かに階段の途中には窓が無く、最上階の小さな窓も閉められていれば人の気配は殆ど感じない。
人気の無い回廊を二人は歩きはじめた。どこかで薔薇の香りがする夜だ。神殿周辺ではまだ光も灯り人の声も聞こえてくる。だが敷地の再奥のここは静かなものだった。
「疲れたか」
「平気」
明らかに言葉少ないナユタに、紅蓮は少し後ろめたくなっているようだ。声が少し優しい理由をナユタはそう判断した。
始まったばかりとはいえ秋の与える空気は夜着とガウン一枚のナユタにとって冷たさが濃かった。無言で紅蓮のあとをついていくが、一度止められないくしゃみが出た。紅蓮が立ち止まる。
振り返った彼は同じくそこで足をとめて自分を見ているナユタを見返していた。ナユタも目をそらそうと思うがそらせない強さだ。
夜見の血族の金色の目は、人を闇の力で魅了するという。薔薇瞳の血によって赤く変わり琥珀を薄めてもその魔性はあるのだろうか。
ふいに紅蓮が一歩踏み出した。
とっさにナユタが口走ったのは。
「お、怒らないでようっ」
けれどその頭にかぶってきたのは紅蓮の長い黒のマントだった。彼の体温にかすかに触れられたような気がするほど穏やかで夜の空気を遮って優しい。
「あ、あれ」
「あんたな、いったいこっちをなんだと思ってるんだ?」
紅蓮は呆れていた。
「ご、ごめん。なんかとっさに」
「嫌味じゃない方がよほど傷つくわ!」
マントごとナユタを抱え込むようにして、紅蓮は歩き始めた。頭からかぶされたそれは予想外の温かさだ。
「だって紅蓮がこんな親切なことするとは思えなくて」
「……もういい。なんとなくあんたの性格がわかった」
「そ、そうかな」
「空気を読むのも薔薇瞳として重要だ」
「読んでる、凄く頑張って読んでる」
「読み違えは悲惨だな」
紅蓮はそういいながらも、先ほどまで怒りに任せたとげとげしさが失せていた。セツナを見たおかげだろうかとナユタはマント越しに彼を見つめる。
「あれがセツナだ」
紅蓮は静かに告げた。なんらかの言葉を求められている。
「うん」
ナユタには気の聞いたことなど一つも言えないが。
「……寂しいね」
「あんたのいうとおり、ひどい場所だと思う。でも、我々には今のところ他に手段がない」
「そういうんじゃなくて。紅蓮もサワも、ユージもキリエさんも、きっと皆寂しいんだ。セツナは皆から好かれていたんだと思う。だから寂しい。わたしも元気なときのセツナに会いたかったから寂しい」
ナユタの言葉に、紅蓮はしばらく答えを返さなかった。ただ夜を歩く。なにかまずいことでも言ってしまっただろうかとナユタが思い始めたころ、ようやく紅蓮は会話の続きを口にした。
「元気なときのセツナは多忙だった。幼児のころに薔薇瞳として見出され、それからずっと『女神』であるための日々だ。それが苦痛だとはセツナはけして言うまい。全員にできることでもない。だがずるいとかそんな卑屈なこと言うのは止めろ。あんた自身の品位の問題だ」
「あっ」
紅蓮の怒りのきっかけだった自分の発言を蒸し返されてナユタはうつむいた。
「うん……そうだね」
「そんなことをいうと、あんたのいい面も見えなくなる」
「……褒めてくれたの?」
「……そういうことを聞き返すのが、あんたの空気の読めていないところだな。淑女は直接な会話などしない。キリエによく習え」
「また怒られる」
ナユタがため息を付くと、紅蓮は笑った。
ナユタはマントから顔を出してそれを見つめた。声をだして笑う紅蓮など始めてみた。それはナユタが顔を出したときには終わっていたが、優しい目をして紅蓮は言った。
「掴まれ」
気が付けば、ナユタの部屋の真下に来ていた。窓は開いているが、建物は高い。ナユタを下りたときと同じように抱え上げると、紅蓮はためらいもなく飛び上がった。一階分くらいは軽々と飛び上がり、細い足場につま先をひっかけるとそこを足がかりにまた飛ぶ。ナユタの部屋の窓枠に着地するときも、羽のような静けさだった。するりと脇に手を滑らせるように床に下ろされたナユタは、まだ窓枠に立っている紅蓮を見上げた。
「あ、あの、セツナ様に合わせてくれてありがとう」
せめてこれだけはという必死な言葉だ。紅蓮は曖昧にうなずいて去るかと思ったが。
「……気がついたんだ」
紅蓮は脈絡無く話し始めた。
「セツナがあんなことになって、でも俺達はその後始末に必死だった。なんとか取り繕うことばかり考えていた。あんたの言うとおりだ。俺はセツナが好きだった。なのに、そんなことばかりで、寂しいと思うことも忘れていた」
紅蓮はそんなことも感じさせない顔だ。でも痛みはナユタにも見えた。
「寂しいな」
けれど紅蓮はその痛みさえわかっていても傷を舐めたりしないのだ。彼は窓枠から降りた。そのままナユタの前に膝を付き、頭を垂れる。
「だからこそどうか、頼む。セツナのためにも」
彼が人に気安く頭を下げるタイプとは思えない。
寂しささえ未来の礎にしていく彼、それは彼だけで無く神殿の多くの人間がそうなのだろう。
セツナがあの状態である以上、ナユタにかかっているのだ。その荷があまりに重いことは誰もがわかっていても、ナユタにしか頼めない。
「ええ」
ナユタは彼の肩に手を置いた。掠めるように一瞬。
「わたしにできるかぎり」
そしてナユタもセツナの姿を見た以上、その期待を裏切れない。
紅蓮は立ち上がり、また窓から降り立った。最後に一瞬振り返ったが言葉はなかった。窓に近寄ってその影を追うも、すでに姿はない。
「わたしにしかできない」
ナユタは小さく呟いた。
「でも、わたしが頼まれているわけじゃない」
求められているものは、セツナに良く似た薔薇瞳の少女。
寂しさは感染するのだろうか。
押し付けられたと思うことは出来なかった。ナユタの中でも、拒むわけにはいかないという意思が生まれ始めていたから。
それでも、寂しかった。




