4-8
ここしばらく、晩になるとナユタがリョウと真剣に取り組んでいることがあった。
キリエやユージには、王都に立ち寄ったとき手に入れた、流行の本を二人で読んでいると告げているが、実際はもっと怪しげなことだ。
サイセイが二人に託したノートの解読だった。
しかしなかなか時間がとれない二人の間で、それは遅々とした歩みでしかない。
今日も、二人は茶を飲みながら続きをやっていた。室内には他には女官の誰一人いない。すでにナユタは眠れる用意が済んでいるということで、皆を下がらせたのだった。揺らめく明かりの中、ナユタがきちんとアポカリョプシアの言語に置き換えたサイセイのノート。それをナユタとリョウは二人で秋津国の文章に訳していた。
「サイセイめ、なんと面倒なことを……」
リョウがぼやいた。二人しかいない部屋で、ナユタはその悪態を聞いて笑う。
「でもこうしていると今にもサイセイが、お茶を抱えて部屋にはいってきそう」
あの別荘から遠くはなれて、ここは神殿だ。そして今はサイセイもこの世にいない。だがその綺麗とはとても言えない字で、二人は彼の存在をいまだに身近に感じられる。
「楽しい冬でした」
「わたしも」
強い意思とは裏腹に、激しい感情はめったに現さないリョウの、アーヴルラジューに対する思うと、ナユタはいまだに胸が痛む。リョウはそんな感情をもたなくてもよかったのではないかと自分を責めたくなるのだ。
「……えーとここの文法は、少し秋津国とは違うのだな。接続詞が違うと意味が大幅に変わってしまうから」
サイセイの最後の書き物は五百年ほど前、秋津国とアポカリョプシスの間で合同で行われた研究の結果についてだった。当時はまだアポカリョプシスには千年前の文明の遺産がたくさんあったらしいのだ。
その中の一つが、同じ人間を造る、というものだった。
「……同じ人間?」
二人で解読しているが、その全てが正しいという自信は、ナユタにもリョウにもない。その一節が理解できず、他の訳し方を検討することに何日もかかってしまったが、やはりその訳以外なかった。
とある個体の複製を作る技術であろうということを理解したのは、サイセイが一緒に託した文献を読み漁ってからのことだ。おそらくサイセイがこの本を一緒にしていたのは、けして書き物を隠すためだけではなく、それを訳す中で分からない言葉を調べていくために必要なものだったのだ。
とある個体が、薔薇瞳であるということはわかった。
「薔薇瞳様を複製」
「……でもそれなら」
薔薇瞳がなんらかの事情で失われたとしても、それがあれば、魔犬は生き続けることができる。また数を増やすこともできるということだ。
「しかし造ったからと言って、それが実際役に立つのかはわかるまい。過去に、姉妹で一人が薔薇瞳であったことがあるが、薔薇瞳でないほうの血はやはり魔犬は受け付けなかったことが」
「ううん、でもこれ代と代の端境期にあったことみたい。その複製の方は体質が虚弱であっというまになくなってしまったけど、代の魔犬はその血で、推定半年は長く生きたって書いてある」
「……効果はあったということか?」
リョウは唸った。
「……それがあれば、紅蓮は死なずにすむということか……しかしその施設はすでに内乱で破壊されたらしい」
「でも」
ナユタは思いついたことで、頬が紅潮していた。
「でも、神都も関わっていたんでしょう?それなら神都にも何か手がかりがあるかもしれない」
ナユタは隠し通路のことを思い出していた。神殿には普通に生活しているだけでは目に触れない部分がまだたくさんあるに違いない。そのどこかに失われた過去の秘儀に関するものがあってもおかしくない。
神殿を作った狂気の建築家とそれを依頼したニギハヤヒ王。どうして彼らがこんなことに取り組んだのか、それすら今となってははっきりした理由はない。また、神殿のすべてを一度に把握できる設計図は実は現存していないのだ。
数十枚に渡り、いくつか区分けされた状態での設計図は残されているが、それも繋ぎ合わせてもけして全てを網羅できない。まるで意図的に失わされたようだと以前ユージがもらしたことがある。
なにかを隠すために?
ナユタはそんな風に思いつく。だとすれば、それを知りたい。
もしセツナと同じ存在がいれば、紅蓮は生き残れるはず。
「ナユタ」
ふとリョウは顔を上げて、ナユタをまっすぐに見た。
「……あなたは紅蓮が好きなのですね」
いきなり指摘されて、ナユタは一瞬呆けたあと、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいた。その言葉ではっと我に帰ることができたような気がした。
あまりにも紅蓮の命を延ばすことで夢中だった。
悟られたのがリョウで良かった。それ以外の誰に気がつかれてもナユタは恥ずかしさに耐えられなかっただろう。紅蓮はそもそもセツナしか目にはいっていないのに。
「……別に責めているわけではありません」
リョウの表情は穏やかだが微笑んではいなかった。
「ただ、無茶をしないで貰いたいだけです」
「うん」
「サイセイがこんな殺したくなるような面倒な事をしてまで伝えようとしたことなのですから、おそらく信憑性があるのではないかと思います。けれど、彼は紅蓮を救いたいというあなたの気持ちを知っていたわけではない。考えられるのは、紅蓮がいなくなったあと、あなたの力になるものを与えたいという願いだったのではないかと思います」
リョウは言いにくいことをあえて口に出すかのように徐々に早口になっていた。
「だから、何があるとも限らない、あってもそれが紅蓮を救うものとは限らない。あまり期待をされないほうがいいとだけは思います」
リョウのそれはナユタを心配してのものだ、期待を裏切られたときのショックは最初から期待が無かったときより大きい。
それでもナユタは小さくうなだれた。
「そうだね……」
「でもしょぼくれない」
そこでリョウはようやく笑った。
「すみません嫌な事申し上げました。でもこうやって、一歩ずつなにかを辿ることで、目的がはっきりしてくるかもしれませんからね。諦めないで続けましょう」
「……リョウはもしかして、人を手の平で操るのが得意なのかな」
釘を刺されて、それでも何かが拓けるかもしれないから諦めるなという。それにうかうかと乗せられいる自分がはたして単純なのかとも思うが。
「そんなことありませんよ。思うにならない事だらけです」
そしてリョウは本を閉じた。
「すみません。私はまた明日も早いので、そろそろ休みます」
「ご、ごめんね。遅くまで」
「いいえ」
リョウは立ち上がり、扉の前まで着いてきたナユタの額に軽く口付けると出て行った。
「なんというか、するっと恥ずかしくないのかと問いたくなるようなことをするな」
自室にもどる回廊で、リョウは紅蓮に声をかけられた。
回廊は夜露が落ち、水底のようにひやりとした空気だった。相変わらず影と見間違いそうな黒い服の紅蓮にリョウは足を止めた。
「なんのことだ」
「……右翼団長殿が男だったらなあという話だ」
「ああ、額に接吻のことか。見ていたのか」
「宵の塔からあの部屋は良く見える」
リョウはからかう意図が見え隠れする笑顔を向けた。
「仲間に入りたければ、いつでも窓を叩けばよいだろう」
「……俺の意思はともかく、ものすごい勢いで入りづらいぞ」
「そうか?」
回廊に人気は無いが、普段と少し違うのは、周囲の庭園がいつも以上によく手入れされているからだろう、カイエンが来るまであと数日だ。
「しかしどうしたんだ?」
「ユージに呼びつけられた。多分、屍者が出たのだろう、一時より夜見の血族の奇妙な統制の無さは薄れてきたが、それでも以前の残党がいてな」
「こんな夜更けにか、私もいくか?」
「いや、一人でいい。カイエン王子が来るから、この辺りの警戒をいつも以上に強めているだけだ。そう大変な事にはならないだろう」
「……しかしユージもこんな遅くまで大変だな」
リョウは儀礼と本心半々といった風情で呟く。それからふと話を戻した。
「……先ほど私が男だったら、と言ったが」
「なんだ、今更機嫌悪くするか」
「いいや、だが、私は、自分が魔犬だったらと思っているところだ」
その言葉の意味がつかめず、紅蓮は一瞬黙った間に、リョウは回廊を歩き始めた。慌てて追って紅蓮はその背に問う。
「どういう意味だ?」
「魔犬でもなければ、アーヴルラジューは倒せないだろうと。それくらい私にだってわかっているんだ」
先ほど、にじみ出たナユタの紅蓮への思慕。あれをみて苛立ち、つまらない苦言を呈してしまった自分をリョウは今恥じていた。サイセイがいなくなった時にはあれほど空虚だった自分の胸を今満たし始めているのはアーヴルラジューへの憎悪だ。
最初にあったときに、どうして切り捨てなかったのかという後悔とともに。
ナユタにはそんなものを見せたくなかった。
「……敵討ちなど、やめておけ」
「わかっている。どうせ貴様はすぐにいなくなる。あの人は寂しがるだろう。私まで暴走して返り討ちにあったら、誰があの人を守る?」
「わかってはいるのか」
紅蓮はため息をついた。
「それなりに小利口になってきたよ、私も」
リョウの笑いはナユタに見せているものと、種類を変えている。吐き出しきれない感情がその整った顔のしたで揺らめいた。
「だが」
リョウは紅蓮を振り返った。彼に顔を向けたときには、その揺らぎは隠し切っていた。
「アーヴルラジューはこのまま黙っているとは思えない。必ずあの人を浚いに来る」
「……もしそのとき」
紅蓮の言葉には、確かに同情といえるものがあった。
「俺がアーヴルラジューを倒したなら、リョウの気は済むのか?」
「は?」
「俺は、薔薇瞳を守りたい。でも俺がいなくなるのは間違いない。俺もあんたのことはそれなりに信頼しているから、あんたがアーヴルラジューが死ぬことで気が済むなら、俺があいつをなんとかする。その代わり、暴走するな。この先ずっと彼女を支えろ」
しばらくリョウは何も答えなかった。そのまま静かな夜の回廊を進む。遠くではまだ光が灯り、王都騎士団を迎える準備が進められているようだった。
「……誰かを憎むということは、本当にろくでもないことばかりだな」
やがて自室の在る守護団宿舎まで来て、リョウはかすれたような声で呟く。
「憎しみは一人の感情では終わらないというのが悲しい」
紅蓮とアーヴルラジューが戦ったとき、一番苦しい思いをするのはナユタだということはリョウも知っている。しかし、リョウとアーヴルラジューでは戦いにさえならない。紅蓮の提案に一瞬揺らいだ自分に気がつきながら、リョウはその誘いを忘れることにした。
カズイに髪を梳かせながら、アーヴルラジューは本を読んでいた。
夜見の血族の睡眠時間は短い、すっかり夜の帳は下りているが、寝なければならないということは無く、屋敷の周りでは毎夜どこからか喧騒がたしかに聞こえていた。
しかし人間の生活リズムになじんでしまったアーヴルラジューは、夜には寝台に入ることにしていた。
あいかわらずカズイはやせっぽっちで、髪を梳く手もたどたどしい。しかし、その子供にアーヴルラジューは馴染んできた。
「ラジュー様、何読んでるの」
カズイは徐々にアーヴルラジューに対して口調もぞんざいになっている。エィディアロメラがいるときは、一生懸命丁寧に話しているが、アーヴルラジューと二人の時は、好きなように話している。
アーヴルラジューと呼べなかったカズイの拙さが、ナユタを思い出し、アーヴルラジューはそのまま呼ばせていた。
「カズイも読んでみるかい?」
「オレ、少し字が読めるよ!教えてもらった!」
カズイは背後から覗き込んだ。しかしあっと言うまにその言葉が曇る。
「だめだあ、全然読めないよ」
「そうですか。この本は難しいですよ」
それは地下の倉庫から持ってきた一冊だった。
千年前の大戦以前に存在していたなにか、それについて、現在のニギハヤヒ王朝初期に書かれた書物だ。それが神都と深く繋がっているということまでは突き止めつつあるが、それが一体なんなのか、どこにあるのか、そういったことはわからないままだ。
こうしている間にもナユタは人の世にさらに馴染んでしまう。かつて願った彼女の幸福を、今は許せないでいる自分の身勝手が滑稽だった。
「ラジュー様、ため息ばかりだね」
「そうですか」
カズイはアーヴルラジューの美しい髪を梳かし上げると、ひょいと足場にしていた椅子から下りた。毛足の長い敷物の上にラジューは横になると、そのまま本に目をやっていたが、やがてもう一度ため息をついて本を閉じた。
「だめだ。結局、機核とかいうものがなければ、話が進まない」
「きかく?」
「そうなんです。それこそが何かの鍵になっているはずなのに。その部分だけ本のページが抜けている……なんてカズイに言っても仕方ないですね」
カズイはラジューの横に座って、その本をもう一度覗き込んだ。
「この本に書いてあることはわかんないけど、きかく、っていうのは聞いたことある」
「え?」
話半分で聞きながらまどろみはじめていたアーヴルラジューは目を見開いた。子供の他愛ない負け惜しみかと思ったが、カズイの顔は本気だ。
「オレに字、教えてくれたのは、フルークレシスなんだ。すごく優しかった。なんでか最近姿を見ないけど、最後に会った時、なんか言っていたよ」
「フルー……フルークレシス?」
確かに優しい青年だった彼ならば、人間の幼子と遊んであげても不思議ではない。それに最も宝物庫の書庫付近に詳しかったのは彼だ。
「彼はなんて言っていたんですか?」
「きかくは渡すべき人がいるから、届けないと……って言っていた」
……フルークレシスは何かを持ち出したのだ。
アーヴルラジューは再び身を起した。




