3-18
「リョウ!」
ナユタの声に安堵が溢れた。そのまま部屋を横切って、リョウに近寄る。その彼女を守るように、肩に手を回すと、リョウはカイエンを睨み殺しそうな勢いで見た。
「お久しぶりです」
「これはこれは」
カイエンは穏やかにそしてどこかぶしつけに笑った。
「我が良き友、リョウコ・ミズハ殿ではありませんか。貴女の姿をサロンで見なくなってから随分たちます」
「長年挨拶もなく、大変失礼をしていたと、恥じ入るばかりにございます」
リョウも涼しげに返す。しかし手にはギラリ抜き身の剣だ。
「おい、リョウコ!」
背後から声を掛けてきたのは、ハルキだった。この騒ぎに集まってきた他の者達を全て退けて、とりあえず彼だけが顔を覗かせている。
「不敬だぞ」
「どちらがだ」
一瞬振り返ったリョウの眼光の鋭さに、ハルキは思わず目をそらしたくなる。古代の仮面の般若とは確かこんな感じだった。
「一体いずこでこの娘の話を聞いたかは存じませんが、この娘を預かる身の私に話を通さずいきなり連れ去るとは、いかに王族とてあまりに戯れがすぎましょう」
「彼女は薔薇瞳と」
「黙れハルキ。いいか、彼女は私の預かりの近親だ。薔薇瞳に見えるのならばお前の目は腐っている。そもそも薔薇瞳がこのように気安く出歩くとでも思うのか」
リョウは凄絶な笑みを浮かべた。
「仮に彼女が薔薇瞳ならば、神都に売ったケンカの代金は高いものとなるぞ」
カイエンはリョウの思惑を知る。彼女とて、薔薇瞳がここにいることを公には出来ないのだ。それは不要な火種となる。下種ども女神に手ぇ出すんじゃねえ散れ、と一言いえれば楽なのだろうが。
リョウコ殿もなかなか苦労してるようではないか。
カイエンは内心で笑った。
「リョウコ殿」
カイエンは今日はここまでだと諦める。もともとこれ以上は予定としていなかったから、いい幕引きかもしれない。
「貴女の親族とは知らず、大変な失礼を。たまたま町で彼女を見つけ、その愛らしさについここまで連れてきてしまった。少々強引だったことは詫びねばなるまい。なに心配には及ばない。少々話をさせていただいただけだ。彼女の醜聞となるようなことはなにもない」
「ほんとうですか」
リョウが見たナユタは、醜聞て?、とばかりにあっけにとられているだけだ。だめだこの人、はやく性教育しなきゃとリョウがめまいを覚えるほどに。
「疑り深い方だ」
カイエンはハルキに命ずる。
「馬車の用意を」
「結構。自分で乗ってきましたから。では帰りましょう」
リョウはナユタの肩を抱く手に力を込めた。
「よろしければ」
背を見せたナユタにカイエンは呼びかけた。不思議そうにナユタが振り返る。
「私はあなたをなんとお呼びしたらよいか……お名前を教えていただけるか」
『セツナ』も『ナユタ』も『薔薇瞳』も、全てこの場であげてよい名前ではないように思え、ナユタはリョウを見た。ナユタの困惑を受けリョウはそれを信頼として笑う。
「名も無き一輪として時折思い出すのが粋というものでしょう」
そう告げて、彼女は部屋を出て行った。
リョウが立ち去った後、カイエンはハルキを部屋に招いた。
思惑が頓挫したようにしかハルキには見えないのに、どこかカイエンは上機嫌だった。
「ああ、ジュウにも手間をかけたから呼んでこないか」
薔薇瞳拉致のもう一人の功労者まで声を掛けようとする。ジュウも、カイエンに忠誠を誓い、王家ではなくカイエンの指示で動いている人間だ。
「いえ、彼は宿への口止めなど、今は後始末に」
「そうか、じゃあとりあえず二人で酒でも飲もう」
杯に酒を注ぎながら、カイエンは薄く微笑んでいた。それがハルキには不気味だ。
「……残念じゃないんですか?」
先ほどナユタを座らせたのは横だが、野郎と隣り合わせになる趣味はないカイエンはハルキと向かい合っていた。杯を合わせたあとすぐの質問に、別に気を悪くする様子もなかった。
「なにを残念に思う必要が?」
「まあなんというか」
一瞬口ごもったが、いまさら取り繕う必要もないだろうとハルキは考えたらしい。
「抱くつもりだったんでしょう、薔薇瞳を」
ハルキの言葉に、カイエンは意外な事に目を丸くした。
「まさか」
「まさかって……王子ー!あの据え膳見てそうしないんですか?不能なんですか?」
「お前ほんといつか縛り首な」
「じゃあなんでこの寝室に」
「ここが最も安全だからに決まっているだろう。外に騎士団、中に近衛兵。扉一枚の外にはもっとも信頼するハルキ、お前がいるんだから」
カイエンはハルキを笑う。
「だって。王子、私もですね、それなりに信仰心はあるんですよ。初代薔薇瞳女神に、世の安寧と良き治世、そして妹には良い男を、くらいのことは祈るんです。そりゃ先日薔薇瞳に嫌味の一つもかましましたけど、やっぱり彼女を拉致したときには、なんだかバチがあたりそうな気にもなったんです。それだけの覚悟でさらってきたのに。何もしないって……」
「いや、いつかはそうするよ?」
泣きそうなハルキをカイエンは諭すように言う。
「でも、私がまず欲しいのは彼女の心だからね」
「なんでそんな夢見がちの乙女みたいなことをおっしゃるんですか」
「いや、打算の塊で求めているつもりだが?」
ヤケ酒よろしく飲み干したハルキの杯に、カイエンは酒を注ぐ。
「私は彼女も王位も両方諦めない」
その言葉の強さに、ハルキはいらだっていた表情を改めた。
今日、薔薇瞳をさらって来いと命じられたときは、ついに恋バカになったと絶望してみたが、しかし一夜の思い出になるのならと思っていたのだ。王と薔薇瞳が恋愛状態を持続するなど、そもそも考えていなかったから。
だがカイエンは。
「なぜ、薔薇瞳と王は愛し合えないのだと思う?」
「それは……王も薔薇瞳も唯一無二だからで。王都と神都の距離もありますし」
「距離は互いが理解していれば問題ではないだろう。週に一度会えるなら、それはそれで飽きずに済んでいいかもしれない。互いは無二の仕事だが、それは別に続ければいいだけの話だ」
「手元に置かなくてよろしいのですか?」
「全てを手に入れるつもりだが、全てを完全な形で手に入れられるとも思っていない」
カイエンは淡々としている。
そこに自分が見極められなかった彼の思惑を徐々に見出し、ハルキは怖さを覚えるほどのカイエンの覚悟を見た。
「全て、彼女の心があれば乗り越えられる」
「それはもしかして」
「そうだな。彼女に私のすることを許させるくらい、私には執着してもらわなければ困る」
距離も責務もお互い様だ。ただ一点お互い様でないことが。
「正妻は置かない。しかし寵姫は必要だ」
薔薇瞳の不妊はわずかな例外をのぞき、ほぼ確定した事実である。カイエンが王となれば間違いなく世継を求められるだろう。世継がいなければ治世は荒れる。
「……薔薇瞳以外の女を抱けるのですか」
「それは仕事だからね」
カイエンは笑った。
「安定した治世を行ってこそ、王だ。無駄に争いを起こすようなことをして、王は名乗れない。数人は子供を作るよ、争いは避けたいから、子らの母親はできれば一人がいい。寵姫のことも無下にはしない。まあ万が一薔薇瞳との間に子が出来てもそれは伏せておくつもりだ。教団と王家の両方の血をひく子が表に出て幸せになれるとは限らないからね。一番大事な女との間に出来た子なら、王だの薔薇瞳だの、宿命の苦労をしないで幸せにしてあげたい。ああ、娘ならいいな。話のわかる人格者の地方貴族にこっそり嫁がせたい。そうだお前、息子を産め。お前の子なら信用できる。早くしろ」
「本当に申し訳ありませんが、私は出産できません」
しかしカイエンが相当先まで見越しているの間違いない。
「今日は急くつもりはなかったんだ。今日、ことを成せばどうやっても強引になるだろう。そうすれば薔薇瞳にわだかまりは必ず残る。彼女が私を信頼し、求めるようになってからでもけして遅くない。だから」
カイエンは思い出し笑いをした。
「だからリョウコ殿には感謝している」
「なぜ?」
「目の前にして、さすがの私もだんだん歯止めが聞かなくなってきていたから。やはり妙齢の男女を部屋に二人っきりにしておくものじゃないね。危なく押し倒すところだった。リョウコ殿が来なかったら、多分抱いていただろう」
今はまだ早い、とカイエンは言う。
実は彼女が眠っているときに、少々手を出してしまっているのだが、誰も見ていなかったし当人も自覚がなかったわけなので、数に含めないつもりだ。大体あんな可愛いぷっくぷくの唇、半開きにして無防備に寝ていたら、いじらずに居られるわけがない。彼女が目覚めたのも、調子にのっていたら目を覚ましかけたので慌ててテーブルまで離れたところだった。
今頃リョウがその跡を見つけて怒っているころだろう。それはそれで愉快だが。
「もっと私に夢中になってもらわないと。あ、調べてもらったあの死んだ女官の情報は役に立った。感謝する。やはりあの方は甘い。身近なものが死ぬと容易く揺らぐ。サイセイ・スセリが死んできっと傷ついているだろうと思ったが」
心を得るために、彼女の痛みさえ利用するのかとハルキはカイエンをまじまじと見た。
「私を非道いとでも言いたげだな」
「いいえ。思ったよりやるなあコイツと思っているところです」
「まだまだだよ。とりあえずリョウコ殿に勝たないといけないから。彼女が現れた瞬間に、薔薇瞳はあっという間に彼女に駆け寄って自分から抱きついていった。正直嫉妬したよ。リョウコ殿が女でよかった。男だったら『不慮の事故』とか考えないといけない。あれだけ腕の立つ人間を失うのは損失だ」
カイエンはそこまで言ってからふと思いついてハルキに言った。
「お前、リョウコ殿なんとかものにできないか」
「考えるまでもなく無理です」
基本的によく思案してから答える言葉の重いハルキの即答を久しぶりに見た。
「だろうな」
「あっさり同意されるのも腹が立ちます」
ですが、とハルキは続ける。
「魔犬はよろしいのですか?」
「紅蓮のことか?」
「先日の訪問の時には、薔薇瞳はいたく彼を信頼しているように見えました。最も近しい男だと思いますが?」
「そうだね。でも」
カイエンは声を潜める。
「……多分彼はそのうちいなくなる」
「どういう意味ですか?」
「私も確信が無いから言えるのはここまでだ」
だがカイエンは途中までは確信している。
今の薔薇瞳は以前のセツナとは確実に異なる別の誰かだ。薔薇瞳であることが確かで有る以上、その点について神都に追求する気はカイエンにはない。教団としての責務を遂行してくれればかまわない。そしてセツナが不在であれば、セツナと血の契約をしている紅蓮もいずれ存在できなくなるはず。そうでなかったらその時に考えよう、とカイエンは決めていた。
「で、次はどうなさるおつもりで?あの閉鎖された場所に明日には戻られてしまいますが」
「もう手は打ってある」
カイエンは楽しそうに言った。
「知らない人に扉を開けてはいけないと言っただろう」
結局この騒動で帰り損ねて、三人は王都に宿泊することになってしまった。戻ってきたナユタは帰り道で散々リョウに小言を言われ、宿について今度は紅蓮からその続きを受けている。
紅蓮とは仲が悪いはずのリョウも、今回ばかりはナユタに助け舟を出さない。
「なんでそんなことも出来ないのだ。幼児でも出来る」
「だって」
ナユタの目が、こんなにガミガミ言う人がほんとに残り少ない寿命なのかという疑念を浮かべているほどだ。
「だって、じゃない」
そうきつく言うと、ナユタはぷいと横を向いた。
人の話を聞け、といいかけた紅蓮は、その露わになったナユタの首筋に、ぎょっとするものを見つけた。
耳の下の一点。ぽちりと淡く浮かぶ朱の鬱血。
言葉が止まる。
「薔薇と……」
呼びかけてやめた。
当人はまったく気がついていない。リョウも『一応何もなかったようだ』と言っている。多分これは、あの王子の戯れだろう。
ナユタに指摘しても『あれー、なんだろーこれー』と薄らぼんやりした答えしか返ってこないだろうし、リョウが見つければまた剣を掴んで出て行きかねない。
この程度なら、今更見逃して許すしかない。
紅蓮は冷静にそう思った、つもりだった。
しかし胸に湧き上がるのは、カイエンに対する止めようのない不快感だ。それが何を示すか理解して紅蓮は唖然とする。
これはもしかして嫉妬というものなのだろうか。
それは自分がこの薔薇瞳に、好意を抱いているということか。
紅蓮は自分の感情を抑制できず、ただ戸惑うばかりだ。ナユタに対して感じている思いが信じられない。
「紅蓮?」
急に黙ってしまった紅蓮にナユタは視線を戻した。
「と、とにかく用心しろ。手をかけさすな」
「わ、か、り、ま、し、た」
なぜリョウの説教には素直に反省していたのに、俺の言葉にはこうも反発するのだ。
ただ、紅蓮の沈黙に違和感を感じてくれなかったことはありがたい。
おそらく今感じている気持ちはまがい物だ。
就寝の準備をしようとする二人に、紅蓮は部屋を追い出された。部屋をでてようやくため息をつける。
あまりにもナユタがセツナに似通ってきているから。
ナユタの力になれたら、セツナを助けられなかった自分を許せるようなつもりになっているのだ。自己欺瞞のために彼女たち二人を裏切っているようで余計に惨めな気持ちになりながら、彼はまたため息をついた。




