3-13
ほんの少し会わなかっただけのナユタの成長に、紅蓮は驚きを隠せなかった。
今も、扉を直す紅蓮をじっと見つめる背後からの彼女の視線を感じつつ振り返れない。振り返れば、そこにはあのセツナにそっくりな娘がいる。
出会ったころのナユタはセツナとは比べ物にならないほど痩せっぽちで子供っぽかった。似ているといってもそれは血縁の範疇を越えなかった。だが、この数ヶ月会わなかった間に、少女らしく成長して、身長も少し伸びたらしい彼女は、彼女としての苦悩もあったのだろう。その大人びた表情もあって、セツナそのものに近い雰囲気をもっていた。
だから怖くて振り返れないのだ。
セツナがそこで、紅蓮の失敗を責めているような気がしていた。
父からの手紙の件を今更蒸し返す気にはなれない。ナユタがそれを憤っている様子はない。だから再会としては悪くないのに、紅蓮は彼女の成長に怯えている。
紅蓮はナユタに無駄に言葉をかけず、ただもくもくと扉を直していた。
じっとここでまっている自分は、ただ彼から言葉かなにかを与えられないかと待っていることにナユタは気がついた。
けれど紅蓮はナユタに背を向けたまま振り返らない。
ナユタは紅蓮にかけるべき言葉を考え続けた。そんな中また彼女を脅かすのは、彼を失望させてしまったのではないかという不安だ。
紅蓮は怒らない。怒る価値さえないのかと思う。
ナユタはそっと玄関から立ち去った。
求めない、期待しないというのは簡単なはずのに、どうして願ってしまうのだろう。紅蓮に優しくしてもらいたいなどと。
「オリエ?」
居間に戻ると、そこにはオリエと、ラジューに縛りあげられていた状態から助けられたらしいニキがいた。
床に転がされた拍子にぶつけたのだろう、ニキは額に青いあざを作っていたが、それ以外はいつもどおりで元気そうだ。オリエが母親に温かい茶を出していた。
「ニキ……さっきはありがとう」
どこかでこの騒ぎは自分のせいだと思っているナユタの小さな声をニキは聞き逃さなかった。
「気にしなくていいよ」
彼女はどこを見ているかわからない視線で笑った。その笑顔は少し疲労で弱々しく頼りないものの、以前と同じだ。
「でも」
ニキとオリエは同時に表情を曇らせた。
「サイセイは残念だね」
ぽつりと発せられた言葉は、ナユタが薄々そうではないかと思っていたことを裏付けた。
「サイセイは……」
「お嬢様が今」
「あ、あのわたしも行ってきます」
「ナユタ」
オリエの柔らかい響きをこんな時も失わない声がナユタを止めた。
「あと少し待ってあげたほうがいいんじゃないかしら」
「そうかもしれません…………いいえ、でも」
リョウは屋敷にあった毛布に、サイセイを包みこみ終えた。一人で行ったためその重みには閉口したが紅蓮に手伝わせる気にはならなかった。あんな痩せぎすだったのに、男とはなんて重い生き物かとため息をつく。
重いのは死体だからかもしれないが。
サイセイの書斎、本が山と積まれた中にある部屋の中の段差にリョウは腰を下ろした。顔だけ出した彼を見下ろす。
胸の傷は布で覆った。
身勝手としか思えないラジューだが、それでもサイセイの最後の願いを聞いたのだなと、なぜか察することが出来た。
サイセイは屍者や召使となって生きることは望まなかったのだろう。心臓を取り出すなど惨い行為だが、食い遺されないようにするためには一番間違いない。
サイセイは綺麗な顔をしていた。苦痛や絶望がにじんでいないその顔に少しだけ胸を撫で下ろす。
今なら泣いてもいいと思った。紅蓮がいればナユタは安心だし、ニキとオリエの無事も確認できた。神都に戻ればこんな風にぼんやりする時間などない。今なら、ではない、今しかないと知っている。
だが不思議な事に涙は滲んでこない。
ほんの少し前まで馬鹿馬鹿しい話をしていた彼と、今ここで冷たくなっている彼がどうしても結びつかない。それは己の想像力の欠如だろうか。それにしては胸が重く苦しい。ラジューに対して炎獄のような憎悪を感じておかしくないのに、それがまだ湧き上がらない。
ふと左腕に鈍い痛みを感じた。何気なく右手で掴んでみて、その刺し込むような鋭い痛みに呻くことになった。何度もラジューに壁に叩きつけられ、その拍子に激しくぶつけたのだろう。そちらの問題により頭がいった。
この怪我は医師に見てもらったほうがいいかもしれない。王都にいい医者はいるが実家に顔を出さないわけにはいかなくなてわずらわしい。そういえばここに来る前、右翼守護団ともろくに話をしなかったからいいかげん戻りたい。
今後の段取りばかりが頭に浮かぶ。それはおかしいと自分でも気がついた。どうしてもサイセイの死と向かい合うことが出来ない。
死は受け入れている。否定しない、けれどそれを自分の感情がうまく結びつかないのだ。
リョウは深いため息をついて頭を右腕に埋めようとした。
そのとき、書斎の入り口が叩かれた。予想されるのは小さな拳だ。
「どうぞ」
リョウが答えると、遠慮がちに扉は開き、ナユタが入ってきた。朝と今がきちんと繋がっていることを見せ付けるような朝と同じ彼女の服。
「リョウ……入っていい?」
「大丈夫です」
ナユタは足音さえ遠慮がちに部屋に入ってきた。空気が動いて初めて血の匂いでこの部屋が澱んでいることに気がつく。ナユタはそっとリョウの横に腰掛けた。彼女の視線はまっすぐサイセイに向けられている。
その視線を辿るようにして、リョウはサイセイの遺体を見ることができた。
「サイセイ、死んじゃったんだね」
「そうですね」
ナユタは食い入るように彼を見つめていた。血なまぐささが残る中、ナユタの視線は不思議に静かだった。
「オリエはしばらくリョウをそっとしておいて上げて、って。でもわたし、それが出来なくて来ちゃったんだ。ごめんね」
ナユタは静かな声で言った。
「前に言ったよね。イルネっていうわたしの女官が死んじゃった時のこと。わたし、自分のことばかりでとても恥ずかしいんだけど、でもあの時わたし、一人だったからすごく寂しかった。紅蓮もユージも他の女官も、みんな優しいからそんなことなんてなかったみたいにそっとして置いてくれたけど、でも寂しかったんだ」
ナユタは小さく身じろぎした。彼女の服の裾からちょんと出たつま先を抱くようにナユタは膝を抱える。
「邪魔なら出て行くから」
ナユタが最後に告げた言葉に、リョウは首を横に振った。
守護団に入ってから親しい人の死も、すべて自分で乗り越えてきた。それすらできないような団長では、誰もついてこない。共に泣くことがあっても、それを振り切るために言葉はいつも自分からだった。
「……サイセイは、妙な男でした」
リョウが紡ぎ出した言葉は、酷くたどたどしい、リョウ自身も戸惑うほどに。
「もっと普通だったら、長生きできたでしょうに。愚かな男です」
そんな男だったら興味をもたなかったろうと思うが、それでもその方が望ましいような気がした。
「長生きして欲しかったね」
リョウの言葉を、ナユタは素直に言い換えた。
リョウがどうしても普通の言葉で言えないことを彼女は察する。
「いなくなって悲しいよ」
なぜ人は泣くのだろう。
横で声を詰まらせて涙を流しているナユタに気がついて、リョウは心の中で呟く。泣いたところで彼は帰ってこない。殺した相手も死にはしない。サイセイが死んだことがつらくて泣くなら、それは己がための涙であってエゴだ。
それでもリョウも気がついたら泣いていた。
前に、ナユタと二人、湖のほとりで大声で泣いていたときとは違う、まったく開放感のない苦い涙だった。それでもその苦さをリョウはようやく知ることが出来た。
神都にいる人間は例外なく強い。少なくとも強くあろうとしている。けして弱さを弱さのままにしておけないのだ。リョウも含めて全て、弱さを憎んでいる。そんな人の間で、無力感を露わにすることはいままで出来なかった。
ナユタだけが、弱さを知っている。
彼女は自分が無力であることを嫌というほど自覚している。だから他の人間の弱さをけして侮蔑しない。傷をなめあうというのとは違うが、他人の弱さをそのまま受け入れることができるのだ。セツナはそうではなかった。彼女の強さに皆が惹かれ、彼女の期待に応えようとしていた。それは女神としてこの上ない『支配力』と言うのだろう。
ナユタはセツナほどの強さは持ち合わせていない。
だが、強くない、というそれこそがナユタ自身がまだ気がついていない、果てしない度量のように思えた。
ナユタの前では、弱音を吐いてもいい。
守るべき対象にそんなことを思うのは不思議だった。だがナユタの前では意地とか誇りとか関係なくいられる。彼女はそんな自分を厭うまい。
「私は悔しい」
リョウは吐き出す。
口に出しても仕方ないと、いつもなら口に出さないことを。
「サイセイの死になんら無力だった自分が悔しい」
「うん」
この部屋を出たら、右翼団長リョウに戻ろう。
死者を思って足元をすくわれるようなことだけは避けなければならないのだ。サイセイへの思いはここで一度決着させる。
今だけだ。
友人が、寄り添ってくれるというのなら、今はそれにありがたく甘えよう。
リョウは横の年下の友人の気配を感じながら、静かに嗚咽した。
エィディアロメラの操る馬は、ラジューを乗せたまま雪の林をひた走った。無理やり載せたラジューが下ろせとエィディアロメラに向かって怒鳴っているが、彼女はそんなことは予想のうちとばかりに涼しい顔だ。
疲れを知らぬまま、夜を駆け抜ける。彼らの歩みがようやく停止したのは、朝日が細い糸のように山間から差し込んできたころだ。下りたその背後で馬は泡を吹いて雪の上に倒れ伏した。
「邪魔をするなと言ったはずです」
口調はそうそう変えられない。丁寧な言葉で、けれど怒りを込めてラジューは前に立つエィディアロメラに告げた。彼女は崖のそばに立ち、その眼下を見下ろしていた。突き落としてもかまわないとばかりにその背中はラジューの憤りを向けられて静かだった。
「それに君は僕の」
友人を殺すきっかけを、といいかけてアーヴルラジューは最後までいうことをやめた。結局原因が彼女であろうとも、サイセイを殺した結果はアーヴルラジュー自身のものだ。
その葛藤すら知り尽くしたように、エィディアロメラは沈黙を保つ。やがてゆっくり振り向いた彼女は、自分よりはるかに背が高いラジューを臆すこともなく見つめる。
「お怒りはごもっとも。妾もアーヴルラジュー様があの娘を望まれるなら、連れ去るに邪魔をする気は毛頭ございませんでした」
「ではなぜ」
「犬めが」
そのときだけ、エィディアロメラのこめかみにわずかに怒りが滲んだ。
「夜見の血族を裏切り、人に屈して生きる卑しい存在ではありますが、あの強さにはバルナバレグドですら歯が立ちませんでしょう。始祖の女王の血を色濃く受け継がれておられるアーヴルラジュー様ならなんとか勝負まで持ち込めましょうが」
エィディアロメラは淡々と言う。それは確かに事実ばかりだ。
「しかし数年ぶりに血を得たばかりの、浮き足立った状態で、いかにしてあの下衆に勝ちますか?」
ナユタよりさらに年若い、幼女然とした彼女はその老成した目で、優先順位を素早く決めたのだ。
「妾はアーヴルラジュー様に戻っていただくためになら尽力します。しかしあなたの自殺行為を補佐する気はありません」
「……あんなにおちびちゃんだったのに……」
やがてラジューはため息をついた。
「見た目は変わらないのに、中身はあまりにも偉そうですね……」
「何十年も放浪されて、『人は見た目にあらず』ということさえ学習なさらなかったのですか?」
「わかりましたわかりました」
ラジューのエィディアロメラに対しての憤りは徐々に霧消し、やがてその鮮やかに輝くような黄金色の瞳は穏やかな優しさを含み始めていた。
それは確かにエィディアロメラにとって、泣きたくなるような昔の懐かしい記憶と同一のものだった。
ラジューがいて、王が健在。弟もまじえ三人でいつも遊んでいた。そしてあの、優しい彼女。
夜見の血族の時間の観念でもそれはすでにはるか昔だ。
「心配なさらずとも、あの娘は薔薇瞳とお見受けしました。この世のどの人間より丁重に扱われていることでしょう。時間以外の全てによって彼女は守られています。アーヴルラジュー様が取り戻しに行くまで損なわれることはそうはありません。どうぞしばらく静養なさってください」
「でもエィディアロメラが僕に一番にして欲しいことは他にあるんでしょう?」
いたずらな光を瞬かせて、ラジューは指摘した。
「助けてもらったお礼です。いいでしょう、叶えます」
「ではお言葉に甘えまして。……踏みつけてやりたい相手がいます」
「バルナバレグド、ですね」
言われたエィディアロメラはアーヴルラジューの淡々とした言葉に肯いた。
「しかしなぜ、そこまで彼を嫌うんですか?」
「一つは弟のフルークレシスを殺されたから。二つはあの男の王としてありえない怠惰。三つは」
エィディアロメラはまた崖のほうを向き直った。途中で切れた言葉を不審に思ったラジューは彼女の視線を追うようにして、崖に近づく。
崖下は広い大地があった。
この地にラジューは見覚えがある。あと二つ丘を越えれば、夜見の血族の暮らす町が見える。崖と高い丘に遮られ、人はなかなかたどりつけない大地だ。
人に作らせた町は、今となっては多少古めしいだろうが、数十年を経てもけして揺らぐことのない堅牢な姿で存在していることが予想できた。
その懐かしい光景を思い描いたラジューは見たこともないものへの反応が遅れた。
「これは……?」
ラジューは記憶にはないその眼下の光景をエィディアロメラに問いかけた。
「三つは……妾にも、生き物を哀れむ心があるのです」
崖と崖に挟まれた光さえ差さない細長い谷間だった。そこに見るからに粗末な小屋が幾つも立ち並んでいた。細く上がった煙は、そこに住んでいるものの気配を示している。崖に渡る光のおこぼれがその崖に落ち、ラジューは目を凝らした。おぼろに見えるのは、動く影だ。
その細かく動く存在が人であることを知った。




