3-12
ナユタは見慣れた人の見慣れぬ顔を目の当たりにした。
「……ラジュー」
ナユタは目を見開いた。
いつも固く結んでいた光そのもののような黄金の髪が、今は解かれて彼の隙がなく整った顔を波打ちながら縁取っていた。
彼の白濁し、焦点の定まらなかった左目も、今はあれこそが幻だったのではないかと思うような強さでナユタを見つめている。濃い琥珀、そして虹色の虹彩。いつもの右目の眼帯はそのままだ、だが左目が濁りを失っただけで、彼はまるで別人のように強靭に見える。端正ながらどこか脆弱に見えた彼の美貌も、今はナユタを圧倒する風格を得ていた
「目が」
一方、ナユタに手を伸ばしかけたラジューは、ナユタの目を見つめて凍り付いていた。
「君は」
二人で動きが止まる、動けないまま、互いの姿に視線を奪われている。
「ラジュー」
ナユタは息を吸い込んだ。
「リョウなの?サイセイなの?」
声が震える。吸い込んだほどには吐き出せない。うまく息さえできなかった。
「なんで人の血を!」
ラジューが視力と夜見の血族の力を取り戻すということは、人を犠牲にすることだとナユタは知っている。なんで目が治ったの?と無邪気に聞くことが出来ない。反射的に思い出したのはイルネ。その瞬間にナユタのラジューへの親愛は壊れた。
ナユタは拳を作った。それを彼の胸に叩きつけようとする。
夜見の血族としての力を取り戻すとは、どれほど力強くなることか、それは失念していた。伸ばした手をあっというまにつかまれた。そのまま引き寄せられラジューの胸に転がり込む。ひやりとした手がナユタの顎を掴み、強引に上を向けた。
「ラジュー!」
彼はナユタを見下ろす。虹彩が廊下の光を受けて瞬いた。検分としか言えない冷徹な目で彼はナユタの瞳の赤さを見つめた。
すうと、彼の口元が歪んだ。それは笑い声を紡ぎ出す。だが今まで見ていたラジューの優しい微笑とはあまりに異なり、ナユタは背筋に力が入る。
「ははっ……ナユタ……」
ラジューはおかしそうに笑いながら言った。
「君が薔薇瞳!」
肩を掴んで、彼はナユタを壁に押し付けた。力の強さはナユタが苦痛を隠しきれず、唇を噛んでしまうほどだ。
ラジューの目に自分が映っていることがわかるほど、彼はナユタを凝視している。
「なるほど。確かにサイセイもリョウも、僕に向かってくどくどと君を諦めろというはず。確かにそれはそう言う以外ないですよね。だが愚かしい。それなら一言真実を告げれば済んだ話。そうやってとりつくろうからこんな取り返しのつかないことになるんです」
ナユタが初めて出会い、そして紅蓮に殺された夜見の血族のような殺意はない。エィディアロメラのような焼け付く悪意はない。だが今ナユタは誰よりもラジューが怖かった。
ラジューは壁に押し付け逃げ場のないナユタに口付けた。
押し付ける彼の手も身も、今日の日中とはまるで話が違う。とてもナユタに押しのけられるものではなかった。ラジューの舌は、生き物のようにナユタの口の中を蹂躙するというのにその温度は無機物のように冷たい。
「やだっ」
ナユタがうっすら涙を浮かべながらなんとか吐き出した言葉にも、ラジューは浅く笑っていた。
「今更もう、遅い」
何かがどんどん壊れて取り返しがつかなくなっていくのはナユタにもわかった。けれど彼女の手でそれを食い止めようとしても、崩壊を止めるには手は小さすぎる。
「薔薇瞳だからなんだというんでしょうか」
「やめっ……」
彼の腕から逃れようともがくナユタを笑いながら容易く押さえ込んでラジューは面白がってさえいた。自分を押さえつける手を見てナユタは青ざめる。そんな彼女の表情一つ一つがラジューにとっては見たかった全てなのだ。
「今更なにも変わらない」
「ラジュー、放して」
ナユタは彼を睨んだ。
「誰かを殺した手でわたしに触らないで!」
それがどれほど酷い言葉か知っていてもナユタはそう言わざるを得なかった。ラジューの手には拭い去ることが出来ない血が、今も爪の間に入っている。
「誰を殺したの!」
「誰のために殺したと思っているんですか?」
そんなことを問われると思っていなかったナユタは驚きのあまり動きを止めた。
「……わたしのせいだって、言うの?」
「あなたのためです」
「わたしはそんなこと望んでない」
「ナユタ」
その声は確かにラジューがラジューなのだと感じられる優しさを持っていた。
「君は僕と一緒に行くんです」
「どこに」
「君が望む場所に」
ラジューが見て、ナユタに語った世界の話。他国の珍しい祭り、偉大な風景、過去の不思議な遺物。
あの話をしたときに、ナユタがそれを願ったことをラジューは忘れていない。
「夜見の血族と人の和合。それはもう僕の人生の最大の目的ではない。サイセイを葬った僕にそれを願う資格はない。君は必ず僕が守ります。だから行きましょう。君だって、神都に戻りたいと本心から願っているのですか?君が望むなら僕は夜見の血族の中に戻らなくてもいい」
ラジューと一緒にいると今まで居心地がよかった理由をナユタはようやく気がつく。
彼も自分と同じく、自由でありたかったのか。
見果てぬ夢に彼も苦しんでいたのか。
『連れて行って』
その言葉で、ラジューは救われる。自分も解放される。ラジューはおそらくナユタを裏切らないだろう。
「…………逃げたって、重荷を捨てられるわけじゃないのよきっと」
自分に言い聞かせるようにナユタは言った。
「わたしは神都に自分の居場所を作りたい。ラジュー、ごめんなさい」
ナユタの言葉、そして背後の気配。
ナユタを突き飛ばすようにして彼は身を翻した。廊下の明かりがラジューの視界に鋭く煌いた。
「離れろ、夜見の血族」
リョウの剣がためらいなくラジューに斬り付けられていた。突き飛ばされた拍子に床に身を投げ出してしまったナユタは、ラジューを見上げる。
リョウの剣は、ラジューの首筋を狙って下から斬り上げられていた。しかし気配を察した彼がそれを避け、宙を舞ったのは一束の黄金の髪。そして。
ナユタの目の前に落ちてきたのは、古ぼけた皮の眼帯だった。
狙いが外れたことで舌打ちをするリョウの視線はまっすぐにラジューに向けられていた。ラジューは彼女を見つめる。
その双眸で。
「……失われた右まで再生とは、夜見の血族は本当に大したものだ」
「そうですね。我ながらそら恐ろしい」
ラジューのくりぬかれた目は、サイセイの血によってその欠損さえ補っていた。双眸を露わにした彼は、夜見の血族の中でも一線を画す威厳が備わっている。リョウが今までであってきた夜見の血族達とは違う。
純血中の純血。
「お前、女王の直系か」
「くだらない」
夜見の血族の全ての始祖。それはもう伝説だが、夜見の血族の中には桁違いの力を誇る者がいるとリョウは聞き知っていた。
「リョウ」
ラジューはちらりとその美しい女を見た。
「去りなさい。僕はサイセイと約束した。君とオリエとニキの命は保証すると。ナユタのそばにいるということは君は守護団の一人だろう。だが今回は見逃します」
「寝言を」
サイセイの名を出してもリョウは揺らがない。けれど彼女がサイセイの死を知っていることは間違いなかった。
「貴様こそ薔薇瞳を置いて、さっさと立ち去れ…………私の憎しみも今ならまだお前を見逃してやれる」
「それは無理です」
ラジューは足元のナユタの手首を掴んだ。急に蘇った力にその加減が難しいのか、ナユタの骨が軋む。苦痛に顔を歪めたナユタを見て少しうろたえたように力を弱めた。その表情にナユタは少し胸が苦しくなる。
彼も基本的には何も変わっていないのだ。その優しさは等しい。ただ、今までの自分を放棄しただけで。
ラジューは悠然とリョウを見ていた。今や力は完全に逆転しているのだ。集団である守護団として一人の夜見の血族に立ちむかうのならばともかく、たった一人、人の女であるリョウはどれほど強くても今のラジューには勝てない。
それぐらいわかっているであろう彼女がそれでも引かないのは、自負と責任感と。
「リョウ、助けて」
「お任せ下さい」
互いの信頼だ。
「去りなさい、人の娘」
ラジューはリョウを押しのけるようにして歩き始めた。ためらいなく剣を振り上げたリョウだが、軽くふり払われただけで壁に叩きつけられた。思ったよりずっとにぎやかな音がして、壁の絵が衝撃で落ちる。
「くっ」
リョウは頭をふって反射ともいえそうな素早さで立ち上がった。ナユタを引きずるようにして連れて行くラジューを追う。
「返せ!」
ナユタも必死で手を振り払おうとしているが彼の力は桁違いだ。
「ナユタ。暴れないで下さい」
「いやよ放して!」
「仮にあなたが僕を憎もうとも、僕はあなたを連れて行く。僕にはあなたが許してくれるのを待つだけの時間はあるんです」
「なんで!」
ナユタは疑問を口にした。
「なんでわたしなの?」
「あなたの強さが僕をひきつけてやまない」
「わたしは強くなんてな……」
「それは誰が決めたんですか?周囲ですか?それは周囲の人間が愚劣なんです。確かにあなたはあの女守護よりはるかに弱い。まだ幼い。迷いばかりだ。けれどくじけない。自分を裏切らない君の強さが妬ましいほどです!」
己の弱さをついに拒絶して、己の信ずることを曲げた彼は痛々しい笑顔を向ける。
「君の強さを僕のそばに置きたい」
おぼろにナユタは理解した。
ラジューの何かを捻じ曲げたのは、自分なのだということを。それは当然胸の痛みを伴う。
「ナユタが強いものか」
自分も心が折れそうになったナユタの耳に、リョウの言葉が飛び込んできた。
「彼女は強くない。ただ貴様が脆いだけだ。その責任をナユタにかぶせるな卑怯者」
追いすがるリョウを不愉快そうに彼は振り返った。
「下がりなさい、女」
「貴様に命令される覚えはない」
「あまりしつこいとサイセイとの約束も守れなくなります」
ラジューはリョウが置いた家具を蹴り飛ばし、玄関を開けた。解放された入り口から飛び込んできたのは、吹雪だった。人の身であるナユタとリョウにはあまりにも厳しい空気。ラジューは外に出て一度だけ振り返った。
「そこに留まれ、女」
「ナユタを返せ」
そのとき、開いた玄関の先に、リョウは何かを見たようだった。彼女の表情は珍しい、あっけにとられたものに変わる。その表情を見取ったラジューはリョウを見ていた顔を外に向けようとした。
そして弾き飛ばされた。リョウの目の前をふっとび視界から消える。ナユタも雪の中に放り出された。いきなりのことに、リョウは慌てて外に飛び出しナユタの手をとる。その向こうはラジューが雪の中から這い出しているところだった。玄関のノブから手を放す暇もなかったようで、いっしょにはじかれた扉が雪の中に突き刺さっていた。
その空間は凍りついた。
「……紅蓮!」
ナユタの声がその膠着を叩き壊した。とっさにラジューが手を放したため自由になった彼女は叫ぶ。
開いた扉の脇に立っていたのは、吹雪にまみれた外套を羽織った紅蓮だ。その巨大な茨石の剣を抱え、事態を把握できないままの困惑を浮かべて立っている。
彼を見た瞬間、ナユタ自身が気がついた。自分自身の彼への思慕を。
紅蓮は自分を愚かで非力だと蔑んでいるかもしれない。あの父からの手紙の一見のわだかまりは何一つ解決していない。
恋といえるほどの自覚はまだない。けれど、どれほど自分が紅蓮を求めているのか。
たとえ一方通行の想いであっても、それを見ないふりはできなかった。
「紅蓮、どうしてここに!」
「ようやく来たか。ユージにしては後手だな。あとうちの玄関を壊した代償は高くつくぞ」
リョウは皮肉っぽく告げる。
「相変わらずだな、右翼の」
紅蓮はその美貌の額に、細かい擦り傷だらけの彼女を見た。それからゆっくりとラジューに視線を向ける。
「で、貴様は誰だ」
「……犬が……」
立ち上がったラジューは紅蓮と正面から相対した。いつも微笑を浮かべていたラジューだというのに、今、その余裕は無い。
「外は屍者だらけ、夜見の血族の女もちょろちょろしている。この家は血の匂いばかり」
紅蓮は剣を向けた。
「貴様は」
「アーヴルラジュー様!」
かつて初めてナユタが会った時と同じように、白い服でやってきたのはエィディアロメラだ。彼女の服と同じように純白の馬にまたがり雪煙を上げて近寄ってきた。
「犬よ、この借りは必ず返す!」
「やめろ、エィディアロメラ!」
拒絶する彼を無理やり連れるようにして、彼女はラジューの腕を掴んで馬に引きずり上げた。
「お前が仕組んだのか!」
紅蓮の言葉には返事もせずに、彼女はラジューを連れ去ってしまった。冬の名残の吹雪で視界は極端に悪い。彼らの行手さえあっというにま三人の視界からは消え去ってしまった。
「……礼を、言う」
リョウは壊れた扉に寄りかかってそのまま背をすりつけるようにして座り込んでしまった。何度もラジューに叩きつけられた拍子に頭をぶつけていたのだろう。めまいを堪えきれず手で顔を覆った。
「リョウ!」
ナユタはリョウに駆け寄った。
「リョウ、大丈夫?」
「……大丈夫だ」
紅蓮は雪の中から歩み寄ってきた。
「すまない。周囲に屍者が山ほどいて、それを始末していたら手間取った。まさか屋敷の中がこんなことになっているとは」
「あれを一人で倒したのか!」
めまいも忘れてリョウは顔を上げた。
「相当数がいたぞ?」
「屍者程度なら問題ない」
「……さすが魔犬……」
苦笑いを浮かべる。そこにはかつて感じていたような、魔犬に対する気負いが抜け落ちていた。いままで彼女をしばりつけていた嫉妬が消えている。今までセツナが認めてくれなかった分のわだかまりが、ナユタによってほぐれたからだ。紅蓮に対して今は無意味な嫉妬は感じない。
「お嬢様!」
外の馬小屋から出てきたのは、オリエだった。そのまま座り込んでいるリョウに近寄る。
「ああ、オリエ」
「サイセイに言われて私は町に人を呼びにいったんです。そうしたら魔犬様に会って。慌てて一緒に来てもらったんです。お嬢様、大丈夫ですか?」
オリエがリョウに肩を貸した。
「ああ、魔犬様、申し訳ないですけど、ちょっと玄関の扉直しておいてください」
誰に対しても、こきつかうことを忘れないかのように、オリエはさっと紅蓮に頼みごとをすると居間に消えていく。
「扉を直すって……俺はそんなことやったことがない……」
「とりあえず、閉まるようにだけしておけば……」
数ヶ月ぶりの会話がそんなものだったということに気がついてナユタは言葉を切った。
不自然なその声に紅蓮は振り返った。彼の背中を見ていたナユタはまっすぐに目があってしまう。
「……元気そうだな」
沈黙を恐れるように紅蓮は言った。
「あ、うん……元気」
「食べられているか?」
「うん」
「よかった」
短い会話で紅蓮は扉に向かってしまう。けれどナユタはそこを離れなかった。紅蓮が慣れない手つきで扉の蝶番をいじっている姿をじっと見てしまう。
ただ彼を見ているだけで、胸が苦しいほどに高鳴る。
今も、紅蓮がまず自分を気遣ったことで、涙が出るほど嬉しいのだ。
ラジューの焼きつくような思いがようやくわかった。それが自分の物として。叶わぬという部分さえ、ラジューの自分へのものと重なる。
たとえ、紅蓮がセツナを今でも求めているのだとしても、ナユタは紅蓮を求めることを止められそうもなかった。




