3-3
セツナの眠る塔の周囲は相変わらずの静けさだ。
降り積もった雪からの冷気が立ち込めるなか、サワが不安そうな顔で立っていた。紅蓮が来るのを見ると扉を開ける。
「サワ」
入ろうとしない彼女に紅蓮はけげんそうな顔を向けた。
「私はここで紅蓮様がお戻りになるまで待っています」
「寒いだろう」
「大丈夫です。……紅蓮様お一人でどうぞ」
サワは微笑んだ。彼女の気持ちを理解した紅蓮は、その思いやりに驚く。サワが恐れているのは、紅蓮は自分がいたら『食事』しにくいのではないだろうかということだ。そしてそれは確かに彼女の想像通りだ。
自分は犬だという自覚がある紅蓮は、他者からの視線を恥じ入ることがない。ないわけではないがそれを気にする資格などないと知っている。
しかし本当は、誰がそんなあさましいところを誰かに見られたいと思うだろう。セツナはその気持ちを推し量って、紅蓮が自身の血を求めるとき、他人を遠ざけていた。サワはそれを習ったわけでもないのだろう。が、さすがセツナに信頼されていただけあって、他人への観察眼はするどい。
「配慮痛み入る」
紅蓮は一人、階段を上り始めた。
長い階段もいつもならどうと言うことはないが、この傷ついた身には酷くこたえる。呼吸するたびに胸が差し込まれるように痛みを覚えた。
ところどころ休みながらなんとか最上階までたどりつく。小さな扉を押して、かがみこむようにして部屋に入った。
先ほどまでサワが居たのだろう。部屋の中は温かく、蝋燭がいくつも灯っていた。橙色の光の中、ぼんやりと照らされているのは、白いセツナの横顔だ。
生きているのだろうか。
紅蓮は魅入られたように近づく。毛布のしたの彼女の胸は、かすかに上下して頼りなく息づいていた。
彼女の命の気配を確認できた紅蓮は、寝台に腰掛けた。身を捩ってセツナを見下ろす。
おそらく自分は。
紅蓮はセツナと久しぶりに二人になって考えた。
「俺は、あんたが好きだったよ」
親愛とか慕情とか友情なんてものではなかった。
肉欲を伴った恋だ。日々美しく育つセツナに、紅蓮も魅入られていた。けれど彼女はそういったことにまるで興味を示さなかった。
だから紅蓮もそれは無意識のまま抑圧していた。セツナが誰か別の男に恋に落ちたなら、抑圧しきったままそれを喜んで上げられるほどの完全さだ。
今、はじめて周囲の目もなく彼女と対峙することで、抑圧は意味を失い、なにかがむき出しになる。しかし、それが行動に伴うには、いまのセツナはあまりに生気がなかった。その弱々しさも美しさも、現実離れした神々しさを伴っている。
紅蓮は彼女の背に片手を差し込んだ。もう一方の手で彼女の首筋を支えて抱き起こす。ぐらりと頭が傾くほど、彼女には力がない。
紅蓮はその白い首筋に目を奪われた。
あまりに細く、華奢だ。
セツナはこんな脆弱だっただろうか。それは自分が知らなかっただけなのか。
しかし問いに向かいあう前に、紅蓮の中から湧き上がったのは、燃えて焼きつくような飢餓感だ。全身の全てが薔薇瞳の血を欲していた。細胞一つ一つが、自分の飢えを自覚している。
魔犬は夜見の血族と違って、人を見てもそれが食欲に結びつくことがない。それが自身の飢えを抑えるのに何の役にも立たないということが本能レベルで刷り込まれたかのように。ただそれは、薔薇瞳に向かうだけだ。
魔犬を潤すことが出来る唯一の血。
怪我をした彼にはそれを止められない。
彼はセツナの首筋に牙を埋め込んだ。
白く柔らかな皮膚と薄い皮下脂肪を食い破って、それが血管に到達すると、紅蓮にとっては、芳香としかいいようのない甘く濃い香りが湧き上がる。溢れたそれを紅蓮はためらわず飲み下した。
快楽に近い満足感がじわりと滲む。喉を落ちるその液体は、一気に彼を癒し始めた。
セツナは身じろぎもしない。
彼女が元気だったころ、ときおり何かを耐えるように紅蓮の腕をつかんだ手も、いまはただだらりと布の上に落ちているだけだ。
彼を養うためにのみ、生きている。
その事実に、一番惨めさを感じているのが紅蓮だ。
しばらくして彼は、はっと我にかえったように、彼女の首筋にうずめていた顔を離した。残る二つの傷口の一方から、つ、と血が一筋流れるのを舐めとった。
魔犬の噛み傷はそう酷くない。すでに血は止まり、傷口周辺の治癒が始まっている。
紅蓮は、深くため息をついた。
久しぶりの血は、あまりに濃い。加減するために途中でやめることが精一杯だ。セツナを再び横たわらせて、毛布を掛けてあげても、紅蓮はそこから動けなかった。
さきほどまでぽっかり開いていた胸の傷が塞がっているのを感じる。腕の骨も軋む音を立てながら治癒を始めていた。
これでまだもう少し持つだろう。
紅蓮はそれをよかったと思えなかった。
終局少し伸ばしただけの寿命、それに意味を見出せるほど自分が何かを成し遂げられるのか。そればかりが頭によぎっていた。
「寝ましたかサイセイ」
月光の差し込む深夜だった。
ラジューはあまり夜眠ることはない。ただ、窓辺でろくに見えもしない外を見ていることが多い。
気がつくと、サイセイが机で作業途中だというのに眠っていることが多いのだ。それは風邪のもとだ。だからラジューは物音がなくなって静かになると、ラジューに声をかけることがあった。
「おきている」
あまりの静けさに寝ているのかと思いきや、サイセイは静かな返事を返してきた。
「……あまり静かだから寝ていると思った」
「いや、考え事をしていた」
「……なんのことですか」
サイセイが考えごとをすることは少なくない。しかし、あえてそう言ったということは研究がらみのことではないということだ。
「……リョウとナユタは、明日王都に出かけるといっていたな」
「ええ」
かたんと触れた陶器の音は、冷め切った茶が入っている茶碗の音だろう。サイセイはそれを淡々と飲み下した。
「そろそろ潮時かもしれない」
いつかサイセイはそう言うだろうと思っていたし、ラジューにも異論はなかった。
「ここを、出て行くという話ですね」
「ああ」
サイセイは淡々としていた。
「ナユタも王都に遊びに行きたいと願った。それだけの気力があるってことだ。彼女達はそろそろここを出て行くだろう。そうしたら、私達もいつまでもここにやっかいになっているわけにもいかない」
「そう遠くない話ですよね」
「多分」
出て行くこと事態は、問題はないなとラジューは考えている。
持つべきものはサイセイの本以外わずか。冬の厳しさは日々和らいでいる。サイセイが次に行きたいと願う場所も決まっている。
ここにいる理由はない。
「なあラジュー」
サイセイの声の響きには、言いにくさが混ざっていた。その声音から彼が次に何を言いだすかはなんとなく予測できた。
「おまえはナユタが好きなのか」
「……はい」
そうかと言ったきり、サイセイはそれを褒めも責めもしない。
「諦められるか」
しかしはっきりと問われたとき、ラジューは自分が揺らいだ気がした。
結局常識的にはその選択肢以外ありえないと思い知らされる。それを認めるのが怖いラジューは、サイセイに問いを返す。
「それを僕に問う前にサイセイも自分に聞くべきことがあるんじゃないですか」
「リョウのことか」
サイセイは笑った。
「それはもうすいぶん前に終わった話だよ」
サイセイも狡猾だとラジューは呆れた。
彼は自分の思いすら、研究のために置き去ることが出来る。多分自分自身を騙して。
何も終わっていないであろう事は、目の不自由なラジューにさえ明らかだ。彼もリョウを諦めきれていない。
ラジューからしてみれば、リョウも何かを抱えているように感じられる。彼女もサイセイに対して友情以外のものをはらんでいるようだ。
もしラジューが今の諦めざるをえない状況を変えるには、どうしたってサイセイとリョウの協力がいる。リョウがサイセイについてくれば、ナユタもそれに同意する可能性があるのだ。その可能性を求めずにはいられない自分にラジューは気がついている。
「彼女も、君を必要としていると僕は思うけどね」
そっとその言葉を差し出してみた。
「……私が彼女にしてあげられることはないよ」
サイセイの穏やかな声は、そんな面白みのない答えを返してきた。
「ちょっとお茶を入れてこよう。居間の暖炉には、まだ火が残っているかもしれない」
そういって彼は部屋を出て行く。
ラジューは、ナユタを手放したくないという思いがすでに揺るがぬものとなっている自分を知っている。なんとかしたいと思う自分自身に怖さを感じつつもそれを、諦めようとはしていない。
ラジューは琴を床に置いた。
すでに修理と調律が完了したそれは、ラジューの手が触れてかすかな音を発した。
「まだ起きていたのか」
どこか上ずった声で呼び止められて、リョウはぎょっとしたようだった。リョウにしてもその言葉をかけたいくらいな時刻だ。
「サイセイこそ」
リョウは居間の定位置にいた。窓に近い場所でクッションを並べ、そこで酒を飲んでいた。
「飲むか?」
「いや……私は茶を」
しかし、すでに暖炉から湯沸しは除かれていた。それを確認したサイセイは空の椀を手に窓際に歩み寄る。
「夜更かしだな」
「お互い様だ」
サイセイはどこか落ち着きなかった。諦めてリョウの酒瓶から酒をついでもらって、彼女の横に腰を下ろしても、顔をあげることなく杯の揺らめく水を見ている。
「どこの酒だ」
「東の。噂どおりとても上出来だ」
サイセイはあまり酒も飲まない。非常に希少な銘酒なのだが、言ってもわかるまいと思っているのかリョウは特に説明もしなかった。
リョウの横でサイセイはさきほどのラジューの言葉を反芻していた。
ラジューには婉曲に、ナユタを諦めろと告げた。
しかし自分はリョウを本当の意味で諦めることができるのだろうか。
もしかしたらリョウは「一緒に来ないか」とサイセイが言ったらついてきてくれるかもしれない。が、それは告げるべき言葉ではない。
彼女の人生はこれからも苦難が多いだろう。
大貴族の娘であることをやめた彼女の人生だから、それは予想もしているはずだ。そしてそれは彼女自身が選んだものだ。
ついて来てくれという言葉には、彼女の意志をないがしろにするだけの無体な響きがあるとサイセイは考えていた。リョウにはサイセイのために苦労してほしくない。苦労するなら彼女の願いのために苦労してほしい。
しかしサイセイの甘さとも言える弱さ。それはラジューの言葉で揺れていた。
「リョウ、君は」
「この酒が、私の手元に来るまでにな」
話しかけたサイセイの言葉は、リョウの声でかき消された。
「長い道のりを辿ってきているはずだ」
「あ、ああ。そうだな」
「私はそれをあたりまえのことにしたいんだ」
リョウはいくらか杯を重ねているようだった。目元がほんのり赤くなって麗しい。しかしその色気とは裏腹な強い言葉だった。
「私も実は少し迷っていた」
リョウはサイセイを見ていない。窓の外のぼんやりとした雪景色を眺めている。
「私がなにかしてもしなくても、別に世界は私を必要としていないのだろうと」
世界、が薔薇瞳セツナであることをリョウは言わなかったが、サイセイにもうっすら予想できた。
「それが不満足だった」
「それは仕方がないことだ。誰だって虐げられれば……」
「いや、それはやはり私が不遜だったんだ」
「リョウ?」
リョウはようやくサイセイを見た。
「誰かのために、という考え方が不遜だ。私は私のためにしかやはり生きられない。誰かのために道を守るのも、結局は私の自己満足だ。それを誰かのためにと思うから苦しくなる。だからいいんだ。結果的に誰かが、私の守った道で進むだろう。でもそれを目的としてはいけない」
彼女の顔は酔いがあるにも関わらず、静謐といってよかった。
「私はやはり、私のために、道を拓くよ」
だからこそ、リョウは美しい。
サイセイは強く思った。
リョウも、迷いや苛立ちをまったく感じないわけではない。けれどそれも正面から向かいあうその強さが彼女を美しく見せている。
「リョウ」
サイセイは杯を置いた。
呼ばれて顔を向けたリョウの細い顎を指で捉える。そしてかすめるように口付けた。
傍若無人なその行動にリョウは呆れた目を向けるが、怒鳴り散らしたりはしなかった。一瞬で離れたそれが夢ではなかったのかと確かめるように、サイセイを見つめる。
「……魔がさした」
うっかりサイセイがそんな言い訳がましいことを言ってしまうと、リョウは噴き出した。
「そうか、魔がさしたか」
「いや、君は美しいよ。でもこんなことをするつもりはなかったんだ」
リョウはおかしそうに笑う。それをどうしたものかと困惑交じりにサイセイは眼をそらすことしか出来ない。ようやく見返したとき、彼女がすでに笑っていないことに気がついた。
「私も正直叔父上とは離れ難い。なによりナユタがあなたに懐いている、おそらく教わりたいことももっとあるに違いない」
「私もナユタは可愛いよ。とてもいい生徒だ」
「神都に来るか?」
「あそこは私には気詰まりだ。もちろんラジューにも。いつか客として寄らせてもらう」
「そうか……行くのだな」
「君たちも帰るのだろう」
「王都でちょっとナユタを人に慣らせたら」
「それがいい」
サイセイとリョウは、あまりに似過ぎていた。
共感できるが、共に歩くことは出来ない。自分の道を求めるという点で一致していたからだ。結局ときおり感情は揺らめきはするものの、二人はどうしてもそれ以上歩み寄ることが出来ないのだ。
サイセイの口付けの一瞬だけが、二人の道のわずかな交差であったが、それも結局次の瞬間には別たれるためのものでしかなかった。
そして二人に後悔はない。




