2-1
馬車の窓から見る景色は、一面の白だった。
日中は外を見ていると目が痛くなってくるほどのまぶしさだった地平の果てない積雪。ここ数日降り続いていた雪は深く積もっていた。時折馬車がわだちにはまりそうになってひやりとさせられた。今日は快晴で、雪は風に流されて地を舞う程度だ。
すべるように流れていくどこまでも同じ景色をナユタはぼんやりと見ていた。
エィディアロメラと会った日から数日、ナユタは寝込んでしまった。部屋どころかベッドからも出なかったナユタだが、起き上がれるようになったとたん、遠方への移動をユージから命じられた。
まるで自分が不要だと。
ナユタはため息をついた。ゆるく歪むガラスが吐息で曇った。
神都から逃げてしまったあの日は、やはり気持ちがどうかしていたのだろう。今はそんな思いはなくなっていた。それどころか何もかもがどうでもいい。
不要であってももうそれさえどうでもよかった。何か心の支えが折れてしまったようだ。
紅蓮とはあの日以来会うことはなかった。彼が何を考え何をしているのかだけが気になったが、キリエもユージも話さない。問えば答えてくれるのかもしれないが、気が引けた。
「お寒くありませんか、セツナ様」
代わりに現れたのは、黒髪の女だった。守護団右翼団長、リョウと説明された。雪の中でエィディアロメラから救ってくれたのは彼女だという話だが、記憶になかった。
「大丈夫」
リョウは今もナユタの向かいに座っていた。
彼女から敵意は感じられない。しかし、ナユタを相手に困惑しているようだ。彼女はナユタがセツナとしてふるまっていることをユージから聞かされていない。リョウが知らされたのは真実のほんの一部分だ。
セツナは事故で塔から落ち「一部の記憶を失った」。これが、ユージの最大の譲歩ともいえた。
結局どこに行こうともセツナとしてふるまわなければならないことは同じだが、しかししばらく彼女一人であることは気が楽だった。ただ、こんなにやつれてしまった薔薇瞳をみて不安にもなっているリョウに対して良心が咎める。
ナユタは厚く靴下を履き、毛皮の内張りがされたブーツの中で足を動かした。
ナユタが神都を離れることは誰にも知られていないようだった。ついてきたのもリョウ一人、馬車は目的地の近くまでしか行かず、しかも送り届けたらそのまま帰る上、乗っているのが薔薇瞳だとは知らされていない。
「王都よりさらに北に、私の家があります。ここよりもっと寒くてとても快適に冬を過ごすような場所ではありませんが、人がいないという点では最高かと」
リョウは沈黙に耐えかねたように説明する。
どちらかというと冷ややかな顔立ちだが、まだ二十代も半ばの若い娘らしい戸惑いが見て取れた。
「あの、わたしユージからもあまり話を聞いていないのだけど、おうちにお邪魔してもいいの?」
「かまいません……というか、セツナ様、知っているじゃありませんか。私は勘当されているんですよ。あのうちは実家からの手切れ金代わりにもらったんです」
「あ、そ、そうだったわね」
「もともとは避暑用の別荘です。今は私の乳母と彼女の母がいるだけです」
しまった、とナユタは後悔した。そういえば、ユージがリョウについては説明していたではないか。集中力に欠けて聞き逃してしまったが。
「……本当にお忘れなのですね」
呟くようにリョウは言った。
「周囲は森ばかりで静かです。どうか体をゆっくり休めてください」
「ありがとう」
リョウはじっとナユタを見ていた。何かを推し量るように。
それを思うのも疲れて、ナユタは首周りの毛皮に頬をうずめた。
王都を通り過ぎ、町と村の中間のような小さな集落に来たところで、リョウは馬車を変えた。あとは自分が操っていくつもりらしかった。小さな馬車は素朴と言っていいほど簡素なものだ。馬を操るリョウの横でナユタは無言で乗っていた。
やがて馬車は深い森の道に入り込んだ。ともすれば細い道からはずれそうになったり、わだちにはまり込んでしまいそうな使われていない道を注意深く進む。快晴であったことが今日の幸運だ。
ナユタとところどころ眠りながら静けさの中で紅蓮のことを考えていた。
神都から逃げ出す前、紅蓮を責めた。そしてあれ以来、紅蓮に会っていない。彼は今、どこでどんな気持ちでいるのだろうか。
紅蓮が手紙を隠したのだろうか。
冷静になるにつれ、その疑問は湧いてきた。紅蓮の優しさを疑いたくないのは自分の弱さで愚かさかもしれない。しかし、彼のことを思えば思うほど、そんなことをするとは思えないのだ。紅蓮がナユタに対して特別な気持ちを持っていたと思うほど、うぬぼれてはいない。けれど彼はもともと優しい。。
……しかし裏腹に思うのは、ナユタ自身の自分への無力感、しして自己評価の低さ。紅蓮に見捨てられてもやむを得ないだろうと一方で納得している。
二つの相反する想いの間で、ナユタは答えを見つけられない。
それでもただ一つ思うのは、彼を罵ってしまったことへの罪悪感だ。
あんなふうに言わなければよかった。
彼がナユタに対して憤りを感じてくれていていればいいと願う。彼が傷つくよりはずっといい。
「……」
「何かおっしゃいましたかセツナ様」
リョウに問われて初めて自分が呟いたことにきがついた。
「気にしないで……」
ナユタはそう答えてから言葉を心のなかでなぞった。
会いたい。
紅蓮に対して思うのはそれだけだ。手紙のことを追求するわけではない。ただ純粋に彼に会いたい。
からかわれて腹を立て、あの重々しいマントをひっぱりたい。美しい炎のような髪を見たい。
切実すぎて恋とさえ言えないほどの希求だった。
「ああ、セツナ様、もうすぐつきます」
リョウは窓の外の風景を見ていた。赤い夕焼けの中、木は黒黒とした影を空に焼き付けている。ナユタにしてみればすべて同じに見えるがリョウは何度もここに来ているのだろう。その風景で道を判断していた。
「おなか空きましたね」
リョウは団長そのままの声音で言った。
「屋敷には私の乳母がいます。彼女は料理が得意なんです」
リョウの言葉は丁寧で優しい。ユージのような有無を言わせない強さも見せないし、キリエのような冷ややかさもない。
あるのはただ推し量るような距離。
リョウはナユタに必要以上に言葉をかけてこない。それは気が楽だが違和感でもあった。右翼団長と言う高位にありながら、彼女はセツナに対して気さくさがない。それはセツナがリョウに対し距離をとっていたからではないかと推察されるものだ。
しかしセツナは下々のものにも気さくだったはず。サワを始めとする女官を見ているだけでもわかる。彼女は地位だのなんだので、人を遠ざける人間ではない。
リョウはこの年で右翼団長、しかも女だ。むしろセツナとは親しくあっていいような気がする。しかしリョウは冷ややかな距離を保っていた。
やがて馬車は止まった。リョウが先に下りて、外からナユタに手を差し伸べる。それに素直に助けられて、ナユタは馬車を降りた。
目の前に広がるのは、天上の青い星々。大地には、深い森と、ひっそりと灯る柔らかな赤い光だ。
リョウの別荘は、別荘と呼ぶのをはばかられるほど豪奢なものだった。リョウの実家である王都の大貴族ミズハ家の財力を思い知ってナユタは言葉を失ったままその屋敷を見ていた。
「お嬢様!」
扉が開き、初老の女性が慌てたように出てきた。
「お待ちしておりましたよ」
年齢は重ねているが、小太りの生命力溢れる女性だった。にこにこしながらやってくるその顔には喜びが満ちていた。
ゆったりとしたスカートにかけられたエプロンは白くて清潔だ。なにか炊事をやりかけだったのだろう、手を拭きながら慌ただしく出てくる。
「まあまあお嬢様、相変わらず、男みたいな格好ですねえ。せっかく私がお育てしたのに、どうしてこんなんなっちゃったんでしょうね。私は深窓の令嬢としてお育てしたつもりなんですけど!まー、本当にどうしてかしら!」
「そうやってはっきり言うところじゃないかな」
リョウはあっさり笑った。
「かつて私の乳母で、今はここを管理しているオリエです。ニキは?」
「皿を並べてますよ」
「相変わらず人使いが荒い」
リョウは初めて少女のように笑った。
「ニキはオリエのお母様です。私の手芸の家庭教師でもありました。オリエ、こちらは」
「はいはい、手紙で伺っておりますよ。お嬢様のご友人ですよね。神都にいらっしゃるということは女官の方かしら?」
いくら暗いとはいえ、ナユタの瞳の色が見えないわけがない。
聖なる赤。
けれどオリエはそれを完全に見ないふりをした。おそらくリョウが手紙で友人を連れていくと告げたのだろう。しかしオリエが知るのはそこまでのはずだ。リョウとて下手すれば誰が見るとも限らない手紙に、薔薇瞳を連れて行くなどと書くはずがない。
詳しい事情など知るはずもないだろうに、リョウが友人だといえば、オリエは、そしておそらくニキもそれをそのまま受け止める。
リョウが彼らを信頼してナユタをここにつれてきたわけがナユタにもわかった。けして彼らは薔薇瞳がここにいることを誰かにもらしたりはしない。仮にリョウの両親に向けても。
「あ、あの、おじゃまします」
「遠慮しなくていいのよう!なんだかやせっぽちなのねえ。神都は食べるものに困っているわけじゃないわよね。ほら、指なんて冬の枝みたい」
オリエはナユタに向かって笑いかけた。次々に辛辣な言葉をかけてくる。しかしその笑顔には嫌味がない。とても王都随一の貴族ミズハ家にいたとは思えないくったくない言葉だった。
「それか神都は料理がまずいのかしら。お嬢様は味音痴だからわからないんでしょうね。まあここに居る間に私の作った料理を食べれば、がつんと大きくなれるわよ。おいしいんだから」
「私は味音痴ではない」
「そうね、酒の味には詳しいですもんね」
オリエの言葉にリョウはこっそり肩をすくめる。道化たしぐさにナユタはふっと笑ってしまう。こんな風に笑ったのは久しぶりだ。
「まあまあこんなところで立ち話もなんだわね。母が暖炉に薪を家を燃やす勢いで焚きつけているから早く居間に行って頂戴」
「じゃあしばらく世話になるよ」
「お嬢様の世話ならまかせておいて」
オリエはナユタの肩を抱いた。彼女の手が分厚いコートの下のナユタの骨にあたる。薄い脂肪は隠し切れない。
「あら、刺された」
オリエはおかしそうに言った。
「す、すみませ……」
「棘は埋めて帰りましょうね。年頃の女の子がこんなイガイガしていちゃ恋人もできないわ」
「恋人なんて……」
ナユタはうつむく。けれどその肩にじわりとオリエの手の温かさが伝わってきた。
「居ると楽しいわよ」
灯りのこぼれる戸口でオリエはナユタに微笑みかける。
年のころは四十代も終わりのころだろうか。後ろで一つに結ばれた髪にはちらほら白髪が混じり始めているし、顔も若かりし時の輪郭とは違ってきている。けれどオリエの笑顔は今のナユタよりずっと溌剌として若々しい。
ナユタを居間に押しやるようにして歩きながらオリエは言った。
「私のスープはおいしいわよう?」
別荘は、立派だが年代ものだ。もともとの造りはいいのだろう、古びていてもそれが一層の品格となっているような屋敷だ。しかしなによりオリエが毎日磨き上げているであろうあとがあった。床は一部軋んだがよく手入れされて黒く輝いている。
置かれた調度品や美術品は数は少なく小ぶりだが、品のいいものだった。
押し込まれた居間にはすでに火が温かくこもり、リョウがニキと思われる老女とテーブルを用意していた。
ニキは小柄な老女だった。顔には笑顔がそのまま焼きついたようなしわがあるが、確かにオリエの母らしく、よく似ている。枯れたような腕だがちょこちょことよく動いて皿を並べていた。
「ミズハの姫をここまで使うなんてオリエくらいなものよ」
食器を並べてリョウがぼやく。
「ここまで止まりなわけないじゃないですか。あとスープをよそって食後は皿をさげて頂くのよ」
食卓にはすでに大きな鍋が置かれ、蓋の隙間から温かい湯気を空気にこぼしていた。大きな皿にはふっくらとしたパンが山ほど盛られている。そう多くはないが、豚の肉の塩漬けがじわりとその脂を滲ませて切り分けられていた。
「さあとりあえず、夕食にしましょうか。座って……ええと、ああそうそう」
オリエは受け取ったナユタのコートを掛けながら言った。
「ナユタちゃん」
ここ数ヶ月、誰もナユタをそう呼ばなかった。
ユージやキリエはセツナと、紅蓮も薔薇瞳と呼び、サワとは会えず。ほこりを被って打ち捨てられていたようなその名。
この場所でばればれとはいえナユタが薔薇瞳と言うことを伏せておくなら、合わせてセツナと言う名も封じなければならない。ユージが考えたのは彼女のその元の名を使うということだった。
ナユタは虚をつかれたような顔をしてしまったことに気がついた。
思わず「うんお母さん」と答えそうになった自分に驚いたからだ。
ナユタの母とオリエは似ているわけではない。ナユタの母は、細く小柄で、いつも静かに語りかけてきた。優しくて好きだったが、彼女の印象は静だ、オリエは逆の動。
けれど、何かが重なる。
「どうしたの」
「あ、なんでもないです」
自分の名を呼ばれること、それが一瞬の居心地悪さからあっというまに嬉しさに変わる。彼ら三人はナユタという名こそ偽りと思っているだろうが、ナユタにとっては唯一つの自分の持ち物だった。
ナユタの心にある固い結び目。
それがするりと緩んだような気がした。
「ナユタさん、だっけ?」
ニキは低くしわがれた声で呼んだ。優しい顔だ。
「外は寒かっただろう。早く席についてお食べ」
あまり視力はよくないようだ。目を細め、それでもナユタの顔はほとんど判別できていない。さすがに彼女はナユタが薔薇瞳であることを知らないのだろう。神殿勤めの女官だというその言葉を信じて、彼女は親しみ深く声をかけてきた。
大事なミズハの姫であるリョウの友人。女官とあればあまり身分は高くないが、それでもリョウの選んだ相手ならと、ニキは特にナユタの出自について聞く様子もない。
「あ、あの、よろしくお願いします」
リョウはとっとと皿のパンを皆の皿に盛り分けている。食卓に着いたナユタはその女ばかりの風景の中に、何か安堵のようなものを覚え始めていた。
ナユタがあてがわれたのは、リョウの横の部屋だった。
そう広くないが、柔らかく天蓋から薄布が下りている高価な寝台があった。食事のあとそこに案内したのはリョウだった。
「神殿に比べば質素なものですが」
部屋の暖炉にはすでに火が入っていて、居心地のよい温かさだった。持ってきた荷物は少ない。
食事の後も四人でずっと話をしていた。主にリョウが守護団の北方遠征中の話を面白く語り、オリエがそれに切り返すという形だ。
リョウも良家の子女とはとても思えないが、オリエも乳母とは思えない。時々ニキがオリエをたしなめるが、あまりそれは聞いていないようだ。それでも和やかな会話には、ナユタも聞いているだけで楽しい気持ちになれた。
夜も更けて案内された部屋にナユタは荷物を入れる。
「お手伝いいたしましょうか?」
「え?」
「お着替え。もちろん私ではご不満でしょうが」
オリエ達の前では潜められていたよそよそしさがまた向けられていた。しかしそこに悪意がないのは不思議だった。あまり遠慮などしなさそうなリョウだが、『セツナ』に対してはなにやら一線引いている。
「あ、いえ、あの。大丈夫です」
「女官を一人でも連れて来たほうがよかったですね。ここではあなたも自分でやらなければならないことが多い」
「大丈夫です」
それが普通でしたから、と言いそうになってナユタは口を閉じた。リョウには自分がすでにセツナではないことを言うなとユージから諭されていたからだ。
「私は隣の部屋です。何かあったらなんなりとおっしゃってください」
「ありがとう」
だが、その何気ない言葉に、リョウの表情はこわばった。
「……いいえ」
一瞬目を伏せる。その顔立ちは手にしたランプに照らされて美しい陰影を描いていた。髪さえ短く切りそろえ、鋭い眼差しの上、言葉遣いにはたおやかさなど欠片もないが、リョウはやはり由緒ある貴族の娘なのだと思う。表情にさえ洗練があった。
どうして彼女が守護団などにいるのだろう、と純粋な疑問をナユタはまた浮上させる。
「あなたは」
リョウは顔をあげるとその切れ長の目を向けた。探求と言っていい鋭い光が宿っている。
「あなたはまるで……セツナ様ではないかのようだ」
あくまでも言葉遣いは丁寧。しかしそれはごまかすことが出来ないような声音だった。ナユタは一気に背筋を冷やす。
ナユタ自身、まだリョウという人間をわかっていない。果たして打ち明けて理解してくれるだろうかという不安が湧き上がる。
リョウは以前の薔薇瞳との違いをやはり見極めていたのだ。
「……いいえ、愚問でした」
その瞳の鋭さは失われないまま、うわべめいた言葉でリョウは取り消す。
「あなたの瞳は薔薇瞳だ。それを疑うなど、守護団団長としてありえない」
リョウは自分に言い聞かせるように言った。そのまま深く頭を下げる。
「では。おやすみなさい」
リョウはさらりと言うとナユタの目の前の扉をしめた。彼女の足音が遠ざかり、隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
ナユタは、ふらりとよろけるようにして、寝台に腰を下ろす。こんな片田舎に在るとは思えないような上質のベッドがかすかに沈んだ。
結局リョウも、ナユタとしてみようとしていない。薔薇瞳であればよいとそれだけだ。多分彼女はセツナに対してもそうだったのではないかと思われた。
薔薇瞳の個としての孤独。ナユタはそれを知った。
けれど、もう慣れた。感慨もなくナユタは自分の荷物を開ける。
ここでも何をしたらいいのかわからない。これなら神殿でようやく慣れてきた薔薇瞳としての勤めを果たしていた方がマシだったかもしれない。いや自分はそれでもよかった。結局故郷に帰れないならどこでも同じだ。
自分は見放されたのだ。
それを思ったときにだけ、ぎゅっと締め付けられるような胸の痛みが走る。
すでに神都の者は薔薇瞳としてすらナユタを必要としていない。自分なりに必死であったが結局この有様だ。
紅蓮も。
かすかに手が震えた。
こんな風に放り出されるなら、紅蓮を罵ったりしなければよかった。そればかりが後悔だ。紅蓮にだけは嫌われたくないと思ったのに、なぜ。
なぜと今更問う自分の愚かさが虚しかった。




