魂の解放と白百合の再来
終は、天秤の左皿に、領主館で第一夫人の魂を送り出した際に預かった、白百合の香りの記憶を一つまみだけ落とした。
すると、急激に右へ傾いていた天秤が、震えながらもゆっくりと動き出した。そして、カイルの涙が皿に落ちた瞬間、銀の天秤は寸分の狂いもなく、完璧な水平を保って静止した。
「価値とは、他人がつけるスコアや、誰かの期待に応えることではありません。あなたがあなたとして、苦しみ、悩み、そして泣くこと。その生命の営みそのものが、お母様にとっては最高の供養なのです」
終が杖を優しく振るうと、黄金の光の中から、亡き母の優しい幻影が静かに姿を現した。彼女は言葉を発しない。ただ、泣きじゃくるカイルの背中を、羽毛のような軽やかさでそっと撫でた。
カイルを縛り付けていた数万本の鋼の糸が、母の愛に触れた瞬間に光の粒となって霧散していく。
「……お母様。私、私は……」
「さあ、カイル殿。もう自分を責めるのはおやめなさい。お母様は、もうあなたを許しています。……というより、最初から怒ってなどいなかったのです」
カイルは、生まれて初めて、誰のためでもない、自分を解放するための深い呼吸をした。その瞳からは「鉄仮面」の冷徹さが消え、年相応の少年の瑞々しさが戻っていた。
「……兄さんに、謝らなきゃいけないな。……あんなに酷いことを言ったのに。自分だけが苦しいと思い込んでいた」
「ええ。ヴィンス殿も、あなたとの再会を待っておられますよ。……もっとも、あの方も少々不器用ですから、最初は喧嘩になるかもしれませんがね。それもまた、家族の形というものです」
翌朝、学院の門を潜るカイルの姿に、多くの学生が驚愕した。
彼は筆頭という地位を捨てはしなかったが、その表情には柔らかな余裕があり、何より、その背負っていた「死者の重圧」が消えていたのだ。カイルは学院にしばらくの休学を届け出ると、馬を走らせて故郷へと向かった。
家族という、もう一つの、そして最も大切な式場を整えるために。
王都の喧騒の中、終は銀の天秤を丁寧に鞄に仕舞い、独りごちた。
「遺品というのは、時に魂を縛る檻になり、時に真実を開く鍵になる。……さて、案内役さん。次はどちらへ?」
光の玉が空高く舞い上がり、遥か北に聳える、万年雪に覆われた霊峰を指し示した。
『あっちだよ。今度は人間じゃない、もっと古い「命」の終わりの匂いがする。何千年も死を待ち続けている、孤独な魂さ』
「おやおや。人間に、今度は古い神の眷属ですか。葬儀屋の仕事には、やはり定年はないようですね」
二十歳の瑞々しい肉体に、一〇二年の達観を宿した青年は、朝の光に背中を押されながら、次なる弔いの地へと歩み出した。
その背中には、もう迷いも、未練も、何一つ残っていなかった。




