甘い時間 甘いお菓子
葱をみじん切りにし終えまな板から顔を上げる。
視界に入るのはソファに座り、熱心に雑誌を読み込み何かを勉強している日野くんだ。
夏休みが始まり、一週間が過ぎた。私は毎日欠かさず日野くんの家に行き、昼食や夕食を作り続けていた。
夏休み初日の朝、彼に家に誘われた後に『明日は休みだけど午後には帰れるから、ケーキ買っておくね』とメッセージが来て、特に途切れる雰囲気もなく今に至る。
午前中に日野くんの家に行き、彼と一緒に映画やドラマを見たりしてお昼を作り、一緒に食べて夏休みの宿題を一緒にして夕食を食べて家に帰る日々だ。
そして今日も、私は日野くんの家で夕食を作っている。
今日の献立は、中華風のメニューで揃えた。マーボーキャベツシュウマイ ブロッコリーとえのきの餡かけ、ゴマだれ風ナムル かき卵の味噌汁に、杏仁豆腐だ。
先ほどみじん切りにした葱をごま油をならしたフライパンに入れ、刻んだ生姜も追加して炒めていく。
頃合いを見計らい豆板醤を加えて茄子を投入すると、中で温めていた葱と生姜、豆板醤のピリッとした香りが白い湯気と共に一気に立ち上った。
そのまま軽く炒めて火から降ろし大きめのお皿に広げて冷ましておく。
これで麻婆餡の素の出来上がり。簡易だけど、麻婆がメインじゃなくてシュウマイがメインだから、なるべくシンプルにした。
麻婆餡の素の熱を逃がしている間に、皮の準備をしなきゃいけない。
キャベツを千切りにしてラップで包み、ほんの少し電子レンジにかける。後でまた蒸してしまうから食感が損なわれないようにだ。
レンジをかけおわったキャベツは余熱で火が通らないように、氷水を張ったボウルに泳がせておく。
そして肉餡の本調理だ。ひき肉に、刻んだ玉ねぎ、たけのこ、冷ましておいた麻婆餡を投入。よく混ぜて醤油を一回し。塩と胡椒で味を調えて肉餡の完成。
これを、水気を切ったキャベツで包みシュウマイにする。蒸し器にシュウマイを詰めて行き、セットが終わってコンロの火を点けると、ソファに座る日野くんが暗い顔をしていることに気付いた。
「どうしたの日野くん……? お腹痛い? 熱中症?」
「あはは、五十嵐さんは変わらないな……」
笑いながらもその顔色は青ざめている。手をさっと洗って近づいていくと、「実はちょっと悩みっていうか、まぁ、仕事で行き詰ってて」と彼は力なく目を伏せた。
「仕事の悩み……?」
なら、私に役に立てることはなくなってしまう。
体調不良なら病院を探すとか色々出来るけど仕事は役に立てない。話を聞くだけになってしまうけど、本当にそれで力になれるのかな。
どうしようか悩んでいると、彼は雑誌をテーブルに置いた。そのページには恋愛の特集が書かれていて、デートスポットなど街の写真が掲載されている。
「今度出るドラマさ、恋愛ものなんだけど……俺、恋人いたことないからよく分かんないんだよね」
「え?」
日野くんの爆弾発言に次の言葉が紡げない。彼が、今まで誰かと付き合ったことがない?
仕事が忙しくて……恋人がいたことがないとかそんな感じだろうか。
それともかっこよすぎて人が避けていく……わけないか。いつも囲まれてるし。それかもしかしてずっと片想いをしてる人が……? 彼の様子をちらりと覗くと、平然としていて、どうもそんな感じも無かった。
「仕事ではぶっつけ本番だし、練習するにも相手役の人とこそこそ会うわけにもいかないじゃん? 今ネットにすぐアップされたりするし。秒で報じられるからさぁ」
「なるほど……」
別にこそこそ会わなくても、仕事で会えたりしないのかな。ドラマの撮影って練習とかしないのかな……?
不思議に思っている間に彼は何かいいことを思いついたようで、ぱっと明るい声色でこちらに顔を向けた。
「そうだ! 五十嵐さん、練習付き合ってくれない?」
「え?」
「練習相手になってよ! 俺五十嵐さんとなら上手くできそう! いっつも一緒にいるし!」
私が、練習相手を……?
「いや、無理だよ、私ド素人だよ? 出来ないよ。誰かと付き合ったこと無いし、今まで好きな人出来たこともないし……!」
「五十嵐さんは立っててくれるだけでいいんだ。俺が考えたりするときに誰か居てほしいってだけだから。ちゃんとお金払うし。……駄目かな?」
首を横に振っていると、いつの間にか日野くんは立ち上がっていた。申し訳なさそうに私の手首を掴んできて、上目遣いでこちらの様子を窺ってくる。
「お願い。五十嵐さん……駄目?」
子供が強請るみたいな目に、胸のあたりがきゅっとした。
……何とか役に立ちたい。いつもご飯食べてもらってるし、ただでさえ訳の分からない額のお金を貰っちゃってるし……。
「お金はいらないけど……。あの、私本当に、立ってるだけしか出来ないけどいいの……? 多分……。いや絶対マネキンとかのほうが上手いよ。あっ、わ、わたし貰ってるお金、全部とっといてるからそれでマネキンを――」
「ううん。大丈夫だよ。五十嵐さんが傍にいてくれるだけで俺は他に何一ついらない。それ以外なんて邪魔なだけだし」
気を抜けば勘違いしそうになる言葉に心臓を押さえる。
駄目だ抑えないと。今の日野くんの発言に他意はない。
電子レンジを新調したとき、もう電子レンジしかいらない! 明日から電子レンジだけでいい! と調子に乗っている時の私と同じ気持ちだ。変な意味じゃない。
「じゃあそこ立って」
呼吸を整えていると日野くんに鏡の前に立つよう促された。そのまま大きな鏡の前に立つと、彼は私の背後に立ち肩に触れてくる。
「練習する上で、手とか腕触ったりするけど、いい……?」
「どっ、ど、どうぞ」
「ありがと」
至近距離で低く囁かれ肩が跳ねた。心なしかハーブ系の柔らかな石鹸みたいな香りがする。間違いない、多分これ日野くんの匂いだ。匂いが分かるほど、近い距離、これ、かなりまずいやつじゃ……。
「大好き、一生傍にいて」
一等甘い声に飛び退きそうになった。吐息が首筋にかかっていて、振り向くことすらできない。鏡に恐る恐る目を向ければ、日野くんが私を背後から抱きしめているところだった。後ずさることもできず身を縮めると、捕まれた手首に込められた力が強められ、さらに距離が狭まる。
「……ね、さっき言ってたの、五十嵐さんって、今まで好きな男いなかったって本当?」
「え、え、ひ、日野くん?」
演技の練習だよね? これは。何で私に質問してくるの……?
おろおろする私の手を掴む彼の目は、まっすぐだ。ふざけているようには到底思えなくて、私は何度も頷いた。
「本当に?」
「いや、あの、本当に全然そういうの興味無くて、食べることと作ることだけでっ」
「ふうん」
目をぎゅっと閉じると、私の指に日野くんの指がゆっくり絡められていく。肩に顎を乗せられていてもう身動きすら出来ない。首筋に彼の唇が僅かに当たり時間が永遠みたいに感じられる。
「じゃあ、好きなタイプは? どんな人と付き合いたい?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問たち。そんなこと考えたことも無いから分からない。テレビや雑誌だって、料理目当てで見たことはあっても、好きな芸能人目当てで見たことないし、名前だって殆ど覚えてない。
「い、いない……」
「じゃあ、結婚はしたい? どんな奴となら結婚してもいい?」
「わ、分からないよ」
私の言葉に日野くんは納得したのか、それともしていないのか。「へぇ」と低い声で返事をした。
「……今五十嵐さんがここで、手錠とかつけられても分かんないね」
「えっ……? わっ」
突飛な発言に目を開くと想像よりずっと日野くんの顔が近くにあって、一歩後ずさる。彼の手が腰に回ってぐっと近づけられた。
「えっと、ひ、日野くん?」
「恋人同士ってさ、こんな風に近付くと思うんだけど」
いつになく近くから見える日野くんの表情。その瞳はどこか昏くて、吸い込まれそうだ。肌の質感さえ詳細にわかってしまいそうで、視線を逸らせば手を握られ、顔を背けることすら難しくなってしまう。
「五十嵐さんって、けっこー睫毛長いね」
「ひ、日野くんのほうが長い、よ」
「そうかな? 比べてみる?」
「く、比べる!?」
「こうやって近づけてれば……分かるかも」
日野くんの顔がさらに近づいて来て、鼻先が触れ合いそうになる。目を逸らそうとすると今度は腰に手を回されて、正面から抱き寄せられてしまった。
「逸らさないで、練習にならないから」
「は、はい」
今にも心臓が止まりそうだけど頑張って日野くんと目を合わせる。
そうだ、仕事だ。いっぱいいっぱいになっている場合じゃない。ちゃんと彼の役に立たないと。
「ありがと、五十嵐さん……」
そう微笑む日野くんは、やっぱり、お弁当を食べている時とは全く違う表情だ。どうしていいか分からなくなる。胸が苦しい。今、どれくらい時間が経っているんだろう。
「五十嵐さんさ、顔真っ赤になってるね……」
「え、だ、だってき、緊張してるから、い、今だって心臓がぎゅってして、死にそうでっ」
「それってさ、恋愛感情じゃないのかな」
「え、ええ?」
「俺、色々本で読んだんだけど、好きな人の前だと心臓がどきどきして、顔とかが熱くなるんだって、今どう? 五十嵐さんどんな感じするの? 俺にどきどきしてくれてる?」
「わ、分かんないよ、そんな、す、好きじゃなくてもこんな近かったら恥ずかしくて見れないよ」
震える声でそう言うと、日野くんは目を細める。やがて私から身体を離して、ぽんと肩を叩いてきた。
「もう……終わりでいいや。ありがと。五十嵐さんのおかげで仕事頑張れそうだよ」
「ど、どういたしまして……」
顔が熱すぎる。日野くんから離れて深呼吸をすると、新鮮な空気が入って来て気持ちがいい。緊張で完全に息止めてた。冷たい空気が美味しい。
しばらく深呼吸を繰り返していると、彼はテーブルに置いてあった雑誌を片付けはじめこちらに顔を向けた。
「ねえ、五十嵐さん今度水族館行こうよ」
「えっ?」
「今日みたいに、演技の練習してほしくて」
日野くんは上目遣いをするようにこちらを見ている。
駄目だ。さっきまで死にそうになってたわけだし、あんな死にかけの私が彼の練習の手伝いになるわけがない。
「駄目? 五十嵐さん。俺と出かけるの……嫌?」
断ろうと思うけれど、彼の目を見ていると断ってしまうのが申し訳ない気持ちになってくる。返事ができないでいると、丁度セットしていたキッチンタイマーの音が鳴り響いた。
「あっ、しゅっ、シュウマイが出来上がるんで、じゃっ」
歪に手を上げてキッチンへ急行する。本当に駄目ださっきの。本当に駄目ださっきの。食べ物のこと考えて落ち着こう。
緊張を紛らわせるように蒸し器の蓋を開けると、湯気と共に香辛料の香りが広がった。キャベツ皮は鮮やかで、歯応えも期待できる仕上がりだった。
試しに一つ取って箸で切り分けると、麻婆の香りと共に脂ののった肉汁が溢れ出す。うん。これだ。美味しそう。落ち着いてきた。美味しそう。私は出来る。大丈夫。
シュウマイをお皿に盛りつけ、付け合わせも順に盛っていく。
ブロッコリーとえのきの餡かけは味が濃くなりすぎないように塩分を調節しつつ、餡にはさっぱりと食べられるよう甘酢風味にした。
ほうれん草、人参、もやし、そしてピーマンを入れたごまだれ風ナムルは市販のごまだれに、追加ですりごまを加えた。
ピーマンは苦みが強く出ないよう。縦に千切りというのを徹底して湯通しもしてある。
千切りにした大根と、カニかまぼこを加えたかき卵の味噌汁は昆布で出汁を取って、杏仁豆腐は寒天で固めた。
寒天にした分、ゼラチンのとろりとした舌触りじゃなくて、弾力のあるつるっとしたものだけれど、カロリーは抑えられたはず。
ナムルと杏仁豆腐は、一人分余分に作って、日野くんが後で冷蔵庫からさっと取り出して食べられるようにした。うん。大丈夫。大丈夫だ。
一つ一つチェックをしていって、力強く私は頷く。
「日野くん、でき……」
お皿をダイニングテーブルへ運ぼうとすると、にゅっと傍から手が出てきてお皿をかすめ取っていった。
ふわりと、さっき頭がおかしくなるくらい感じていたハーブの香りが散っていく。
「料理は俺が運ぶよ。いつも洗い物くらいしか出来てないし」
呆然とする私をよそに、彼は軽い足取りでお皿に盛りつけられた夕食を運ぶ。
その背中を見て、手の力が抜けていき、へたりこみそうになるのをぐっと堪えた。
駄目だ。
本当に、駄目だ。
私は今、とんでもない場所に足を踏み込んでいるかもしれない。
さっき嗅いだばかりの出来立ての美味しそうな食べ物の匂いよりもずっと強く、強く日野くんの匂いを感じてしまった。
◇
夕焼けを背に、シャッターの閉じた商店街を歩く。
日野くんの仕事のお手伝いをして……私の心臓が潰れかけてから一週間後。私はお盆ということでどこか寂し気なシャッター街を歩いていた。
今日は日野くんが朝からお仕事だからと買い出しに出たけれど普段掲げられるのぼり旗は仕舞われ、商店街はどことなく悲し気な雰囲気を漂わせていた。
心なしか遠くから聞こえる蝉の声も、いつもより小さい。
かといってお店は全て閉じている訳じゃない。開いているお店もいくつかあって、缶詰の類はスーパーよりこっちの方が安く買うことが出来た。ずしりと重い袋を握り直して、私は周囲をぐるりと見渡す。
空は赤く染まっていて、普段ならこのあたりは夕食の材料を買い求める人達とか遊んだ帰りの子供達で賑わっているはずなのに、今はすれ違う人すらほとんどいない。足音すら聞こえないほどだ。
スピーカーから聞こえてくるのはいつも聞こえた楽しくてポップなメロディではなく、どこか悲しさを感じさせるクラシックで、なんだか別の世界に来たみたいだ。
普段馴染みがあるはずの商店街に居心地の悪さを感じながら見渡していると、ポケットに入れていたスマホが振動し始めた。
画面を見ると、「日野くん」と表示されている。何かあったのかと思い急いで通話をオンに切り替えると、いつもより低い日野くんの声が聞こえた。
「五十嵐さん?」
「う、うん。五十嵐です」
「ははは、良かった。今仕事終わって帰るところなんだけど、声が聞きたくなって」
声が聞きたいとか、言わないでほしい。心臓がぎゅってする。業界というやつで培ったコミュ力とかなのかな。心臓に悪い……。
「そ、そうなんだ」
「ふふ、ねえ五十嵐さん、ちょっと振り返って後ろ見てくれない?」
「後ろ?」
「うん。はーやーく」
急かされ振り返ると、私と同じように片耳にスマホをあてた日野くんが少し遠くで立ち止まっていた。変装をすることもなくにこやかな笑みで立っている。何で彼が、ここに?
「みーつけた」
ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた日野くんは、とうとう私の前に立った。そして自分のスマホをポケットにしまうと、私の持っていた缶詰の袋をするりと抜き去ってくる。
「家帰るんだよね? 荷物運ぶよ。重そうだし」
私の返事を待たずに日野くんは軽やかな足取りで歩み始めた。私は訳も分からないまま、彼の後を追ったのだった。
◇
「そっ、そこ座ってて、今お茶入れるから」
私の家のリビングに立つ日野くんにそう声をかけ、足早に台所に向かっていく。
あれから彼は「普段のお礼がしたいから、これくらいはさせて」と荷物を離すことはなかった。
そして結局家まで荷物を持ってもらった私は、お茶でも飲んでいってほしいと彼を家に招いたのである。
最近朝と夜しかいないリビングに、日野くんがいる。不思議な感じだ。彼はソファにちょこんと座って、部屋を見渡している。お父さんやお母さんが海外から帰ってくる度にお土産を飾っているから、壁には何をモチーフにしているか分からないぬいぐるみや、木彫りの魔除けみたいなものがたくさん並んでいる。独特な雰囲気だから気になるのだろう。
私はお茶を淹れつつ、疑問に思っていたことを彼に問いかけることにした。
「ねえ、日野くん。どうして商店街にいたの?」
「近くで撮影があったんだよ。前に俺もあの商店街行ったことあって、電話越しに聞き覚えがある曲が聴こえて来たから、探してみたら五十嵐さん見つけて」
「なるほど……」
冷蔵庫から麦茶ポットをとって、ガラスのコップに注いでいく。渋く透けた茶色の波紋が揺らめくコップを日野くんの元に運ぶと、彼は「ありがと」とこちらに微笑んでから一口飲んだ。
時計を確認すると時刻は丁度午後三時半。夕食というには早い時間だ。でも、日野くんはお仕事をしてきた後だからお腹が空いているかもしれない。遅めのおやつ……誘ってみようかな。荷物も持ってもらっちゃったし。
「あの、さ。日野くんお腹空いてたりしない? もしよければなんだけど、一緒におやつ食べたりしない?」
恐る恐る問いかけると、彼は「いいの?」と目を輝かせた。作る前からそんなに喜んでもらえるなんて、すごく嬉しい。
「勿論だよ、今作るね」
早速おやつ作りに取り掛かろうとすると、玄関のポストに何かが入った音が響いた。
私の家のポストは比較的音が大きくて、買い替えようか……なんて話をしている間に両親は海外に行ってしまったからそのままだ。
日野くんに声をかけてからポストを確認すると、そこには水道局の点検を知らせる便りが届いていた。
年に一回の点検で、しばらくの間断水になるらしい。
家の中に入ったりすることはないから留守にしていても平気だけれど、水は使えない……なんてことが書いてある。
「……あれ」
でも、おかしい。水道局の点検は両親が海外に発つ当日に行われたはずだ。
きちんと水道局の人っぽい制服を着ていた。帽子をかぶっていたから顔はあまりよく分かっていなかったけれど、確かに工具も持っていたし。
両親が急いで出なきゃいけないことを知ると、「こちらはこちらでやっておくから、お二人は準備をしていてくださって大丈夫ですよ」と親切に答えてくれた人だ。
なのに、ここには年に一回と書いてある。こんな短い頻度で点検があるなんてあるのかな……。
「どうしたの?」
「わっ」
首を傾げていると、いつの間にか日野くんが真横に立っていて、「なにこれ、ハガキ?」と、水道局からの便りに首を傾げた。
「水道局の点検、春にあったのに、またあるから何でだろうと思って。一年に一回ってここには書いてあるのに……」
「そうなんだ。春の時は家に入ってきたの?」
「うん。色々見てくれてたっぽいんだけど……」
「じゃあその違いじゃないかな? こっち断水するって書いてあるし、春の時はしなかったんでしょ?」
「うん。お水は使えてたよ」
「なら個別の器具の点検だよ。ただそういう業者を装って家に押し入ったり、なんてこともあるから、次から気を付けて」
「えっ、そんなことあるんだね……」
あのときは両親が傍にいたけど、私が一人の時だったら危なかったかもしれない。家の中の通帳とか、全部盗られてたりとかされてたかもしれない……。
「もう春に家の点検もあって、それで次断水させて点検でしょ? これでまた秋に点検来たら危ないってことで。俺も点検続いたことあったし、何か盗まれたわけじゃないんでしょ?」
確かに日野くんがそう言うならそうなのかもしれない。さっきまで不安だった気持ちがすっと消えていった。
お礼を言おうとすると、彼は「悪いけど、お手洗い借りてもいいかな?」と視線をトイレのほうに向けた。
「うん、どうぞ。私は早速おやつ作り、行ってくるね」
そう言ってキッチンへと向かった私は、おやつ作りの為に手を洗いながらふと重要なことに気付いた。
日野くんに、場所を教えていない。
慌ててキッチンを出ると、トイレの扉の前には彼に貸したスリッパがきちんと並んでいた。その様子にほっとしてまた踵を返していく。
……ん?
思えば日野くんは、何でトイレの位置を把握していたんだろう。
視線の向きは正しかったけれど、そんなに分かりやすい扉でもなかったはずだ。
お父さんが目に見えて分かるのは嫌だと扉の外観はお洒落にしていて、家に来た人はいつも場所がわからず困ってしまうから必ず場所を教えなきゃいけなかったのに。
まぁ、いいか。完全にオーダーメイド! ってわけでもないし、どこかで見たことがあったんだろう。
私は気を取り直して、またキッチンへと戻ったのだった。
◇
ボウルに卵を割り入れ、牛乳と砂糖、抹茶を入れて切るように混ぜていく。
全体がダマなく均一な抹茶色になったら、今日のおやつ――抹茶フレンチトーストの元になる液の完成だ。
このまま食パンやフランスパンを浸せば抹茶フレンチトーストの完成だけど、カロリーは抑えないといけない。私は乾物をしまっている棚に足を向け、今回の主役である車麩を袋から取り出した。
今日はパンではなく車麩のフレンチトーストだ。
車麩はそのままフレンチトーストの液にくぐらせて沈めていく、菜箸で押さえつけしばらく待っていると、液が浸み込んで淡い色の身が綺麗な抹茶色に染まってきた。
「よし、漬け込みおわり」
フライパンを熱して油をならして、少しだけフレンチトーストの液を落とす。頃合いを見計らってからフレンチトースト液が浸み込んだ車麩を一枚一枚丁寧に並べた。
焼き目がつくのを待って、いい焦げ目が出来たらひっくり返す。両面に綺麗な焼き色がついたら完成だ。
ふわふわのフレンチトーストをお皿に盛りつけ、黒蜜をとろりとかけていく。その上からさらにきな粉をふりかけ、あらかじめ作り置きしていた小豆と豆乳バニラアイスをトッピングした。
「あ、完成?」
投げかけられた声に心臓が跳ねた。いつの間にか日野くんは私の横に立っていて、私の肩に顎を乗せている。
いつから隣にいたのかさっぱり分からない。料理をしている時は本当に集中していて、よくお父さんやお母さんに注意はされていたけどここまでじゃなかったのに。
「何か盛りつけお店みたいだね! 崩すの勿体ないな……。でも写真撮るのも冷めちゃうから勿体ないね。アイス溶けちゃうし。動画回しておけば良かったかな……?」
「ま、また作るよ。今度も盛りつけも、頑張る」
「やった! 運んでもいい?」
「ありがと……お願い」
日野くんは「任せて」とダイニングテーブルに出来上がったフレンチトーストを並べた。向かい合うように座り、手を合わせると、彼は満面の笑みで口に運び始める。
「熱いし、ひんやりしてて、美味しい! 五十嵐さんすごいね……! アイスとめっちゃ合う」
そう言ってフォークを止めない日野くん。気に入ってくれたようで何よりだ。それにしても本当に美味しそうに食べるなあ。食堂で見た、不味そうに食べる彼の姿が信じられないくらいだ。
「この小豆アイスもすごく美味しい。五十嵐さん俺の家にさ、あれ……ラズベリーとヨーグルトのシャーベット作って置いておいてくれたじゃん」
「あ、あれもう食べてくれたんだ」
最近は頑張っている日野くんの栄養が偏らないよう、フルーツのアイスを作ってなるべくバランスよく栄養が摂れるようにしている。
夏バテもある季節だし、彼は沢山食べてくれるけど栄養補助的なものもあったほうがいいだろうし。
「あれも美味しくてさ……風呂上がりのテンションが違うもん。風呂に洗浄以外の意義見出してなかったけど今は五十嵐さんの作ったアイス食べるのめっちゃ楽しみで。本当にありがとうね」
「ううん。そんな風に喜んでもらえて嬉しいよ。また作るね。今度は何味がいいとか希望ある?」
「えー、なんだろ。五十嵐さんの作る味全部俺好みだからな……。はは、やっぱり、もう五十嵐さんなしじゃ生きていけないな。俺」
日野くんは、こういうところがずるいと思う。でもきっと、コミュ力の高さ故だ。そう思わないと心臓が痛くて仕方なくなってしまう。
冷静になろうとコップに手をかけると、彼は何てことのないように言った。
「俺のこと嫌いになったらさ、殺してね」
「え……」
「前にも言ったでしょ? あれ、本気だからね」
彼の目を見て時間が止まったような感覚に陥った。
また、この目だ。真っ暗で吸い込まれそうな瞳。この目を見ているとなんだか自分がどこにいるのか分からなくなる。
戸惑いながら視線を外すと、彼は「逸らさないでよ」と笑った。
「俺のこと、ちゃんと見ててね」
日野くんは悪戯っぽく舌を出すと、またフレンチトーストを食べ始める。私はギャップに戸惑いながらフォークを動かしたのだった。
◇
おやつを食べ終え、日野くんはフォークを置くと満足気に手を合わせた。
「ごちそうさま、五十嵐さん。今日もすっごく美味しかった。ありがと」
「どういたしまして」
「本当に本当に最高だった。おやつ作るのも上手だからすごいよ。俺今まで甘いものとかどうでも良かったけど、五十嵐さんのおやつ食べるようになってから、甘いの好きになれた」
日野くん、甘いものそこまで好きじゃなかったんだ……。
じゃあ食べられるものの幅が広がったってことか。良かったなあ。安堵と共に嬉しさを感じていると、彼は何かを思い出したようにポケットに手を入れた。
「ね、明日って時間ある?」
「うん。あるよ」
「じゃあ、ここ一緒に行こう?」
ぱっと差し出されたのは水族館のチケットだ。
なにも考えず反射的に時間があると言ってしまった手前、断ることはできない。迷っている間にも彼は上目遣いでこちらを見てきた。
「どうしても、駄目かな? 一緒に行ってくれるだけでいいんだ」
「えっと……」
「お願い。俺女子で仲良くしてもらってるの五十嵐さんだけで、他は一人もいないし、姉とか妹もいないし、女の子の親戚とかもいなくて、……五十嵐さんにしかお願いしたくないんだ。ドラマ初めてだし、どうしても成功させたくて……お願い……!」
そう言って頭を下げる日野くんを私は慌てて押さえた。
ドラマもあるし彼がこう言ってるわけだし、私のちっぽけな羞恥心とか心臓がぎゅってなって死にそうだからとか言ってる場合じゃない。
「うん。分かった。行く。一緒に行くよ」
「本当に絶対?」
やや無機質な日野くんの声が響く。彼は頭を上げる気配がない。少し異質な雰囲気に戸惑いながらも私は「絶対」と念を押した。
「ありがとう。五十嵐さん」
瞬時に彼は顔を上げた。あれだけ不安を帯びていたはずの表情は実に爽快そうなものに変わっている。あまりの豹変ぶりに不思議と何か取り返しのつかないことをした気がして、私は曖昧に頷いたのだった。




