愛という名の光
夜の嵐が過ぎ去った翌朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、静かな寝室を淡く照らし出していた。
目を覚ましたジュリアは、自分の腰に回された腕の重みを感じ、ゆっくりと目を開けた。
そこには、昨夜の憔悴しきった自分を宥めながら眠りについたロマリオの腕があった。背後から聞こえる彼の寝息は規則正しい。
昨夜、あんなにも激しく彼を拒絶し、離縁を叫ぶほど心をかき乱されたというのに。
胸の奥底には、あの夜会で感じた嫉妬や、かつて冷遇された日々の記憶が消えない棘のように残っている。完全に過去を忘れることなどできないし、ふとした瞬間にかつての苦しみが甦り息が詰まるような恐怖に襲われることは、これからもきっとあるだろう。
心に負った傷は、そう簡単に綺麗な形には戻らない。
だが、ジュリアはもう、その恐怖から逃げるのをやめ、ゆっくりと彼の腕にそっと自分の手を重ね合わせた。
彼の体温を感じた瞬間、びくりとわずかに体が震えるのは、まだ心のどこかが怯えている証拠だろう。それでも、自分はその消えない不安を抱えたまま、しっかりとロマリオの温もりを受け止める。
「……おはよう、ジュリア」
いつの間にか目を覚ましていたロマリオが、背後からかすれた声で呟く。その少し掠れた声には、愛おしさだけでなく、昨日自分を追い詰めてしまったことへの消えない自責と、それを一生かけて償うという強い覚悟が宿っているように感じた。
「……おはようございます、ロマリオ様」
震えの残る声で返しながら、ジュリアはわずかに口元を緩ませて微笑む。
それはかつてのような完璧な作り笑いでも、感情を凍らせた人形のそれでもない。
恐怖も、嫉妬も、過去の傷もすべて抱えたままの、不器用で、泥臭い――けれど確かに温かい、心からの笑顔だった。
消えない傷痕を背負いながらも、私は二度とロマリオ様の手を離さないと誓った。
その誓いを胸に、今日という新しい朝から、私は再び歩き始める。
◇
それから、月日が流れ――。
静まり返った部屋のなかで、世界が急に狭くなったような気がした。
オギャーッ!!
次に聞こえたのは、産婆が忙しく動く気配と、自分の荒い息遣い、そして――それらとはまったく違う、小さく、けれど確かな赤子の産声だった。
「お疲れ様でした! 元気な男の子ですよ!」
産婆の穏やかな声とともに、今、生まれたばかりの赤子がそっと腕の中に預けられる。
布にくるまれたそれは、あまりにも軽くて、とても小さくて、壊れ物どころか、息を吹きかけたら消えてしまいそうなほど頼りなかった。震える両手でそっと抱え込みながら、私は息を呑む。
これが、私とロマリオ様が望んで授かった命。――私の子。まだ焦点も定まらない瞳が、かすかに瞬く。その瞬間、胸の奥底で何かが音を立てて崩れ去り、そしてまったく新しい感情が激しく満ちていくのを覚えた。
涙が一粒、ぽとりと赤子の頬に落ちた。慌てて拭おうとしたが、止めどなくあふれて止まらない。
悲しいわけでも、痛いわけでもない。ただ、胸が締め付けられるほどの愛おしさが、どうしようもなく溢れ出していた。
しばらくして、侍女の控えめな声が聞こえた。
「奥様、若旦那様がお見えです。……お通ししてもよろしいでしょうか?」
侍女の問いかけに、私は小さく頷いた。
「ええ……」
ほどなくして、静かに扉が開く。
「ジュリア……」
入ってきたロマリオ様は、いつもの落ち着いた姿とはどこか違っていた。私のもとへ駆け寄りかけて、けれど腕の中の赤子に気づくと、足を止める。
「……生まれたのか?」
「はい。元気な男の子ですよ」
産婆の言葉に、ロマリオ様はしばらく何も言わなかった。
ただ、私の腕の中にいる小さな我が子を、食い入るように見つめている。
何かを言おうとして、何度も唇を開きかけては閉じる。やがて、その目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……生まれてきてくれた」
それだけを呟くと、彼は我が子を見つめたまま、何度も涙を拭った。
「ロマリオ様……」
「……ジュリア」
彼は涙の跡を残したまま、私を見つめる。
「よく頑張った。本当に……ありがとう」
そう言って、彼は私の額にそっと口づけた。そして、もう一度、腕の中の小さな我が子へと視線を戻す。
「……名前は、決めていた通りにしよう」
私は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「ええ。シリルと」
「ああ……シリル」
初めて口にしたその名を、ロマリオ様は噛み締めるように繰り返した。私たちが望み、待ち続けてきた小さな命。その名が、静かな部屋に優しく響いた。
◇
それからの日々は、目まぐるしい速さで過ぎ去っていった。
屋敷には乳母や多くの使用人が控えていた。ジュリアの『発作』が起きぬよう、ロマリオや義母の差配によって、乳母は夫や子供を含めた家族ごと屋敷に住み込むことが許され、その選定もすべてジュリアに委ねられていた。
(この方は、今、ロマリオ様に視線を送ったわ……。この方は化粧が派手な『女』でダメね……。この方は、自分の子供を大切にしている『母親』だわ。この方に決めた!)
信頼できる人々に囲まれ、ロマリオの献身的な気配りによって身体的な負担は最小限に抑えられていた。それなのに――母親としての重責と、心の奥底に巣食う消えない不安が、ジュリアの精神をじわじわとすり減らしていく。
授乳のたびに、理由の分からない不安が胸をよぎった。侍女がロマリオ様に親しげに話しかけたり、ふと視線を向けたりするだけでも、必要以上に気になってしまう。
ロマリオ様や周囲の者たちにどれだけ気を配ってもらっていても、私の心はいつも緊張していた。少しでも気を抜けば、かつてのような嫉妬や疑いがまた顔を出してしまいそうで、自分の感情を抑えるだけで疲れ果ててしまう。
けれど、そんな泥臭い葛藤のなかで、私を支えていたのは他でもない、愛するシリルの存在だった。
ある夜、数時間おきの授乳と、原因の分からない夜泣きに疲れ果て、薄暗いリビングのソファで途方に暮れていたときのことだ。
小さな胸を精一杯反らせて泣きじゃくるシリルを抱きしめながら、ふと思った。
――私はこの子のために、どこまでできるだろうか。
いや、考えるまでもなく、答えは明白だった。
私の睡眠を削ることなど惜しくない。私の健康も、自由も、人生の大部分さえも、シリルのためなら差し出すことができる。もしシリルの身に何か危険が迫るなら、自分の命と引き換えにだって迷わず盾になるだろう。
それまでの人生で、私は誰かをそこまで強烈に、見返りなしに愛したことがあっただろうか。
友人関係でも、家族でも、そしてパートナーとの愛情でさえ、どこかで『これだけしたのだから』『自分もこれくらい愛してほしい』という損得勘定や、満たされない不安がつきまとっていた。人間関係とは、常にバランスを取り合う脆いものだと思っていた。
しかし、目の前のシリルは、私に何かを返してくれるわけではない。夜中に泣き叫び、私の自由を奪い、自分の力では生きられない無力な存在だ。それなのに、私はこの子に何かを要求したいと思ったことが一度もない。ただそこに存在してくれているだけでいい。乳を飲んでくれればそれだけで救われ、眠っているだけの姿に胸が熱くなる。
シリルは、何の疑いもなく私に身を預けてくれる。
私がどんなに弱い母親であっても――ただ、私を必要としてくれる。それだけでいい。本当の私は、こんなにも不器用で、不完全なのに。
その瞬間、初めて分かった。
愛するということは、相手から何かを返してもらうことではないのだ、と。
これが、世に言う『無償の愛』なのだろうか。
私はただ、シリルの小さな体を抱きしめていた。柔らかな頬に触れるだけで、胸の奥がいっぱいになる。こんなにも誰かを愛おしいと思ったことは、今まで一度もなかった。
◇
季節が巡り、二歳のシリルはよちよちと歩き始め、やがて片言の言葉を話すようになった。その小さな手を引いて邸内の整えられた庭園を歩くとき、ふと、かつての自分の不安定だった感情を思い出す。
ロマリオ様にどう思われるか、愛されているかという不安に怯え、彼を取り巻く女性たちの視線を常に疑っていたあの頃の自分。愛されるために必死に仮面を被り、傷つくことを恐れて心を凍らせていた日々。
けれど今、私の手には、あの頃欲しくてたまらなかった『確かな温もり』がある。
この子は、まだ何も疑わない。私がどんなに不格好で、不完全な母親であっても、無防備な笑顔で私を必要とし、その小さな体を何のためらいもなく私に預けてくれる。その信頼の重みが、私の弱かった心を驚くほど強くしてくれていた。
「お母たま!」
振り返ると、小さな手が私の衣服の裾をキュッと掴み、足元から見上げてくる。
その瞳に映る私は、きっと世界で一番頼もしくて、優しい存在に見えているのだろう。
まだ上手に言えない発音で呼びかけられるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられ、同時に温かい光で満たされていく。
シリルがいつか成長し、自分の足で世界へ羽ばたいていく日が来る。その時がくれば、いつかはこの手を離さなければならないのだろう。
それでもこの子が私に教えてくれた、愛することの温かさだけは、決して失わない。
夕暮れの空が、優しい茜色に染まっていく。私はしゃがみ込み、愛するシリルの小さな体をしっかりと抱きしめた。
世界がどれほど冷たく残酷で、先が見えない闇に包まれることがあったとしても、この腕の中にある温もりを、私は決して忘れない。そしていつか、この小さな手が私の手を離れる日が来ても、愛することの温かさは、私の中で永遠に消えない。
溢れる愛を噛み締めながら、私は繋いだ手をしっかりと握りしめ、ゆっくりと歩き出した。
ハッピーエンド?
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