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第四章:静かな亀裂 (2)

毎週土曜・日曜更新予定

祝日は追加更新あり

模擬戦を終えた翌朝。


中等部寮の食堂で朝食を取っている時から、妙な視線を感じていた。


昨日の模擬戦のことが、思っていた以上に広まっているらしい。


視線、と言っても敵意があるわけではない。だが、落ち着かない。


パンを口に運ぶたび、スープを飲むたび、ざわめきの中から断片的な囁きが耳に入る。


本来なら、この距離では聞き取れないはずの声だ。


――俺は人より少しだけ耳がいい方だと思う。


それは、昔、剣聖である師匠と過ごした頃に徹底的に鍛えられたからだ。


目に頼るな。音を聞け。風の流れを読め。地面の震えを感じろ。気配を拾え――


まだ子供だった俺に対しても、師匠の修練は容赦がなかった。


あの頃のことは、どれだけ言葉を選んでも冥界の底のようだったとしか言いようがない。


目隠しをされたまま、師匠の言葉の意味も十分に理解できないまま、とにかく必死で感じ取ろうとした。


失敗すれば、木剣で容赦なく叩かれる。 背中でも、肩でも、時には足元でも。 倒れれば、立つまで待たれるだけだ。


死なない程度に、ぎりぎりまで追い込まれる。 それを、あの人はいつも穏やかな顔でやってのけた。 その表情が、当時の俺には魔族よりもよほど恐ろしい存在に思えたものだ。


だが、今となってはそんな過酷な修練の日々もどこか懐かしい。


師匠の鬼のような鍛錬があったからこそ、俺は勇者としてやっていけたのだから。


その名残で、今でも無意識のうちに周囲の気配を探ってしまう癖がある。


聞きたくない噂まで拾ってしまうのは、そのせいだ。


「あれが噂の編入生……」 「同じクラスの男子、全員やられたらしいぞ」 「編入早々、男子十人抜きだってさ」 「しかもソニアさんまで……」 「初日から喧嘩売って全員叩きのめしたって聞いたけど」 「見かけに依らず、逆らったら血祭りらしいぞ……」


……面倒なことになった。


確かに、昨日の模擬戦では多少やりすぎたのかもしれない。


とはいえ、俺がやったのは順番に模擬戦をこなしただけだ。 喧嘩でもなければ、誰かを潰しにかかったわけでもない。


それなのに、そんな噂で評価されるのは心底心外だ。


さらに別の声が混じる。


「あのニナちゃんを口説いて無理やり自分のものにしたとか……」 「嫌がるソニアさんを皆の前で恥をかかせた外道だって」


……おい、待て。 なんだ、今のは。


誰がそんな根も葉もない噂を吹き込んでいるのだ。


事実無根だ。


今すぐ否定して回りたい気分だが、やればやるほど火に油を注ぐ未来しか見えない。


あまりにも心外だが、今はただ噂の熱が冷めるのを待つしかない。


そう決めたものの、食堂を出て中等部校舎へ向かう今も、その空気は変わらなかった。


廊下ですれ違う生徒たちが、こちらをちらりと見ては小声で何かを交わす。


露骨に距離を取る者もいれば、好奇心を隠せない様子で見てくる者もいる。


同じクラスの連中の視線も混じっていた。


視線が合うと逸らされる。 かと思えば、また別の方向からひそひそと声が漏れる。


「自由探索のパーティ、決まったのかな……」 「お前、聞いてみろよ」 「いや、無理だろ! 昨日あんなに負けたのに話しかけにくいよ!」


そこまで聞こえて、足音に掻き消えた。


自由探索のパーティ、という言葉だけが妙に耳に残る。


そういえば、自分を含めて最大六人まで一緒に行けるという話だったな。


特に深く考えていなかったが……さて、どうするか。


それにしても、かなりそわそわした様子だった。 そんなに気になるものなのだろうか。


そう思った矢先だった。


背後から、勢いよく地面を蹴る気配。


次の瞬間――


「おはよう、アベルくん! 迷宮自由探索、楽しみー!」


弾けるような声とともに、ニナが飛び込んできた。


周囲の空気が一瞬で変わる。


特に同じクラスの生徒たちが、「自由探索」という言葉に反応するかのようにぴくりと肩を震わせたのがわかった。


その理由を考えるより早く、ニナがそのまま俺に抱きつく。


彼女は俺より頭一つ分ほど小さい。


自然と、こちらが見下ろす形になる。


腕の中から見上げてくる大きな瞳。


そこにあるのは、純粋な喜び。


そして、これから始まる祭りを前にした子供のような期待に満ちた目だった。


突然抱きつくな、とか。 おはよう、とか。


いくつも対応の選択肢は浮かんでいたが、それ以上に気になることがあった。


「……一緒に迷宮へ行くつもりなのか?」


ニナはきょとんと首を傾げる。


それから、ぱあっと花が咲いたように笑った。


「うん! そうだよ!」


俺が何も言わずに見下ろしていると、ニナは不安げに目をうるうると滲ませる。


「……もしかして、ダメなの……?」


さっきまでの元気はどこへやら。


今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で見上げられ、思考が止まる。


「あ、いや。 ダメなわけではないけど」


またしても、ぱあっと花が咲くような笑顔。


「じゃ、いいんだよね? やった! アベルくん大好き!」


ニナは喜びを全身で表すかのように、さらに力を込めて抱きついてくる。


一部の男子の視線が何故か険しくなった気がする。


ニナと一緒に迷宮へ行くこと自体、俺に拒む理由はない。


むしろ、迷宮について何も知らない俺が一人で向かうよりは、その方が現実的だ。


ハウゼンさんからも、迷宮に入るなら一人で無理をするなと釘を刺されている。


昨日学園に身を置いたばかりで、知り合いと呼べる人間も少ない俺にとっては、むしろありがたい話だ。


どこか腑に落ちない感はあったが、気にしないことにした。


そういえばニナが腕に抱きついたままだったな。


……まあ、いいか。


今さらニナを引き剥がす気にもなれず、そのまま教室に向かう。


扉を開けると同時に、ようやくニナは俺から離れた。


「みんな、おはよー!」


元気いっぱいに手を振りながら、クラスメイトの方へ駆けていく。


あっという間に女子たちに囲まれ、楽しげに笑っている姿が目に入った。


小柄な体に、大きな瞳。 ころころと変わる表情。


まさに、皆に愛される小動物みたいだ。


その様子を横目で見ながら、俺は静かに自分の席に座った。


と、その瞬間――


「なあアベル!」


顔を上げるまでもない。イチだ。


「迷宮、いつ行くんだ? 今週末か? 今からでも腕が鳴るぜ!」


朝から全開だな……


俺は思わず眉をひそめる。


「……お前もか」


「ん?」


「どうして最初から一緒に行く前提なんだ。 俺が誰とも組まない可能性は考えなかったのか?」


一瞬の沈黙。


イチは心底理解できない、という顔でこちらを見た。


それはまるで、何を言っているんだこいつ、バカなのか? とでも言いたげに、常識を疑う愚か者を見るような目だった。


「アベル、お前何言っているんだ! バカなのか?」


……こいつ、今はっきり言ったな。


思わずイラッときた。


しかし当の本人はまったく悪気がない様子で、胸をどんと叩いた。


「親友のこの俺が一緒に行かないとか、あるわけないだろ? な?」


まるで世界の真理を語るかのような声音だった。


あまりに当然と言わんばかりの態度に、怒る気力も削がれる。


俺は深く息を吐いた。


「……いつ行くかは、まだ決めていない」


「じゃあ決まったらすぐな! 俺はいつでも準備できてるから!」


イチはそこで腕をぶんぶん振り回した。


「ほら見ろ、この仕上がり! 早速昨日から腕立てと素振り百回追加だぞ?」


「そうか。それはご苦労だったな」


真面目に相手しても疲れるだけなので適当に聞き流す。


まだ知り合って一日だけど、こいつの扱い方っていうものがわかってきた気がする。


こいつは本当に落ち着きがない。


未だに腕の筋肉の仕上がりを自慢するイチをあきれてみていたら、視線を感じた。


そこに視線を向けると、こっちを見ていたラミアールと目が合う。


どこかそわそわした様子だったラミアールは、視線が合うや否や尊大な笑みを浮かべ、こちらに近づいてくる。


その姿だけで俺は悟った。


……これはまた、面倒なことになりそうだ。


しかしその瞬間、教室の扉が開く。


担任であるレイラ先生が入室し、ざわめきが一斉に静まった。


「はい、皆さん。 席に座って。 朝礼を始めます」


ラミアールが渋々と自分の席に戻る姿を見届け、俺は視線を正面に戻す。


結局、ラミアールが何を言おうとしたかは謎だが、あまり気にならないからいいとしよう。


簡単な連絡事項がいくつか伝えられ、先生は教室を出る準備をする。


今日の一限目はレイラ先生の担当ではないらしく、朝礼を終えると、そのまま教室を出ていこうとした。


「あ、そうだ」


ドアを通る直前、レイラ先生が俺の方を見る。


「アベルマスくん。 迷宮自由探索の件で、学園長から少しお話があるそうです。 昼休みなど時間がある時に、学園長室へ行ってみてください」


静かな声だったが、教室の空気がわずかに揺れた気がした。


その直後、横から鋭い視線を感じる。


ソニアだ。


昨日の件もそうだったが、やはりあいつはハウゼンさんが絡むと露骨に空気が変わる。


俺はその視線に気づかないふりをして、正面だけを見た。


「分かりました」


昨日に続いて今日も、穏やかとは言い難い一日になる予感がした。

面白いと感じていただけましたら、反応をいただけますと励みになります。

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