後編 ★
exaさまよりイラストいただきました。
本文末に貼っております。
ルイーズがいつものように庭の手入れをしていると、少し前に植えた苗が蕾をつけていることに気づいた。
(オーレリアン様の瞳のよう……)
青い花は珍しい。この蕾の色はオーレリアンの瞳にそっくりで、これらが開花したらどれだけ素敵だろうかと、自然口元に笑みが広がる。
花壇の縁に腰かけて、昨夜の出来事を思い出す。
オーレリアンはクロード・バルバストルであったのだ。帰りの馬車の中で、彼は正しい名前をクロード・オーレリアン・バルバストルであると告げた。
貴賓として招かれた王族は、ルイーズの腹違いの兄で第二王子のエティエンヌとその妻であった。
本来、戦勝祝賀会など開催する予定は全く無かったのに、王家から再三の要請があって実現に至ったものである。
オーレリアンは、降嫁した元王女の様子が気になるのだろうと考え、最終的に開催を受諾したと説明した。
しかしエティエンヌの表情にはルイーズを気遣う様子は微塵もなかった。
エティエンヌは、バルバストル家で冷遇されているであろうルイーズを笑って、日頃の鬱屈した気持ちを晴らそうと考えていたのかもしれない。
王家から押し付けられた邪魔者であるはずのルイーズ。
侍従から冷たくあしらわれているのではないか、またはクロード・バルバストルが噂通りの暴君で、彼の鬱憤の捌け口にでもなっていやしないか、……それを楽しみにしていたのだ。
それに対してオーレリアンは、ルイーズをまるで宝物のように大切に繊細に扱い、エティエンヌをイライラさせた。
逆に、パーティーの間中、オーレリアンに甘やかされ続けたルイーズは、一夜明けた今もまだ、夢から抜けきらないようなふわふわした気分である。
生まれてから今日まで、誰がこんなにもルイーズを大切にしてくれただろうか。あんなに楽しくダンスしたことがあったか。ずっと笑顔でいられたことは?
母を失ってから久しぶりに触れた人の温もりは、記憶の中のそれよりもずっと温かくて大きかった。
(でも結局、わたくしはバルバストル侯爵夫人役でしかないのよね)
この廃城に戻ってから、オーレリアンはルイーズにいつもの調子で告げたのだ。
「王家にお前の姿を見せてやっただけだ。もうこのようなパーティーに付き合わせるつもりはない。お前は当初の約束通り、自由にしていい。この城を出たくなればいつでも言え」
オーレリアンはルイーズを娶るつもりはなかったのだろう。つまり、エティエンヌの考えは方向性としては間違っていないのである。
王家から押し付けられたお荷物であり、昨夜のパーティーは王家との間にわだかまりを生まぬための印象操作。
考えてみれば、とルイーズはいつかのオーレリアンとのやり取りを思い出す。
ルイーズが侯爵家へ向かう途中の王族であると知っても、彼は自らがクロード・バルバストルであることを伏せていたのだ。
(力関係の読み合いばかりの世界を抜けて、こうして一人の侍女として過ごせることをただ喜ぶべきね)
ほんの少しチクリと騒ぐ胸の奥を見ない振りをして、ルイーズは城内へと戻る。
今日は図書室を掃除するつもりであった。まるで整理されていない本の山、部屋中が埃だらけで、いつの時代のものかわからないようなランプがあったはずだ。
明るいうちに少しでも綺麗にしたい、できればカーテンも洗ってしまいたかった。
「ルイーズ、2階へ向かうならこれをオーレリアン様の部屋へ置いて来てください」
「ええ、でもわたくしは入室を許可されていません」
「今の時間、オーレリアン様はぐっすりお休みです。部屋の鍵は開けたままにしていますから、お願いします。私は急用ができてしまったのです」
トマスの手にあるのはガラスの水差しとグラスのセットである。
オーレリアンが目覚めた時、確かに水は欲しいだろう……ルイーズは置いて出てくるだけなら咎められることもなかろうと、トマスの依頼を承諾した。
昼夜がいつも逆転しているこの部屋の困った主人は、確かにベッドで深く規則正しい呼吸を繰り返していた。
しっかりと閉めきられた窓からは一切の光が入って来ず、真っ暗な部屋の中で音をたてずに歩くためには、目が慣れるのを待つ必要があった。
昨夜、パーティーから戻ったあとにもまたどこかへ出かけたのか、パーティーで着ていたのとは違う衣類が脱ぎ捨てられている。
忙しそうなトマスに代わって洗濯を請け負おうかと、テーブルに水差しの載った銀のトレイを置いてから衣類を拾い上げる。
(え、これって……)
白いシャツに赤黒い汚れがついている。それはシャツの袖口と襟元であったが、襟元の方がより大きな染みになっているようだ。
ルイーズがそっと鼻を寄せてみると、うっすらと鉄の匂いが感じられた。
(血……? まさか、オーレリアン様は、怪我を?)
慌ててオーレリアンの様子を伺おうとして、しかしはたと動きを止める。
噂好きな貴族たちの陰口を、思い出してしまったのだ。
『バルバストル卿は捕虜の血を啜っていらっしゃるとか』
そんなまさかとルイーズは自分に何度となく言い聞かせ、手中にある白と赤のシャツを握り締めながら、だがオーレリアンの眠るベッドに近づけずにいた。
怪我をしているなら、早く手当をするべきなのに。
と、突如ベッドに横たわる人物がガバと起き上がり、声を上げた。
「何をしている」
「あ、あの、……えっ?」
それは一瞬のことだった。
ルイーズには何が起きたのか理解ができない。たった今ベッドで半身を起こした人物が、瞬きの間に目の前に立って自分の腕を掴んでいる。
「何をしている」
「ごめんなさい、トマスに水をお持ちするよう言われたので」
「この手にあるものは水ではない」
2人の視線がルイーズの手元に注がれる。オーレリアンの白いシャツ。赤い染みのついた、白いシャツ。
「よ、汚れていたのでお洗濯しようかと」
「必要ない。出て行け」
ルイーズはあっという間に部屋から放り出され、目の前で扉がバタンと閉じられた。
それはルイーズにとって心の距離のようにも感じられた。昨夜、ほんの少し近づけたような気がしたオーレリアンとの距離は、出会う前よりももっと遠く離れてしまったような。
立ち尽くすルイーズの耳に、室内から大きな投打音が飛び込んでくる。オーレリアンがテーブルか、または壁を叩いているようだと気づき、ルイーズは慌ててその場を離れた。
城を出ていくべきだろうか。
星の輝く夜。ルイーズは眠ることもできず庭に出て青い花の前にいた。
よくよく考えれば、侍女の真似事をしているだけで、オーレリアンの生活に必要なことなど何もしていない。
今までも、今も、そしてこれからも、トマスさえいればこの城の日常は回って行くのだ。
お荷物として生まれて、王家のために嫁ぐこともできず、またお荷物として領主を怒らせた。
(明日にはこの花も咲くはずだから……。あの人の瞳そっくりの花を一輪もらって、出て行こう)
押し花にしたらずっと手元に残せるだろうか。
たった一晩でも夢のような時間をくれた人を忘れないために。
そんなふうにルイーズが溜息を吐いたとき、星明りを遮る大きな影が背後に現れた。
「おい」
「──ッ!」
振り返るルイーズを見下ろすのは、黒い髪と深い青の瞳を持った夜の王子。
ルイーズが侍女の真似事をして、城中を走り回るときにはいつだって眠りこけているオーレリアンが、夜は俺の時間だとばかりに馬の手綱を引いてそこにいた。
「ついて来い」
言うが早いか、ルイーズは馬に乗せられ、オーレリアンが後ろから手綱を握って走らせる。
どこへ向かっているのだろうか。彼は人の血を啜る悪魔の眷属なんだろうか。そんなことを考えていると、バルバストルが辺境の守護神たる理由がわかったような気がした。
なんのことはない、人でないから強かったのではなかろうか。
そしてそれと同時に、ルイーズは今自らがまるで恐怖を感じていないことが可笑しくなった。
(そうだ、わたくしは……)
野盗に襲われたあの夜から、ルイーズはオーレリアンに心を奪われていたのだ。
バルバストル邸へ向かわねばならぬとわかっていながら、この城に置いてほしいと頼んだのは、きっとそういうことだったのだろう。
悪魔の眷属だったらなんだと言うのか。一度だって温もりを与えてくれぬ家族や親戚よりも、ずっと優しいではないか。
ルイーズは、オーレリアンであれば血を啜られこの命を失っても構わない、そう思って体の力を抜き、この背を包む大きな胸の中へ体を沈めた。
「これって……」
ここは森の最深部。ルイーズの眼前にあるのは、真っ赤な真っ赤な色をしたザクロである。
「食うなよ。それはただのザクロじゃない」
ザクロに手を伸ばしかけたルイーズの後ろには、腕を組んで少し怒ったような表情のオーレリアン。
不思議そうな表情で首を傾げるルイーズに、オーレリアンは少しずつ過去を振り返るように語り始めた。
「事の起こりはもう200年以上前になるか。俺の父親が他国と通じていたのが国にばれた。当時はまだ今ほど広い領地ではなかったが、対外政策の要所であることは昔も同じだった」
静かに話すオーレリアンの声は、森の中にあっても違和感なく溶け込んで、ルイーズには彼もまた森の一部のように見えた。
「200年……」
「王家は父を罰し、バルバストル領を取り上げんとしたが、実際に戦線を維持していたのが父ではなく俺だと知って、取り引きをもちかけた」
一歩、また一歩とオーレリアンがザクロの木へ近づく。
赤く熟れた実をひとつとると、両手で2つに割る。ほんの少し潤いを感じさせる、繊維の割ける音が静かな森に響いた。
「魔女の秘術を受け、王家に忠誠を誓えば、父の命は助けてやろうと。俺は奴らの連れて来た魔女の手によって、永遠の命を与えられた。怪我は瞬く間に癒え、老いない。
だがその代償は、人の血を糧にしなければならないこと、日中に出歩かないこと」
「それって……」
ルイーズは記憶の隅に引っ掛かりを覚え、それがなんであったか思い出そうと試みる。
何かとても大切なことだった気がするのに、パズルのピースが不足しているみたいにモヤモヤとして要領を得ない。
「父はその後10年と経たず逝った。王家への忠誠心など最早欠片もないが、奴らは……この呪いを解くには王家の力が必要だと言った。俺は俺自身のために奴らを守らなければならなかった。
このザクロは魔女が植えたものだ。果汁は血でできている。人を歯牙にかけずとも生きられるようにという俺の願いはひとつだけ叶えられた」
オーレリアンが両手に持ったザクロの一方に齧りついた時、ザクロ特有の甘酸っぱい香りと共に、血液の鉄臭さがふわりと漂った。
一口食べただけのザクロを木の根元に投げつけて、オーレリアンは言葉を続ける。
「いまや、王家の誰もこの俺の正体を知らない。誰も、呪いの解き方など覚えていないんだ。いつの間にか、ただ夜襲を繰り返すだけの人形のようになった」
「オーレリアン様……」
「俺は誰かと共に生きることはできない。だからお前を娶ることもできない。お前は城を出て自由に生きるがいい。王族としてのしがらみも、住む場所も、俺がどうにかしてやるから」
ルイーズは、オーレリアンの瞳に深い悲しみを見た。初めて会ったときに感じた陰は一層色濃くなっている。
「どうして、その話をわたくしに?」
「揺り椅子で眠るお前を見て、誰かの寝顔を見たのがいつぶりだったかと考えた。庭に咲く花を最後に見たのは何十年前だったか。清潔な食堂で誰かが食事をしたのは?
お前は俺がすっかり無くしていた色を取り戻した。踊る楽しみを思い出させた。目覚めたときに聞こえる足音の安心感を。……俺は化け物だが、恐怖を抱いたまま去ってほしくはなかった」
悲しく微笑むオーレリアンの本心はどこにあるのだろう。ルイーズは目の前で消えてなくなりそうな男の瞳を見つめながら、その悲しみをひとつひとつ取り除けないかと思案した。
「恐怖なんてありません。一度だって貴方を恐れたことはありません。それにわたくしは貴方を──」
「俺の願いは、常闇の終わりを見つけ、思う存分、朝日を体中に受けることだ。互いの寝顔を見るだけの毎日などお前に与えたくはない」
『わたくしの ねがいは ただひとつ。
あけぬ よいの おわりを み、
あさひと ともに よろこぶこと。
あなたの もとに それは ありません』
ルイーズは最初の日に繰り返し読んだ童話のフレーズを思い出す。なぜあの童話がこの城にあったのか。
目の前のいねむり王子は、童話にあるいねむりひめに共感したんだろうか、それとも、憧れたのだろうか。
(あ……)
欠けていたピースはすでに持っていた。パズルがパチパチと頭の中で組み立てられて、ルイーズは幼い頃を思い出す。
唯一の庇護者である母を亡くし、冷たい王城の中でルイーズが安心して過ごせるのは図書室だけだった。
ひんやりしているのに温かいその部屋の中で、ルイーズはこの男の物語を読んだのではなかったか。
とても強い国の守り人。守り人を国に留め置くために必要なのは、ザクロではなく王家の血。
守り人がそれに気づく前に王家の血を絶やせば二度とヒトには戻れない。
図書室の中の古い物語は、王家出身の勇者が守り人を従えて辺境の魔物から国を守ったのであったが、無理に従わせた事実を隠していたのだとしたら?
「オーレリアン様、魔女の呪いに打ち勝つ小さないねむり姫をご存じですね?」
「……?」
「一緒に、呪いを解きましょう。わたくしにも王家の血が流れているのです」
それからしばらくして、侯爵の社交嫌いが治っただとか、侯爵夫妻はいつも一緒に過ごすおしどり夫婦であったとか、バルバストルが独立しただとか、たくさんの噂が立ち上ったけれど、それはまた別のお話。
(exaさんよりいただきました!)
つこさん。様の「感想1000件目」記念であり、つこさん。様に捧ぐ作品です。
お読みいただきありがとうございました。