朝の完全飼育と、抗えない甘い毒
「——ん……っ……」
柔らかな朝の光がカーテンの隙間から溢れ、部屋全体を淡い金色の光で満たしていた。
樹がゆっくりと意識を浮上させると、全身を包み込む「異常なほどの重みと温もり」に気づいた。
「……涼香……?」
目を開けると、すぐ目の前に涼香の美しい素顔があった。
涼香は樹の胸の上に完全にすっぽりと乗っかり、両手で樹の首を抱きしめ、両脚まで樹の太ももにぴったりと絡めている。
まるで大きな抱き枕に抱きつく小動物のような格好だ。
薄いパジャマ越しに伝わる彼女の柔らかい体温と、すーすーと規則正しい寝息。
そして、髪から漂う甘いシャンプーの香りが、目覚めたばかりの樹の脳をクラクラと麻痺させる。
(う……動けない……。けど、気持ちよすぎて離れたくない……)
樹がそっと彼女の背中に手を回すと、涼香の長いまつ毛がピクッと揺れ、ゆっくりと琥珀色の瞳が開いた。
「……んぅ……樹くん……? おはよう……」
「おはよう、涼香。……すごくぴったり密着してるけど、苦しくなかった?」
「苦しいわけないでしょう……? 樹くんの匂いと温もりに包まれて寝るのが、世界で一番幸せなんだから……」
涼香は目を細めてふふっと微笑むと、樹の顎のあたりに「ちゅっ」とモーニングキスを落とした。
そして、そのまま樹の首元に顔を埋めて、すりすりと頬を擦り付けてくる。
「……ねえ、樹くん。今日の大学、休んじゃう……? このまま、一日中ベッドの中で私に甘えさせてあげるわよ……?」
「だ、ダメだよ! 今日の2時限目は大事な必修科目があるんだから!」
「ふふ、冗談よ。……でも、私の心の中では本気だったかもね?」
涼香は小悪魔のように瞳を輝かせると、ゆっくりと樹の上から降り、名残惜しそうに樹の手をキュッと握りしめた。
洗面を済ませた二人がキッチンに立つと、テーブルの上にはすでに湯気が立つ和食が整然と並べられていた。
ふっくらと炊き上がった白米、出汁の効いた豆腐とお麩の味噌汁、綺麗な焼き色がついた鮭の塩焼き、そして甘い玉子焼き。
「わあ……涼香、これ全部作ったの!?」
「ええ。昨日のハンバーグは少し甘すぎちゃったから……今朝は和食でリベンジよ。ほら、冷めないうちに座って?」
樹が椅子に座ると、涼香は自分の分の朝食には手をつけず、樹のすぐ隣の椅子を引いてぴったりと密着して座ってきた。
「さ、樹くん。お箸を持って?」
「うん、いただきます! ……って、涼香? なんで僕の顔をじーっと見てるの?」
涼香は自分で箸を取る気配すら見せず、樹の茶碗から一口分の白米と鮭のほぐし身を器用に箸で摘み上げると、樹の唇の前へと差し出してきた。
「はい、樹くん。『あーん』」
「えっ……!? 朝ごはんも『あーん』なの!? 自分で食べられるよ!」
「ダメよ。昨日の夜、私に言ったでしょう? 『涼香に飼い慣らされてる』って」
涼香はクスッと愛おしそうに笑うと、首を少し傾げて上目遣いで樹を見つめた。
「なら、とことん飼い慣らされてちょうだい。……私の手から食べないと、ご機嫌ナナメになっちゃうわよ?」
「うぐ……っ」
全校生徒が恐れる「氷山姫」の完璧な圧と、圧倒的な甘やかしのオーラ。
抗えるはずもなく、樹は赤面しながら口を開けた。
「……あ、あーん……」
——パクッ。
絶妙な塩加減の鮭と、甘い白米が口の中で解けていく。
「……美味しい……すごく美味しいよ、涼香」
「ふふ、大成功ね! ほら、次はお味噌汁。熱いからふーふーしてあげるわね」
涼香はお椀を持ち上げ、おたまですくった味噌汁に「ふー、ふー」と優しく息を吹きかけると、樹の口元へ運んでくれる。
(……あかん。僕、本当にダメ人間になっていく……! 自分でご飯を食べるという基本動作すら、この人に奪われつつある……!)
しかし、目の前で自分のためだけに嬉しそうに甲斐甲斐しく世話を焼く涼香の表情があまりにも可愛すぎて、樹の理性は「まぁ、いっか……」と甘い敗北感を認めてしまうのだった。
朝食と着替えを終え、玄関で靴を履く二人。
樹がリュックを背負うと、涼香がそっと近づいてきて、樹のシャツの襟元を優しく整えてくれた。
「よし、これで完璧ね。今日の樹くんも、すごくカッコいいわ」
「ありがとう、涼香。涼香も、いつもの完璧な夏目先輩だね」
涼香はスラックスにブラウスを完璧に着こなし、髪も綺麗に整えられ、すでに「大学の完璧な副会長」の雰囲気を纏っていた。
しかし、彼女の手はしっかりと樹の服の裾を掴んで離さない。
「……ねえ、樹くん」
「ん?」
「大学についたら……また『無関係な先輩と後輩』を演じなきゃいけないでしょう?」
涼香の琥珀色の瞳に、少しだけ寂しげな色が混ざる。
「……だから、お出かけ前の『充電』をしてほしいの」
「充電……?」
「ふふ、分かっているくせに」
涼香はつま先立ちになると、樹の首元に手を回し、自分の唇を樹の唇へと強く押し当てた。
朝の光の中で交わされる、深くて甘い、引き留めるような接吻。
「……ん……ふぁ……っ……」
唇が離れると、涼香は熱っぽい吐息を漏らしながら、樹の耳元で甘く囁いた。
「これで、今日の分のエネルギー補給は完了。……大学で他の女の子と親しそうに話したら、今夜はもっと激しいお仕置きをするからね?」
「嫉妬深すぎだよ、涼香(笑)」
「当然でしょう? 私の『可愛い旦那様』なんだから」
扉を開ければ、そこは冷徹な「氷山先輩」と「冴えない後輩」が待つ現実の世界。
けれど、引き結ばれた手指の温もりと、唇に残る甘い毒がある限り——二人の愛しい日常は、誰にも邪魔されることなく続いていくのだった。




