視線 crossing(交錯)と、秘密の暗号
午後の差し込む日差しが、大講義室のデスクと黒板をオレンジ色に染め上げている。
何百人もの学生がひしめく中で、登壇して教授の助手を務めているのは、校内の誰もが憧れる完璧な生徒会副会長——夏目涼香だった。
ビシッと仕立てられたスラックスに、ボタンを一番上まで留めたブラウス。
冷徹なまでに凛とした琥珀色の瞳は、スクリーンに映し出された資料を淡々と指し示している。
「——以上の論点について、来週までにレポートを提出してください。以上です」
凛とした美声が講義室に響き渡ると、周りの男子学生たちから吐息のような感嘆が漏れる。
「やっぱ夏目先輩、超キレイだな……高嶺の花すぎて話しかける隙もねえよ」
「私服も気になるよな。絶対家でも優雅に紅茶とか飲んでそう」
講義室の最後列の端っこに座っていた樹は、隣の男子学生たちの会話を耳にしながら、心の中で苦笑いを浮かべていた。
(家での涼香は……昨日の夜11時半に、僕の部屋で大盛り烏龍麺をバクバク食べて、バニラアイスを口につけながら『あーんして?』って甘えてたんだけどね……)
そんなことを考えながら、樹がノートに筆記を続けていると——。
壇上で講義資料を片付けていた涼香が、ふと、大講義室の後方へと視線を向けた。
何百人もの学生がひしめく中で、彼女の琥珀色の瞳が、ピッタリと樹の視線と交差する。
ほんの0.5秒。
涼香は誰にも気づかれないように、ほんの微かに……左手で自分の右耳のイヤリングにそっと触れた。
——それは、昨夜ふたりで決めた『今夜も君の家に行っていい?』という、ふたりだけの秘密のサインだった。
樹が小さく一回だけ頷くと、涼香の薄い唇が、ほんの一瞬だけ満足そうに和らいだ。
(周りの学生たちは、誰もその一瞬の『夫婦の会話』に気づいていない。)
【シーン2:放課後17時半、誰もいない生徒会室の裏通路】
放課後、生徒会室の仕事が一段落し、他の役員たちが全員下校した後の静かな校舎。
樹が指定された資材置き場の影で待っていると、カツ、カツと小さく控えめな高跟鞋の音が近づいてきた。
「……樹くん」
角を曲がってきた涼香は、周囲に誰もいないことを何度も確認してから、ふっと肩の力を抜いた。
その瞬間、いつもの「冷酷な夏目先輩」の仮面がガラガラと崩れ落ちる。
「……うぅ、つかれたぁ……」
涼香はそのまま吸い寄せられるように、樹の胸元へと倒れ込んできた。
「お疲れ様、涼香。今日の講義、すごくかっこよかったよ」
「……かっこよくなんてないわ。講義中、樹くんと目が合った瞬間……心臓が跳ね上がって、原稿を読む手が震えそうだったんだから……」
涼香は樹の服の裾をギュッと握りしめ、顔を胸に擦り付けながら上目遣いで呟く。
「……ねえ、さっきのサイン……ちゃんと伝わった?」
「うん。『今夜も来ていい?』でしょ? もちろん大歓迎だよ」
「……ふふ、正解」
涼香の耳の先がぽっと桜色に染まり、彼女は少しだけ背伸びをして、樹の耳元で甘く囁いた。
「今夜はね……昨日の烏龍麺のお返しに、私が樹くんに……特別な『ご褒美』をあげるわ」
【シーン3:秘密のカウントダウン】
「ご褒美って……?」
「ふふ、お家に着いてからの秘密。……さ、一足先に行って夕飯の買い出しをしておいて? 私も15分後に後を追うから」
涼香は小悪魔のように微笑むと、樹の頰にちゅっと小さく軽い kiss を残し、名残惜しそうに手を放した。
「学校では『夏目先輩』と『冴えない後輩』。……でも、あと15分で『夫』と『妻』ね」
二人は夕暮れの廊下で、誰にも見られない短い微笑みを交わし合った。
扉の向こうで待っているのは、甘く、美味しく、誰にも邪魔されない——ふたりだけの秘密の夜。




