赤門前の眩しい歓送と、桜咲く未来への一手
【一】決戦の朝の静寂と、二人だけの優雅な朝食
二月二十五日、午前六時。
都心の空は、冬の澄み切った群青色から、ゆっくりと紅白色の朝霞へと染まりつつあった。
東京大学二次試験(前期日程)・第一日目。
日本全国から集う最難関の頭脳たちが、己の人生と尊厳を懸けて挑む、真の天王山となる決戦の朝がやってきた。
新居の寝室。
目覚まし時計が鳴る三分前、橘樹は静かに開眼した。
昨日までの焦りや心臓の鼓動は不思議なほどに鎮まり、胸の奥にはまるで凪いだ冬の海のような、静謐で澄み渡った集中力が満ちていた。
(……ついに、来たんだ。今日と明日……僕のすべてを、あのキャンパスに叩きつける)
樹が体を起こそうとした瞬間、ベッドの隣からふわりと甘い桃の香りが漂い、溫かい質感が腕を包み込んだ。
「……おはよう、樹くん」
そこにいたのは、すでに着替えを終え、髪を綺麗に整えた夏目涼香だった。
薄いアイボリーのハイネックセーターに、品のあるマーメイドスカート。
その琥珀色の瞳は、濁りのない絶対の慈愛と信頼をたたえて樹を見つめている。
「涼香……すごく早いですね。もう準備が終わってる……」
「当たり前でしょう? 今日の主役はあなたなのだから。さあ、まずは温かいお湯で顔を洗ってきなさい。最高のお朝食ができているわ」
ダイニングテーブルに向かうと、そこには蒸気が立ち上る出汁の効いたお味噌汁、ツヤツヤに炊き上げられた新潟県産コシヒカリ、香ばしく焼き上げられた鮭の塩焼き、そして涼香が丁寧に巻き上げた甘い玉子焼きが並べれていた。
「いただきます」
樹が箸を伸ばし、お味噌汁を一口含んだ瞬間、じんわりとした温もりが全身の細胞一つひとつにしみ渡っていった。
一年前、涼香が受験生だった頃、樹が彼女のために毎朝作り続けたあの味。
今、こうして涼香の手によって自分に返ってくるその絆の輪が、樹の心臓を強く、力強く鼓動させる。
「……美味しい……っ。本当に、体が芯から温まります」
「ふふ、良かったわ。……今日の国語と数学、あなたの脳が極限まで回転するように、栄養バランスも完璧に計算してあるのよ。しっかり完食しなさいね、私の自慢の旦那様」
涼香は樹の向かいに座り、頰杖をつきながら、樹が美味しそうに食事を進める姿を愛おしそうに見つめていた。
【二】冬の雪解け風と、赤門へ向かう二人
午前七時二十分。
都営地下鉄大江戸線・本郷三丁目駅の改札を抜けると、地上へ続く階段の先には、緊張感に包まれた受験生たちと保護者の長蛇の列が出来上がっていた。
厚手のダッフルコートを着込み、リュックを背負った樹の隣には、黒のロングチェスターコートを羽織った涼香がしっくりと寄り添っていた。
地上へ出ると、冬の冷たい風が頬を撫でる。
しかし、繋がれた二人の手は、手袋越しでもはっきりと分かるほど熱く、力強く結ばれていた。
「緊張しているかしら、樹くん?」
「不思議と……全然していません。一年前、武道館で涼香のスピーチを聞いた時や、駒場祭で大講堂に座った時の景色が……ずっと頭の中に浮かんでいて。あそこに僕も行くんだって思うと、ワクワクするくらいです」
樹の力強い瞳を見て、涼香は琥珀色の瞳を細め、誇らしげに微笑んだ。
「……たくましくなったわね、樹くん。初めて会った頃の、小さくて遠慮がちだった男の子は……もうどこにもいないわ。今のあなたは、誰よりも気高く、かっこいい私自慢のパートナーよ」
二人が歩みを進めるにつれ、前方に歴史ある赤褐色の重厚な門――東京大学の象徴である『赤門』姿が現れた。
【三】赤門前のどよめきと、極上の必勝おまじない
赤門の周辺は、全国から集まった受験生、各予備校の応援団、そして報道陣でごった返していた。
殺気立つような緊張感と、独特の熱気が渦巻く中、樹と涼香の二人が赤門前に差し掛かった瞬間――周囲の空気が一変した。
「え……あの人、T大の……法学部の夏目さんじゃないか!?」
「マジで!? あの超絶美人の『氷山姫』……なんでここに!?」
「隣にいる制服の男子高校生……受験生か!?」
周囲のT大生や受験生、予備校のスタッフたちの視線が一斉に集中する。
洗練された圧倒的なオーラを放つ涼香と、凛とした佇まいでその隣に立つ樹。
しかし、涼香は周りの喧噪や無数の視線などハエほどにも気にとめず、樹の前にすっと立ちふさがると、彼のダッフルコートの衿元を優しく整え始めた。
「樹くん。受験票と時計、筆記用具は持ったかしら?」
「はい。リュックのポケットに全部入っています。涼香の手縫いのお守りも……胸のポケットに」
「ええ、素晴らしいわ」
涼香は樹のネクタイをキュッと締め直すと、上目遣いで樹の瞳をじっと見つめた。
そして――
パシッ。
涼香は自分の両手で、樹の温かい両頬をぎゅっと挟み込んだ。
「り、涼香……っ!?」
「いい? 樹くん。今日の国語の現代文も、古文も、そして午後の難解な数学も……すべて私と一緒に解いていると思いなさい。あなたがペンを滑らせる瞬間、私の魂もあなたの隣で一緒に問題を解いているわ」
「……はいっ!」
「そして……最後のおまじないよ」
そう言うと、涼香は周りに数百人の受験生や関係者が固唾をのんで見守る前で、全くためらうことなくつま先立ちをした。
ツ……。
涼香の柔らかく甘い唇が、樹のおでこ、そして鼻筋へと優しく重ねられ――最後は樹の唇へと、深々と、力強く重なり合った。
「「「「ええええええええっ!?!?!?」」」」
赤門前で、周囲の受験生たちから悲鳴のような驚愕と羨望の叫びが上がった。
接吻を解いた涼香の頬は、冬の冷気の中でほんのりと桜色に染まっていたが、その表情はどこまでも誇らしげで美しかった。
「行ってらっしゃい、樹くん。……全力を尽くして、私の元へ帰ってきなさい。夕飯は、あなたの好物をたくさん作って待っているわ」
「……はい! 行ってきます、涼香……! 絕對に合格を掴み取ってきます……!」
樹は力強く頷くと、胸ポケットのお守りをギュッと一握りし、迷いなく赤門の先――白銀に輝くキャンパスへと足を踏み入れた。
振り返らずに真っ直ぐと歩んでいく樹の背中を見送りながら、涼香は胸元でサファイアのネックレスを強く握り締め、冬の空へと静かに祈りを捧げた。
(勝ち取って見せなさい、樹くん……。私たちの、満開の春を……!)




